作中では、ある場面で本のタイトルとしてしか登場させませんでしたが、物語の重要なピースとして『左川ちか翻訳の室楽(しつがく)』と『左川ちか全詩集』という本を出しました。
左川ちか という詩人
昭和初期のモダニズム詩壇を鮮烈に駆け抜け、わずか24歳で胃がんにより病死した「幻の天才詩人」です。彼女の生き様は、「女であること」の孤独を見つめ、死や病のメタファーを孕んだ前衛的な詩作と、海外文学の優れた翻訳を通じた「文筆家としての自立」を目指す先進的な挑戦に満ちていました。
独自のモダニズム詩
従来の「女性らしい情緒」とは一線を画し、緑の炎、黒い服、昆虫、病や死の影をちりばめた硬質で不吉な美しさを持つ詩編を次々と発表しました。彼女の言葉は、自己の孤独や迫り来る死の予感を、植物的・視覚的な前衛イメージへと昇華させたものでした。
彼女が遺した詩の世界は、一言で言うなら「ひんやりとした、乾いた美しさ」。 どこか残酷で、けれどハッとするほど鮮烈な色彩やイメージが特徴です。
「すべてのものが嘲笑してゐるとき、夜はすでに私の手の中にあった。」
(左川ちか『錆びたナイフ』抜粋)
約100年も前の人物でありながら、その言葉のセンスは驚くほどモダンで先鋭的です。近年、国内外の文学界で「早すぎた天才」として再評価が進んでいます。
二つの本が物語に落とした、温かい影
『室楽(しつがく)』
世界的な文豪ジェイムズ・ジョイスの詩集『Chamber Music』を、左川ちかが『室楽』として日本で初めて全訳し、1932年に刊行しました。彰が読み、それを追うように水希が何度も読み返し、ふたりの境界線となった思い出の本です。
My love, my love, my love, why have you left me alone?
(James Joyceの詩集『Chamber Music』第36篇(XXXVI)より)
「私の恋人よ、恋人よ、恋人よ、なぜあなたは私を独り残して去つたのか?」(左川ちか翻訳『室楽』36より)
『左川ちか全詩集』(森開社、1983年)
小野夕馥(おの・ゆうふく)らの編纂により、神田の田村書店を発行元(発売)として、森開社より限定550部(普及版500部、特製版50部)で刊行されました。古書店等で流通することがあります。
水希の宝物になった本です。
「昆虫が電流のやうな速度で繁殖した」(左川ちか『昆虫』より抜粋)
作中で直接彼女の詩を引用することはしませんでしたが、登場人物たちが手にしたあの本、あのタイトルを通じて、左川ちかの持つ「冷たくも美しい言葉の響き」を、作品の背景にそっと忍ばせていました。