第5話 エピローグ

 現在の生活は、いまだに、苦もあり、楽もあり、である。「苦も無く、楽も無く」の本来の意味はさておき、苦も無く、楽も無く生きている様を想像することはまったくできない。それほど、毎日、いろいろなことが起きた。いや、起きている。しかし、このことには神に感謝しなければならない。こんなに変化に富んだエキサイティングな人生を。あなたの私への信頼の欠如は、なんともちっぽけなCDから始まったのですね。信頼の欠如は、さらに、もっとちっぽけなできごとにより、唾液と土で、何度も何度も上塗りされ、強固に固められたスズメバチの巣のように、もはや、素手で破壊することができない状態にまで、形成されていってしまった。のである。普通の人間はここで諦める。しかし、私は諦めなかった。「神に感謝しなければならない」の本当の意味は、この、実にエキサイティングな状況、である。「実にエキサイティングな生活そのもの」が、あなたの私への信頼の欠如を、来る日も来る日も、融けることなく高く降り積もったままでいた雪を、1晩で、まるで、雪が降ったことさえ感じさせないような光景にしてしまうほどの、暖かい激しい雨のように、その原因の存在さえも忘れさせていったのである。ゆっくりとした変化、劇的な変化、どちらでもいい。変わる時は変わるものなのだ。

そして、私は、今、ここにいます。あなたの「しもべ」として。25年間、あなたに任せ切った食事の支度。25年間、あなたに任せ切ったイベントの企画と計画と実行。感謝しても感謝しても、足りませんが、ひとつひとつ恩返ししていきます。毎日、今日は、何のオカズにしようかと知恵を絞り、食事のあとの食器を食器洗い機に効率よく並べることをルーチンワークとして・・・。

 縄文人、それは、世界に類をみない農耕を選択せずに16,000年のときを過ごしてきた奇跡の人類。16,000年という時を、狩猟と採取だけで生活してきた。なぜ、それができたのか? 日本という環境がそれを可能にした。ベトナムの中南部にダラットという高原地帯がある。今、農業に最も適した気候として、注目を浴びているこの地方は、蒸し暑いというイメージのベトナムなのに、1年中、日本の春が続いているらしい。ここまでの条件はいらないとして、日本の四季が、狩猟と採取だけの生活を可能にした。この時の流れを、あえて宇宙から、しかも時空を超えて、見た。私の姿をそこにスライドさせた。あなたの「しもべ」としての私がそこにいた。なぜか、このうえなく気持ちが落ち着いた。

 気持ちが落ち着く。それは、ストレスを感じることのない状態。現在、事情があって、犬を3匹飼っています。事情というのは、一般的に、人間に対して使うことば。しかし、犬の事情のときもある。その3匹は、あなたが里親にならなければ、もう、処分されていたであろう3匹。毎日、朝と夕方、散歩をするのが日課。3匹一緒に散歩に出かけるととんでもないことになる。3匹一緒に散歩しているひとを、時折、見かけることがあった。実にたいへんそうだと、他人事として見ていた。実際、自分がそれをするとは思ってもみなかった。実にたいへんである。3匹ともトレーナーによって訓練されていたとしたら、また、事情が違うのであろうが、なぜ、たいへんかというと、やってみれば・・・である。1匹は右の草むらに、もう1匹は急に左の車道側に、さらに残りの1匹は急ブレーキをかけて立ち止まる。おしっこ。リードを片手に3本持とうが、両手に分散させていようが、まったくコントロールできない。体重15kg以上の犬が3匹揃ってそれをやる。まったく規則性がない。そのストレスたるや、今まで経験したことのない最高のストレス。それが、1時間続く。そして、毎日続く。

 私が見ている縄文時代にいる私は、ストレスを感じていないようすだ。かたわらに犬が1匹、リードにつながれてはいない。犬は自由。可愛がることにより、私は、癒され、同時に、犬も癒される。ストレスとは無縁の世界がそこにはある。オキシトシンが出るのが感じられる。

 私が見ている縄文時代にいる私は、実にリラックスしている。海岸で貝を採っている。しじみ? いや、海だから、あさり? はまぐり? いや、はまぐりに似ているけど、もっと平らな浜貝? なにやら、すごい量が採れている。海岸からの帰り道、木の実を拾った。自分が食べる分だけでことは足りる。まわりにそれを邪魔するものはいない。そして、採ってきたものを横取りするものもいない。「悪」との関わり? それがいったいどのようなことなのか想像すらできない。狩猟と採取だけ。そこには、搾取は存在しない。

 ストレスフリーという表現は、ストレスを中心にした表現であり、ストレスがない状態を作り出していますよ、的なものです。また、英語には「快適な」とか「心地よい」という形容詞のカンファタブルということばがあります。ストレスが発生する前の段階で、ストレスを予防的に軽減できますよ、的な効果があることを暗に意味して、製品名に付けたりすることがあります。その際、カンファタブルという形容詞ではなく、名詞であるコンフォートをよく用います。数年前、Y市に対して、手厚い製品サポートをするという意味で、営業マンが、独自に考え出した製品名があります。「コンフォートパッケージ」がそれです。「コンフォート」も名詞、「パッケージ」も名詞。名詞+名詞の表現は、日本語にも英語にもよく見受けられます。いつも、いつも、形容詞+名詞である必要はありません。その営業マンは、もともと、BMWのディーラーの営業をしていた経歴がありました。しかも、トップセールスです。営業のテクニックは確かにすごい。その営業マンが、なぜ、IT企業である当社に入社したのか? 若干、謎は残りますが・・・。 そこそこ、当社の製品の説明ができるようになったころ、岡山県内の高校に、当社の製品を売り込みに行きました。普通であれば、話を聞いてくれるぐらいだけの商談であったはずが、世間話の中で、しかも、ちょっとしたきっかけで、相手の先生がBMWのユーザーであることを知り、さらに、クルマの調子が悪いことを聞いて、「ちょっと見てみましょうか」というノリで、クルマを治してあげました。結果的に、なかなかできない製品指定にまでこぎつけ、商談を見事に成功させました。彼は頭を使い、クルマ関連では、市民権を得ている「コンフォートパッケージ」という製品名をIT関連に応用したのです。少なくとも、IT関連では、このような製品の名前は存在しません。クルマの「コンフォートパッケージ」の中身は、アクセサリーやお掃除用品の詰合せで、実際に形があるグッズなわけです。そういうサービスはいらないから値引きしてよ、みたいな値引きの対象になってしまうこともありますが、何も言わないお客さんの方が多いので、ちょっとした収入源を当て込んでいるわけです。ただ、当社の「コンフォートパッケージ」とは、実は、単純に、保守・サポート費という名目でことが足りるものです。彼が訴えたかったのは、名詞である「コンフォート」の部分でした。「快適に」または、「心地よく」お使いください。ということです。トヨタは小型タクシー専用車種(自動車学校でも使われている)の「コンフォート」と中型タクシー専用車種の「クラウンコンフォート」で日本のタクシー業界を席巻しているわけですが(最近は、プリウスのタクシーもよく見かけるようになった。)、発売の当時、もちろん、日産というライバルはいました。まさに、心地よさを売り物にして、独り勝ちした著名な例だと思います。

 

 熟年離婚・別居結婚・家庭内離婚・家庭内別居・夫婦別姓・仮面夫婦など、まさに、十人十色。そこに至る経緯は違えども、男と女の関係は、子孫をつくることの喜びと苦しみを手に入れたか? 義務を果たしたか? の大義名分の部分を除き、多かれ少なかれ、いかにしてストレスを受けない生活を実際に得られるかの模索に過ぎない。私の今の生活を文字で表現するならば、「独立生活系偽装夫婦」とでもしておきます。夫婦の夫婦たる役目のほとんどを終え、1度離婚して、財産のすべてを整理し、お互いに、極プライベートな部分は干渉せず、再び籍を入れることなく、別居生活をし、と思えば、逆に、食と職と旅と楽しみを共にし、ストレスの原因を可能なまでに排除する生活。団塊の世代がまさに足を踏み入れようとしている熟年離婚を一味もふた味も違ったものとする新しい生き方の提言。それは、若いうちに決めこむ生涯独身の願望のファクターと趣を同じにする。つまる話、みんな、ストレスなく自由に生きたいということである。

 離婚という選択は、かなりのパワーを必要とする。財産分与・慰謝料・養育費・その後の生活・こどものこと・裁判。これらのことがらに首を突っ込みたくない人たちは、家庭内別居を選択するケースが多い。腐れ縁・だらだらと生活する・会話をしない。であるならば、そして、経済が許すのなら、籍をそのままにして、「ゆるい別居生活」を選択するのが、もっとも賢明な方法であろう。

 生涯独身は、だれでもできる、ひじょうに楽な選択肢。しかし、生涯独身の人、自身は、その選んだ道を楽な選択肢とは思っていないであろう。なぜなら、比べるものの対象を経験していないからである。また、時に、辛いことに遭遇し、悲しみを分かち合える人がいないことを悲しみ、ときに、パーティーに独り身で出席し、たいへん寂しい思いをし、時に、自分のこどもに巡り会えなかったことを後悔し・・・。生涯独身の次に楽な選択肢は、結婚をして、最初から、こどもを作らないと決め込むこと。こどもをつくり、こどもを育てるということは、実際にやってみた人でないと語ることのできない貴重な体験である。こどもができて、必ずといっていいほど、話題になるのが、この子は、「パパに似ているね、目元がそっくり」。「いや、口元なんかはママにそっくりだよ」。などと。誰にも似ていないとなると、それはそれで、別の意味で話題が盛り上がる。そして、この話題は、いつ終わるともなく、ことあるごとに、また、メンバーが変わって、それこそ何度も繰り返される。数年前は、「パパに似ているね」、だったのが、時を経て、「ママに似ているね」に変わったり、実に多くのファクターを含んでいる。3世代続けば、さらに、その意味は深くなる。まさに子孫ということばそのものである。孫を見て、「じいじそっくり」であったり、「ばあばそのものだね」であったり、比較の対象が広がる。似ている、似ていないに関係なく、それを聞いて、孫を取り巻く関係者は、心地よくなるものである。つまり、生涯独身、または、こどもを作らない夫婦には、絶対に得られない心地よさを感じることができる優位な部分でもある。実は、ここでの表現は、コンフォートではなく、まさに、あえて、形容詞のカンファタブルである。

 似ている論議だけではない。親子の間には、強烈なできごとの記憶の共有、また、一方的な思い出が、強いイメージとして残り、何らかの機会に、思い出話として花が咲く。それもまた、楽しい。強烈なできごとの記憶の共有の中には、こんなこともあった。ふだんから、泣いて騒ぐこともなかったリサが、ある夜、突然、泣き叫んで、いくらあやしても、なかなか泣きやむことがなかったことがある。いや、こんな表現だと、なかなか臨場感が伝わらない。あえて、静岡県(焼津?)の方言を用いて言い直すと、ある夜、突然、ひなって、どうにもならなかったことがある。私は、リサをだっこして、なんとか泣きやむように、ずっとなだめていたが、その間、10分間ぐらい。リサの顔の表情と顔の色を鮮明に記憶している。いつもと違ったのは、顔だけではない。いつもはしたことがない体をくねらせるとか、足にものすごい力が加わっていたりした。リサは、1歳そこそこのときだったので、そんなことは覚えていないだろうと、ある時、思い出話として、話をしたら、そのできごとを覚えているというのだ。世間でも、よく聞く不思議な話であるが、何でも、リサは、その時、相手にしてもらいたくて(注目してもらいたくて)泣き叫んだのだそうだ。他人からみたら、何の興味も意味も無い話であるが、結婚して、こどもをつくって、はじめて共有できるこの感覚こそが、カンファタブルなのである。

 こんなに、良い思い出をたくさんつくることができる結婚生活。日本は、少子化対策に失敗したのでしょうか。結婚しない人の割合が、増加し続けている。結婚したくないと思っている人の方が多いのかなあと思ったら、どうやら、そうではないらしい。結婚しない人たちの中で、結婚したい人の割合は、思っている以上に高い。では、なぜ、結婚しないのか? 理由の大半はお金。少子化対策に成功した国の中では、あまりにも有名なフランス。こどもの人数が1人、2人、3人と増えるにしたがって、もらえる手当の額が驚くほど増加していく仕組みになっているらしい。こどもが1人では、どう考えても人口が増えることはないので、もっともと言えば、もっともである。日本は、第1次ベビーブーム・第2次ベビーブームが人口を支えてきた。第3次ベビーブームも自然に到来するものだと楽観的に構えていたが、それは、明らかに楽観論であった。社会保障費の中で、高齢化対策に対する費用は、増加の一途をたどっているが、少子化対策の費用をまったく増やさなかったからだ。結婚はしたいのに、経済的に、結婚したら生活できないとか、結婚はしても、こどもができて、生活できるか不安がいっぱい。というのが現実のようだ。理由がわかっているのに、なぜ、政府が動こうとしないのだろう。アベノミクスは、公共事業の予算やものづくりに対する補助金など、直接的に効果が上がるものに対してお金を出しているのに。結婚しないという選択が、こういうことが原因で起こっているというのが、事実だとしたら、実に寂しいことである。

 

 結婚する、結婚しない、いろいろな人生の選択肢。その最大の命題はさておき、生涯独身とは違い、結婚をするということは、お互いの生活に少なからず入り込み、それによるストレスを受けることを許容することでもある。ストレスフリーなんてあり得ない。こどもをつくらない、それでも、往々にして、離婚に至る。結婚をして、こどもを生み、こどもを育て、夫婦一緒に生活をしていたにもかかわらず、離婚に至る。また、首尾よく離婚の危機を乗り切って結婚生活を続ける。人間としての位というものがあるならば、その、ごく一般的な生き方をした人の位は高い方に属するのであろう。しかし、ある程度、義務的なものごとを果たしたのちは、ストレスを受けず、自由にくらしてもいいのでは・・・。心地よさを求めて・・・。と思うのである。


 湖の湖畔の瀟洒な家。そこには、このような選択をした、ごく平凡な2人がいた。こどもたちや孫が時折立ち寄り、例の似ている談義に花を咲かせ、孫を必要以上に可愛がる親バカならぬ孫バカとなって。


 傍らには、おしりを向けて座る犬と、すぐに仰向けになりお腹を見せる犬と、何もその必要がないのに犬小屋のうしろに隠れる犬がいた。


 そして、私は、今、ここにいます。あなたの「しもべ」として。


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百々 ロータス 葉山 @Mac5

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