『ラベル』世界メモ⑦
公信庁と信用監査部
『ラベル』の世界には、公信庁という行政機関があります。
公信庁は、信用宣言照合基盤《クレド》を運用・監査するための組織です。
人間の善悪そのものを決める機関ではありません。
少なくとも、建前上はそう説明されています。
公信庁が扱うのは、本人が選んだ信用宣言と、その後の行動記録の整合性です。
嘘をつかないと宣言した人間が、嘘をついていないか。
約束を守ると宣言した人間が、約束を守っているか。
金銭で人を裏切らないと宣言した人間が、金銭で人を裏切っていないか。
相手の安心を軽視しないと宣言した人間が、相手の安心を軽視していないか。
そうした記録を照合し、必要があれば監査する。
それが、公信庁の役割です。
公信庁には、第一から第七までの信用監査部があります。
第一から第六までは、主にクレドが黒と判定した案件、または明確な制度違反を扱います。
第七だけは少し違います。
第七信用監査部が扱うのは、クレドが白と判定した案件です。
誰も嘘をついていない。
誰も明確には違反していない。
整合率も保たれている。
制度上は問題なし。
それでも、人が壊れている。
第七は、そうした白判定事件を確認する部署です。
⸻
第一信用監査部
第一信用監査部は、虚偽と偽装を扱います。
嘘をつかない宣言への違反。
虚偽申告。
身分偽装。
記録改ざん。
なりすまし。
証言の虚偽。
契約時の重要事実の隠蔽。
「言ったのか、言っていないのか」
「本当なのか、偽りなのか」
そこを見る部署です。
クレド社会において、もっとも基本的な監査部のひとつです。
嘘を減らすことは、クレド導入の大きな目的のひとつでした。
ただし、嘘をつかないことと、人を欺かないことは同じではありません。
事実だけを言う。
都合のいい順番で並べる。
相手が誤解しやすい情報だけを渡す。
必要な前提を言わない。
それでも、明確な虚偽がなければ、第一では黒にならないことがあります。
⸻
第二信用監査部
第二信用監査部は、金銭と契約を扱います。
金銭で人を裏切らない宣言への違反。
契約不履行。
支払い逃れ。
返済不履行。
保証人トラブル。
補助金や給付金の不正受給。
法人間の信用毀損。
お金と契約は、記録に残りやすい分野です。
支払い履歴。
返済履歴。
契約履行。
請求記録。
保証情報。
財産移動。
そのため、第二信用監査部は比較的照合しやすい案件を多く扱います。
ただし、照合しやすいから単純というわけではありません。
浪費で支払いを遅らせた人間と、親の介護費を出して生活費が足りなくなった人間。
記録上は、どちらも支払い遅延になることがあります。
結果は同じでも、背景は同じではありません。
⸻
第三信用監査部
第三信用監査部は、暴力と身体安全を扱います。
暴力行為。
虐待。
DV。
威圧的支配。
身体的安全を損なう行為。
弱い立場の人への重大な加害。
身体に残る傷は、比較的見つけやすい。
比較的、です。
見つけやすい傷でさえ、見つからないことはあります。
家庭内。
学校。
職場。
福祉施設。
医療現場。
外から見えにくい場所では、身体的な傷でさえ記録に残らないことがあります。
第三信用監査部は、そうした身体安全に関わる案件を扱います。
⸻
第四信用監査部
第四信用監査部は、立場利用とハラスメントを扱います。
弱い立場を利用しない宣言への違反。
職場でのハラスメント。
教育、医療、福祉現場での支配。
立場差を利用した誘導。
差別的加害。
同意の不正取得。
相談者、部下、生徒、患者への圧力。
ここは、かなり難しい部署です。
理由は、加害が白い言葉で包まれやすいからです。
相手のため。
教育のため。
成長のため。
安心のため。
今後のため。
そうした言葉が、本当に相手を支えている場合もあります。
一方で、相手の逃げ道を塞いでいる場合もあります。
明確な暴力や虚偽があれば、黒として扱われます。
しかし、暴力も虚偽もなく、制度上の助言や指導の形をしている場合、第四では処理できないことがあります。
その場合、案件は第七に回ることがあります。
⸻
第五信用監査部
第五信用監査部は、公共秩序と行政手続を扱います。
公的手続の違反。
公共空間での危険行為。
行政指導違反。
緊急通報の悪用。
公共サービスの妨害。
視界層や公信圏アクセスの不正利用。
公共空間や行政手続に関わる違反を扱う部署です。
たとえば、視界層の不正操作。
公信圏アクセスの不正利用。
行政手続の妨害。
公共空間での危険な滞留。
伏見玄のような水平派関係者が軽く注意対象になる場合、記録としてはこの領域に近いものになります。
ただし、伏見玄の場合は、多くが軽微な通行妨害、不自然滞留、非協力的応答などにとどまります。
そのため、重大案件として扱われることは少ないです。
⸻
第六信用監査部
第六信用監査部は、宣言整合と高信用者監査を扱います。
信用宣言と行動記録の重大な乖離。
整合率の急落。
高信用保持者の不正。
特級信用保持者の監査。
ラベルの不正操作。
信用宣言の攻略や悪用。
複数宣言の矛盾。
第一から第五が、事件の種類を扱う部署だとすれば、第六は、クレド制度そのものの異常を見る部署です。
高い信用は、社会にとって安心材料です。
ただし、高すぎる信用は、社会の死角になることがあります。
特級信用保持者が明確な宣言違反を起こした場合、基本的には第六信用監査部の領域になります。
たとえば、整合率99.999%の人物が、明確に記録を改ざんした。
あるいは、信用宣言を攻略し、制度上の高信用を不正に得ていた。
そうした案件は、第六が扱います。
一方で、整合率は高いまま、明確な違反もない。
それでも、周囲で人が壊れている。
そういう場合は、第七の領域になります。
⸻
第七信用監査部
第七信用監査部は、白判定監査を扱います。
クレド判定は白。
虚偽なし。
明確な宣言違反なし。
整合率も保たれている。
制度上は問題なし。
それでも、人が壊れている。
第七は、そうした案件を見る部署です。
第一から第六は、黒を扱います。
虚偽がある。
違反がある。
暴力がある。
金銭不履行がある。
記録改ざんがある。
宣言との重大な乖離がある。
つまり、クレドや制度が「問題あり」と判断したものを見る部署です。
しかし、第七が見るのは、白です。
誰も嘘をついていない。
誰も明確には違反していない。
誰も処分対象ではない。
それでも、人が追い詰められている。
第七信用監査部は、そこを確認します。
⸻
第一から第六では、処理する必要がない案件
第七に回ってくる案件は、第一から第六で処理できない案件ではありません。
むしろ逆です。
第一から第六では、処理する必要がないと判断された案件です。
虚偽なし。
違反なし。
処分対象外。
制度上問題なし。
だから終わり。
普通なら、そこで終わります。
書類は閉じられる。
通知は消える。
担当者は次の案件へ行く。
記録は保管される。
しかし、第七はそこで終わらなかった案件を扱います。
誰も嘘をついていないのに、誰かが追い詰められている。
誰も違反していないのに、誰かが息をしにくくなっている。
誰も悪意を持っていないのに、誰かが自分を間違いだと思いはじめている。
第七は、そうした白の中に残った損害を見ます。
⸻
白判定事件
『ラベル』本編で扱うのは、こうした白判定事件です。
たとえば、白瀬依澄。
嘘をつかない。
弱い立場を利用しない。
間違えたら修正する。
困った時に逃げない。
相手の安心を軽視しない。
整合率、99.999%。
彼女は、正しい相談員です。
少なくとも、クレド上はそうです。
彼女は嘘をついていない。
相手を責めていない。
命令していない。
制度的にも間違っていない。
相手の安心を守ろうとしている。
だから、白です。
しかし、相談者の名取慎也は倒れます。
処方睡眠薬の過量摂取。
救急搬送。
意識障害。
白瀬依澄が悪人だったのか。
たぶん、そういう話ではありません。
では、名取慎也が弱かったのか。
それだけでもありません。
では、クレドが間違っていたのか。
それも、まだ分かりません。
白判定事件の嫌なところは、誰か一人を黒く塗れば終わる形をしていないことです。
白い人間。
白い言葉。
白い制度。
白い支援。
白い職場。
白い善意。
それらが重なった場所で、人が壊れる。
黒い点ではなく、白い面の問題。
第七信用監査部は、その面を見る部署です。
⸻
第七は何を裁くのか
第七は、基本的に人を裁く部署ではありません。
少なくとも、第一から第六のように明確な処分を前提に動く部署ではありません。
第七が見るのは、違反ではなく、損害です。
ラベルには出ない損害。
整合率には出にくい損害。
虚偽判定では拾えない損害。
制度上は問題なしとされたあとに残る損害。
作中では、これを「非ラベル的損害」と呼ぶことがあります。
かなり硬い言葉です。
普通に言えば、ラベルでは見えない傷です。
第七は、その傷を確認します。
ただし、傷があるからといって、すぐに誰かが黒になるわけではありません。
誰に責任があるのか。
そもそも責任という形で扱えるのか。
制度の問題なのか。
個人の問題なのか。
複数の白い行動が重なった結果なのか。
第七が扱う案件は、たいてい簡単には整理できません。
だからこそ、第七は庁内でも扱いにくい部署です。
⸻
第八と第零について
公信庁の公式資料で確認できる信用監査部は、第一から第七までです。
ただし、庁内には非公式に「第八」と呼ばれる部門がある、という噂もあります。
第七が見つけた白い損害を、次の制度改修へ戻す場所。
白判定事件を分析し、クレドの判定基準や社会設計を更新する部署。
正式名称は別にあるのかもしれません。
あるいは、そもそも存在しないのかもしれません。
公信庁の公式資料に「第八信用監査部」という名前は出てきません。
また、クレド成立以前の初期実験部門を「第零」と呼ぶ者もいます。
こちらも、正式な部署としては存在しません。
少なくとも、記録上は。
第八も、第零も、本編時点ではあくまで噂や俗称に近いものです。
ただ、公信庁という組織の周辺には、そうした呼び名が残っています。
記録を扱う組織ほど、記録にないものを嫌います。
けれど、記録にない呼び名ほど、なぜか長く残ることがあります。
⸻
『ラベル』本編で見るもの
『ラベル』本編は、公信庁が黒と判定した事件を追う話ではありません。
黒は、分かりやすい。
嘘をついた。
殴った。
盗んだ。
隠した。
騙した。
踏み倒した。
もちろん、それらは悪いことです。
しかし、そこだけを見ていれば、社会はまだ安心できます。
悪い人が悪いことをした。
だから裁けばいい。
そう考えられるからです。
『ラベル』で扱うのは、その少し外側です。
誰も嘘をついていない。
誰も明確には違反していない。
整合率も高い。
支援もあった。
助言もあった。
教育もあった。
善意もあった。
それでも、人が壊れている。
その時、社会は何を見るべきなのか。
クレドは白と言う。
第七は、その白をもう一度見る。
『ラベル』は、その白い場所から始まる話です。