書くことは苦痛である。村上春樹の処女作の冒頭で、若き日の彼はそう書き出していた。
文章を書くことができない悔しさと、逆に書くことは癒やしとなる創造行為だという。本当に僕もそう思う。文章を書くこと、そして読み応えのある面白い物語いや、物語になっていないエッセイや記録文のようなものでもまっとうな文章にしたい。そんな思いは何時もあった。そして、書き出してはそれが続かず、形にならないことにやきもきしていた。
村上春樹の文章は、独特の中毒性がある。突然、何もすることがなくなった午後に、僕は書店に向かい彼のシリーズを眺めた。彼の文章には没入感がある。実際に彼も、インタビューの中で、小説に絶対的に必要なものはリアリティーだと言っていた。物語がリアルに起こっている、それを作家は文章というものに書き下ろす、というようなことを書いていた。彼は朝目覚めたときに、夢で見た世界を文章にしているともどこかで言っていた。
僕が書きたいこと。それは僕の秘密なのだろう。世間に言わずに生きていること。それらを文章という形にして吐き出したいのだろうか。おお様の耳はロバに耳然り、人は心のうちに秘めることをなにかの形で示し、溜め込んでいるエネルギーを流したいのではなかろうか。
僕の秘密。たくさん嫉妬をすること。女性に性的関心があること。それらは秘密になるだろうか。それは秘密というより社会的なマナーとして、大ぴらに表現せずに生きているだけであると思う。誰かに勝ちたい、異性を獲得したい。(人によっては同性でも構わないが)そのようなことは誰にだってあるだろう。それを、原始的に表現する人もいれば、より洗練させてオシャレをしたり、芸術的に表現したり、仕事での活躍に昇華させたりしているのだと思う。
秘密に戻ろう。ジョハリの窓という概念では、他人も自分も知っていることを開放。他人からのみ見えているのが盲点。他人も自分もしらないのが未知。そして、自分のみが知っているの秘密という、当たり前だが、向き合えば幸福度が広がる仕組みを説いている。
僕は秘密が嫌いだ。開放したい。開放は解放だからだろう。そして同時に洗練していたい。野暮、野蛮ではいたくない。これも当たり前か。
以前はよく、スピリチュアルという言葉を用いて、色々な事を語るのが好きだった。自分と目に見えない世界との関係に夢中になり、そこからの気づきに感動し、そしてそれを誰かに伝えたかった。今、静かにそんな自分が恥ずかしい。それはけしてそのような事をしてきた自分を否定しているわけではない。逆に起こるべきして成るべくしてなった状態だったと思う。でも今は、そのようなこと。つまり命の事なりや、魂のあり方は語るものではなく、ただ在り方で示されればよいと感じている。示されるという表現もなにか能動的でしっくりこない。示さなくてさえよい。ただ、僕は僕として生きれば良い。
何を書きたいか、また分からない文章になってしまったかもしれない。いや僕の持っている秘密だ。それは、心がよく揺れることだろうか。そして揺れながらもある安心にいることだろう。神の信仰と言えば簡単だし、また奇妙にも聞こえるだろう。僕は、特定の人にも教えにも、絶対的な信望をもっていない。いや、丁寧にいえば、色々と好きな啓蒙家やグルやスピリチュアルな書籍などはある。ただ、どこにもそこに自己の全てを明け渡してはいない。何か硬い言い方になってきたな。結局言いたいことは、中々表現できない。ただ、秘密という表現ももう何かしっくりこない。僕はそれを表現したくて、そして何時も何らかのかたちでそれを表現しながら生きているとも言えるからだ。
まとまらない文章を閉めよう。僕は僕が好きだ。そして世界が好きだ。さまざまな形で僕に現れる現象や物理的なこと、人との関係、そして社会という形。怒ることもある、長く失望したこともある。エネルギーが枯渇し、もう生を続けたくないと願った事さえもあった。でも、今つたえたい。僕は、肯定する。何を?全てをだ。
ここまで読んでくれてありがとう。
徒然ない文章は、独白になった。
それでは、また。