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蛙堂

坂道を下ると、眼前に広がる眺望と、少しずつ穏やかになっていく秋晴れの空はもう夕刻に差し掛かっていた。
向こう側に見える山々は鮮やかな色に染まり、棚田が幾重にも美しい曲線を描いている。
鼻を抜ける懐かしい土の匂いと、季節の変わり目を感じられる空気の粒子が鼻腔の奥を撫でる感覚を私は楽しんだ。
幼い姿の私は学童を抜け出してそのひらけた山道を降りていく。
途中ですれ違うトロッコに小さな冒険心が擽られ、心が軽やかに踊った。
一時の探索から我に返ると寂しさと、大人たちに怒られるのではないかという気持ちになり私は帰途につくことにした。
もと来た坂を登り始める。
埃立ったひらけた砂利道は次第に林の中に通じる小道になっていく。
はて、こんな道は通っただろうか?
しかし通ったはずの道は一本しかない。
それからしばらく行くと、林を抜け、先程と同じように、小道の片側には古い民家がぽつぽつと立ち並んだ見慣れた景色になった。
身体に先ほどとは違う湿り気を感じる。
気がつくと顔のぼんやりした親子が歩いている。
父親であろう男が、小さな娘に側にある池を指差して教えている。
そこには決して入ってはいけないよ、そんな言葉を尻目に私はずんずんと先へ進む。
橙色の金魚が揺蕩う小さな池の縁で蛙が鳴いている。
さっきから同じ様な池の縁を何度も通ったような気がする。
また橙色の金魚の背中と尾びれが水面を揺らし、蛙が数匹池に飛び込むぽちゃんという音が聴こえた。
気がつくとあたりは薄暗くなり、強い湿度を孕んだ空気は皮膚の上に被膜のように張り付いている。
濃緑の浮草が、どんよりとした水をたたえた水面の光を消し、一匹の蛙がそれに掴まりヌメヌメとした目で遠くを見ている。
門をくぐると人々が忙しなく動いている。不思議なことに先程の親子らしい二人もそこにいる。
「おかえり!どこ行ってたの?」
番頭のような女が笑顔で話しかけてきた。
「ほらそこだよ、いっといで!」
横開きになった扉を指差して促す。
私はなんの疑問も持たずにその扉を開けた。
眩しい程に真っ白な空間の中に何人かの背中が見えたが、その姿の焦点がとんと合わない。
何重にもダブった視界に驚くと私は慌てて踵を返して部屋の中に戻った。
背中手に扉をぴしゃりと閉めて視界を取り戻そうと瞬きを繰り返す私を見て番頭は目を丸くした。
「おや!気づいちまったかい!異界に!わかっちまったんなら戻りな!」
その言葉を背中に、小走りで外へ飛び出す。
水中から抜け出す瞬間のように湿り気が顔を覆う感覚を振り切り、手足をバタつかせながらまとわりつく空気を払った。
走った、転んだ。必死で肺へ空気を送る。
顔を上げると、先程のように秋晴れの空となだらかな棚田の美しい眺望が遠く、幾重にも重なっている。
水田の鈍い水面の煌めきが、もう夕刻に差し掛かる時間帯を指し示していた。
隣を通るトロッコを見つめながら、擦りむいた膝から滲む血が夕日のように鮮やかだった。




っていうのが今朝の夢。

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