夜道の先で、櫟凪人の背中が小さくなっていく。
九条玻璃は、それを最後まで見届けることができなかった。
見届けてしまったら、きっとまた何か言いたくなる。言いたくなって、でも言えなくて、結局その場で固まってしまう。そんな自分が簡単に想像できたからだ。
「……それじゃあ。また来週!」
勢いだけでそう言って、踵を返した。
足音が、普段より少し速い。
自分の家までの短い距離が、妙に長く感じる。胸の奥がずっと騒がしくて、息を吸うたびにさっきの言葉が蘇る。
――九条さんの知らない話が聞けて、俺は嬉しかったけどな。
嬉しかった。
その一言が、耳の奥に残っている。
何度も、何度も、同じ温度で再生される。
玻璃は玄関の前まで来ると、鍵を取り出す手すら少しもたつかせた。
いつもなら音を立てないように開ける扉を、今日は少し乱暴に開けてしまう。
家の中に入る。
靴を脱ぐ。
そして、バタン、と扉を閉めた。
その瞬間、膝から力が抜けた。
玻璃は玄関の壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込む。
冷たい床の感触が制服越しに伝わってくるのに、顔だけが熱い。
頬だけじゃない。耳の裏まで熱くて、首筋まで心臓になったみたいだった。
「……〜〜っ!」
声にならない声が漏れる。
両手で顔を覆う。
覆ったところで、熱は隠れない。指先まで火照っている。
何をしているんだろう。
ただ夕食を一緒に食べただけ。
少しだけ外で話しただけ。
「自販機まで」と言って、一緒に歩いただけ。
それなのに、こんなにも胸が落ち着かない。
しかも、あの人はずるい。
こちらが必死に「気にしないでください」と言ったのに、
「嬉しかった」なんて、そんなふうに返してくる。
玻璃は膝を抱えて、顔を伏せた。
口元が勝手に緩みそうになるのを、必死に堪える。
堪えきれていないことは、自分でも分かっていた。
そのとき。
リビングの方から、パタパタとスリッパの音が近づいてきた。
玻璃の肩が跳ねる。
しまった、と思った時にはもう遅い。
リビングのドアが少し開いて、そこから母――九条澄香が顔を出した。
「あら」
澄香は玄関に座り込んでいる娘を見つけると、目を丸くした。
そしてすぐに、その目が細くなる。
ニヤニヤ。
その表情を見た瞬間、玻璃は直感した。
これはもう、逃げられない。
「おかえり、玻璃」
澄香はゆっくりと玄関まで歩いてくる。
座り込んだ玻璃を、上から楽しそうに見下ろした。
「……で? お目当ての飲み物は買えたの?」
玻璃の心臓が、嫌な跳ね方をした。
「え」
「自販機まで行くって言ってたでしょう?」
澄香の視線が、すっと下がる。
玻璃の両手へ。
空っぽだった。
右手にも、左手にも、何もない。
飲み物どころか、財布すらない。
そこでようやく、玻璃は自分がどれだけ雑な口実で外へ出たのかを思い出した。
自販機まで。
そう言った。
言ったのに、財布を持っていない。スマホも部屋に置いたまま。
つまり、最初から何かを買う気など一ミリもなかったことになる。
玻璃は慌てて立ち上がった。
「あ、えっと……」
言葉が出てこない。
出てこないのに、何か言わなければ終わる。
「ほ、欲しいものが、売り切れ、だったので……!」
言った瞬間、自分でも無理があると思った。
澄香の笑顔が深くなる。
「へぇー?」
ゆっくり、ゆっくりと詰めてくる声。
「お財布も持たずに家を出たのに、売り切れかどうかわかったんだ?」
「……」
「玻璃の目は透視でもできるのかなぁ?」
完全に終わった。
玻璃はガラス細工のように固まる。
動いたら割れる。そんな状態だった。
澄香は遠慮なく近づいてきて、娘の肩を指でつんつんと突いた。
「ちょっと自販機まで〜、なんて言って」
「……」
「本当は櫟くんと少しでも長く一緒にいたかっただけでしょ?」
「……っ」
肩が跳ねる。
分かりやすすぎる反応だった。
「櫟くん、何か嬉しいことでも言ってくれた?」
その言葉で、玻璃の頭の中に、また声が蘇った。
――九条さんの知らない話が聞けて、俺は嬉しかったけどな。
嬉しかった。
嬉しかった。
嬉しかった。
だめだ。
玻璃の顔が、さらに赤くなる。
自分の頭から、ぽん、と変な音がして何かが飛び出した気がした。
「な、何も……!」
「何も?」
「何も、ありません!」
「ふぅん」
澄香は楽しそうに腕を組む。
「何もなかった顔じゃないけどなぁ」
「お母さん!」
声が裏返った。
普段の玻璃からは考えられないくらい、感情がそのまま出ている。
澄香はそんな娘を見て、さらに目を細めた。
からかっている。間違いなくからかっている。
でも、それだけではない。
嬉しそうだった。
玻璃にはそれが分かってしまう。
分かってしまうから、余計に恥ずかしい。
「もう……!」
玻璃はこれ以上ここにいたら危険だと判断した。
母を押し退けるようにして、玄関から廊下へ逃げる。
「あら、逃げるの?」
「知りません!」
「玻璃ー、飲み物はー?」
「いりません!」
バタバタと階段を駆け上がる。
足音が普段よりずっと大きい。けれど、もう気にしていられなかった。
二階の自室へ駆け込み、扉を閉める。
そこでようやく、玻璃はベッドに倒れ込んだ。
枕に顔を埋める。
「……〜〜っ」
また、声にならない声が漏れた。
恥ずかしい。
恥ずかしいのに、嬉しい。
母に見透かされたことも、凪人にからかわれたことも、全部、胸の奥で熱になって残っている。
また来週。
自分で言ったその言葉が、こんなにも待ち遠しくなるなんて、少し前の自分なら信じられなかった。
一方、リビングへ戻った澄香は、階段の方を見上げながら小さく息を吐いた。
「もう、本当に焦れったいんだから……」
呆れたように言いながらも、その声は柔らかい。
玄関で座り込んでいた娘。
真っ赤になって、言い訳にもならない言い訳をして、最後には逃げていった娘。
それは、最近までの玻璃からは考えられない姿だった。
人と距離を取り、余計な感情を見せず、傷つく前に自分から一線を引いていた子。
そんな娘が、誰かの言葉一つであんなにも揺れている。
危うさはある。
心配もある。
けれど、それ以上に――嬉しかった。
「あんなに楽しそうな玻璃、久しぶりに見たなぁ」
澄香はふっと優しい笑みを浮かべる。
リビングには、まだ夕食の余韻が残っていた。
カレーの香りも、笑い声の名残も、ほんの少しだけ。
その中で澄香は、娘の変化を確かに感じていた。
そして、思う。
あの二人は、本当に焦れったい。
でも、だからこそ見守りがいがある。
澄香は楽しそうに口元を緩めると、片づけ途中の食卓へ戻っていった。
【更新が遅れており、大変申し訳ありません】
いつも作品を読んでいただき、本当にありがとうございます。
新社会人になり、思うように執筆の時間を作ることが難しくなってしまいました。そのため、最近は更新のペースがかなり遅くなっており、続きをお待ちいただいている皆様には心よりお詫び申し上げます。
これからもマイペースな遅い更新が続いてしまうかと思いますが、諦めずに少しずつ書き進めていく予定です。
温かく見守っていただけますと幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
なお、今後は簡単な近況や、超短編の小説などをX(@_kzari)で公開していこうと考えております。もしご興味がございましたら、そちらも覗いていただけますと幸いです。