笹の才蔵は大名になりあがる嗜好はなく、生涯一武者としてその名を残した武辺者です。
脇坂安治は本人は無名に近いのに、戦国のビッグネームと同じ舞台で、ひっそり無視できない業績を残しています。
ただし歴史は、ビッグネームばかりを記憶して、脇坂安治の方は忘却してしまったようです。
以下ウィキペディアからの引用です。
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才蔵は主君を何度も変えている。しかし、同じように仕官先を転々とした藤堂高虎が変節漢などと謗られ、現代でも小説などで否定的に描かれるのに対し、才蔵の人気は当時からかなり高かった。当時、墓前を通る者は才蔵の武勇を賞賛しその墓前で下馬して礼を送った。
笹の指物を背負って戦い、戦いにおいては敵の首を討つことが常に多くてとても腰に抱えることができなかったため指物の笹の葉をとって首の切り口に入れておいた(あるいは口にくわえさせた)という。このため、才蔵の討った首と合戦の直後にすぐにわかったという。これらの経緯から、「笹の才蔵」と称された。笹を敵の首に入れだしたのは森長可に仕えていた頃とされ、甲州征伐で森長可が460余の首級を実検した際、才蔵は3つの首を持って長可の前に現れ、「16の首を捕り申した」と豪語した。長可が3つしかないではないかと訝ると「首が多すぎて捨てました。ただし捕った首には笹の葉を含ませて置いて参りました」と述べた。長可が調べさせると笹を含んだ13の首級が見つかり、才蔵はこの時から笹の才蔵の異名を取った[4]。 笹(ささ)を口に含ませるということは、酒(ささ)を討取った相手に飲ます最後の手向けという意味合いもあるといわれる。
才蔵は武将というより大名家の一兵士的な身分だったが、それにも関わらず今も高名である理由として関ヶ原の合戦に於ける活躍を家康から大いに賞賛されたことを挙げる人がいる。家康が賞賛した際、才蔵は20個の首級を挙げている[2]。
武功は常に大きく、「先陣を進み、槍を合わすこと二十八、敵の首を捕る事二十騎、言語道断古今無し」と評されている[5]。
関ヶ原の戦いでは、武の友である梶田繁政と共に雌雄を争い、大谷吉継の陣へ攻め入大功をあらわし、宇喜多秀家の陣へ突入、十字無盡に働いて大将株の首級を互いに取り、徳川家康の本陣へ持ち帰り、徳川家康から互いに賞賛された。後、繁政も共に福島正則に仕えた。