ある論文を読んだ。
タイトルは「MatrAIx: Simulating the World with 8.3 Billion Persona Agents」。ざっくり言うと、83億人分の仮想ユーザーを作って、そいつらに製品を使わせて評価させよう、という研究だ。1,290個の属性——年齢、地域、価値観、リスク許容度、そんなものの組み合わせで人間の個体差を記述して、AIにその人格を演じさせる。
で、読みながら私が考えていたのは、当然こういうことだった。
これ、タイトルとキャッチコピーのクリック率をシミュレートできたら最高じゃないか?
小説投稿サイトで戦う人間にとって、タイトルは最初の関門だ。何千人もの仮想読者に「AとB、どっちを読みたい?」と聞けたら。そう思ったのだが、結論から言うと、たぶん無理だった。
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論文には都合の悪い数字がきちんと書いてある。同じ人格データを使っても、それを演じさせるAIモデルを変えるだけで、結果が引っくり返るのだ。ある課題では「有料プランを選ぶ人の割合」がモデルAで23%、モデルCで94%になっている。同じ人格、同じ設問で、だ。
つまりこのシステムが測っているのは「人間がどう反応するか」ではなく、「そのAIが人間をどう想像しているか」でしかない。著者たちも正直で、「人間についての主張をしたいなら、この結果は仮説の生成までにとどめろ」と明記している。
まあ、そうだよな、と思った。
そして、そこから考えが別方向に転がりはじめた。
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仮にそういうシミュレーターが完成したとして、私は何を測りたかったんだろう?
上位ランカーの人たちを見ていると、「正解」らしきものは確かにあるように見える。タイトルの型、あらすじの書き方、更新の頻度。肌感で理解していて、再現性をもってやっている感じがある。
ただ、それが生存バイアスでない保証はどこにもない。
勝った作品を後から集めて共通点を探せば、何かしらのパターンは必ず出てくる。問題は、それが「その型だから勝った」のか、「勝った後にその型を磨く機会と動機を得た」のか、外から眺めているだけでは区別がつかないことだ。原因と結果が逆かもしれないし、循環しているのかもしれない。
考えてみると、作品が伸びる要因を重要な順に並べたとき、上位に来るのはこんなものだと思う。
1. タイトルとあらすじが適切であること
2. 一定以上の話数があり、定期更新していること
3. おすすめ欄やランキングでトップページからアクセスできること(=運)
4. 一度でも跳ねたことがあること
そして5番目以降にようやく、設定のわかりやすさ、プロットの魅力、文章の質、といった「作品そのものの質」が出てくる。
上位4つはどれも中身と直接関係のない、構造的な要因だ。しかも互いに繋がっている。跳ねたからおすすめ欄に載り、載るから続ける動機が生まれ、続けるからタイトルを磨く機会も増える。
最初にわずかでも運で押し上げられた作品が、その後すべての項目で有利になる。
こういう現象には名前がついていて、社会学では「マタイ効果」と呼ぶそうだ。持てる者はさらに与えられ、持たざる者は持っているものまで取り上げられる——新約聖書の一節が由来で、論文の引用数から動画の再生数まで、初期のわずかな差が指数的に開いていく現象全般を指す。
厄介なのは、これが悪意でも不正でもなく、ごく単純なフィードバックが回るだけで勝手に発生することだ。誰も格差を作ろうとしていなくても、格差は生まれる。
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そんな構造の中で、私たちは何をしているのか。
ランキング下位にいる人たちは、上位作品をあまり読まない。これは私も含めての話だ。変なプライドがあるのだと思う。似たような層で固まって、その中で楽しくやっている。
批判しているわけではない。というより、これには全然別の理由もある。そもそもランキングを目指していない人が、本当に多いのだ。
自分のために書いている人。書くことそのものが目的の人。書くことで同好の士を見つけて、交流することに楽しみを見出した人。むしろアマチュアの世界では、そっちの方が多数派なんじゃないかとすら思う。
だって、ランクバトルはしんどいもん。
私自身もそうだ。釣りで例えるなら、狙っているのはあくまで小魚で、釣れること自体が楽しい。大物がかかることは想定していない。もちろん、かかったら嬉しい。でもそこは狙っていない。
面白いのは、釣りも創作も、本質的に同じであると言えることだ。
大物狙いのタックル(竿とかリール、仕掛けや餌、ルアーなどを含めた、その日の釣り道具一式を指す釣り用語)では、基本的には小魚は釣れない。当たればデカいが、ボウズ(何も釣れないこと)もよくある。
逆に小魚用のタックルでは、大物のいるところに届かない。たまたま掛かっても、糸が切れてしまったりする。
でも小魚狙いなら、だいたい何かしらは釣れる。だから私はライトゲーム(小魚釣り)が好きなのだが……これはまた、別のお話。
これは創作も同じだ。小魚釣りの活動——仲間を作り、感想をやりとりすること、創作を通じて話し、交流そのものを楽しむこと、そして自分のために作品を書き、書くことそのものを純粋に楽しむこと——をいくら行っても、本質的な意味では「大物」には近づかない。逆もまた然り。大物を狙うなら、傷の舐め合いはすべきでない。孤独に、読者だけを見て戦う必要がある。「釣り」も「創作」も、一見同じ言葉でくくられているだけで、実は内部で別々のゲームが行われているのだと思う。
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とはいえ、だ。
以前、読み合いを否定する上位ランカーの方と少し議論になったことがある。その人にとって読み合いは「星やPVを不正に稼ぐ行為」でしかなかった。
言いたいことはわかる。星稼ぎそのものは、褒められた行為じゃない。それは私もそう思う。
でも現実問題として、マタイ効果がキツすぎるせいで、せっかく書いたのに誰にも読まれず埋もれていく作品が多すぎる。読み合いには、最低限の防衛活動、生存戦略としての必要悪の側面もあるのだ。少なくとも私はそう感じている。
そしてもう一つ。その人が見ていなかった面がある。私はその読み合いを通じて、結構いい感じの仲間が何人もできた。
同じ行為が、片方の指標系では「不正」に、もう片方では「コミュニティ形成」に見える。
たぶんあれは、読み合いの是非という一つの論点で揉めていたようでいて、実際には「どっちの目的関数で評価しているか」という前提が食い違ったまま話していたんだと思う。物事にはいろんな面があるなあ、というのが率直な感想だ。
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カクヨムを始める前、私が昔noteに載せた作品は、まったく読まれなかった。
今は創作垢である程度宣伝しているので、毎日何十かのPVがある。何千でも何万でもない。大物狙いの世界から見れば誤差みたいな数字だ。
でも、ゼロと数十の間には巨大な壁がある。
あの数十PVは「伸びている実感」じゃない。「無ではない」という確認だ。それだけでどれだけ精神が安定することか。
今書いている小説には、毎話コメントをくれる人がいる。正直、めちゃくちゃ嬉しい。誰かが読んで反応を返してくれたという事実そのものが、どれだけ私を救い、励まし、背中を押してくれることか。あなたはきっと気づいていないでしょう。でも、本当にありがとうございます。
顔の見えない何千人の読者より、話をして関係を築ける友人や仲間の方が、私にはずっと大切だ。
——もちろん、今のところは、だけど。
毎日何千・何万PVの世界に入れば、感覚は変わるのかもしれない。一度、何かの間違いでそういう世界を味わってみたいもんだぜ!
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83億人の仮想人格から始まって、ずいぶん遠いところまで来てしまった。
結局あのシミュレーターが測れるのは、PVとかクリック率とか、一本の数直線の上に乗る値だけだ。私が今大事にしているもの——一人ひとり質の違う関係の束は、原理的に測定の外側にある。
小魚を釣ろう。今日も竿を出す水場が涸れていないことに、そこそこ本気で感謝しながら。