「いらっしゃいませ、喫茶東雲へーー雨宿りはいかがです」
店主の男は、和服姿の青年にそう声をかけた。
雨が、2人の男を隔てる。
青年は、振り返ると濡れた目を細め、店主に近づいた。
店主の背中でドアベルが、しゃらん。と、小さく鳴る。いつもならばよく響くその音も、雨音にかき消された。
「この濡れようですから。ご迷惑でしょう。どうぞーー私のことはお構いなく」
青年は、天を仰いだ。雨粒が彼の端正な顔を瞬く間に覆い、滴り落ちる。
店主の視線は自然、青年の顔に引き寄せられた。
表情の乏しい口元に、老人のような諦念を纏う瞳。整った眉。
「大荒れですね」
悲しいでも、嬉しいでもない。淡々と青年は、そう呟いた。まるで事実確認をするように。ーー店主と自身が、同じ景色を見ているという事実を。
「ええ、ですから。遠慮せず入ってください。その様子では風邪をひいてしまいますよ」
風邪を舐めちゃいけません。そう言おうとして、店主は口籠もる。
青年がまるで、風邪をひきたがっているように思えたのだ。
青年は、腰の刀を鞘ごと引き抜くと水を払った。
大雨の中払ったところで、勿論、なんの甲斐もなく、ただ、上質な着物の模様が濡れてゆく。
アスファルトに向かって、誰にも聞こえぬほど小さくため息を漏らした青年は、そのまま固まった。
「この石畳は、随分と……」
そこで言葉を止め、店主の方を向いた。
ーー風が一瞬にして、凪いだ。
青年は雨に冷やされた空気をヒュっと吸う。
同時に彼の鋭い眼光が、喫茶東雲の外観を捉えた。
洋風な外観にそぐわない居酒屋気取りの提灯と暖簾。格子ガラスに"Shinonome"と綴られた文字は、雨滴に濡れている。
「ーー私が少し道に迷っている合間に、この国は西欧化に成功したのか」
何がおかしいのか、青年はケラケラと笑う。
「我ながら、なかなか精巧で可笑しな夢だわ」
そして、そう小さく呟くと、店の軒下に入った。
提灯が、再び吹き始めた風に煽られる。頭上でカタカタ響く音が、青年の意識を店へと導く。
「やはり、雨が止むまでの間。甘えさせてくれ」
「え、あぁ……はい」
店主の男は、間の抜けた返事をしながら扉を引く。
まだ開店前の店内に、青年の入店を知らせる柔らかい音色が響いた。
『一名様、ご来店』
店主の男の声が鈴に続き、コーヒーのほろ苦い香りが青年を優しく包む。青年は一つ小さなくしゃみをこぼし、ポタポタと雫を足跡の代わりに床に落とす。
「ささ、そのままこちらへ」
躊躇う背中をぐいっと押し、店主は彼を店の中へと押し込んだ。
ぎしっと、床の軋む音を立てて店の奥から店主の妻がやってきた。丁寧にゆわれたお団子を頭に、大きなバスタオルを二枚手にして、青年に声をかける。
「いらっしゃい、お兄さん。まるで本物のお侍さんみたいね」
青年は眉を顰め、じろりと女をみおろした。
「こちら良かったら使ってください」
普段通りの妻に見えたが、バスタオルを差し出すその手はひどく震えていた。まぁ、なにせ、目の前に刀を携えた、ずぶ濡れの男がいるのだ。無理もない。
妻は残ったもう一枚のバスタオルを、何か言いたげに店主へ投げつけた。
ふぁさり、コーヒーの香りを纏ったタオルが店主の顔へ届く。
妻とは反対に、タオルを受け取った店主の心は、好奇が優っていて、じっと青年の顔を見つめていた。
そして、店の奥へと消えていく。
カウンター席に座った青年は、しばらく店内を見まわしていた。
木目調の落ち着いた内装。レコードからは軽快なジャズが流れている。書棚や机に転がる文庫本に視線を動かすたび、彼の下の回転椅子が、ぎぎぎ……と音を立てた。
奥で着替えを済ました店主は、暖簾の隙間からちらりと青年を観察する。
至極平静そうに見える彼だが、その目は、何やら外の嵐に似合わないほどの輝きを孕んでいた。見知らぬ場所に誘い込まれたのにも関わらず、動じる素振りのないあたり、彼もまた、好奇が勝っているように見えた。
青年は一通り店内を見終わると、カウンター席の正面に飾られた一枚の絵を見つめた。
金色の額縁、少し年季の入った水彩画。
それは、店主の妻が描いた、一頭の象が小さな子供と歩く絵だった。
「随分と大きい生き物」
確か、昔、江戸にこのようなものが来たと……。青年は、はて。と、首を傾げる。
しばらくして、ようやく思い出したように呟いた。
「あぁーーそうか、象(ぞう)か」
「お客さん、駄洒落がお上手で」
店内に戻った店主は、乾いたシャツを腕まくりして、お湯を沸かす。
青年は、店主の言葉で初めて気がついたのか少し気まずそうに赤面する。
「象の絵は、初めてですか?」
そう問う店主は、青年の髪を何気なくそっと見る。
「えぇ。話にしか聞いたことがございませんもので」
「なにせ、江戸へ象が来たのは百余年も前のことですから。しかし、この絵は美しい。まるで今にも動き出しそうな」
少し早口になった青年は、自分の調子に気がついたのか、ふっと黙り込む。
外の轟音と裏腹に、パウエルの旋律が優しく響く店内。店主が豆を引くたび、ガリッガリッとまた新しい旋律が生まれ、レコードと溶け合う。少しばかり饒舌になった青年の作る沈黙も、心地よく彩ってくれる。
モクモクと上がる白い蒸気が店主を眺める青年の視線を阻んだ。
「冷蔵庫にあるアレ、せっかくだからお出しして」
店主は火を止めて、店の奥にいる妻を呼びにゆく。
「アレって……お爺さんみたいに。だいたい、なんで開店前だっていうのに刀を持った侍気取りの風変な男の子を入れるのよ」
店の奥、では妻がモーニングに出す用のポテトサラダを作っていた。
「いくらずぶ濡れだからって、警察に通報した方がいいレベルよ」
妻は男の腕をぐいっと引っ張って小声で言う。
「彼は立派な侍だよ」
店主は、妻の手に指を絡める。店の奥は小さな厨房になっていて、客席からはあまりよく見えない。
「そんな、朝から冗談ばかり言って」
冗談じゃあない、と店主は言う。
「頭、見せてもらいな、今の時代、月代剃って髷を地毛で作るやつなんざ役者にだっていやしない」
窓の向こうは未だ降り止む気配がない。
「それに…」
店主が続けようとすると遠くで、稲妻が走った。
薄暗く落ち着いた雰囲気の店内を閃光が全て明るみにするように照らし出す。
どぉん。という轟音の後、店主は静かに笑って言った。
「ーーそれに。僕らは、あの男を”見たこと"がある」