史実上における陰陽師の職掌をまとめました。
内容はなろうやTALESと同一です。
以下本文
歴史上で始めて「陰陽師」が出てくるのは
『日本書紀』第40代天武天皇期13年。時期で言うと7世紀飛鳥時代の頃。
『陰陽師、工匠(こうしょう)等を畿内(きない)に遺して、都作るべき地を視占(み)しめたまふ』とある。
安倍晴明や賀茂保憲が活躍し始める200年以上前には、
すでに国家公務員の占い師として、陰陽師たちは活動していた。
陰陽寮は律令官制の中務省(なかつかさしょう、と読む。天皇の側近事務などを司る場所)管轄下に置かれ、
『陰陽部門』『天文部門』『暦部門』『漏刻部門』の4部門から成り立っていた。
○陰陽寮組織図
事務官僚
陰陽頭 1名 (各部門の総括 ※ おんみょうのかみ、と読む)
陰陽助 1名 (頭の補佐)
陰陽允 1名 (助の補佐 ※じょう、と読む)
大属 1名 (書記・経理1 ※だいさかん、と読む)
小属 1名 (書記・経理2 ※しょうさかん、と読む)
専門技官
『陰陽部門』
陰陽博士 1名 (陰陽生の教授)
権陰陽博士 1名 (博士の補佐。 ※権はごんの、と読む)
陰陽師 6名 (占いや寺などの土地選定を行う専門職)
陰陽得業生 2名 (学生から選ばれた成績優秀者)
陰陽生 10名 (学生)
『天文部門』
天文博士 1名 (天文を観測し、異変があれば天文密奏を行う、また天文生の教授)
権天文博士 1名 (博士の補佐)
天文得業生 2名 (学生から選ばれた成績優秀者)
天文生 10名 (学生)
※(2025/8/19?の深夜に九州で隕石落下があったようですが、もしこれが当時の陰陽寮で観測がされた場合、天文博士が「天変ダァ!! これからなんかヤベェことが起こるかもしれねぇ! お上に報告だぁ!」 と、天文密奏案件になります」)
『暦部門』
暦博士 1名 (具注暦と呼ばれる、現代でいうカレンダーを毎年作成し、11月1日に天皇へ奏上する。また暦生の教授)
権暦博士 1名 (博士の補佐)
暦得業生 2名 (学生から選ばれた成績優秀者)
暦生 10名 (学生)
『漏刻部門』
漏刻博士 2名 (水時計(漏刻)を管理し、時刻を計測する。また漏刻の番をする守辰丁の統率)
権漏刻博士 2名 (博士の補佐)
守辰丁 20名 (鐘鼓を打って時刻を知らせる。※しゅしんちょう、と読む)
その他
大宰府
陰陽師 1名
使部 20名 (庶務)
直丁 3名 (使部の補佐)
※権博士は後に新たに設置。(多分得業生も)
※陰陽師への需要の高まりに際し、晴明たちの時代には、陰陽寮に所属する全員が陰陽師と呼ばれるようになる。
陰陽寮は「ウラノツカサ」とも呼ばれていて、陰陽頭は「ウラノカミ」とも呼ばれる。
日本においては「ウラ(占い)」が最重要視されていたよう。
なお賀茂忠行は「陰陽博士」の任に就いていたとされている。
(本当がどうかは不明)
安倍晴明は「天文博士」のちに「小属」も兼任。
賀茂保憲は「暦博士」後に「陰陽頭」も兼任、更にその後「天文博士」にも就いている。
陰陽寮では学生→得業生→陰陽師→博士→事務官僚。という順で昇進していったものと考えられる。
陰陽寮が設立した当初は、占いを担当するのは『陰陽部門』に所属する陰陽師6名の仕事だった
しかしながら上記3名が陰陽寮に所属するころ(9世紀中頃〜10世紀)には、陰陽師の需要が更に高まり、6人じゃどう足掻いても捌ききれなくなっていった。
そうして次第に各部門の職員たちが、ヘルプ的な感じで通常業務とは別に、占いや祭祀を行なっていた。
なので9世紀末の時点では、陰陽寮に所属しているすべての職員をまとめて『陰陽師』とされた。
以上です。
なお天文博士は部下と共に夜二回(20:00頃と深夜2:00頃)観測を行なっていたので
お昼はやんごとないお方々の無茶振り……ではなく占いの依頼をやったり、夜は天文観測をしたり、そこそこの激務だった可能性が考えられます。
そんな中85歳まで生きた安倍晴明さん。相当お身体が丈夫でいらっしゃったのでしょうね。
そりゃあ伝説化されるわな……。