今回題材にしている東日本大震災からは12年という月日が経っている。
常々時の流れが早いとは思っていたけれど、再認識させられる。
この作品は「小説家になろう」にも投稿している。
せっかくなので、こちらにも掲載することにした。
以下に書くことは小説のあとがきとして書いてもよかったのだけれど、まあ……あれを見る人はいないだろう。
記録として、ここに書き記そうかと。
きちんと書き終わったら、あとがきとして書き写してもいいかもしれない。
作品について、あれは大半が自分が体験したことだ。
震災のこと、感じたこと、考えたこと――それを黒田と白川に代弁してもらった。
震災の事になると、大抵の人は「あの時は辛かった」とか「今もあの頃から変わりません」なんて話をしたがる。まあ、それでもいいと思う。
けれど、自分は「被災地の当事者になれなかった被災者」だ。
辛いと思うことも言うことも、当時の自分は許されていると思えなかった。
だから、時間が経って「あぁ、あの時言ってもよかったんだな」と思えたから、私はこの作品を書いた。
震災なんて大それたことじゃなくてもいい、人間生きていれば日常の中でも辛いとか悲しいとか思うこともある。
他の架空のもっと不幸な人と比較して、「私より辛いと思っている人がいるのだから」と自分の心に蓋をすることもあるだろう。でもそれはきっと、正しい感情処理の方法じゃない。いつか、自身に無理を生じさせるやり方だ。
それこそ、黒田が自分を殺そうとしたかのように。
だから、辛いとか悲しいと思っていることは、素直に認めていいよ。認めていこうよ、とそう言うことが言いたくて書いたのだ。
この作品はどこかに向かうものじゃない。
進むわけでも、後退するわけでもない。
結論は「自分を許していこうよ」と花言葉と掛けて書いているだけだ。
でもそれが書きたかったから、私はそれでいい。
作品を作る上で影響されたものについてでも書いておこう。
・季節は次々死んでいく(amazarasi)
・魔法使いの嫁
まずは曲の方から、この曲は当時「東京喰種」のEDで使われていた。
そのあたり曲を知った。アニメから入ったわけじゃない。
どういう経緯だったか忘れたけれど、ともかくその時この曲を気に入った。
曲の入りから、歌詞、メロディー――今でも思うことだけど、一つの曲としてこれほどに完璧な曲はないと思う。
まあ、当時の自分を代弁するような、感情を揺さぶってくれる曲がこれだったということだ。同時にこの曲のおかげで今生きているとも言える。
この曲のような話が書きたいとずっと思っていたし、話を書いているときもずっとこの曲を聞いていた。
次に魔法使いの嫁だけれど、作品そのものというよりかは作品に出てきたワンシーンがとても印象に残っていた。
作品自体は漫画だけの頃から知っていた。それがアニメ化されて、それも見ていた。
第五話「Love conquers all.」で青い花と青い空のシーンがある。
それが何とも幻想的なのだ。話自体も涙なしではいられないものだった。
そんなこともあって妙に心に残り、珍しく花の名前なんかも調べたのだ。
それが今回出した「ネモフィラ」だ。
「季節は次々死んでいく」にも花のワードが出てくるのもあって、これらを掛け合わせて作った。
――そう、もう一つ。今回の仕掛けにも使っている「解離性同一性障害」
これは自分の事じゃない。
youtubeを色々と見ていた時、そうした人たちが投稿した動画を見ていた時期があった。
簡単に言えば理解したかった。自分にはあまりにも分からない感覚だから。
ただ、色んな人の動画を見るうちに、もしくはそう言う人の話を見たり読んだりするたびに、全く自分に身に覚えのない話じゃないのかもしれないと思った。
実際のそういう人からすればきっと失礼極まりないことなのかもしれない。
だけど……なんと言えばいいか。
この作品は「誰か」に言われて解決するものじゃないように思った。
誰かに何かを言われて解決する話じゃないと思うし、自分自身が誰かに言葉をかけられてもそれを受け入れられない時期があったし、多分今もそれを拗らせている。
「誰か」「他人」――それがどれだけ近しい人であっても、一言も、一文字も共感をしてくれること、逆に共感できることなんてないと思っている。
震災のようなもので受けた感情などは尚更、人に理解できるものじゃないように思う。小説を読んでいても、現実世界でも、人の何が理解できるのか、と本気で思う。
だから、この作品では他人を出したくはなかった。出せなかった。全てが全部自分であったなら、目を逸らしていただけの感情に真っ向から向かってこられたら、きっとどうすることもできない。
自分を説得するのは自分であってほしいし、自分でなければならない――そう思って、そういう結論の出し方をするためにこういう仕掛けをさせてもらった。
haruさんや「彼女は存在しない」作・浦賀和宏などからも少しずつ影響を受けています。haruさんのことを知っている方がいたら、もしかしたら怒られるかもしれない……。
それから、これはまだ福島にいる頃「福島文学大賞」に出そうと思って書き始めたのだけれど、文字制限を大幅に超えてしまうし、福島から離れることになっていた期限までに書き終えられなかった。
それから何とか完成させて、昨年第128回「文学会新人賞」に出したが、引っ掛かることなく落ちた。
まあ、当然で分かっていたことだったので。
それが分かる時期としても合っていたので、今回掲載した。
と言っても、応募したときからまた修正したけど。もしかしたら、また修正するかもしれない。
作家をしていると時々言われるのは、一つの作品をいつまでもこねくり回しても意味がない、と。
でも自分は知っている。あの偉大な岡本太郎さんであれ、発表した作品でさえもあとから自分の満足するまで直しを入れていた、と。
まあ、おかげで発表作品が失われたと言われていたけど、発表された頃と違っていて別作だと思われていた作品が出てきたという話だけれど。
シェアハウスは完成しても、何度も書き直した作品だ。多分もうこれ以上直すことはないと思うけれど、いつか直すかもしれない。その時はその時だ。
長々と書いたが、自分なりに色々と考え、感じ、その結果出来上がった作品で、一番思い入れのある作品だ。
できれば、色んな人に見てもらえたら、と思う。