結構前から三島由紀夫とルッキズムについて考えていてAIと壁打ちしてたんですが、まとめてもらいました
結構面白い題材だと思うんだけどなー
三島由紀夫——「美しい肉体を持たざる者」の闘争史
三島由紀夫の生涯は、ルッキズム(外見至上主義・容貌差別)の被害者がその論理を内面化し、ついにはその論理そのものを肉体化・劇場化し、最終的にその肉体を自ら破壊するに至る壮大な物語として読み直すことができる。 虚弱な少年は言葉で武装し、やがて鉄で肉体を鋳造し、最後にその肉体を刃で引き裂いた。この軌跡は、美と醜の二項対立が人間をいかに支配し、駆動し、破壊するかという問いへの、二十世紀が生んだもっとも過激な回答である。三島の45年の生涯を、ルッキズムの視座から通時的に辿ることで、彼の文学・肉体・行動・死のすべてを貫く一本の論理が浮かび上がる。
一、祖母の病室で鋳造された「醜さ」の原型
三島由紀夫(本名・平岡公威)は1925年1月14日、 (Wikipedia) 体重約2,438グラムの小さな嬰児として生まれた。 (Wikipedia) 彼の肉体的コンプレックスの起源は、祖母・平岡なつ(夏子)による異常な養育環境にある。なつは最高裁判事・永井岩之丞の娘にして松平頼位の孫—— (Wikipedia) すなわち徳川家康の末裔という高い門地意識の持ち主であり、 (Wikipedia) 有栖川宮家で5年間女中奉公した経験から苛烈な貴族的矜持を持っていた。夫・定太郎の放蕩と性病伝染により終生の坐骨神経痛を患い、ヒステリックな発作に苛まれた女性である。 (Wikipedia)
なつは生後49日の公威を「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実で両親から奪い、自らの病室で育てた。母・倭文重(しずえ)は授乳時のみ面会を許され、なつは懐中時計で授乳時間を計測した。** (Wikipedia) 日光への暴露は厳禁とされ、 (New World Encyclopedia) 学校にまで出向いて「朝礼の日向には出させるな」と校長に申し入れた。 (NamuWiki) 男児の荒い遊びは禁止され、遊び相手は年上の少女とその人形のみ。 (New World Encyclopedia) 代わりに歌舞伎、能、泉鏡花の文学世界に浸らせた。 (Kakuyomu) この養育は生後から12歳**(1937年)まで続き、 (The Famous People) 公威は蒼白く痩せた、日光に当たったことのない少年として成長した。
三島自身が『仮面の告白』で回想する——「しじゅう閉て切った、病気と老いの匂ひのむせかえる祖母の病室で、その病床に床を並べて私は育てられた」。 (Masaki-keiei) この暗い部屋が、美しい肉体を持たざる者としての三島の原風景を形成した。
学習院初等科(1931年入学)での三島は、軍国主義化する「質実剛健」の校風の中で異物だった。 (Wikipedia) あだ名は**「蝋燭」「アオジロ(青白)」**。 (Asuneta) 体育はほぼ見学。6年生のとき、荒い級友たちに「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と侮辱された。三島はその場でズボンのボタンを外して露出し「おい、見ろ見ろ」と叫んだ——級友の三谷信はその性器が「貧弱な体に比べて意外と大きかった」と回想している。 (Wikipedia) この逸話は、自らの身体を「見せる」ことによる屈辱への反撃——後年の肉体誇示の原型——として読める。
1944年の徴兵検査で「第二乙種」判定、翌年2月には風邪を軍医に結核と誤診され即日帰郷となった。『 (Note) 仮面の告白』ではこの誤診を意図的に誘導した可能性が暗示される。** (Wikipedia) (Deep Focus Review) 戦争を生き延びたことへの羞恥**——美しく死ぬ資格すら肉体が拒んだという意識——は、終生のコンプレックスの核となった。 (Note) 三島はこれを「行動から〈拒まれてゐる〉という意識」と表現している。 (Wikipedia)
二、『仮面の告白』——美しい肉体を持たざる者の欲望の構造
1949年に刊行された『仮面の告白』は、 (Wikipedia +2) 三島が「能ふかぎり正確さを期した性的自伝」と呼んだ作品であり、ルッキズムの視座から読み解けば、美しい肉体を所有しない者が美しい肉体をいかに欲望するかの解剖図にほかならない。
最初の欲望の対象は汚穢屋の若者——坂を降りてくる糞尿汲取人である。「血色のよい美しい頬」を持つ労働者の肉体に、語り手は「私が彼になりたい」「私が彼でありたい」という存在論的渇望を覚える。 (Wikipedia) これは「或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな呼び声」と記される。 (Seesaa) 日光も労働も禁じられた蒼白い少年にとって、汗にまみれた筋肉質の若者は、自分が永遠に到達しえない肉体の極北である。
聖セバスチャンの殉教図(グイド・レーニ画)への性的覚醒は、この構造をさらに先鋭化する。13歳の語り手は「その絵を見た刹那、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた」と記し、初めての射精に至る。 (Ismedia) ここでは美しい男性の肉体が苦痛のなかで展示される——矢に貫かれた若い肉は、エロスとタナトスが一体化した対象である。美しい肉体は欲望されるだけでなく、苦しめられ、破壊されることで初めて完全に美しくなる。三島の後年の思想——「彫刻的な筋肉は、ロマンティックに高貴な死に不可欠であった」(『太陽と鉄』)——の萌芽がここにある。 (Vercel) (Substack)
近江への恋慕は、ルッキズム的欲望の第三の変奏である。鉄棒で懸垂する近江の「腋窩に生い茂る豊饒な毛」に語り手は (Wikipedia) 勃起と「強烈な嫉妬」を同時に覚える。「 (Todaishimbun) 愛する相手に寸分たがわず似たい」—— (Wikipedia) この欲望は、外見の優劣が人間関係を規定するルッキズムの論理を、エロスの次元にまで拡張したものだ。語り手は「二十歳までに君はきっと死ぬよ」と言われるほど虚弱であり、近江の肉体にはなりえない。 (Rhinoos) 汚穢屋、セバスチャン、近江——三つの対象はすべて同一の構造を共有する。美しい肉体を持たざる者が、持つ者を凝視し、欲望し、嫉妬し、そしてその不可能性に打ちのめされるという構造である。
三、文体のボディビルディング——美文という権力装置
三島の文学的ルッキズムは、テーマの次元にとどまらない。その絢爛たる美文体そのものが、美と醜を言語的に峻別する権力装置として機能している。
三島は「装飾体」(美文体)の最も著名な実践者として文学史に位置づけられる。 (Weblio) (Wikipedia) 漢語と和語の精緻な混交、彫刻的な構文、視覚的な密度——たとえば『仮面の告白』の一節、「その間に空気はいよいよ澄明に磨かれ、今は危うく崩壊の兆しもみせて繊細に張りつめていた。弾けば気高く鳴りひびく絃のような大気であった」。 (Wikipedia) The Point Magazine誌はこの文体を**「鎧の拳が花を活ける」(a mailed fist arranging flowers)**と評した。 (The Point) (thepointmag)
三島自身が『太陽と鉄』で、文体と肉体の並行関係を理論化している。文学の世界で練磨した「文体」は「胸を張った軍人のような式典風な荘重な歩行」を保つ**「筋肉的な装飾」**の文体であった (Wikipedia) と述べ、言葉のない肉体美と、肉体美を模倣する美しい言葉とを対置させた。 (UnHerd) (Goodreads) Bookforum誌の批評家マーク・デリーは三島の散文が「古典的な、暗黙裡に裸体の男性的活力という、キャンプ的イメージへと凝固する」と指摘した。「 (Bookforum) 文体のボディビルディング」という厳密な術語は批評史に定着していないものの、三島の言語的彫刻と肉体的彫刻の並行性は、多くの批評家が認識する構造的事実である。
具体的作品における肉体描写を見よう。『潮騒』(1954年)の新治は「逞しく日焼けした海の若者」として、 (Amazon Japan) ギリシャ古典の牧歌的肉体美——労働によって自然に鍛えられた体——の理想型として描かれる。これは三島がギリシャ旅行直後に書いた作品であり、『ダフニスとクロエ』を範とした意識的な古典回帰である。**『 (Wikipedia +3) 春の雪』**の聡子の容貌描写——「潤んだ口のなかが清らかにかがやくのを、細いなよやかな指の連なりが来て、いつも迅速に隠した」——は、美の精緻な彫琢が文体そのものに刻まれた例である。三島の美文は、美しい対象をさらに美しく加工し、醜い対象をさらに醜く記述する。この非対称な言語操作こそが、「文学的ルッキズム」の核心にほかならない。
四、鉄と太陽——肉体改造という倒錯的解放(1955年〜)
1955年9月、三島は30歳にしてバーベルを握った。 (Note) きっかけは週刊読売で目にした早稲田大学バーベルクラブの記事である。クラブ主将の玉利齊(当時22歳)に電話した三島の第一声は大声の「三島です!」だったが、玉利は実際に会って「あまりのか細い体に驚いた」。 (Vitup) 三島は動機を率直に語っている——「頭脳はいつも鍛えているから、世界の文化人と自信をもって話すことができるが、肉体には、見た目・体力・健康のどれも自信を持てない」「** (Penguin-Press) 男としてのプライドはズタズタだった**」。 (Vitup)
「三日で辞めるのでは」と問う玉利に三島は答えた——「男が何かをやるとき、批判は覚悟。死ぬときも一緒だ。僕は英雄的行動ができる体になって見せる」。 (Vitup) 以後15年間、週2〜3回のトレーニングを死の8日前まで継続した。 (Hammock) (Japan Gay Guide)
開始1年後のエッセイ「ボディ・ビル哲学」で三島は記す——「もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐようにこの劣等感は治って、今では全快に近い」。さらに「鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ」と、肉体を知性の「謙抑の表現」と位置づけた。 (Shueisha)
『太陽と鉄』(1965-68年連載、1968年刊)は (Wikipedia) 三島の肉体哲学の集大成である。 (Wikipedia) (Wikipedia) 冒頭の有名な一節——「ふつうの人には、肉体が言葉に先行するのだろう。私の場合は、まず言葉が来た。それからーーいかにも気の進まぬ様子で、すでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は云うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた」—— (Note +2) は、言葉に先立たれ蝕まれた肉体という三島の根源的疎外を告白する。鉄(バーベル)はこの疎外を癒す道具であった。「鉄塊は、その微妙な変化にとんだ操作によって、肉体のうちに失われかかっていた古典的均衡を蘇らせ、肉体をあるべき姿に押し戻す働きをした」。 (Goodreads) (Andreian) 筋肉は「古代ギリシャ語のような死語」であり、「死語を蘇らせるには鉄の規律が必要だった」。 (Physiqueonline +3)
写真集はこの肉体改造の視覚的記録であると同時に、「見られる身体」の積極的構築である。細江英公『薔薇刑』(1963年)では三島はシュルレアリスム的・マゾヒスム的イメージの中に裸体を晒し、 (Wikipedia +2) 細江は「日本一のモデル」と評した。三島自身は「芸術家はだれでも自分自身が芸術そのものになりたいという願望がある」と語った。** (Wikipedia) (Asukainternational) 矢頭保の1967年の写真では、雪景色の中で褌一丁に刀を構える三島が撮られた。 (University of Texas at Austin) そして篠山紀信との最後の写真集『男の死』は、1970年9月から11月17日——自決の8日前**——まで撮影が続けられ、 (University of Texas at Austin) 鞭で打たれる水兵、ドライバーで刺される整備工、腹を切る魚屋など、「死ぬ男」のさまざまな姿を三島自身が演じた。 (University of Texas at Austin)
ここにルッキズムの根本的矛盾がある。三島はルッキズムの被害者から審美の主体へと転換した。しかしトレーナーの鈴木智雄はこう評した——「三島さんの目的は、肉体の表面を美しく見せるにどうしたらいいかといったものだけで、体育の本質には迫らず、本物を追求する精神はなかったようです」。 (Tanken) 上半身は印象的に発達したが下半身は細いままだったという自衛隊関係者の証言も、この肉体改造が「見られるため」のものであったことを裏づける。俳優・勝新太郎は本質を衝いた——「ないものねだりをするヒト。そしてその結果それをカクトクしてゆくヒト。いままでの三島さんの人生ってのは、それだったんじゃないの」。 (43mono) ルッキズムの論理を転覆するのではなく、その論理に身を捧げることで「勝者」の側に移ろうとする行為——それは解放であると同時に、究極の服従でもあった。
五、『金閣寺』——美の呪縛に焼かれる醜き者
『金閣寺』(1956年)は、ルッキズムの文学的表現としてもっとも完成度の高い作品である。主人公・溝口は二重の「醜さ」——吃音と容貌の醜さ——に規定された人間であり、 (Wikipedia) 金閣の美に呪縛される。「 (EBSCO) 美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」。
溝口の吃音は「私の内界と外界とを区切る扉の鍵のようなものであった。一度もその鍵がうまく廻ったためしがない」と記される。 (JoV's Book Pyramid) この鍵の比喩は、美の世界から締め出された者の経験を正確に形象化している。溝口が性行為に及ぼうとするたび、金閣の幻影が介入し遮断する——「 (Note) 事に及ぼうとすると、必ず金閣が現れ、溝口を妨げる。何なら、女性のおっぱいが金閣に見える」。 (Note) 美が人間の生を支配し、性を妨害し、存在そのものを蚕食する。
柏木という内反足の青年は溝口の哲学的分身として登場し、「** (JoV's Book Pyramid) 肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持っている**」と述べる。 (Note) これは美と醜の二項対立を弁証法的に反転させる試みだが、溝口はこの反転を言語の次元では達成できない。
放火による金閣の消滅は、ルッキズムからの解放か、究極の敗北か。ロイ・スターズは溝口が「受動的ニヒリズムから能動的ニヒリズムへと英雄的に立ち上がった」と読み、カタルシスを認める。しかし別の読みでは、金閣を焼いても美の観念は溝口の内部から消えない——「 (Peoplechina) 金閣さえなければ、対をなす『醜』もない」はずだが、 (Note) 物理的容器の破壊は観念の破壊ではない。三島自身はこう述べた——「美という固定観念に追い詰められた男というのを、ぼくはあの中で芸術家の象徴みたいなつもりで書いた」。 (Wikipedia) ルッキズム的に読めば、溝口は美の基準そのものを物理的に破壊することで、自分を醜いと規定する座標軸を消去しようとした。しかし座標軸は内面に刻まれており、外部の美を焼いても解放は得られない。放火は叛逆であると同時に敗北なのである。
六、『豊饒の海』——美は転生し、やがて無に帰す
四部作『豊饒の海』(1965-70年)は、 (Wikipedia) (Ddnavi) ルッキズムの時間的次元——美の生成、変容、崩壊、消滅——を六十年のスパンで描く大河である。
『春の雪』の清顕は完璧な美貌の持ち主——「ガラスでできた像のように非現実的なまでに透明感のある高潔な人物」として描かれ、対照的に親友の本多は「理屈っぽく、机上でしか物事を考えない醜い青年」である。この美/醜の対は四部作全体を貫く構造原理であり、美しい者は早世し、醜い者は生き残って観察するという残酷な法則を立てる。清顕は20歳で肺炎により死ぬ。 (Todaishimbun)
四つの転生は美の変質の過程でもある。清顕の貴族的・女性的・幽玄な美は、『奔馬』の勲において男性的・武人的な美へ、『 (Booksbycynthiagralla) 暁の寺』のジン・ジャンにおいて異国的・官能的な美へと変容し、いずれも早い死(勲の切腹、ジン・ジャンの蛇咬死)によって保存される。しかし**『天人五衰』の透**に至って、美は質的に変貌する。透は「凍ったように青白い美しい顔」を持つが、 (Note) その美は完全に自覚的であり、他者を操作する道具と化している。 (Wikipedia) 清顕の無自覚な恩寵としての美から、透の計算された武器としての美への移行は、美の堕落の系譜学にほかならない。 (Note)
透の美の毀損は、四部作の頂点である。慶子に「あなたには必然性もなければ、誰の目にも喪ったら惜しいと思わせるようなものが、何一つないんですもの」「あなたは卑しい、小さな、どこにでもころがっている小利口な田舎者の青年で……」と言語的に剥ぎ取られた (Hamashuhu) 透は、メタノールを飲んで自殺を図るが死に損ない、失明する。 (Wikipedia) (Ddnavi) 美の器官たる眼を失った透は、「万人が見て感じる醜さ」を持つ絹江と結婚する。 (Hamashuhu) 盲目の美青年と完璧に醜い妻——これはルッキズムの究極のグロテスクな反転である。
そして最終場面。81歳の本多は月修寺を訪れ、尼僧となった聡子に清顕を覚えているかと問う。 (Note) 聡子の答え——「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか」。 (Hatenablog) そして「これと云って奇巧のない、閑雅な、明るく開いた庭」。「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った」。 (Hamashuhu) (Ssl-lolipop) この結末は美そのものだけでなく、美を記憶する主体、美を欲望する構造、美と醜の二項対立そのものを消滅させる。清顕が存在しなかったのなら、美をめぐる六十年の物語全体が——つまりルッキズムの全体系が——本多という「醜い観察者」の投影にすぎなかったことになる。「何もない庭」はルッキズムの彼岸であり、仏教的空(くう)の風景でもある。
七、1970年11月25日——鍛え上げた肉体の最期の劇場
三島は自決の日の朝、『天人五衰』の最終原稿を出版社に届けた。 (Amazon Japan +3) 机の上に残したメモ——「命あるものは限りある。私は永遠に生きたい。三島由紀夫」。 (Wikipedia)
午前10時58分、三島と楯の会メンバー4名(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)は市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に入り、 (Wikipedia) 益田兼利総監を人質にとった。 (Wikipedia) (/Queer) 正午、快晴のバルコニーに立った三島は、特注の楯の会制服に「七生報國」の鉢巻、関孫六の日本刀を掲げた。 (Wikipedia) (Grape) 約1,000名の自衛隊員を前に憲法改正と天皇への自衛隊返還を訴えた——「 (Tokyo Weekender) (Lectitopublishing) おまえら、聞け。静かにせい。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだ」。 (Wikipedia)
しかし隊員たちは**「ばかやろう」と野次を飛ばし**、報道ヘリコプターの騒音と相まって、予定30分の演説は約7分で打ち切られた。「天皇陛下万歳」を三唱し室内に戻った (Wikipedia) 三島は上半身を脱ぎ、正座し、短刀で腹を横一文字に切った。臍の左7センチ、深さ4センチ。約50センチの腸が露出した。介錯人の森田必勝は三度失敗し(顎と肩を斬りつけ)、古賀浩靖が首を落とした。 (Wikipedia) (Wikipedia)
この最期は「見られる身体」の究極の劇場化であった。三島は何年にもわたってこの場面をリハーサルしていた——1966年の映画『憂国』での切腹演技、 (Tanken) 1969年の映画『人斬り』での切腹シーン、そして死の8日前まで続いた篠山紀信との『男の死』撮影。 (University of Texas at Austin) 死の直前には東武百貨店で「三島由紀夫展」を開催し、自らの生涯を「文の河」「劇の河」「体の河」「行動の河」の四つの河として展示した。体と行動の河は「互いに合流する」と三島は考えていた。 (Tripod)
『太陽と鉄』で三島はこう予告していた——「力強い、劇的な体躯と彫刻的な筋肉は、ロマンティックに高貴な死に不可欠であった。弱々しくたるんだ肉と死との対面は、私にはいかにも不似合いに思われた」。 (Vercel) (Substack) 15年間のボディビルディングは、この一瞬のためにあったのである。脚本家のポール・シュレイダーは映画『Mishima: A Life in Four Chapters』(1985年)で三島にこう語らせた——「 (Tumblr) 男は美しくあるために仮面をつける。しかし女のそれとは違い、男が美しくなろうとする決意は、常に死への欲望である」。
自衛隊員の嘲笑は、ルッキズム的文脈で読めば残酷な反転である。 (Wikipedia) 三島は「見せる身体」を15年かけて構築したが、その身体が最後に直面したのは賞賛ではなく嘲笑だった。ある幕僚は後に述懐した——「命をかけた言葉だったのなら、静かに聞くべきだった」。老いへの恐怖もまたこの死に影を落とす。三島は45歳、肉体的・創造的絶頂で死を選んだ。「おそらく三島は、苦心して彫り上げた筋肉がいずれ衰えることに耐えられなかったのだろう」と伝記作者たちは推測する。
八、ギリシャの太陽とニーチェの鉄——三島を駆動した二つの思想
三島の肉体論の思想的基盤は、ギリシャ古典美学とニーチェ哲学の二本柱から成る。
1952年の世界旅行でギリシャに到着した三島は「終日ただ酔ふがごとき心地」と記した。アクロポリス、パルテノン、デルフォイの神託所を巡り、とりわけヴァチカン美術館のアンティノウス像——ハドリアヌス帝に愛された美青年の彫刻——に心を奪われた。谷川渥が指摘するように、「三島のまなざしは、つまるところ古典古代の人間の肉体を、美しい肉体の表象を求めている」のであり、ミケランジェロもラファエロも無視してアンティノウスとデルフォイの御者像に見入った。帰国後、自宅の庭にアポロ像を設置した。
ギリシャのカロカガティア(美と善の一致)は三島の世界観の礎石となった。「古代ギリシャ人が『外面』を信じたこと、『精神』を発明したキリスト教文化よりも、古代ギリシャの『肉体と知性の均衡』に『美』の価値を置く文化」が三島の旅の目的と合致していた。三島は「ギリシャの詩人たちの理想は美しく生き、美しく死ぬことであった。これは疑いなく、われわれの武士道の理想でもあった」(「美しい死」1967年)と、ギリシャと日本を接続した。『鏡子の家』の竹井は「筋肉は筋肉それ自体を目的として鍛えられねばならない」とギリシャ彫刻の理念に準えて語る。
ニーチェは少年期からの愛読者であった。死後、母は仏壇にニーチェの本を供えたという(ダミアン・フラナガン)。CiNiiの研究論文は「三島由紀夫は少年期からニーチェを愛読し、大きな影響を受けた。ニーチェと三島には、女性ばかりに取り囲