子供の悲鳴で、目が覚める。
俺は、見知らぬ森の中で倒れていることに気づいた。湿った土が口の中まで入り込んでいる。舌に感じた苦い味と、ジャリジャリする不快感。とにかく唾を吐き出そうとするが、高熱を出して寝込んだ後みたいに口の中がカラカラに乾いていた。
ここは、どこだろうか?
そんな風に疑問がよぎったものの、次の瞬間には、全身の痛みに意識の大半を持っていかれてしまう。目覚めるのではなかったと後悔するぐらいに……。特に、頭痛が一番酷かった。
反射的に額を手で押さえ込むと、ぬるりとした感触にギョッとする。手を降ろしてみると、ベッタリと血で汚れていた。ああ、傑作だ。頭が割れるような痛みだと思ったけれど、本当に割れているのは笑えない。
手足は冷たくなっている。
ゆっくり吐き出した息は、とても熱い。
衣服はボロボロに擦り切れて、身体のあちこちに、打ち身が出来ている。骨も、どこかしら折れていて不思議ではないだろう。交通事故に遭ったか、崖から飛び降りたか、それぐらいの大怪我を負っているらしい。
だが、大丈夫――。
死ぬほどではない。
死ぬほどの痛みならば、既に経験済みで知っている。
俺は今、この身に起こっている不幸について、まるで他人事のようにも感じていた。現実感なんて、痛み以外には欠片もありはしない。これはなんだ。俺は何に巻き込まれている? 悪い夢か、くだらないジョークか。現実に向き合うのが遅れてしまったことも、さすがに仕方ないだろう。
俺は、見知らぬ子どもになっていた。
血で汚れた手が、嘘みたいに小さい。幼い身体は、思うままにちゃんと動くけれど、一日前か、あるいは一時間前か、それまで成人男性の身体を持っていた俺からは気色悪いものだった。俺の、本当の身体はどこに行ったのか……ああ、いや。それはたぶん……。やめよう。深く考えるのはやめるべきだ。
ようやく顔を上げる。
すると、すぐ目の前では馬車がひっくり返っていた。……いや、馬車? 現代の東京で? まったく予想外の光景が飛び込んできたことに、年甲斐もなく驚いてしまい、モザイクのかかっていたような意識が一気にクリアなものとなる。
「お兄ちゃん!」
最後の一押しは、少女の悲鳴交じりの助けを呼ぶ声。
まるで、頬を打たれたようだった。
我を取り戻して、俺は必死に立ち上がる。
ここは、シーラン森林の中を抜ける小街道の途中であり、貴族の幼い兄妹が乗った馬車を狙って卑劣な罠を仕掛けるには、まさに絶好のポイントだった。
夕方でも真っ暗になるぐらいの鬱蒼とした木々に、ヒト気のないドン詰まりの獣道。初歩的な罠だったが、道案内の看板が途中で向きを変えられていたらしく、馬車の御者が行く先に迷ってスピードを落とした所を襲われた。
魔法による爆発だったのだろうか、馬車はまず、派手に吹き飛んで横転させられてしまった。投げ出された御者が、ちょうど俺の近くに倒れていた。だが、ピクリとも動いていない。よく見れば、その首元にはナイフが突き刺さっている。
平和な日本に暮らす男性がいきなり放り込まれる状況としてはサプライズが過ぎるだろうが、俺は反射的に、「ユーリ!」と妹の名前を叫んでいた。不思議と、何もかも理解できてしまう。このクソったれな最悪の状況について、何がどうなっているのか、大瀑布みたいにドドドと頭の中に流れ込んで来ていた。
俺は、公爵家の嫡男である。
意味がわからないって?
俺だって、全然わからないさ。
護衛の騎士が一人だけ、ギリギリ踏みとどまって戦闘を続けていた。先程の御者だけでなく、地面にはもう一人、別の護衛騎士も転がっていた。血だまりが広がっていることから、おそらく生きてはいないだろう。
敵は、果たして何人いる?
その答えは、パッと数えられないぐらい。
野盗と思しき粗野な身なりの男たちが、逃げ場なく周囲を取り囲んでいる。それだけで七人か、八人か。絶望的だった。さらには、護衛騎士と斬り結んでいる者が一人と、さらにもう一人、公爵家の令嬢を連れ去らんと拘束している者まで――。
公爵家の令嬢を。
俺の、妹を。
「ルールシェイド殿下、あなた様だけでも、どうかお逃げくだ……がっ、ぐあ!」
最後まで勇敢に戦い続けた若い騎士が、無残にも力尽きる。鎧の隙間から胴体を串刺しにされた後、ダメ押しのように首を刎ね飛ばされていた。目を背けたくなる光景だったが、俺は逃げなかった。絶叫しながら、まっすぐ目の前に駆け出していた。
あー、痛い。
痛い……痛いっ!
痛いんだよ、畜生がっ!
骨は、やっぱり折れている。
前に進んだだけで、死にそうだ。
最悪だった。
こんなに最悪なのは、いつ以来だろうか。
思い出す必要はない。
思い出したくもない。
俺の叫び声は悲鳴と大差ないもので、たぶん、ただ一方的に嬲り殺すだけの側に立ち、余裕たっぷりにこの状況の行く末を見守っている敵たちからすれば、さぞかし滑稽なものとして映っただろう。
ああ、知ったことかよ。
クソ野郎ども。
俺は、がむしゃらに手を伸ばした。
崩れ落ちていく騎士の死体から、剣を取る。
さて。
これは、異世界転生の話である。
転生後の物語がスタートしているのに、現代の日本で生きていたオッサンのことを、わざわざ振り返って説明するのは、たぶん野暮ってものなんだろう。誰も、そんな話には興味がない。俺だって、積極的に語りたいと思っているわけではないんだ。
トラックに轢かれて死んだのかと訊かれたら、まあ、そうなのさ。異世界転生ならば、それだけの情報があれば十分だろうって? まあ確かに。現実の話なんて、夢と希望がサンドバッグみたいに詰まった異世界ファンタジーのノイズにしかならない。
だから、この一度だけにしよう。
プロローグの一割か、二割ぐらいの小話。
それで、終わりにしよう。
かつての【俺】について語るのは、この一度だけ。
だから、ほんの少しだけ説明することを許してほしい。
あるいは、懺悔するのを許してほしい。
……。
……。
とても、平凡な家庭だった。
日常もののアニメでテンプレートとして描かれそうな、両親と10歳の俺、8歳の妹による四人家族。金持ちではなく、両親のどちらかがエリートというわけでもなく、俺や妹が、勉強やスポーツで漫画みたいな活躍をする様子もまったく期待できない。誰かの誕生日は家族全員で祝うのが当然だろうと、それぐらい普通に仲が良いだけの家族だった。
ある夜。
ジュースを飲み過ぎていたので、夜中に目が覚めてしまった10歳の俺は、寝室のある二階から、トイレのある一階に降りて行った。トイレを済ませて、洗面所で手を洗っている時に、なにか変だなと気づいた。廊下から振り返ると、リビングのドアに付いているガラス窓が真っ白である。
なんだろうと思いながら、ドアを開けようとすると、取っ手が熱い。
ドアが開いた次の瞬間には、津波のように分厚い煙が押し寄せた。
もみくちゃにされている気分で、廊下を逃げて、玄関から外に飛び出した。裏庭の方で何かが起きている。キッチンの隅っこにある勝手口のあたりで、たぶん何かが――。ガレージの脇を通って、自転車を押し退け、家の裏手に行き着いてみれば、林間学校で見たキャンプファイヤーみたいな炎が夜空に伸びていた。
必死に、走って戻る。
玄関までゼーゼー云いながら戻り、お父さんとお母さんと、優璃ちゃんを起こして、みんなで逃げないといけないって――もう一度、家の中に戻ろうとした。でも、玄関の入り口からは、二階に上がるための階段はもう見えなかった。壁のような真っ黒な煙が、玄関のドアの代わりみたいに立ち塞がっていた。
俺は……。
それ以上、進めなかった。
たぶん、黒い煙の中に子どもが突っ込んだら、死ぬ。
進まなかった判断は、客観的には正しい。
それでも。
それでも、だった。
俺は玄関の前で、しばらく立ち止まったままで何も考えられず、一生分の時間を使い果たしたような感覚に襲われた後、我に返った。その途端、全身の血が噴き出したかと錯覚するぐらい、涙がザーザーと流れ出して、「ギャー」とか「ワー」とか怪獣みたいに叫びながら、隣の家や向かいのアパートのインターホンを何度も何度も叩きながら走り回った。
10歳で、父親と母親と妹は別れを告げる暇もなく、いなくなった。
それからの日々が不幸に塗れたものだったかと云えば、別にそんなことはない。
祖父母は、父方も母方も、どちらも健在であり、さらには両実家が都内にあったのは大変ありがたかった。どちらの祖父母の家も、本当の自分の家のように思いながら、頻繁に行き来するような生活を大人になるまで続けた。頭が良いと褒められるぐらいの高校に進んで、部活を楽しみ、彼女ができたり、別れたり、もしかしたら漫画に描かれるような青春を送っていたかも知れない。
高校を卒業したら働こうと思っていたけれど、祖父母からは大学進学を勧められた。
大学の学費は、両親の保険金があるから大丈夫と説得された。
祖父母に負担をかけるぐらいならば、迷うことなく就職を選んでいただろう。両親の残したもので、モラトリアムが延長されるという事実に、俺はまったく抗うことができなかった。情けないぐらい、十代の俺はまだまだ子どもだった。
浪人することなく、留年することなく、一流の大学を卒業し、羨まれるような企業に就職した。
社会人になってから間もなく、まるで肩の荷が降りたと云わんばかり、祖父母が病気などで相次いで亡くなってしまった。今度こそ、俺はひとりぼっちに……。とはいえ、落ち込んでいる暇もないぐらい、社会人としての日々は忙しかった。それと、大学時代から付き合っている彼女とは、そろそろ結婚という雰囲気も出始めていた。まあ、俺がビビッて結論を先延ばしにするものだから、小競り合いみたいな喧嘩も増えていたけれど。
不幸な人生だったかと問われれば――。
たぶん、そんなことはない。
どちらかと云えば、幸せに満ちている。
10歳の時に起こった不幸に目をつむれば、むしろ、完璧なぐらいに。
だから、やっぱりそうなのだ。
誰のせいでもない。
何かのせいでもない。
俺は、自ら、道を踏み外した。
いや、それすらも、違うのだ。踏み外すなんて、そんな云い方は烏滸がましい。そもそも、まったく前に進んでいなかった。俺はずっと、10歳のあの瞬間から、玄関の入り口に立ち尽くしたガキのままである。
大人になったフリをしていた俺は、ある日、見つけた。
SNSで。
俺よりも、ちょっと年上ぐらいだった。
タトゥーを入れたという自撮り写真。社会がどれだけ自分ばかりを悪者にするかというポエム。思想と、自己顕示欲が強そうであることは、いくつかの投稿を見ただけで胸焼けするぐらいに味わうことができた。
少年院にずっと入っていたことを、なぜか自慢として語る。
親が政治家か何かで、大物であることの匂わせ。
半生を再現VTRにしたいテレビ局は応相談らしい。
ハッシュタグに、放火、殺人、一家皆殺し。
俺は一度、スマホを思いっきり床に叩きつけた後で、ガタガタと震える手で拾い直し、割れた画面を永遠にスクロールし始めた。食事を忘れて、代わりに何度かトイレで吐き、投稿内容から居場所のヒントになりそうな情報があればメモにまとめた。
そうして当たりを付けた後で、地道にネットの地図で自撮り写真の風景を照合してやれば、わずかに半日足らず――10歳で燃え尽きたはずの、俺の中の何かが。
黒い煙の中に踏み出そうと思った。
自炊をしないため、家に包丁がなかった。
買いに出かけるという考えにも至らず、工具箱からトンカチを手にした。