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⑩【瑞雲・三章】早瀬盆地周辺地理情報

※最下部に地図画像がございます。

・早瀬盆地
 彌尖国北東部に位置する盆地。早瀬七郷と呼ばれる小勢力がひしめいていたが、彌下平野同様に佐高家の侵攻を受け、その支配下に置かれている。
 近年は重い負担に堪えかねた逃散や領外からの無頼の侵入に因って治安の悪化が著しい。

・早瀬川
 沓前国との国境、返坂関近くに端を発し、早瀬盆地、彌下平野を南流する国内唯一の大河。
 早瀬盆地では北部の西へ向かって流れる部分は急流と言えるが、西から流れる支流、秋川が合流し、南へ向きを変えてからは大河の様相を呈し始める。但し、合流部の平林郷周辺は水害が多発する。

・双凷山(そうかいさん)
 早瀬盆地の北部に聳える山々の中で最も標高の高い山。北側は半島状に海へ突き出しているが、山が海へ直接落ちる様な地形の為に住む者は殆ど居ないと言う。
 凷(かい)とは塊を意味し、頂上が二つある様に見える姿から二つの山が合わさった様な山と言う意味の名である。

・返坂関(かえりざかの関)
 北敷道の彌尖国、沓前国国境部に位置する返坂峠に築かれた関。現在は砦が築かれて代田盆地の国人領主、才田弘兼が詰めている。
 名前の由来は、古の旅人が切途浦に面して畿内のからも左程遠くない彌尖国から、本格的な北国沓国へと入る前に都を忍んで振り返った事に拠ると言う。

・刈込峠(かりこめ峠)
 彌下平野と早瀬盆地を繋ぐ唯一の街道。嘗ては東の山間に脇往還が存在したが現在では廃れている(少数による通行は不可能ではない)。
 
・早瀬庄
 早瀬盆地南部に位置し、古来より早瀬盆地の中心として拓かれてきた地域。古の時代には郡衙も位置したと伝わる。約二千石を有する早瀬盆地最大の庄。

 神郡長金窪家が長く治めていたが、佐高家の侵攻を期に佐高家の大身直臣の海東家の次男が佐高支配の旗印として治めるところとなった。

・馬下(ました)庄
 刈込峠から早瀬盆地へ下った扇状地に位置する。傾斜地が多く石高は千石を下回る。

 刈込峠を抑える立地から、海東の寄り子として畠中家が配されている。

・坂井庄、小広庄、水間庄、深緒庄
 七郷の村々。それぞれ千石をやや超える程度。どの村も重い負担に疲弊している。

 領主は佐高家侵攻以前からの領主が引き続き治めているが、佐高家からは海東家の陪臣の様な扱いを受けている。

・平林庄
 早瀬盆地最北部に位置する村。七庄の中でも早瀬に次ぐ規模の土地を持つが、水害が多く額面通りの生産力を発揮する場面は少ない。

 領主の平林家は佐高侵攻以前からの領主だが、佐高侵攻に際し、最後の最後で裏切った過去がある。

・飯富村
 双凷山の南麓と早瀬川に挟まれ、盆地平坦部より一段高くなった東西に細長い平地に位置する村。生産力は百石を大幅に下回る。
 村と盆地を隔てる東西に続く崖は一見河岸段丘の様にも見えるが、実際は断層運動に拠る断層崖である。

 佐高家の侵攻に際し、抵抗した彌下平野、早瀬盆地の勢力の残党が逃げ込んで興した村。
 長年佐高家に抵抗を続けていたが、近年その軍門に下った。その結果、領主として配されたのは佐高家が客将分として保護している横柴家の人間だったが現在は不在。

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