いつもお世話になっている知人と日曜日、
横浜市にある横浜指路教会に行ってきました。
写真はその時に撮って頂いたものです。
一年も前から行きたいと思っていた教会で、
印象は地元の滝山聖書バプテスト教会より、
華やかで、分かりやすい礼拝の時でした。
地元の教会ですら恥ずかしく、
ほぼオンラインで参加している俺なのに、
こんな立派な教会に来れて本当に幸せです。
地元の教会の中国人の牧師さんの話しも、
アットホームかつ、マニアックで大好きなのですが、こちらの牧師さんの話しは、厳粛で、語り手が美しく物語をベースに話されるので聞きやすい。
知人はマッチ売りの少女の話しに胸を打たれ、
私は、お祈りの時間が長く取れること、
讃美歌が美しくかつ倹しく、
程よく私の求めている美と貧しさを備えており、やはり求めているのはプロテスタントの方が私寄りなのだろうと思います。
今日、女性になりたい、
男性に女性として見て欲しい、
触れてほしいという苦しい気持ちに悶え、
また泣いていたのですが、
そんな中私の大切な友人、
また娘以上に守りたい存在だと今でも思っている
「薰衣草畑」という作家さんの
「酢浆草斑」という作品を思い出して、気が付いたことがありました。
世の中には、女性になりたいと苦しむ私のような男も居れば、男性にもしなれればと考えて葛藤を重ねてきた女性もいる。
私が、どんなに頑張っても出産は出来ず、
男性と一緒になっても、その人のために一番大切なことをしてあげられない。
けど、女性を好きになった女性も同じように、
その誰より大切な人に入っていくことは出来ないという苦しみがある。
私は、恐らく聖書や、
聖書でなくとも宗教が同性愛を戒める傾向にあるのは、この苦しみのことを危惧してだと考えます。
よくよく見ていくと、聖書は同性愛を否定まではしていないのです。
「男が男と恥ずべきことを行い」と書いてあるのみで、それによって地獄へ行くとの解釈は、少し聖書全体の本質とは遠ざかった解釈だと私は考える。
けれども、私はこの男性としての体そのものは、授かったものとして大切にしたい。
恐らく私は母系の血をこそ世に残したい。だから女が強く、女の子を産みたいのかもしれない。
ですが、母系の血筋が母で途絶えたとしても、俺には父の血を残していくことができる。
長男ではなくても、相手の女性が本当にお互いにとって希ましい方なら。
詩集「Yellow Yellow, green's Cat.」と「眠りの花枝」を更新しています。
それぞれ、この近況ノートで述べた私にとって掛け替えない二名の方のことを書かせてもらいました。
もうすぐX'masですね。
身体を冷やさず、よく眠りよく食べ、健康に過ごされて下さい。