こんペギ。Kopegiでございます。
最近めっきり寒くなりましたね。おかげで血圧がバカ上がりで物理的に頭痛が痛い毎日です。
さて、頭痛が痛いと言えば、最近Kopegiは次回作の構想を練っておりますが、その内容が「なろう系」となっております。「ヴィジターキラー」をご覧の方はおわかりかとは思いますが、私はこの系統の作品群を嫌っております。厳密に言えば全部が全部嫌いというわけではありませんが、まあ、大半のものが私のセンスに遭わないと言いますか。
で、そんな「なろう系」に挑んでいる訳なんですけれども、まあ・・・書きづらいこと書きづらいこと。元々性に合わないのもあるのでしょうが、それにしたってなんでこんなに書きづらいのか。そんなことを考えながら色々模索していたところ、色々と考えが出てきたのでまとめていきたいと思います。
*「何でもアリ」は逆に扱いづらい
皆様ご存じの通り、なろう系の大半の特徴として「主人公が無双する」というのが当てはまるかと思います。女神様から与えられて、現代知識を生かして、努力しすぎて・・・・・・そんな背景は多岐にわたりますが、最終的に行き着くのはここなんですよね。
ですが、余りにもこのように都合よく展開しやすかったり、自由度が高すぎると、却って扱いづらくなってしまうのですよね。何故かというと「仲間が窮地に立たされる→主人公登場→形勢逆転→万事解決ヨカッタネ」、あるいは「何か大きな壁がぶち当たる→さあどうしようか→主人公登場→あっさり解決→流石俺君様orでかすぎんだろ・・・」のパターンを踏襲するわけです。要するに展開がワンパターンになりがちなんですよね。
最終的に主人公が工夫するだろ!!って思われるかもしれないんですけど、そこにも穴があります。物語って言うのは変化があればあるほど中身が濃密になるものです。「窮地に立たされる→主人公が機転を利かせて逆転!」と、「窮地に立たされる→主人公が機転を利かせて逆転!→かと思ったら相手もその対策を練っていた→じゃあこうしよう→まだまだ!!」・・・どうでしょうか。文字にするだけでもこれだけ違います。これをもっと綿密にすれば怒濤の展開でスリルアンドサスペンスな訳ですよ(ただ、余り拗らせてもそれはそれで問題ですが)。ただの逆転劇じゃダメなんです。絶体絶命のなか、どうやって生き延びるか。そのギリギリの展開こそが物語のうま味を引き出すスパイスになると考えています。
更に言うと、「主人公こそが絶対」となってしまうので、物語の展開や舞台背景そのものに大きな制約が出てきます。これは後ほど語らせていただきます。
*水戸黄門となろう系の違い
以前こういったなろう系がコミカライズされたとき、コメントに「主人公が現われて形勢逆転と言う流れは、昔から踏襲してきた作風の一つ」「水戸黄門だって同じようなものだろ」の様なものが散見されていました。しかし、この例を借りて言うならば、水戸黄門とその作品には決定的な違いがあります。それは登場人物の「重み」です。
水戸黄門の本来の名は「徳川光圀」、つまり水戸黄門の名は徳川家の人間が名乗っていた別称であり、同時に隠居した際に用いていた名だそうです。この水戸黄門は藩主時代にいくつか成果を上げています。
・領内の寺社改革のために村単位に「開基帳」の作成を命じた。
・儒学と実学を結びつける学風を根付かせた。
・三度に渡る蝦夷地探索を行った。
いかがでしょう。たかがWikipediaで調べた程度ではありますが、それだけでもこれだけ情報が出てきます。もっと正式な文献などを探れば、正史が幾らでも出てくるでしょう。
対して、なろう系主人公はどうでしょうか。多くの場合は、せいぜい元ゲーマーで転生先でゲームの中のような異世界に行っただとか、或いは自分の全く知らない剣と魔法の世界だとか、そういったものばかりのハズです。では、その背景にそれ相応の「重み」はあるのでしょうか。実際に藩主として政治を行った水戸黄門と違い、これらの主人公にはこのような「確かな」経歴など存在するはずがありません。そもそも水戸黄門となろう系主人公では、時代背景が違います。こんな平和ぼけまっただ中なこの日本から異世界に行って、何のためらいも無く数多の命を奪うような真似が出来るものではありません。寧ろ何のためらいも無く命を奪うことが出来る、命を命と思っていない糞野郎かシリアルキラーです(正直シリアルキラーの方が一周回ってマシな気がします)。
*恣意的に陥れられる異世界
上の項でもお話ししましたが、「主人公が絶対」という大きな制約が出来てしまうので、それを可能にするために様々な弊害が出てきます。その一つに「主人公が転生した先の異世界は、主人公のものよりも数段文明レベル・知能レベルを低下させなければならない」というものです。
これは異世界転生系に限らずそうなのですが、主人公を無双させようとすると、どうしてもそれ以外のものは主人公未満にしなければなります。なぜならば主人公が苦戦するような相手が居てはならないからです。そうなると必然的に「主人公以外の者の全てのレベルを下げる」ことになります。
良くある描写として、「ドラゴンのブレスをどこ吹く風で主人公が耐え、主人公の放った魔法にドラゴンが怯える」なんてものは相当使い古されているはずです。これも上記の水戸黄門との比較の件と考えると明らかに不条理ではないでしょうか。だって、魔法が蔓延る世界の頂点に立つはずのドラゴンが、どこの馬の骨とも知らない人間にボコされるんですよ?どう考えてもおかしいでしょう?
同じように、主人公が人間でもそれ以外の種族を手玉に取るような描写がありますが、正直これらに関しても余りいい目では見られません。「どこかのハイエルフが編み出した術式を人間の主人公が力尽くでぶち破る」みたいな活躍を見せることがありますが、はっきり言っておかしいと思います。だって人間などよりも知能が優れているはずとわざわざ銘打っているのにバカにされていたりするんですよ?おかしくないですか?
それ以外にも、「料理という文化が無い」とか、「文字という文化が無い」とか、明らかに文明レベルが劣っているような作品が多数見受けられます。これらを見ると何というか・・・自分を上げるために他を落としているようにしか見えないのが事実です。
*数値化される能力
これも定番の「ステータス」「スキル」の要素です。もう幾度となく見てきたことでしょう。これもなろう系の不条理を演出するのに一役買っています。
例えば、190センチで、体を鍛えに鍛えた大柄な社会人男性と、170センチ行かないかぐらいの帰宅部の中高生がいたとしましょう。彼らが腕相撲をしたとき、どう考えても体格差や筋肉量からして社会人が勝つはずです。しかし、ここで「ステータス」が付与されていると、社会人の筋力が80、中高生が100だとすると、中高生が勝ってしまいます。物理的にあり得ないことが起こってしまうんですよね。
さらに「スキル」についても同様なことが言えます。本来であれば参考書を買ったり学生時代のことをもう一度復習したりして、本当の意味で努力して勉強して、初めて資格はとれるものです。しかし、この「スキル」はそう言う「何か」を身につけただけでこういったことを習得できるという、因果関係が逆転してしまっているという現象が起こってしまっています。
そもそもの話ですが、よくよく考えたら恐ろしいことだと思いませんか?だって、自分の持ちうる能力が全て数字として書き表され、それが絶対視されるようなものですよ?国語算数理科社会のような多少努力すればどうにかなることはともかく、本来アナログ的に表わされなければならない「身体能力」や「知能」、果てには「運」さえ数値化されるなんて、たまったものではありません。
*これらの「設定」は、自分が「勝ち組」であることを前提に作られている
しかし、これらのことを考えれば考えるほど、「なろう系」では自分に不利な設定ばかりが課されていることがわかります。
例えば最初の項の「“何でもアリ”は逆に扱いづらい」についてですが、これらは全て自分が「与えられた」立場にあるコトを前提として話を進められています。「手違いで死んだのでお詫びとして女神から力を授かった」「現代知識を生かして異世界を生き延びる」「努力しすぎたので人生がヌルゲーと化した件」など、どれも場当たり的なものばかりで現実味がまるでありません。「女神から~」はそもそもこの世界では無く、完全に来世に依存しているような状態ですし、「現代知識~」についても、異世界の物理法則が通じればという話になります。「努力しすぎた~」に関しても、そもそも努力に「し過ぎる」なんてことはありません。こんなタイトルを付けること自体が「努力」を舐めているとしか考えられません。
その次の項の「水戸黄門となろう系の違い」でも、本来あるべき背景や功績を度外視しているのが見受けられます。何も知らない上で水戸黄門の活躍を見ればそうとも言えなくも言えませんが、少なくとも調べればそういった経歴、つまり「重み」がある以上水戸黄門————徳川光圀の世直しの勧善懲悪は、決してそんな簡単な言葉では言い表せないはずです。ですから、それこそ別の世界からやってきたぽっと出の様な存在が、なんの根拠も無いまたは根拠と言って良いのか解らないほど意味不明な経歴をひっさげたとして、果たしてそれに「重み」はあるのでしょうか。少なくとも私は思いません。
更に言えば「恣意的に陥れられる異世界」において、そもそも「異世界は現世の日本よりも一部またはあらゆる面で劣っている」ということが大前提にあります。そもそもの物理法則が異なる世界同市の比較なので一概に言えませんが、少なくとも「現世の日本よりも文明・技術的に進んでいる」という風に定義された異世界ものは今まで見たことがありません。人間よりも他の種族が劣っていたり、生態系の頂点に人間が問答無用で位置するなど、生物学的な面でも恣意的な優遇がそこかしこに隠しきれて居ないのも問題です。
そして「数値化される能力」に関しては、もはや言わずもがなでしょう。これらは「自分が“ステータス”“スキル”的に優位に立っている状態」であるコトを大前提に作られていることはもはや明確と言って良いです。でなければ、「圧倒的な“ステータス”の数値でマウントを取る」「役立たずのゴミ“スキル”が世界最強だった」なんて馬鹿馬鹿しい設定を大真面目に考えられるわけがありません。私もFortniteというゲームで度々1位を獲得していますが、このゲームに肝心の「建築」という要素を全く生かしていません。もしも私がFortoniteの世界に異世界転移(転生)したとしても、とてもではありませんが勝ち誇れませんね。だって、ここでイキってしまったら、私は小山のガキ大将に成り下がってしまいますから。強奪したクラウンを意気揚々と掲げて「僕は最強だ!!」なんて、恥ずかしくて言えませんね(詳しくはFortoniteというゲームについて各自調べてください)。
・・・・・・とまあ容赦なく「なろう系」をこき下ろしてきましたが、実のところこう呼ばれる中でも名作と呼ばれるものが生まれているのは事実ですし、そういった作品に対して誹謗中傷するつもりは毛頭御座いません。何ならつい先日までバリバリなろう系の作品でもお気に入りにして居たものもありくらいです(しかしながら、主人公以外の仲間が女ばかりになっていき、明らかにハーレム色が強くなってきたので止めてしまいましたが・・・)。
総括すると、こんなにも自分本位で中身の無い物語を、よくもまぁ長々と書き続けられるなぁと思いました。私なんてプロットの段階ですら苦行なのに、こんなものをよく毎日更新できるものだと思います。それだけ妄想がはかどるのか、単に私が読んでいないだけで実は唸るような名作なのか・・・いずれにしても、嫌味無しでも凄いと言わざるを得ません。
と言うわけで、ここらで終わりたいと思います。
でわでわ~(^^)/