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エッセイのようなもの『痛いやつ』



 私は路上ライブをしている人を見て、思ったことがあった。

 その人はピアノの弾き語りで、オリジナルソングをやりつつ、有名な曲をカバーして歌っていた。

 その人が、MCで『最後の曲になります。この曲は素敵な曲で、みんなにもそれを伝えたいから、カバーさせていただきます』と昔、ピアノの弾き語りをしている歌手が言った。

 私は『カバーさせていただきます』という言葉にとても引っかかった。

 この歌手は路上でしかライブできない素人の癖に、一丁前に丁寧な言葉を使って、『カバーさせていただきます』ということで、その人をリスペクトしている感を出しているが、むしろ、その単語はプロのミュージシャンがカバーする時にいうセリフで、素人が言うと、あたかも自分はプロと同じ土俵に立っていますよ感が出てしまって、痛々しく聞こえたのだ。しかも、よく考えてみると、自分のライブなのに、最後がカバーソングなのは一体どういう神経をしているのだろうか?

 最後こそ、オリジナルソングで行くべきではないのか?

 そして、その人は高らかに松任谷由実の『やさしさに包まれたなら』を歌い始めた。

 その曲が素敵なことはおまえに言われなくても誰でも知っとると激しくツッコミを入れたい気持ちを抑えて、立ち去った。

 だけど私は、この人が本気で音楽が好きなのではなく、単なる自意識過剰で音楽をやっているのだと思った。つまり、音楽が好きな自分が好きなのだ。歌が上手い自分が好きだから、歌を歌っているのだ。だから、あんなセリフが言えたのだと思った。
 確かにその人は歌が上手いし、ピアノも上手である。
 しかし、本気で音楽が好きで、プロを目指しているのなら、路上ライブでカバーソングをしている場合ではないのだ。



 結局のところ私は何が主張したいのかというと、音楽に関わらず、創作に携わっている人に限って、痛い奴が多いと思っている。音楽や小説が好きで作ってると言っている奴の殆どが、マイナーな音楽や、難しい文学を知ってる自分が好きで、それをSNSで発信しているのだ。
 彼らの何が痛いって、一丁前に作家面をして創作論をSNSで書き込んでいるところが最高にイタい。

 例えば、文章を1万文字書くことがどれだけすごいことか、カクヨム上で物語が完結しているのは全体の5%程度であるので、完結していることはすごい、それは才能だ。を書いている発信があった。
 しかし、落ち着いてこの発信を分析すると、そもそも文章を一万文字書くことも、物語を完結させることは誰にでもできることである。
 1日1000文字の日記を10日書けば、一万文字書くことができるし、物語なんて面白かろうがつまらなかろうが、投稿の際に完結にチェックを入れて投稿すれば、完結させることは難しくないのだ。
 この発信をしている人間は、作家を目指しているのであると思うが、その実態は作家を目指しているのではなく、文章を書くことを目指しているのである。いわゆる目的と手段が入れ替わるというやつである。
 書籍化あるいは作家とは、物語という“手段”を通して、自分の主張を投げかけるのが“目的”なのである。
 つまり、あくまで物語とは手段であって、文章を書くことは作業なのであり、そこに特別な才能は必要ないのである。
 しかし、痛い奴はそのことがわかっていないのだ。
 あとチャットGPTが登場し始めた頃、それに小説を書かせて、ドヤ顔で校正している人もいた。つまり、生成AIの文章は機械的であるから、人の手を加えないと自然な文章に見えないのだと、言いたかったのだろう。
 これもかなり痛い。自分で恥ずかしくならないのかと正直思った。

 私は生成AIが人間の創作活動を破壊するのかという議論に対して、特に持論は持っていないが、どうせ、どの仕事もAIに奪われるのであれば、自分のアイデアは速く発信しないと、AIに奪われてしまうだろうなと漠然と思っている。もちろんAIでなくても他の人に奪われる可能性も考慮している。

 最後に私の好きな作家の言葉を引用して、このエッセイの結びとしたいと思います。この作家さんは本当に素敵な作品ばかり世に送り届けていて、本当にすごいと思っているし、みんなにもそれを伝えたいから、引用させていただきます。

—生きることが難しいなどといふことは何も自慢になどなりはしないのだ—三島由紀夫

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