中間選考がいつの間にか発表されていたので見てきました。落ちてました。ふざけんなこのやろう。私が一番初めに感じたのは悔しさとか悲しさとかより怒りでしたね。おいおいと。公平に見て、果たしてこの選ばれた作品の中に私の作品より優れたものがいったいいくつあるのか、と。自分の作品が高校生らしいとは思っちゃいませんが、それだけで落選された、というのはなんだか納得できない気がします。無論理由はそれだけではないのでしょうが、だったらその理由ぐらいは教えてもらいたい。少なくとも自分の作品がこの選ばれた作品群に劣るとは思っておりません。もっともほとんど読んではおらんのですが、何にせよ選ばれなかったことに納得がいかないのは確かです。第一、選考委員の面々は文学というものが正しく分かっておられるのか。私は自分の文学というものを曲がりなりにも自分の作品において表現してきたつもりでありますが、その文学が受け入れられぬ、あるいは賞の方針とは合わないからと落選されては、不愉快に思っても致し方ないでしょう。そもそも本当に読んで選んでいるのかも疑問です。大体応募作品は二千作あるようですが、その総文字数が大体どのぐらいかと考えると、少なくとも千万文字ぐらいはあるんじゃないかなと思います。選考委員の方々は皆御多忙極まれておられるでしょうから、時間の有り余っている無職ならばまだしも、この膨大な一千万文字を本当に全て把握しておられるのか。それは、していない、というのが本当のところでしょう。ではカクヨム甲子園はいったい何が目的なのか! 高校生の中から優れた作家を見つける事ではないのか。あるいは優れた作品でもいいですが、ろくに応募作品を把握できもせず、またそれの選考基準が高校生らしさだというのは、なんともおかしな話です。大体高校生らしさというのを測るのがおそらく高校生だった時分などとうの昔に過ぎ去っているような方々だというのがまずおかしいでしょう。価値観が移り変わるその時代の流れが恐ろしく早い、また決めつけのよろしくないと言われるこの時代に、率直に申してご老人がたに現代高校生の果たして何が分かるだろうか! いいや分かりなどしません。少なくとも同性愛がどうの身体を売るのがどうの、そんなものが高校生らしさではないことは私からすれば一目瞭然です。まったくひどい。私はあんまりにもひどくって許せません。来年もカクヨム甲子園には応募しようかと思っておりましたが、なんだか嫌になってきた。だってそれを受賞するには、老人がたの思い描く高校生という像に己を当て嵌めねばならないんだもの。そんなもの文学とは呼びたくない。自分を曲げてまで小説を書く意味はあるだろうか。いや、そもそも応募した作品の一つはすでに自分を曲げて書いているのですが。
それから、ここに書いてあることは全て短慮の末です。翌日になれば自分で読んでもおかしな事を申していると思うでしょうが、まったく怒りがおさまらん。あなたがたが日本文学というのをダメにしたんだと面を合わせて怒鳴ってやりたい気分です。たとえそれが俯瞰的な視点から明らかに間違っていると分かっているとしても、今は自分が正しいと信じている。少なくともこのカクヨム甲子園という大会は文学をだめにするだけだ、と。