公開しようと思って結局公開してないプロローグです。
ちょっとあれかもです。
タイトル通りネタバレ注意です。
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冬の夜は、音が少ない。
窓の外で風が鳴っているはずなのに、ガラス越しだとそれすら遠くて、世界が布団の内側みたいに縮んでいる。
九条玻璃の部屋は、暖房が効きすぎるくらい暖かかった。
玄関からここまで、引っ張られるように連れてこられて――気づけば俺は、彼女のベッドの端に座らされている。
座ら“されている”。
自分の意思で座ったというより、座る以外の選択肢がなかった。
「……どうしたの、急に」
なるべく普通の声を出したつもりだった。
けれど喉が乾いていて、語尾が少し掠れた。
玻璃は返事をしない。
机の上の小さなライトだけが点いていて、部屋の角は暗い。
その暗さが、妙に逃げ道を消している。
彼女はゆっくりとベッドへ近づき、俺の目の前で立ち止まった。
視線だけが落ちてくる。薄く潤んで、熱のある目。
「……今日は、たくさん我慢しましたから」
声が低い。
いつも聞く、静かな声とは違う湿り気がある。
その一言で、空気の温度が一段上がった気がした。
我慢。
今日の何が。
思い当たるのは、昼間のこと。
クラスで、たまたま別の女子と話す時間が少し長くなった。
それだけだ。俺にとっては“それだけ”のはずだった。
(……そんな些細なことで?)
理屈は、すぐに追いつく。
でも、理屈は目の前の熱を止めない。
「九条さん、落ち着――」
言いかけた瞬間、玻璃が被せるように言った。
「――玻璃、と呼んでください」
短い命令。
拒否が許されていない言い方。
俺の舌が、一瞬固まる。
反論しようとしたのに、胸の奥の別の何かが先に反論を潰した。
こうなるまで、甘やかしたのは俺だ。
踏み込まないふりをしながら、彼女が踏み込む余地だけは残して。
安心させる言葉を選んで、彼女の「許可」を増やしていったのは、俺自身だ。
その自覚が、喉を塞ぐ。
玻璃は上着に手をかけ、迷いなく脱ぎ捨てた。
布が落ちる軽い音が、やけに大きく響く。
冬なのに、肌が熱を持って見えた。
そして次の瞬間、彼女は俺の膝の上に跨っていた。
「……っ」
反射で肩に手をやるより先に、玻璃の細い指が俺の肩を掴んだ。
掴むというより、食い込む。
逃げる余地を奪う強さ。
息が詰まる。
近い。近すぎる。
彼女の体温が、服越しでも分かるくらい生々しい。
「玻璃、待っ――」
俺が言葉を組み立てる前に、玻璃が静かに告げた。
「あなたが、許したんですよ」
その言い方が怖かった。
責めているようで、責めていない。
ただ“事実”として落としてくる。
玻璃の瞳が、俺を射抜く。
そこには、四月の教室で怯えていた少女の面影がない。
境界線の内側に入れた人間の前でだけ現れる、別の顔。
「あなたを好きになることも」
言葉が続く。
淡々としているのに、熱がある。
「あなたに嫉妬することも。……全部」
玻璃は少しだけ口元を上げた。
優しい笑みの形なのに、逃げ道を塞ぐ影がある。
「あなたが『いい』って言ったんです」
違う、と言いたかった。
そんな意味じゃない、と。
俺はただ、怖がらせたくなかっただけで、安心してほしかっただけで――。
でも、俺が言った「いいよ」は、俺の中だけの意味で留まっていなかった。
彼女の中で育ち、増幅し、ここまで来た。
玻璃は顔を近づけた。
吐息が耳に触れる距離。
その囁きは、献身の形をしているのに、獲物を追い詰めた獣みたいに甘い。
「あとは……あなたが折れるだけです、凪人くん」
名前を呼ばれる。
その呼び方が、当たり前のはずなのに、今は鐘みたいに響く。
“ここまで来た”という合図。
(……おかしいな)
俺は、頭の中で笑いそうになった。
笑える状況じゃないのに。
(最初はもっと、静かで、おしとやかな隣人だったはずなのに)
図書室の静寂。
それが、いちばん安全だったはずだ。
なのに今、俺の膝の上で、玻璃は逃げ道を潰してくる。
抱きしめる腕は優しいのに、ほどける気配がない。
「……こんなに重かったっけ……?」
声にならない戦慄が、背骨を伝う。
そして同時に、逃げ切れないことへの諦めが、胸の底で静かに沈んだ。
玻璃の腕が、俺を包み込む。
冬の部屋の閉塞感と、二人の体温が混ざり合って、視界が滲む。
暗転。
――次の瞬間、時計の針が巻き戻る音がした気がした。
冬の熱がすっと引いて、代わりに乾いた春の空気が肺に入ってくる。
眩しさに目を細めた先は、いつもの高校のいつもの教室。
隣の席にいるのは、まだ境界線だけを机の周りに置いて座っている九条玻璃。
俺は俺で、ただのクラスメイトの顔をして、何も考えずに椅子を引く。
――どうして、こんなことになったんだろうな。
その答えを探すみたいに、俺の視線が一度だけ、隣の席へ滑った。
そして物語は、いちばん静かな四月から始まる。