返り血に濡れたトンカチ。
それを片手に、知らない街の夜を散歩する。
東京から新幹線で北に向かい、ほんの少し冷やりとする空気の中で降り立ったのは、名前だけ知っている程度の観光地だった。さびれた私鉄を乗り継いだ後で、もう貯金をがんばる必要もなかったと、最後は贅沢にタクシーを使って峠を越えて、本当に何ひとつ知らない街までやって来た。こんな事でもなければ、たぶん一生訪れることはなかっただろう土地である。
昼に着いて、ターゲットを探して、見つけて。
今は、夜。
干からびた気持ち。
燃えカスみたいになってしまった俺は、行き場もなく歩き続けている。交番や警察署はどこにあるのだろうか。知らない街だから、見当もつかない。だが、見つからないならば見つからないで、それでも良かった。どうでも良かった。ただ、歩き続ける。
ポケットのスマホが幾度か震えていた。
彼女からの不在着信と、いくつかのメッセージ。
『誕生日おめでとう!』
『ねえ、電話でてよー』
『今日は、結婚の話はしませんので』
『(ふざけたスタンプ)』
『おめでとうぐらい、電話で言わせろよう』
なにか、返事を。
そう思ったけれど、指先が壊れたおもちゃみたいにガタガタと変な動きをする。結局、スマホは手からこぼれ落ちてしまった。
割れていた画面が、さらに砕けて、もう何も見えないぐらいになってしまう。俺は少しだけ迷った後、壊れたスマホを拾い上げることなく、また歩き始めた。
ああ、そうか……しばらく歩いた後で、彼女からのメッセージの内容を思い出して、今さら、いつの間にか日付が変わっていたことに気がついた。
よりによって、誕生日。
毎年、この日は最悪だ。
10歳で家族を火の中に永遠に失ったあの日もまた、俺の誕生日だった。ケーキを食べて、ジュースを飲んで、普段よりも寝るのが遅くなったから、夜中に目が覚めたのかも知れない。
10歳の誕生日で、俺の人生はとっくに終わっていた。
今日もまた誕生日というのは皮肉が過ぎる。
これは、あの日の終わりの続きだ。
どうせならば、完膚なきまでの終わり方を――。
クラクション。
歩行者信号は、赤。
ライトに振り返る。
横断歩道を進んでいた俺は、頭の中でぐるぐる回り続ける思考や記憶の相手をするのに忙しく、目の前のことを何も見ていなかった。
大型トラックの引き裂くような急ブレーキの音。……まあ、間に合わないだろう。この距離、この速度、冷静に物事を考えられるはずもない刹那の時間だったけれど、振り向くと同時に、俺はちゃんと理解して諦めていた。
ドンッ、と。
死ぬほどの痛み。
なぜか知らないけれど、心地よかった。ようやく、あるべき所に収まったような謎の安心感に包まれて、俺は車道で倒れながら、生きるための意思なんて丸ごと放り捨ててしまい、だらんと投げ出した手足、胡乱な目で、夜を見上げていた。
頭が痛い。
ぬるり、と。血が。
終わりだ。
ようやく、終われる。
最後まで見ていたのは、星のない夜空で、吸い込まれるような漆黒が、まるで轟々と燃え上がる黒煙のようで、俺は走馬灯の代わりに、10歳の自分を思い出していた。
10歳の少年だった自分もまた、空を見上げていた。
燃え上がる家と、家の中から逃げ出して来ることのない父と母と妹と、天まで届かんばかりの黒煙――。深夜にも関わらず近所の人々はチラホラと外に出て来ており、消防団の消火活動を不安そうな表情で見守っていた。涙もいつの間にか枯れ果てて、リモコンの消音ボタンを押したみたいに、俺の周囲からは音が消えていく。
右手で何かを握りしめていた。
それは、誕生日プレゼントのゲームソフトだった。
ゲームは一日に30分という古めかしい慣習に縛られていた我が家は、新しいゲームを買うのにも相当厳しかった。小遣いをしっかり貯めたとしても、両親にゲームを買いたいことを報告し、それがどれだけ面白いものか、子どもに害のないものか、それと勉強を疎かにしないことも含めて、懇切丁寧にプレゼンをしなければ購入許可が下りなかった。
誕生日とクリスマスだけ、無条件に好きなゲームを貰うことができた。
だから、10歳の誕生日に、俺はとにかく有頂天で、ベッドに入る時もプレゼントされたばかりのゲームソフトを枕元に置き、トイレのために階下に降りる時も、宝物を片時も手放さないという気持ちで小脇に抱えていた。火事に気づいた後は、放り出すことも忘れていたらしい。パッケージが割れるぐらいに握り締めていた。
10歳の俺は、すべてを失い――。
ただひとつ、プレゼントのゲームだけが、小さな手に残された。
終わり。
これで、おしまい。
以前の【俺】の話なんて、やっぱり誰も興味ないだろう?
さて。
お待ちかねだ。
異世界転生の話を始めよう。
最低の、最悪の、こんな俺に対する罰みたいな物語の幕開け。
――ここは、どこだ?
――俺は、誰だ?
改めて問い直すまでもなく、そんなことは、わかっているんだよ。
アスファルトの車道で死にかけていた俺が、もしも次に目覚めることがあるならば、救急車の中か、病院のベッドの上か、あるいは、地獄だったはずだ。誰にも予想できない展開を迎え入れた結果、俺が目覚めたのは、異世界の森の中だった。そしてさらに、これまで付き合ってきた大人の身体を失い、よくわからない子どもの身体になっていた。
普通ならば、混乱する。
パニックを起こし、騒ぎ出す。
ああ、知ったことか。
俺はちゃんとわかっている。
だって、この俺が――。
たったひとつだけ、幼い手に残された、あの時のゲームで描かれた大事なシーンを目の前でやられているのに、わからないなんてマヌケ面を晒すのは、絶対にあり得ないのだから。
呪いを解くみたいに。
何回も、何十回も、何百回も。
10歳から社会人になるまで、義務のようにエンディングを見てきた。
ルールシェイド・デスディオン。
それが、俺の名前である。あるいは、今、この瞬間からの名前である。デスディオン公爵家の嫡男であり、下位ながら王位継承権だって保有している。男にしては首元までチャラチャラ中途半端に伸ばしたブラッドレッドの髪。ああ、気に食わない。それから、ドブ底のような濁った瞳。トレードマークは、傲慢なニヤニヤ笑いだろうか。10歳の男子で、色気のイの字も知らないような半端者なのに、一丁前に香水の匂いをプンプンさせているのも気分が滅入る。
これが、俺。
こんなものが、俺。
名作として語り継がれるゲーム『リアライズ・リロール』に登場するキャラクターであり、主人公の序盤の敵として真っ向から対立する悪役貴族のルールシェイド。格好いいライバルかと問われれば、全力でノーと答えよう。
キャラクターの属性で云えば、小者。
とにかく、シナリオのあちこちで情けない姿を見せる。
超ド級の素晴らしい血統と、あれもこれも天才と讃えられる才能。それらを持ち合わせながら、これ以上はないぐらい慢心して努力の一切を放棄したルールシェイドは、出番の最後、地道な成長(レベルアップ)を続けた主人公にコテンパンに蹴散らされる。
メタとして語るならば、中盤以降の本格的なボスたちの前に用意された中ボスみたいなもので、シナリオでさんざん煽ってきたフラストレーションを、バトルの決着でカタルシスに昇華させるためのポジションだろう。
なぜ、俺が、よりによってルールシェイドなのか?
自問する必要はないかも知れない。
これが、俺の罰である。
ゲームの『リアライズ・リロール』で云えば、今、森の中で襲撃を受けているこの事件は、物語が幕を開ける前の出来事である。10歳のルールシェイドが遭遇することになった、8歳の妹の誘拐事件――。俺は、わかっている。悪役であり、小者であり、敗北者であるルールシェイドの始まりとなるのが、このシーンなのだから。
「お兄ちゃん!」
助けを求める妹の呼び声に対して――。
ゲームのキャラクターであるルールシェイドが取った行動は、逃亡。
妹は連れ去られて、行方知れずとなってしまう。
その代わり、ルールシェイドは大した怪我もなく無事に生き残る。
やり尽くしたゲームそっくりの異世界に転生した場合、さて、どのように行動するのが正解だろうか。シナリオはできるだけ元のまま忠実に再現しておいた方が、これから先に待ち受ける出来事の予測も容易だろう。下手に違った展開になるように干渉してしまえば、この後に待ち受ける事件や事故が予測不可能なものになってしまう。
少なくとも、このシーンについては――。
逃亡すれば、命は助かる。
俺は生き残れる。
それが、正解のルートである。
ああ、知ったことかよ。
「ユーリ! 俺が、今すぐ……絶対っ!」
妹が。
すぐ目の前で、助けを。
大きく踏み込んだ一歩は、黒煙の向こう側に突き抜けるぐらいの。