第4話 第3章 はざま

 この「はざま」は、2回読んでください。

 1回目は、私が、あなたの敵であるという前提で。

 2回目は、私が、あなたの味方であるという前提で。

 「無形の財産」て、いったい何? 

 有形の財産について、あなたは、すでに手に入れました。いや、すでにではなく、実際には、実家にいる時点からある程度、手にしていたわけです。真逆の遺伝子を求めたことは、まさに、無形の財産を要求したのだと思います。

 無形の財産とは、 名誉? プライド? ステイタス? でしょうか? いずれも違います。 答えはカリスマです。IBMのCEOは、カリスマでしょうか。カリスマではありません。サムスンのCEOは、カリスマでしょうか。カリスマではありません。ビルゲイツは、カリスマでしょうか? カリスマです。スティーブジョブズはカリスマでしょうか? カリスマです。渋谷109の例のショップ店員はカリスマでしょうか? カリスマです。名前は忘れましたが、美容院を何十店舗も展開している美容師はカリスマでしょうか? カリスマです。iPS細胞を発明したY教授はカリスマでしょうか? カリスマです。

 Y教授も学習障害がありました。不器用で、手術の腕は、お世辞も言えないほどの低ランクでした。それで悩み、たどり着いた先は、研究職だったそうです。iPS細胞にたどり着くためには、最終的に絞られた24種類の遺伝子から、結果として見つけた4種類の遺伝子を発見することに他ならなかったのです。結果は4でも、それは答えではなかったから、実際の研究は、雲をつかむような話だと思います。幸い、早い段階で、発見に至りました。神様が力を貸してくれたとしかいいようがありませんが、これは、まさにクリエイティブとイノベーションの世界であることに間違いありません。一種類の組合せの実験を行うのに、100万円というコストがかかったそうです。何百回、何千回、何万回、行えば、発見できるかわからないものに、誰が湯水のようなお金を出してくれるのでしょうか? かなり、悩み、苦労したと思います。自ら、京都マラソンに出ることにより、ネットで呼びかけました。iPS細胞が現実のものとなる日を待ち望んでいる人がたくさんいると。彼は、その時、50歳でした。でも、4時間30分ぐらいで完走しました。結果的に、共感して募金した人たちの募金総額は、1,000万円にのぼったそうです。いずれにしろ、200%の情熱を降り注いでいるのには間違いありません。真に立派な方であると思います。イノベーターのカリスマなのです。ちなみに、iPS細胞のiが小文字なのは、こういうことに関心がないであろうと思われる、若者たちにも関心を持ってもらうために、iPadやiPhoneを連想させる意味で小文字にしたそうです。実に、イノベーターの遊びの要素を感じます。

 クリエイティブは、いろいろな場面で使用されますが、そんなに簡単に使われて欲しくないワードです。2万円を超える高額なトースターを開発したB社の社長さんは、もともとは、ロックバンドでギターをやっていたそうです。バンドの方はといえば、まあ、売れる見込みがないと自分で判断して解散したそうです。それで、自分に残っているものはと考えたときに、ミュージシャンだから、クリエイティブな部分だけは存在すると思い、ものを造る会社を作ったそうです。ヒット商品となった高額なトースターですが、大雨の日に屋外で、社員とともにバーベキューをしていて、その際、食パンを焼いたら外はカリカリで中が超ふんわりのものができたそうです。偶然のできごとみたいです。その後、再現させようと、いろいろな試みをしたそうです。最初は、バーベキューは炭火で行うのが一般的なので、そちらの方にばかり目がいってしまいましたが、最終的に、大雨が原因だということが判明しました。つまり、湿度100%の状態で食パンを水分でコーティングし、中の水分が逃げないように、ゆっくり加熱。最後の仕上げの段階で、急激に温度を上げて、表面をカリカリにするという仕組みです。実際のトースターでは、温度調節はマイコンで行っているそうです。社長さんは、それ以降、ものづくりに際して、昔から使われ続けているもので、長い間、仕様が変更されていないもののすべてを疑いの目で見るようにしているそうです。この高級トースターの前にもヒット商品を世の中へ送り出しています。自然界の風を再現する扇風機だったりして、こういう話を聞くと日本もまだ、捨てたものではないなと思います。日本が弱くなったのは、企業が大きくなりすぎて、突拍子もない発想がでてきても、立ち消えになる現象。「ああ、いいね。やってみなさい。」という土壌がまったく無くなってしまったことに起因している。

 スイーツのことが、一時、取りざたされました。私とあなたが、対立関係にあるが故に、あなたは、「チーフが、スイーツ事業を考えている。」 少し、訳がわからないところがあるし、ちょっとバカじゃない? みたいなニュアンスで、社員の前で、アナウンスしました。それを聞いて社員は、どういう感覚をいだいたのか、私にはわかります。口を挟むこともままならず、その場は終わってしまいました。が、私のスイーツとは、これもまた、クリエイティブとイノベーションなのです。白いバームクーヘンが完成するのに、5年という歳月を要しました。白い恋人の賞味期限事件から、一念発起、新製品をということで。まさに、その過程はイノベーションそのものだと思います。スイーツとは関係ありませんが、スバルのレガシィなどに装着され始めたアイサイトは、実に、15年という開発の歳月がかかっているそうです。

 単純にスイーツ事業ということばだけを発したら、どう受け取られるかと言えば、コンピュータのソフト屋さんが何でまた? 広島の知り合いのコンピュータ屋さんがエステ事業を始めたのと同じくらいの感覚でしかありません。これもまた、沖縄の知り合いのコンピュータ屋さんが、割烹料理を始めたのと同じくらいの感覚でしかありません。スイーツがクリエイティブに通じるというところを説明しなければならないと思います。

 このことに関して、委託している税理士法人さんはどのような助言をしたのですか? 多角経営の話をしたのでしょうか? 普通のこのへんの中小企業に対して、今後のビジョンは? コスト削減は? 損益分岐点は? ともっともらしいことを言うのは、そのことにおいてはスペシャリストかもしれません。ただ、彼らは、カリスマでも何でもありません。現実に、その税理士法人の代表は、以前、ここへ来た時に、「私は、そちら(コンピュータシステム)の分野では、ど素人だから。」 と堂々と、大きな声で、しかも、自慢げに自信を持って言いました。ど素人がど素人の分野について語るのであれば、普通は、小さい声で語るのがあたりまえではありませんか? でかい声は、人々をかく乱するだけの力しかありません。少し、ビックリしましたが、単なる受け狙いのパフォーマンスであったと思います。が、それで、スイーツ事業に関して、その税理士法人から明確なアドバイスはいただけたのですか?

 達弥の話に、何度、振り回されましたか? 始まりは、LI社からでしたね。私も、あなたも、すぐに気が付きました。まず、出張の仕方に驚きました。次に、LB社とLI社の関係と役割分担を聞いて驚きました。LI社が単なるLB社の子会社だとわかりました。のちに、それは、なるような結果にしかならなかったことも。次に、SB社でしたね。よくよく聞いていけば、SB社ではなく、E社でした。もっと、凄い力を持った会社を想像していました。少なくとも、あの時の情報では。確かに、パイプはすごいものを持っているので、どこにどのように、というお金の情報には、驚きました。しかし、今考えると、ビジョンは? 何? で終わってしまう存在でした。次は、O社がらみの関西のとある自治体案件でしたね。学習支援システムの開発要請で、なかなかすごい話だなと思いました。話が進むにつれ、設計書レベルのもの提出要請などが出て、単に利用されているだけだとすぐに気が付き、方向を修正するのにたいへんでした。次は、関西のとある都市のiPad事件でした。あの時、H社が味方だと信じて疑わなかったので、Xボードの一部の資料を易々とH社に渡してしまいました。幸いにも、情報の流出は最小限で済みましたが。そして、H社と関西のとある自治体関連の一連のできごと。これには、振り回されただけでした。次に、U社が浮上し始めていますね。よくよく聞いてみれば、I社からの乗り換えではなく、非常に微妙な立場の話だと思います。そもそも、U社という会社は総合卸問屋なのだから。イノベーションのかけらもないのだから。ということを念頭に置かなければなりません。

 無形の財産=カリスマ。普通、カリスマは、誰もが認める優れた技術を持っている者のことだと思われがちですが、そうではありません。カリスマは確固たるビジョンを語れるだけでかまわないと思います。スティーブジョブズは、プログラマーではないのです。実業家なのです。イノベーターなのです。

 一方、会社の経営というのは、別問題です。

 経営者は、正しい経営手法を取り入れて、それを実行しなければなりません。

ただし、そこからは、求心力は生まれません。求心力はカリスマから生まれるのです。コストの考え方をしっかり植え付け、厳しくチェックをかけることが経営です。それは、一見、統率され、みんなが同じ方向を向いて仕事を推し進める立派な会社に見えると思います。確かに、否定はしません。現実は、そこを抑えなければなりません。

 私のこの20年の知的ストックは、小説がいくつも書けるほどの量になりました。タイトルは、 「深層のサーフィス」 「パクリは文化」 「おしりを向けて」 「ある放送作家が堕ちた罠」 ・・・ TV番組の脚本も 「式で表してみよう」 「コマーシャルなスクリーンセーバーたち」 「ボキャコン」 ・・・


 あなたの経営者としての資質は、すごいものがあります。とても、普通の人にはマネができません。男でも、躊躇してしまうようなことを平気でこなしてきました。それは、一体どんな能力なのでしょうか? それは、もしかして、相手が思っていることを考えない能力? たとえば、外科医が人間の体をメスで切り開いて、手術を行う能力に似ているのかな。外科医が人間を人間として捉えていたら、きっと手術ができないんだろうな、と、いつも思います。それを単なる物体であると思えば、何でもできるんじゃないでしょうか。

 つまり、相手がどのように考えていようが、できごとを1つのストーリーに当てはめて、順序正しく、こうしたら、こういう結論しか出ない。にしてしまえば、自由にお話が作れるわけで、さらに、できあがったストーリーに基づいて行動すれば、私情を挟まなくてもよいわけで、一方的にこちらの言いたいことが伝えられるという理論なんでしょうね。F社の「タヌキ」にしても、SD社の「のらりくらりひょん」にしても、あなたの言うことには反発できなくなるのでしょう。なぜかというと、あなたの言うことの内容に、決して重大な間違いがないからです。ただし、世間一般の理論を当てはめると話は違います。世間一般は、駆け引きが伴い、根回しが伴うからです。その部分は、問答無用、いつも切り捨てられる運命なのです。

 今まで、どれほどの人たちが納得のいかない気持ちに陥れられたことでしょう。彼らは、たぶん、いつまでたっても理解できないでしょう。

 原始の時代から、生物は進化をし続けてきました。人間は知能を持ち、道具を使い、他の生物とは格段に進化したもののように思われますが、集団のトップが、その集団をまとめる能力は、人間で、150人が限界だと言われています。さるで40匹ぐらい。ただ、それは、まとめるというより、伝達能力ぐらいの話で、コミューンを形成して集会を開く程度のことだと思います。会社経営とかで、社内をまとめ、把握していくことのたいへんさは、それに携わった人でないとわかりません。経験上、20人ぐらいが限界だと思います。とはいえ、経営は、始めたら継続しなければなりません。経営のカリスマとは? 独裁。このことばが、一番当たっているのかも知れません。20人でさえも意見はまとまりません。とある有名市長も言っています。独裁しかないと。そう言っておきながら、I氏と組んで、結局、トップが2人。もう独裁には戻れない。世の中は、だいたいこんなものでしょう。言いかえれば、いかに独裁が難しいものであるか、なのです。話はもとに戻りますが、こうしたら、こういう結論しか出ない。にしてしまえば、自由にお話が作れるわけで、さらに、できあがったストーリーに基づいて行動すればいい。という方程式が成り立つのです。

 独裁は、エネルギーを使います。エネルギーを使ったら、疲れ果て、そして、衰退するのでしょう。この意味では、これを行える期間が長い人は、それこそ、バカか天才なのでしょう。あなたも、ときに、バカか天才と言われていますね。そして、一方的にエネルギーを放出し続けるのです。

 集団をまとめる能力は、人間で、150人が限界。人数が多くなるにつれて集会を開くのも難しくなっていった。その過程で、人類は集会の会場や警備人や武器を作りだしていったと考えられている。集会の会場は当初、円形で、周りを小高くし、お堀のようなものを作った。その小高い場所に警備する人を配置した。その人たちは、ヤリのような武器を持っていた。人が集まれば、意見や考え方の違いによりいさかいが発生するのは当然のことであるからである。

 韓国初の女性の大統領が誕生した。朴正熙( パク・チョンヒ)元大統領の長女・朴槿恵(パククンヘ )60才。1度目の朴正熙大統領暗殺計画のとき、大統領夫人が殺害された。そして、2度目には大統領本人が暗殺された。さらに、朴槿恵自身も遊説中に暴漢に頬をナイフで切り付けられたという。こんな状況で、大統領になれば、自身の身が危険であるにもかかわらず、よく大統領になったものだと、ただただ感心してしまう。60才にして独身であり、国民と結婚したと本人は語っている。

 カリスマと独裁者は紙一重。なんとなくわかってきた。人々は間違いなくカリスマを求めている。しかし、独裁者は求めていない。カリスマが度を過ぎたら、独裁者。それは、ムッソリーニであり、ヒトラーである。とある有名市長が自身を独裁者というのは、恥ずかしくて、自分で自分をカリスマとは呼べないからであろう。とある有名市長もカリスマ。そして、I氏は元老、つまり、カリスマ。なのである。韓国初の女性の大統領も、人々が求めたカリスマ。そして、あなたも。

 エネルギーを使い過ぎた。あなたも私も。ある意味バカ。よく、明日はどうなるかわからないから、今を精いっぱい生きるって言ってる人がいる。市役所の先輩で(地元の進学校を出た人)そういう人がいた。たしかに、頭のいい人ではあったが、変わっていた。結局、自殺を選んだ。彼は、公言していた。「今日を一生懸命に生きる」。ほんとうに、今を精いっぱい生きたのだと思う。私の知る範囲では、その人しかいない。今を精いっぱい生きるというのは、孤独なのだと思う。「エネルギーを使い過ぎた」は、必ずしも、孤独ではない。そこに、大きな違いがある。確信が持てる。エネルギーを使い過ぎたら、補充しなければならない。使い過ぎたままだと、結果は老化するだけなのだろう。補充の中には、物質的な欲求に対する充足と、精神的な欲求に対する充足がある。両方が満たされて、やっと状態が落ち着く。何かが欠けていれば、疲労感がずっと続くのであろう。ゆえに、人は、非日常を求め、リラックスしなければならない。ただし、それが、どんどんエスカレートしていくと、マンネリ化が発生するわけで、それを解消するのであれば、ふつうにのんびりとした時を過ごすことも、時折、織り交ぜなければならない。とにかく、人間と人間、人間と動物、生きるものと生きるものが関わり合うということは、ほんとうは、難しいことなのかもしれない。あなたは、そうした意味で、いろいろなことを自然に織り交ぜ、いろいろなことを企画できるかなりの才能を持っていると思います。とにかく、家を3軒分、建てるなどという行動は、だれもまねできないことだと思います。

 ランカウイに旅行に行ったときのことでした。リゾート地のホテル、タンジュンルーから、街へタクシーで出掛けました。ものの値段を値切ることで、のちに、最も印象に残る出来事が起こりました。それは、こんな出来事でした。5,6kmで、日本円にして250円ぐらいを請求されました。なんと、あなたは、それじゃ高いからといって、半額にするようにタクシーのドライバーに要求したのです。日本の物価からしたら、すでに、とんでもなく安いのに、それを半額にしろというのは、意味がわかりませんでした。そのとき、確か、ドライバーともう1人助手みたいな人もいて、何やら真剣に相談を始めました。彼らにしてみても、たぶん、始めての経験であったのだろうと思います。結果、交渉は成立して、半分になりました。ただ、このことを客観的にみたら、理不尽としか表現のしようがありません。あなたが、矛盾を含んだ発言をしても、白と言えば白、黒と言えば黒なのです。だれも何も言えません。これは、現実を越えた世界であるに違いありません。もはや、シュールです。(あとでわかったことですが、どうも、料金の桁を1桁間違えて、話をしていたようでした。)この話には、及ばないにしても、このような話はいくつもありました。エクシブの会員権を売買するときもそうでした。相手は、百戦錬磨のプロなのに、へたをすれば、権利書をだまし取られても不思議ではない相手なのに、そのプロの顔を青ざめさせました。そのときも、これってバカなのか、天才なのかってよく語り草になりました。しかし、これだけは言えます。ふつうの人との違いは、どんなことでも、瞬間的に判断して、必ず、交渉を行うということです。それこそが商売人なのでしょう。

 ものの価値観についていえば、ひとりひとり違うのは当然です。商売人としてならば、買うものと売るものの値段についても、一般人とは違います。買うものは安く、売るものは高くです。一般人は、どちらも妥協点があまいというのは経験してみてよくわかりました。よく、タレントが、海外で買い物をするシーンが放映されます。あれを見たら、一般人は、それぐらいの値引きでいいんだと思いこんでしまいそうです。でも、いつもかなりあまいと、思うようになりました。バーキンをいつものバッグとして使用する。バッグがくたくたになるまで使用する。これは、一般人にはできません。とはいえ、クロコのかなり高いやつは、やっぱり大事に使う。ということで、ラインの高さは人それぞれですが、みんな同じ? なんだ。

しかし、そのセンスこそが、商売ができるか、できないかの基準でもあるわけで、一般人からしたら、思い切った仕切り(高め)を押し通し、それが通用するのは、みんながさすがだと思う所以なのです。会社が継続できるということ、会社が成長していくということは、そのシーン、そのシーンで、少し頭が出た状態を実現していくことに他ならないのでしょう。その数のトータルがプラスであることが大事なのです。思考力も勘も経験も必要なのです。だから、技術屋が社長であったり、学者が社長であったりしたら、その会社は、途中で力尽きてしまうのです。そういった意味では、事業は自然に継承されるのでしょう。資産家は資産家を継ぎ、事業家は事業家を継ぐのです。

 2代目は、よく資産を食い潰すといわれます。それは、いったいどういうことなのでしょうか? 全部が全部そうではありません。教訓・戒めとして、その言い方が残っているのでしょう。それに、該当するのは、ある条件のときだけです。つまり、こういうことです。1代目が頑張り過ぎて、しかも、ゼロから出発したとしたら、その苦労を子どもに掛けさせないという思いから、子どもに道楽させるケースです。欲しいものは何でも与え、やりたいことは何でも許容するケースです。そんなことをしたら、生きることの厳しさとか、何も理解せずに、おとなになって、自分で自分の行く道を切り開くことができなくなってしまうからでしょう。幼い子には、苦労をさせろです。とはいえ、教科書があるわけではないので、ときに行き過ぎることもあり、ときに失敗することもあるのです。これは、非常に難しい部分で、そのタイミングによっては、いわゆる反面教師的な捉えられ方をしてしまうこともありがちです。反面教師といえば、私の場合は、かなり、ありました。父親が酒を飲み過ぎて、あばれたりして、他の人たちに迷惑をかけている場面に遭遇し、そういうふうになってはいけないと思い、自分の限界をいろいろと探りながら、今日に至っているわけです。だから、どんなに上下関係があっても、これ以上は、まずいと思ったら、はっきり断ることをしました。そんな意味もあって、男でも女でも、よく酒を飲んで、泥酔している人をみると情けなく思えます。

 話は、戻りますが、道楽をさせるということと、海外旅行などに行くことはまったく違うことです。確かに海外旅行などは、お金がないと行くけませんが、子どもたちに、小さいころから、異なる文化に触れさせることはとても大事なことだと思います。その意味では、海外旅行だけでなく、美術館・博物館・観劇・映画など機会があれば、どんどん行くべきでしょう。たぶん、子どもたちが小さければ、覚えてはいないでしょうけれども、覚えている、覚えていないの価値判断では語れない何かがそこには、存在している。

 私は、子どものころ、海外には連れて行ってもらえませんでした。その反動で、大学を卒業して、市役所に入り、2年目にして、無理やり長期休暇をいただき(ふつうは2年目で長期休暇などとれるわけがない)、単身パリに。9日間、毎日、ルーブルに足を運びました。まさに、異なる芸術・文化に飢えていました。9日間の、毎日の、ルーブルが何を意味しているのか? もちろん、ルーブル美術館はスケールがまるで違うのは事実。展示してある絵を全部見るだけでも3日はかかる。それよりなにより、模写しても、カメラで撮影しても自由。そんな文化に触れるのが一番の収穫である。もちろん、模写もしました。今でも、模写したその絵は残っています。作者は知りません。作者など関係ありませんでした。ななめ後ろ向き(斜に構える、をウラから見た感じ)で、右手にパスポートらしきもの(時代が古いのでパスポートではないはず)を持って誰かに見せているシーン。上半身を描いた絵で、髪は束ねて上げている。男なら、誰でも、その透き通った肌とセクシーなうなじに、見とれてしまうであろう。服装は、透け感のある素材の薄い緑色と白の2、3枚の重ね着である。なぜ、この作品が有名にならなかったのか? あ、そうそう、フェルメールの「青いターバンの少女(オランダのマウリッツハイツ美術館)」は、フェルメール・ブルーと呼ばれる非常に高価なウルトラマリンブルーを惜しげなく使って描いていることで、とても有名であるが、あの絵は、顔が、表情がちゃんと見えている。色調もはっきりしている。わかりやすい。私が、模写した絵は、顔のパーツが描かれていない。しかし、鼻と頬はちゃんと描かれていて、なぜか、それだけで、かなりの美人を想像してしまう。透き通った肌・セクシーなうなじ・シースルーな衣装・そしてこっちを見てくれていない、これだけで十分ではないですか?

 透き通った肌を見ることで、何か、こころが限りなく透明になり、本物の絵画の文化に触発されて、モンマルトルに出向き、サクレクール寺院を始めとする町並みをスケッチしました。現場に居合わせた、同じくスケッチをしていたイギリス人と話をしたり、と。実は、この旅行で持っていったカメラは、テニス狂いの友人の所有物であったのです。友人のおじいさんのもので、キャノンのすごい性能のやつでした。すごい性能を知ったのは、信州の白樺湖にテニスをしに行ったときに、湖をバックに、白樺の木とともに人物を撮影して理解できました。でき上がった写真は、まるで、抜けるような透明な空の色と、光るような白樺の肌を忠実に再現していました。いや、現実以上のものを表現していました。誰が見てもそう思うでしょう。いい写真を撮ってくるからと言ったら、快く貸してくれて、実際、そのカメラで撮った写真は、素晴らしかった。今でも、大切に残してあります。そのイギリス人も、一目見て、「そのカメラは、すごいね。」と驚いていた。カメラを見て、「すごいね!」とは、いかなることか? とにかく、オーラを発していたのは事実。エトワール凱旋門でも、そのカメラで何枚か写真を撮っていたら、歩道のメンテナンス作業をしていた30そこそこの男の人が、わざわざ近づいてきて、フランス語で、やっぱり、「そのカメラは、すごいね。」と言ってくれた。そのカメラの威力からか、私がもっていたチープな絵の具に対しても、イギリス人は、「その絵の具は高そうだね。」と評価してくれた。まあ、世の中そんなものなんだなあ。よく、セレブが高価なハイジュエリーの本物は、家の金庫にしまっておいて、外出時は、それとそっくりのイミテーションを身に付けるらしいけど、イミテーションなのに高価なものと信じて疑わない光景がリアルにイメージできた。

 夜は夜で、泊っていたホテル・コンコルドラファイエット(今は、ハイアット・リージェンシーになったみたいで、何だか寂しい。沖縄の喜瀬別邸もリッツカールトンになってしまった。)から、メトロに乗り、再びモンマルトルへ。怪しい光景をこの目にしっかりと焼き付けた。昔の日本で言えば、それぞれ時代とシチュエーションを異にするが、見世物小屋とか露店とか屋台が、同居しているような、しかし、ヨーロッパ的な光景。手回しの映像再生装置に興味があったので、見せてもらった。もちろん、お金を払って。手で回すと、走馬灯のように、いや、パラパラ漫画のように、エロく、怪しい感じの映像が見てとれた。パリの街中で売られているいわゆるエロ本も、今の世の中からすれば、もはや、単なる芸術にしか見えないほどの軽度の露出。クレージーホースも素晴らしい芸術。現代のそれと比較すると現代のそれは、激変という表現しか当てはまらない。イタリアの Officina K という会社は、不思議なものを売っている。アナログGIFプレイヤー(40,000円ぐらい)。アニメーションGIFファイル(ネットの画面で、ちょこちょこと規則的な動きをする画像)を、1枚1枚写真のようにして、すべての写真を、手回しの装置で回転させて、アニメーションを再現するというものだ。何だかこの世の中には、まったく不要なものに感じられる。インテリア? と思えば、納得。ご存知のとおり、アニメーションGIFは、Webページに貼り付けて、自動的にアニメーションさせるのが目的で利用されているから。

 怪しい光景。下半身はタイツだけで歩いている人がいたり、ベネチアンマスクを付けた人たちが、実際に歩いていたり、立ち止まって何やら交渉事をしている男女(女に見えるが?)がいたり、と、バタイユの作品を彷彿させる光景がそこにはあった。同じタイツ姿でも、シャンゼリゼ通りに面したサロンから出てきた、モデルらしきギャル2人には、カルチャーショックを受けた。

 つい、時が経つのを忘れてしまった。深夜1時を過ぎ、メトロの最終も行ってしまった。夜、タクシーに乗るのも怖いので、仕方なく、モンマルトルから、エトワールまで走った。6kmぐらいであることは、何となくわかっていた。ナビなんてないし、地図もない。エトワール凱旋門が見えているわけでもない。それでも、大通りをメトロの駅の入口を頼りに走ったら、一度も迷うことなく、無事にコンコルドラファイエットに着いた。

 パリから戻った。久しぶりに、工学部の美術部の部室に入った。懐かしい。匂いが。空気が。光が。

 ウルトラマリンブルー、コバルトブルー、カドミウムレッド、なんか危険そうな金属の名前がつく油絵の具。その高価な絵の具だけを使って絵を描いてみたい。という願望は、いつもあった。でも、表現できるものは、カンディンスキーの抽象画みたいなものぐらいかな? なぜか、チープな絵の具の使い方には、自信があった。習作用のほんとに安い油絵の具。それも、絵の具箱には、全部で12色しかない。伊良湖岬の先端まで行って、岩と海と空の絵を描いた。12色で。部室のここの壁に、未完成の状態で飾っておいたっけ。覚えている。時折、部室にくるコーチ役の女のセミプロが、その絵を見て、「いい色出てるね。」ひとには、それぞれ、ひとと違った才能がある。褒められたら、才能は間違いなく伸びる。褒められなかったら、才能は伸びない。自分も、ちゃんと褒めることができる人間にならないと、と思った瞬間であった。せっかく、異なる文化に触れてきたのだから・・・。

 異なる文化とは? 例えば、沖縄には沖縄時間が流れています。集まりの指定の時刻は、それは、家を出る時刻であったりするわけで、時間がかなり正確に守られているのは、日本の本土とドイツぐらいなのでしょう。そいった意味では、むしろ、日本人が特殊なのです。スペインに行ったとき、シエスタという習慣があることを知って驚きました。昼食後の昼下がり、商店・企業・官公庁などの多くが休業時間をとり、シエスタの後に再び仕事に戻る。また、夕食も時間が遅く、就寝時間も遅い。しかし、朝は早い。いったいどうなっているのでしょう。白夜のせいか? それとも、ラテンの血のせいか? いずれにしても、日本人には理解できないことです。睡眠の全体の時間は、たぶん変わらないのに、睡眠が分割されていることは、生きることに、ほぼ、影響がないということを示しているのかもしれません。もう少し詳しく言うと、人間の活性は、深夜2~3時ごろに最も低下するらしい。そして、午後2~3時ごろは、その次に低下するゾーンらしい。ということで、この時間帯に休息をとるシエスタの習慣は理にかなったものであるといえる。さらにいうと、中国・インド・ベトナムの熱帯・亜熱帯の地域や、ギリシャ・イタリア・中東・北アフリカの地中海の地域でも同じような習慣が見られるそうです。

深夜2~3時というのが、活性が最も低下する時間帯。と同時に、深夜は、人間の細胞が再生される重要な時間帯。つまり、この時間は、寝ていないといけないということであるらしい。人間の細胞は破壊されては作られるということを繰り返している。深い睡眠のときに成長ホルモンが最も多く分泌され、その成長ホルモンによって、赤血球や脳細胞や肝細胞が作られるらしい。徹夜で試験勉強したことを覚えています。さらに、少し寝ておいて、0時ごろから起きて、勉強を始めたことも覚えています。若いときだからこそ、無茶をしたんだなあと今さらながら、思うのであります。女の人は、よく、その時間帯の睡眠不足の影響で肌がボロボロになるとかいいます。実際は、男もそうなのでしょう。そういった意味では、工場などの3交代制の職場、看護や介護での交代勤務、国際線のCAなどの特殊な勤務は、からだに良いわけがないのはよくわかります。いずれにしろたいへんな仕事なのですね。ただ、小さいころ、いろいろなことに神経を使って、眠れなくなり、そして、眠れなくなったことに不安を覚え、さらに輪をかけて眠れなくなったことがよくありました。これは、単純に神経質だからなのでしょうか? おとなになっても、同じようなことを言っている人もいますが。また、眠れなくても、「布団に入って目を閉じていなさい。」と、よく言われましたが、何やら、そのことの効用はないそうです。

 さて、愛するとは何なんでしょうか? 大好きとは何なんでしょうか? では、大嫌いとは何なんでしょうか? 人間または、人間に近い知能を持った動物だけにこのことがらの違いが見てとれます。友人・恋人・夫婦・恋愛・お見合い・同棲・共同生活・ペット。 様々な関係において、当然、相手がいるということです。まさに、コミュニケーションのいろいろなかたちです。コミュニケーションとは、ことばによるものだけではありません。目と目を合わせる。肌と肌を合わせる。動作で合図する。など。

 大好きは、子どもがよく使うことばです。子どもは、両親でなくても、親戚のおじちゃんやおばちゃんから、可愛がられ、さらに、いろいろなものもらったとすれば、大好きなおじちゃん・おばちゃんになるのです。犬もそうです。可愛がられ、さらに、おいしい食べ物をもらえば、大好きな相手となるわけです。ものをもらうは、だいたいにおいて、セットで存在しますが、必ずしもものをもらう必要はありません。可愛がられることで、大好きになるのだと思います。

 では、大人が大好きという感情はいったいどういうことなのでしょうか? やはり、子どものそれといっしょなのでしょう。そこに、ギブアンドテイクは存在しないのです。何かうれしいことをされた。イコール、人間でいうとドーパミン(快楽ホルモン)が出たに他ならない。ドーパミンが出た。心地よくなった。大好き。つまり、一方通行の感情なのです。

 しかし、愛はそうではありません。愛は一方通行ではないのです。ただし、愛は愛でも、無償の愛は一方通行です。ただ、大好きという一方通行とは、これまた、まったく違っています。なぜなら、方向が逆だからです。無償の愛とは、いったいどういうものか? 母親が我が子に与える愛が、もっとも無償の愛に近いものでしょう。自分の子ども、イコールかわいい、が転じて苦労して育てることの見返りは、誰もが、また、何をも要求しないのです。妊娠により体の自由を奪われ、お産という苦痛に耐え、授乳や夜泣きにより、自由な睡眠を奪われる。このようなことのどれひとつをとっても、男には経験できないことなのです。まさに、女だけに、神から与えられた無償の愛ということができます。このようなことがぼんやりと頭の片隅にあるため、レディーファーストなどと称して、男は、女にサービスをし、男は、女を弱いものとして扱い、フォローするのだと思います。実際、それがか弱いなのか、どうなのかは、別の問題として。それで、一方通行ではない愛とは? ですが、恋愛では、わからないことです。ぜったいわからないことです。よく、恋人同士の会話の中で、好きなの? 愛しているの? という確かめの表現が用いられますが、明らかに、愛しているの? という表現は、何にも当てはまらないことでしょう。ただ、そのことでさえ、理解できることではないので、実際には、カッコよさを求めているだけなのでしょう。きっと。愛を育むとはよく言ったものです。そうです。愛は時間がかかるのです。とにかく、そして恐ろしく時間がかかるのです。それは、いっしょに生活していなければ、成り立たないことがらです。いっしょに生活するということ、ここでは、話が複雑に成りかねないので、とりわけ、夫婦と限定するものとします。生活をする中で、価値観の違いやそれまでの生活習慣の違いで、当然のことながら、意見がぶつかり合います。意見がぶつかり合う、それを修正するには、イコール、コミュミケーション能力が必要。双方の意見の違いを少しでも近づける努力が毎日のように繰り返される。同じようなできごとでも、少し違えば、また違ったことがらとして、少しでも近づけようと会話を繰り返す。そして、ぎくしゃくした関係になりそうになれば、楽しいことを考え、実行し、溝を埋める。

 ここで、もっとも重要なのは、もともと価値観が違うことがらを、いかに許容するかということである。双方が歩み寄るということは、双方ともストレスを受けるということに他ならない。そして、双方のストレスを取り除く努力が始まる。それは、両者が協力して行うことなのです。このお互いのストレスを取り除くべく協力し合うことこそが、実は、愛を育むことに他ならないのでしょう。恋愛時代のときに、恋人同士が、価値観が違うからといって、とことん議論して、突き詰めて修正しようとするでしょうか? しません。する必要はありません。我慢する必要はないのです。なぜなら、別れればいいからです。つまり、愛は育むことはないのです。恋人同士が、愛してる? と聞いても、答えの愛してるは、単純に勘違いか妄想なのです。

 大嫌いって何? これがまた、おもしろい。嫌い嫌いも好きなうち、などとことばの遊びをしていますが、大嫌いということばは、さらに特殊です。対象が嫌いな人の場合には、ほとんど使いません。嫌いな人には、単純に嫌いだということばしか使わないのです。もっというと、本当に嫌いであれば、嫌悪感を示し、無視するか、避けるかのどちらかの行動をとります。では、いったい、大嫌いとはどういうことなのでしょうか? それは、大好きの継続の中の一瞬の反旗・裏返しに他ならないのです。もちろん、大好きは恋愛中のことを示します。それでは、愛している中で、大嫌いは存在するのでしょうか? これまた、存在します。大嫌いということばは、どちらからももてはやされる人気者なのだと思います。完全に独自の市民権を得ています。また、大嫌いを発したあと、ひとは、その対象の人物から、大嫌いの反対の見返りを、大嫌いの2倍、3倍求めます。それは、つまり、大好きを求めていることなのです。愛している感情の中でも、大好きを求めることには変わりありません。動物にはあり得ないことだと思います。人間の複雑な思考の中のことであり、遊びという要素をふんだんに含んでいます。妻が一生懸命に、こどもの世話し、だんなの世話をする。家事をし、子育てをし、苦労し続ける。こんな生活が続けば、グチも言いたくなるし、少しは、楽しいことを考え、実行に移したいと思うのは当たり前のことです。だから、ひとは、大嫌いということばを使い、気持ちを確かめ合い、ギブアンドテイクを求めるのです。

 無償の愛の中で、毎晩の夕食を作るとか、こどもたちのお弁当を作るとか、をとっても、実際、毎日行うのはたいへんなことです。ましてや、普通の主婦ではない、つまり、日中忙しく働いている人であれば、毎日は、もはや苦痛です。しかし、あなたは立派にそのことをこなしてきました。苦痛を苦痛としない方法は、そのことを楽しむ方法であると思います。このことすら、他人事のように忙しく働いていれば、買い物に行く時間も制約され、食材をどうするか、など、頭を使わなければなりません。夕ご飯に、意外な食材が使われていることがよくありました。味の方は、いつも、とてもおいしかったという記憶があります。しかも、いつも栄養バランスが考えられていました。とてもおいしいというのは、ふだんから、いろいろなところで食事をし、ぼーっとしないで、食材に何が使われているかを気にしていなければなりません。また、これに、何々を加えたら、どのように変化するかイメージできなければなりません。ときどき、冷蔵庫の中を総点検して、使い切ってしまわなければならないものを、ピックアップして、料理を作るあなたの姿をみたことがあります。その時に作られる料理は、だいたいチャーハンか鍋だったような気がします。夕食は、考えてみれば、まだ、楽です。お弁当はというと、これが、もっとたいへんであることは、1度でもやってみればわかることです。まず、朝早く起きなければならない。早く起きなかった場合は、相当なスピードで作らなければならない。限られたスペースにバランスよく閉じ込めなくてはならない。夕食の場合は、そのあとの片づけの時間について、制約がないのに対して、お弁当を作ったあとは、スピーディーに片づけなければならない。もしかして、お弁当を作り始めて、作り終える工程を見ることで、人の能力を判断できるかもしれないというほど、たいへんであると思います。一般的な主婦というのは、毎日家にいて、きっと、何もしなかったら、逆におかしくなってしまうのでしょう。ツイッター・フェイスブック・キャラ弁のつながり、これらが市民権を得たというのは、何となくわかる気がする。次は、ゆるキャラ弁ですか? しかし、お弁当でなくて、給食というのは、実際、非常に助かるシステムであると思います。それゆえに、給食も昔と比べたら、かなり進化したのではないでしょうか。余談ですが、新横浜のP社本社の社員食堂で昼食をごちそうになったときは、カルチャーショックでした。トレイの上に食べたいもののお皿(もちろんお皿には食べたいものが乗っています)を置いていって、最後に、そのトレイを料金計算装置に置き、社員証をかざすだけで、自動的に合計の料金が計算され、自動的に給料から差し引かれるようになっていました。もちろん、メインディッシュは、パスタとか、自由に選べるのは当たりまえ。その出来上がりのスピードたるや、パスタなら、わずか10秒足らずでした。それは、レトルトを温めているわけではありません。大量に作っているので、十分おいしいものでした。社員6,000人ぐらいの分を賄うので、当然といえば当然なんでしょうね。

 日本人は、トレイの上に食べたいもののお皿を置いて、自動料金計算装置を通り過ぎたりしないのでしょうか? 国民性の問題? それとも、少しの損失は、覚悟の上? そういえば、グリコの置き菓子のことをテレビでやっていました。オフィスにお菓子を置いて、お金は社員が自分自身の責任で、貯金箱のような入れ物に入れるというシステムです。回収率は、確か97%ぐらいといっていました。やっぱり、ズルをする人はいるということです。ただ、この数字が何を意味しているかというと、管理するための人件費と比べてどうなのかという問題であるわけです。社員食堂も、スーパーマーケットも、今ではセルフが多くなっています。というわけで、必要経費内に十分収まっているということでしょう。ちなみに、コーヒーメーカーの場合、インスタントを使用するのであれば、コーヒー1杯分が30円ぐらいで収まるのに対して、本物のコーヒー豆を使用する場合は1杯84円ということになります。でも、このことでさえも、貯金箱システムにして、1杯100円を自主的に入れるようにすれば、缶コーヒー120円を外で買ってきて飲むよりは、ずっとましかとも思えます。ただ、頭の中で考えるとそういうことになるわけですが、実際に踏み切れるかどうかは疑問です。人間というのは複雑な生き物です。置き菓子に便乗して、最近では、置き薬、置きヤクルトみたいなものも登場しているみたい。ただ、置き水に関しては、経費は全部会社持ちでしょう。そのうち、置きDVDや、置きスピードラーニングも登場するのではないでしょうか。

 残った食材を有効に活用できるチャーハンか鍋。中でもチャーハンというのは、1つの文化を形成している気がします。実に奥が深い。チャーハンはそもそもセルビアで誕生しているにも関わらず、例によって、中国が、チャーハンを発明したのは中国だと主張することによって、中国で発明されたもののようになってしまっているそうです。チャーハンがおいしいかおいしくないかは、お米が1粒ずつ油でコーティングされているか、そうでないかに関わっているだけのことのような気がします。つまり、ネチャネチャかパラパラかということです。お釜の中で冷え切ったお米は、水分こそ減ってはいますが、塊になっているため、コーティングする条件を失ってしまっているわけで、この矛盾に立ち向かわなければなりません。つまり、1粒ずつのコーティングがうまくいっていれば、極端な話、味は、塩とコショウだけで十分で、中に具が入っていなくても、ぜんぜんそれだけで食べれるということです。塩とコショウの役割は、いつもたいしたものだと感心させられます。チャーハンの具は、ネギだけでも成り立つし、ニラだけでも成り立つし、ミツバだけでも成り立つし、ハムだけでも成り立つし、あさりだけでも成り立つ。つまり、具は何でもいい。だからこそ、冷蔵庫の中を整理したときに、打って付けのレシピということになっているのでしょう。チャーハンを美味しく作るには、強い火力のコンロで振り鍋を行うのが基本。最近は、IHクッキングヒーターが幅を利かせ、火力が弱いうえに、振り鍋は不可能な時代になってしまった感がある。チャーハン専用コンロセットみたいな商品が出ても不思議ではない。チャーハンを注文すると、決まってスープがついてくる。そのスープ、どこで飲んでもだいたい同じ味がする。一番の記憶は、大学の下宿生活でよく口にした。もちろん、食欲が旺盛な時期、チャーハンの大盛りは定番中の定番。そのころは、何も不思議に思わず、チャーハンについてきたスープを飲み、食事が終われば、必ず、透明なプラスチックのコップでお水を飲んだものだ。最近、気になるコマーシャルがある。「創味シャンタンDX」という商品。その中で、妙なフレーズ、「昔から・・・」と言っている。調べてみた。確かに発売は1961年。何やら、おかしな雰囲気だ。どうやら、高級中華スープの素、味覇(ウェイパー)と深い関係にあるみたいだ。製造委託する側と委託先の間でのイザコザ? チューブ入りのスープの素を作って欲しいと依頼しても、快い返事が無かったとか? まあ、それは、暇なときに調べるとして、とにかく、ウェイパーをお湯で薄めて、刻みネギを入れれば、だれでもチャーハンのスープを作ることができるということまではわかった。

 一方、鍋もどんな食材でも、工夫次第でおいしくできます。どこの家庭でも、人気の鍋があります。我が家は、さしづめキムチ鍋。こどもたちが、これがおいしいと言うならば、そのレシピを何度も使う。これも愛情の表れでしょう。でも、ヨーロッパ思考であるならば、ちょっと前に流行ったトマト鍋なのでしょうね。時代のながれで、トマト鍋よりもキムチ鍋の方が先にあった。その時点でのこどもたちの年齢など、さまざまな要因でその家の人気鍋が決まる。私もあなたも、本当はヨーロッパ思考、ブイヤベースやトマト鍋、また、鍋ではないにしても、パエリアなど、本来は、そっち方向ではないのでしょうか。韓国が決して好きなわけではありません。タイのトムヤンクン、ベトナムのフォー、どれをとっても特徴的です(ベトナムのニャチャンのヴィンパールでルームサービスで食べたタイのトムヤンクンは美味しかった。)が、本当は、さっぱり系が好きなのではないのでしょうか? とにかく、キムチ鍋はキムチ鍋の素という画期的な魔法により、確固たる市民権を得たのであります。私は、お金がない状況の中で、唯一、学生時代(自炊生活)に鍋らしき鍋といったら、鳥団子スープしか作りませんでした。鳥団子スープという名称が市民権を得ているというのは、後に知ったことですが、また、レシピがあるのかないのかも知りませんが、すましのお雑煮を作るつもりで作ればいいのではないかと思います。お雑煮の中のお餅が、鳥の挽肉を団子にしたものに変わっただけと考えればいいのではないでしょうか。白菜・たまねぎ・にんじん、つまり、これもまた、チャーハンと同じで、基本的にどんな食材でも成り立つものなのでしょう。とにかく、冷蔵庫の中を整理して、余りものを寄せ集めて煮込めばよい。ていう感じ。これと同じくらい手を掛けるのであれば、たまねぎを煮込んで醤油と砂糖で味付けをして、最後にとき卵を上から流す。それを、ごはんの上にかけるだけで、りっぱな夕食の出来上がり。そして、ヒレカツなんかがあれば、もう、りっぱなカツ丼に。たまねぎというのは、主役にはならないのに、いつも、ひじょうに大きな存在感があると思います。最近の一番のレシピは、超簡単、やまいもをすりおろし、おさしみの上にかけ、醤油と鰹節でいただく。あつあつのごはんとともに、愛情があれば、みつばを切って上にのせるなど、とにかく、ほんのちょっとした工夫で、空気がまったく変わるものだと、だんだん理解するようになりました。  

 私とあなたの人生は目まぐるしく展開しました。戦いに挑んでいるときは、アドレナリンが分泌され、その意欲を継続させるために、気分転換(非日常を求めて旅行をするなど)を行い、ドーパミンを出す。そのサイクルが噛み合っている場合は、疲れをものともしなかった。最初に、沖縄に行ったときのことを覚えていますか? まず、浦添市にあったI社にびっくりしました。建物といい、観光PRのCDといい、何か、ものすごく進んでいるイメージを受けたのは、錯覚だったのでしょうか。それとも、本当に進んでいたのでしょうか? 仕事で、しかも、営業で行ったため、とりあえず、アドレナリンの分泌を自発的に行わなければならなかった。しかし、家族みんなで行ったので、営業を終えてから、夜になって、公設市場へ行って食事をしたりで、ドーパミンが出ましたね。日中もプールで泳いだり、「もぐりん」という船に乗って、海中を探索したりと、楽しい時間を過ごすことができました。アドレナリンとドーパミンの関係。でも、そのサイクルが噛み合わないと、癒しを求めなければならなくなるのでしょう。たぶん、これが、人間の人間たる所以の行動サイクルなのだろう。

 日本語は、いや、日本人の表現力はすごいといつも思う。「夜の帳が下りる」という表現がある。単純に夜になることを表現したものだが、その裏に隠された感性は、人それぞれ、いろんな思いからきているに違いない。英語には、少なくともそのような表現はないと思う。私には、「夜の帳が下りる」というのは、ものごとの始まり・序章と映っている。幼少期を思い出す。それは奇妙な体験であった。そのころのエンターテイメントといえば、お祭りぐらいしかなかった。今思えば、目に映るもののすべてが、時代劇の映画の1シーンであった。夜の帳が下りて、W村の汽船場から、船に乗って、H湖を渡り、S村の汽船場に降り立った。イメージとしての記憶が、そこにはある。そこでは、母親の在所である新所のお祭りが繰り広げられていた。ちょうど、夜の帳が下りるタイミングでS村の汽船場に着き、汽船場から、すぐのところの神社では、歌舞伎なのか、時代劇なのか、よくわからないが、とある出し物が演じられていた。夜の帳が下りて、夜になっても、依然として、少し興奮気味な、それでいて、少し異質な空気が流れている。このような感覚には、のちに、いくつも遭遇している。これは、感覚のデジャ・ヴュ(既視体験)なのだろう。パリでは、クレージーホースへ行ったとき、スペインではマドリードでフラメンコを観たとき、など。余談になるが、夜、船に乗るといつも、不思議な感覚におそわれるのは、小さいころのこの経験からかもしれない。1度だけ、夜の便で熱海から、初島(エクシブ)へ渡ったことがある。また、ベトナムのニャチャンに行ったときなどは、ホテルターミナルから、ヴィンパールアイランドまで(クルーザーで)、行きも帰りもどういうわけか夜であった。いずれにしろ、夜の帳が下りて夜に移行していくことは、何とも趣のあるものである。映画でも、夜、海辺でパーティーを行っているシーンはよく使われている。

 また、学生のころ、コンサートの警備員のアルバイトが、異常な人気となっていたことがあった。それも、だいたい、夜の帳が下りて、夜になりつつ、またなってからの仕事であった。各地で開催されるコンサートの会場内での警備ということで、ショーを観ることができ、音楽であれば、その場の音で聴けるから、文句の付けようがない内容のアルバイトであった。なにせ、鑑賞のためのお金を払わなくていいのだ。ただし、ヘタをすると、外の駐車場の整理の係に回されることもあるので、そうなってしまうと最悪のアルバイトである。競争率が高いため、そのアルバイトは、抽選で決められる。私は、抽選で3回ほど、実際にアルバイトをしたことがある。その3回というのは、ニニ・ロッソというトランペット奏者のイージーリスニングのコンサート、アリスのライブ、ブライダルショーであった。いずれも、仕事なのに楽しかった。しかも、仕事なのに、関係者みたいな妙な優越感があった。もらえる報酬もそこそこ良かったと記憶している。ちなみに、静岡競輪の警備のアルバイトもいい報酬でした。

 そういえば、ゴルフのキャディーのアルバイトも相当なものだ。今、どうなのかはわからないが、いろんなオプションが付く。例えば、早朝手当、これは、お客さんからみると、早朝で割引があって、安くなるというわけであるが、キャディーの立場からすると、朝早くからの仕事であるため、割増の報酬を頂いても不思議ではないこととなる。しかし、ゴルフ場の経営側からみると、売上は安い方向に、賃金は高い方向にと、何とも矛盾したこととなっている。それから、2バッグ手当、1バッグでも12kgぐらいあるのに、それを2つ担いで7kmぐらい歩くというのは、確かにたいへんなことだ。また、1バッグでも重量が規定をオーバーしていると、重量手当というのがもらえる。今は、電動カートで移動するので、2バッグ手当も重量手当も無くなっているのだろう。ただし、重量手当というのは、お客さんに請求するものなので、会社が損をするものではない。規定の本数のクラブを収納している限り、この重量オーバーは発生しないが、お客さんの中には、練習用のクラブをそのまま紛れ込ませている人もいるため、用もないのに、自己責任という責任を取らされているだけのことである。ゴルフのキャディーの仕事もなかなか奥が深い。何といっても、ベテランのキャディーは安心感がある。それは、ゴルフのTVゲームに通じるものがある。まず、ゴルフコースを熟知していなければならない。キャディーはゴルフバッグを持ってお客さんに付いて回るだけではない。残りのヤード数を聞かれたら、ほぼ、正確に答えなければならない。また、今いる場所の風がどうなのか? グリーンの近くはどうなのか? とか、かなりシビアなことがらの回答を迫られる。もちろん、それを聞いて、意味のあるお客さん(ゴルフの腕が伴っている人)ばかりではないが、まぐれということもあるので、伝える情報は、それなりに重要なものである。キャディーの評価は、そのゴルフ場の評価にもなりかねないので、そういう意味では重要である。これはどんな仕事にも共通していえることであるが、お客さんがいるということは、接客業であるということで、極端な話、ゴルフを楽しめるか楽しめないかにも関係してくる。そうそう、お客さんの気分次第で、お客さんがキャディーにチップをあげることもある。アルバイトしていたころ、何回か、そういうことに遭遇したことがある。

 以前、違う意味で、ゴルフキャディーの仕事がクローズアップされたことがある。ゴルフコンパニオンである。今、そのビジネスが存在しているのかよくわからないが、もともとの意味でのゴルフを楽しめるかは、別のこととして、可愛い女の子が4、5時間相手をしてくれれば、それなりに、楽しめるということで、まあ、だれでも考え付きそうな安易なビジネスでしょうね。この場合もチップがもらえるのでしょうね。ちなみに、私はそういうゴルフをしたことはありません。

 あなたが、もし、そういうビジネスに携わったとしたら、(もちろん、経営側としてですが、)またまた、稀有な能力を発揮したことでしょう。ゴルフコンパニオンの要素を取り入れて、なおかつ、前述の肝心なゴルフキャディーの基本の部分を徹底させて、世間の評判を勝ち取る。それが、あなたのスタイルであると思います。だから、ちょっとした視点を変えれば、どんなことでもビジネスになるのでしょう。もし、その1つでも成功したら、世の中は、人生は、楽しいものになるのでしょう。

 あなたがプロデュースしたカクテル・マカロンは、味を再現するのがとても難しいと思いました。私もスイーツ事業を考えたことがあります。まずは、と、クレーム・ブリュレを作ってみようと思いました。どうも、クレーム・ブリュレは、フランスで生まれて、イギリスで育ったスイーツみたいです。名前が、とてもフランス的でいいと思います。材料を揃えました。卵・ミルク・生クリーム・バニラビーンズ・カソナード(フランスの砂糖)。それから、バーナーが要ると思ったので、調金細工用の強力なものを購入しました。ここから、レシピどおりに、トライしてみました。あ、そうそう、もちろん、オーブンが要りますが、マックスバリューで1万円で買ったシャープのオーブンレンジを使うことにしました。卵の白身を掻き混ぜるのに、労力と時間がかかりました。ピザを最初から作る時もそうですが、ちょっとした料理を作る場合、必ず、通らなければならない面倒なハードルがあります。ピザの場合は、生地を作るのに、小麦粉を何度も何度もこねて、いい感じにする作業があります。おいしいかおいしくないかは、気合いの入れ方によるといってもいいぐらい力のいる作業です。クレーム・ブリュレも卵を掻き混ぜるのにそうとうな労力を使います。もっとも、今では、電動撹拌機なるものが存在しているようですが。次なるハードルは、バニラビーンズの粒々をミルクと生クリームの中に入れてかき混ぜながら、沸騰する直前まで熱することです。スイーツは、とにかく微妙なことが多いです。それから、ある温度まで下がったら、撹拌した卵を加えるわけで、これは、温度が高ければ、卵が固まってしまうので、当たり前に理解できることですが、いわゆる経験値である何度のときにどのようにするかを守らないといけません。ずぼらな人にはまったく向いてないジャンルのことだと思います。あとは、200℃で25分とか、オーブンで加熱するわけで、ここからの出来栄えは、だれがやっても同じなのかなと思いました。ただし、最後にカソナードを振り掛けて、バーナーで程よい焦げ目をつけるわけですが、ここを、普通の砂糖をチョイスしてしまうと、本来のクレーム・ブリュレではなくなってしまうのが不思議です。また、焦げ目は一気に、しかも、強めにして、ちょうどいい感じになります。あの焦げた、つまり、キャラメリーゼの部分がクレーム・ブリュレのクレーム・ブリュレたる所以ではないでしょうか。あの部分だけ、いくつも製造して、食べてもいいと思うぐらいです。さて、外側は、それで何となく素人がやっても、様になっていますが、問題は、中身でしょう。オーブンで焼くときの、クレーム・ブリュレを入れる容器の深さとか、非常に問題になると思いました。この部分が経験がものをいうところだと思いました。

 容器の深さにより、出来上がりの状態の中程の柔らかさが微妙で、これで、すべてが決まると言っても過言ではないでしょう。スイーツの研究をしたことがない人は、自分も含めて、固める方法について、まるで素人であることがわかりました。これは、他の料理には、あまり該当しないことだと気が付きました。スイーツで事業を起こすとは、まさに、そこをクリアできるかどうかにかかっている。

 クレーム・ブリュレを通販で商品化する。ということを試みようとしたら、まず、あの中身の柔らかさを何とかしなければならないという難題にたどりつく。同じ様に、カクテル・マカロンは、お酒の量でクリームが固まるか、固まらない、の難しい問題が発生する。素人は、ペクチンとかコーンスターチなるものの存在や、それが、どのような特性を持っているかを知らない。ここからは、まさに、工学部の化学の実験に非常によく似ていると思いました。パティシエという職業は、もしかしたら、かなりの理系のセンスが要求されるのではないでしょうか。クレーム・ブリュレのスイーツがクレーム・ブリュレの体をなしていなくても、あのクレーム・ブリュレの特徴をうまく表現できていれば、クレーム・ブリュレのスイーツとして十分市民権を得られると思います。すべては、「ほどよく固まれば」というキーワードに尽きます。カクテル・マカロンはというと、たとえ極限の状態であっても、マカロンの体をなしていればいいわけです。

 私が経験した工学部での化学の実験ですが、化学が専門の専攻ではないので、いわゆる教養課程での、実験であり、しかも、レポートを提出するための実験で、答えがわかっているという前提であったため、最終的には、時間こそかかりましたが、納得のいく作業でした。たぶん、これが、化学が専門の専攻であったり、薬学部とか理学部であったとしたら、答えのない実験を強いられて、それこそ、何日も何日も同じようなことを繰返しているんだろうなと思います。実に、気が遠くなるような話です。そういえば、iPS細胞を発明したY教授も、気が遠くなるような組合せの研究で、ラッキーにも、最終的に絞られた24種類の遺伝子から、結果として見つけた4種類の遺伝子を発見したわけです。これが、ラッキーではなかったら、ずっと、雲をつかむようなことをし続けなければならなかったでしょう。iPS細胞の場合は、それが社会に及ぼす影響は、計り知れないものがあります。しかし、その規模がどうであれ、その影響力がどうであれ、化学する者の喜びは、同じであると思います。そういえば、会社を作って、最初のころ、増田君という社員が入ってくれました。今、思うと開発担当の社員の記念すべき第1号で、よく、ウチの会社に入ってくれたなあと、不思議というかしみじみと懐かしく思えます。実は、増田君は、ともあれ化学(バケガク)を専攻していた人間だったのです。スタッドという会社は、コンピュータのソフトを開発する会社であったわけですが、私は機械工学専攻で、増田君は化学専攻、必ずしも、コンピュータのソフトは、コンピュータの専攻でなくてもいいみたいな感じです。画家は描いた絵の上からまったく違う絵を描き、陶芸家は気に入らない出来の作品は叩き潰す。そして、プログラマーは1度作ったアプリを捨てて、また最初から作り始める。人間は、実にスクラップアンドビルドが好きな動物である。

 人間の生きることの原動力の本質は、スクラップアンドビルドに至る過程の中で、様々な刹那とロングタームに直面し、至高の快感を得たり、悩んだりすることにあると思います。刹那とロングターム、日本語いや梵語と英語の対比? このような比較は、間違いだという指摘は、当然あると思います。刹那の反対は、未来永劫の永劫であり、ロングタームの反対は、ショートタームである。しかも、刹那は一瞬を表し、ショートタームは短期間を表す。明らかに食い違う。では、なぜ、刹那とロングタームという表現をわざわざ、したかというと・・・。

 陶芸家は気に入らない出来の作品は叩き潰す。その作品は、窯を開けてはじめて、叩き潰すかどうかの判断ができる。しかし、陶器の仕上がりの出来・不出来については、土を練って、ろくろを用いて成型したり、と、刹那でない部分が大半を占めたあと、絵付けの一瞬の筆の入れ方・一瞬の釉薬の掛け方の刹那が待っている。そのとき、「あぁ」とでも、声が出てしまえば、思い通りの仕上がりは期待できない。ものを書く仕事もそうだ。文章が長くなればなるほど、何度も読み返して、壁塗りのコテを細かく使って修正するかのように、文を修飾したり、削ったりを繰り返す。一瞬、ナイスなフレーズが空から舞い降りる。宝石を散りばめるかのごとく、すばやく挿入する。刹那。100m走者が、スタートからゴールまで、力のかぎり走る。この10数秒をロングタームとすれば、この間に、驚くほど多くの刹那に遭遇する。まずは、スタートの合図が耳に聞こえるまさにその瞬間にスタートを切れたとしたら、至高の満足感が、そこで得られる。また、キック力を有効に、スターティングブロックに伝えることができたか? 前傾姿勢から、スムーズにトップスピードに乗れたか? フィニッシュは? アスリートは、この100mの刹那のために、毎日毎日、トレーニングを重ねる。実に、ロングタームな。

 スクラップアンドビルドの過程で、さらに、いろいろなテクニックが加えられる。これもまた、実に面白く興味がある。たとえば、現実味を出すために、マカロンのクリームに果皮や果肉を加えたり、ゼリーを挟んだりと。実際、クレーム・ブリュレにもチェリーブランディとチェリーの果肉を加えて作ったことがあります。結果は、逆効果でした。つまり、味がボケてしまいました。素材が高級かどうかは、ひょっとして、あまり重要な問題ではなく、相性がいいか悪いかの方がかなりの問題になると思います。スイーツというのは、本当に、奥が深いと思います。ところで、コーンスターチは、文字通り、とうもろこしの澱粉であり、洋菓子を作るときに使用されているようです。一方、片栗粉は、その昔、ユリ科のカタクリからとった澱粉だったものを、今では、じゃがいもからとるようになったもので、主に和菓子を作るときに使います。この洋菓子と和菓子の違いはいったい何なのでしょう。これに関しても、逆にしたらどうなるかとか、やった人がいたら、聞いてみたいものです。ペクチンはというと、ペクチン酸という酸で、食品添加剤ということらしいです。ゲル化剤として用いられるので、何に対して固めることができるのか、それこそ、実験しないとわからないのではないでしょうか? といっても、パティシエとして勉強をした人ならわかることなのでしょう。カクテル・マカロンは、何と言っても、お酒の量について、何度も何度も試みないと完成をみないわけです。ちょっと考えただけでも、お酒の量とアルコールの関係・それによるゲル化剤の量・それによる味の変化と、かなりのファクターの組合せになります。かなりのファクターが存在すると、相関関係を表すグラフがいくつも作られ、1つの論文を形成できてしまう。

 私のこどもリサが、夏休みの自由研究のネタに悩んでいた年があって、誰も試したことがなかった「グラスハーブ(ワイングラスに液体を入れてグラスのフチを指でこすって音を出す)」について、やってみたら、ということで、実際にやってみた。グラスに入れる液体の量と奏でる音の関係・グラスに入れる液体の種類と奏でる音の関係。こどもは、幸いにして、ピアノの練習をしていたので、音感に不安は無かった。用いる液体も、比重と粘性を考えて、水・アルコール・酢・オイルなど。酢を用いたとき、リサには、たまねぎぐらいのインパクトがあったのだろう。折も折、夏休みであったので、海に行くとき用のゴーグルを付けての実験に。思わず笑った。どの実験のときに、どの要素を固定するかは、リサが考え付くことではなく、工学部で実験の手法を習得した人間ぐらいでないとわからないことであり、それなりのレポートをまとめたら、見事に表彰されました。液体の種類で、音程が変わることは、ほとんど認められませんでしたが、液体の量と音程には明らかに関係がありました。小学生の実験だったので、それぐらいでも、優秀なものになったのでしょう。

 実験の手法を習得した人間は、実は、工学部以外にもいっぱいいます。むしろ、工学部以外の人の方がプロです。医学部・薬学部・理学部・工学部。その中で、工学部と理学部の違いって? 唐突な質問。ではありません。私が、将来、進むべき道を考えるときに、父親が、一言だけ言い残していったことばが、どうも、引っ掛かっていました。「これからは、目に見えないものを扱う職業に付いた方がいい。」がそれでした。小学校4年生のときの父兄参観会で、「将来、何になりたい?」のテーマの授業で、私は、「プログラマー」になりたいと答えました。その当時は、コンピュータもプログラマーも、ほとんど認知されていません。そう発言したのは、プログラマーが、目に見えないものを扱う職業に違いないと思ってのことだったと思います。ただ、その後、目に見えないものは、私の中では、電気か磁気か気体ぐらいかなというぼんやりとした感覚が形成されました。父親の勧めをまともに捉えたとしたら、進路は理学部で物理をやるか工学部で化学をやるかだったのだろうな。プログラマーは、どうも該当しない。結局、進路として選択したのは、思いっきり目に見えるものを取り扱う工学部であった。あとで気付いたことですが、クリエイティブという感覚が、小さいころから存在していたに違いない。

 ものを造ろうと思ったとき、ヒントは、実は、そこら中に転がっている。うなぎパイは、言わずもがな、誰もが知っている「夜のお菓子」。春華堂という会社で製造している。先日、パーキングエリアの売店で、パッケージがそっくりな春華堂の製造ではないうなぎパイを発見した。パクリは文化? 「パクリは文化」は、これから、執筆したいテーマのひとつですが、その話とは別に、ご当地のお土産のお菓子で、パイは定番。なんと「ふなずしパイ(琵琶湖)」なるものも存在している。うなぎパイの製法は企業秘密。しかし、パイの製法そのものに、ものづくりのヒントは存在する。うなぎパイの場合は、うなぎの骨などを粉末にして、パイ生地に練り込んで作る。ふなずしパイが、ふなずしを粉末にして、パイ生地に練り込んで作るのか、粉末ではなく生をペースト状にして練り込んでいるのか、よくわかりませんが・・・。臭気(悪臭)の強さでは、世界最強のシュールストレミング(缶詰の中でニシンを発酵させて作ったもの)を使った実験を見たことがあります。そもそも、臭気の強さという切り口で、いろいろな食べ物を比べると、以外と、納豆・くさや(焼いてないもの)・鮒ずしは似たようなものなのですね。シュールストレミングがダントツであるのは間違いありません。シュールストレミングをミキサーでペースト状にし、シュールストレミング饅頭・シュールストレミングクッキー・シュールストレミングパイの3種類を作ったところ、饅頭は臭くて食べられない。クッキーもちょっと勘弁。それなのにパイは食べられるという評価となった。この話を聞くと、「ふなずしパイ」は、ふつうに、おいしいお菓子なのだろうなと思う。なぜ、パイにすると食べられるのだろうか? からくりは、こうだ。饅頭は製造時、100℃まで加熱される。クッキーは180℃、パイは200℃。この温度の違いもあるが、それよりも、パイ生地は薄いものを重ねてあることに最大の理由があった。つまり、薄いがゆえに、熱で水分が飛ばされ、それとともにニオイ成分までも飛ばされていたのである。中華でも、臭みのある食材は、中華鍋で、かなりの強火で、水分を飛ばす。同じだ。

 スイーツを作るには、生または、液体状のものを加熱して、水分を飛ばし、さらに、粉末にしたうえで、生地に練り込むのが、もっとも近道である。ここで、注意しなければならないのは、ニオイ成分まで飛んでしまうということである。クサイ成分は、飛んでいいわけであるが、いい香りの部分のニオイ成分は飛んでもらっては困るわけで、今度は、香りを抽出したエキスが必要である。スイーツは、奥が深すぎる。使おうとしているひとつの素材をまるで違うものに一旦、変えておいて、それも、違う方法で、2つも3つも生成し、あとで、混ぜ合わせる、みたいな、厄介なものだ。スイーツを開発するこの過程を見れば、もはや、理学部・工学部と言っていられない。理学部は、素材の成分や性質について追及することはできる。工学部は、それを利用して、その素材の特性を生かしてものを作ることが得意である。しかし、素材の知識とその応用の能力は、もったいないと言えるほど、分断されている。理学部と工学部は、融合して、新たな学問、創造科学部みたいなものを創設しなければ、日本は、さらなる発展を遂げられないのではないだろうかと思うのである。もし、そういう学問があるのなら、もう一度、学問をやり直してもよいと思う。

 いずれにしろ、カクテル・マカロンは、一般の素人のパティシエにはできないかもしれません。粉末を利用して、エキスを利用して、それで終わらない、アルコールはどうする? アルコールを封印する方法があるのか?それは、ウィスキーボンボンなのかも知れない。それが完成したら、その次、こんなのはどうでしょう。カクテル・ブリュレ。

 ともあれ、あなたの生きることの中のファクターをまるごと詰め込んだカクテル・マカロン。味の追求は、言うまでもなく、本当は、それに関わるすべての演出をみんなにみてもらいたいというのは、手に取るようにわかります。昔、ステーキのレストランをやりたいとか、割烹をやりたいとか言ってたことがありましたね。それもみんな、味の追求というより、それに関わるすべての演出をみんなにみてもらいたいというのが本音ではないでしょうか。しかし、やっぱり、収益が期待できる事業を1つは確保していないとなかなか難しいことですね。名古屋の松坂屋でオイスターバーに入って、カキの料理を食べましたね。都会は、そんなことが成り立つのだと感心させられました。いろいろな事業を考えるとき、ネットが普及していなければ、場所も考えなければならない。ということを思うと、今の時代は、やる気次第で、本当に何でもできるんだと実感しています。

 妬み、恨み、陥れ、諍い、争い、どれをとっても、いい響きではありません。しかし、人間である以上、ちょっとしたことで、それらのことに関係しなくてはなりません。最近では、中国との間で尖閣問題があったり、韓国との間で竹島問題があったり、ロシアとの間で北方領土問題があったり、と、大きな問題が次々と勃発しています。大きな集団で起こる争いごとも、小さな集団で起こる争いごとも、実際には、同じようなもので、がまんできるか、がまんできないかということに尽きるわけです。北朝鮮が牙をむくのは、人々の餓えを抑えるための方策が自国内にないため、他の国から、何がしかの援助を受けようとして、しかも、その方法が変質しているからです。中国が尖閣諸島を欲しいのは、やはり、自国の人口を養っていくための資源を手中に収めたいからで、つまり、有能な領土が多ければ多いほど、安心できるということに他ならないわけです。みんな苦悩し、ストレスを感じながら、生きているのがわかります。

 会社の中でも、家庭の中でも、同じようなことが起きています。少しでも、今よりもいい状態を望むがゆえに、不安を感じ、その不安を無くそうとするために、争いをし、時に歪み合うわけです。ストレスを感じることなく、のびのびと自由に育てられた犬などをみていると、本当に、しあわせを感じることがあります。それは、実は、その光景をみることによって、自分もそうであったらいいなという幻想をそこに見い出して、つかの間の安らぎを得ているのです。ペットとは、愛玩動物とは、そばに置いて可愛がる目的の動物だとされています(癒し)が、愛玩動物たちが、この世に生を受けた目的とは、可愛がるだけではなく、幻想を見させてくれることも、表面上に出てこない第2の目的のような気がしてなりません。

 あ、そうそう、北朝鮮がまた、何かを企てているようです。今度は、核兵器を積んだミサイルを本当に使うぞ、と言わんばかりのパフォーマンス。過去に結んだ約束事を、次々と破棄しているようです。今回は、場合によっては、アメリカも黙っていないらしい。中国がある意味、北朝鮮の面倒をみることを放棄したことに加え、前回、北朝鮮がミサイルの到達距離をアメリカまで可能としたことと、さらに、核爆弾のサイズをかなり小さくすることに成功したことなどを総合して考えると、アメリカは、すでに、北朝鮮を空爆する用意があると言われています。しかし、これは、北朝鮮の国内の国民が生きていくためのモチベーションを高めるためのパフォーマンスだとも言われています。いずれにしろ、非常に厄介なことです。

また、面白いことに、時を同じくして、日本では、愛知県沖でメタンハイドレートの試掘に成功したとの報道がありました。メタンハイドレートの燃焼する部分だけを取り出し、海底から、海上へ引き上げ、そこで燃焼させる映像が公開されました。このことは、日本は、日本の周りにあるメタンハイドレートから、自国内で消費する100年分の天然ガスを手に入れたことと同じであるということを意味しているのです。この技術は、世界に先駆け、日本が初めて成功したものです。やはり、日本人の技術力はすごいということを世界は認めざるを得ないでしょう。ただ、すぐにマネされるのは、いつものことですが。かといって尖閣諸島は尖閣諸島で、また違う意味での資源、石油やレアアース、魚などがあり、日本も、中国も欲しいわけです。自然エネルギーを求め、それを実用化することは、とても時間がかかることです。オランダ製の風力発電用の風車がまた、1基、根元から壊れました。それは、7年前に輸入して設置したもので、耐用年数が10年であるのに、あと3年を残して壊れた原因は、実は、日本の気候にありました。それを製造した会社はすでに倒産しているわけですが、日本の風を実に甘くみていたわけで、そういったものを作るのは、やはり、日本のメーカーでないとだめであるということを暗に物語っているのだと思います。ひとむかし前の自動車もそうでした。イタリアの自動車が雨漏りしたのは、有名な話です。そのオランダのメーカーの風力発電機は、日本の中に100基ぐらい存在しているらしいので、非常にリスクを伴っている状況であると思えます。自然エネルギーはそれだけではありません。太陽光エネルギーもメジャーです。しかしながら、日本は、それ以外の意外なものからエネルギーを作ることを試みています。藻から油を抽出して、自動車を動かすのは、実にオシャレだと思いました。それには、追いつきませんが、天ぷら油の廃油を回収して自動車燃料にするようなことは、実用化しつつあるようです。廃天ぷら油から燃料を作るのは、面白いことに、廃天ぷら油から石鹸などを作る会社がやっているようです。

 太陽光エネルギーについては、また、面白い統計資料が発表されています。10Kw以上の太陽光発電設備導入量を市町村別にみると、導入件数のトップは、実にH市だそうです。全国の全市町村でトップとは。何で? と疑問に思う人はたくさんいると思います。それには、納得できる理由がありました。全国の年間日照時間ランキングで、H市はトップ5の常連。太陽光発電の最適地である。ということです。それに加えて、平成の大合併後のH市には、養鰻池の遊休地が、至るところにあることに、ある企業が目を付けた。一時期、ソフトバンクも太陽光発電に参入するといううわさ話もありましたが、まさに、そのソフトバンクでした。ソフトバンクグループのSBエナジーと三井物産が共同で「ソフトバンク浜松中開ソーラーパーク」を建設予定。敷地面積53万平方メートル。それは、2004年の「浜名湖花博」で駐車場に利用された場所である。この土地に発電能力が43.4Mw(メガワット)のメガソーラーを建設して、2016年度中に運転を開始できる。ということだ。しかし、このソーラーパークのせいで、全国トップであるというわけではない。2016年稼働予定のものは、統計の数字に入っていない。私も、その界隈はよく通行したことがあるが、実は、もともと養鰻池だったところのほとんどに、太陽光発電設備が建設されている。または、工事している最中である。その数といい、その規模といい、実際に見れば納得できる。

 H市と言えば、昔から工業のまち、ものづくりのまち、やらまいかのまちであったはずなのに、太陽光発電で脚光を浴びるとは。だれも想像しなかったと思います。世の中のためになるとは言え、楽器・オートバイなどを中心にした産業の全体が元気がない状態を、少し寂しく思うのは、私だけでしょうか?

 トリプルイリュージョン、いや、正確には、ワンリアル・アンド・ダブルイリュージョンとでも表現したらいいのかな。幻・幻想・空想・妄想・イリュージョン・デリュージョン・ファンタジー・ミステリー、似たようなことばがたくさんある。中でも妄想ということばは、人が揶揄される状況でよく使われる。妄想とは、精神医学から来ているらしく、その分野と特に親和性が高い。ゆえに、他人の行動や言動などに対して、しばしば、からかう意味でのジョークとして用いられる。 今、ワンリアル・アンド・ダブルイリュージョンと表現したのは、どのように考えても、妄想ということばが馴染まないからだ。リアル、つまり、実際に起こったことは、1つしかない。しかし、人類が生きるうえでは、かなりの頻度で、非常に複雑な状況を孕むことがある。その結末は、単なる誤解としての決着であったり、ときにサスペンスであったり、ときに離婚であったりするのである。1つの事実に対して、2つの幻想が生まれる。ここで、2つの幻想と表現したが、いつも、1つの事実に対して、幻想が2つということではない。ダブルということばの響きは、なかなか興味をそそる。ダブルベッド、当然のことながら、こどものころは、ベッドの用途は、シングルベッドしか想像できない。ものごとがわかってきて、やっと、ダブルベッドの存在がわかる。ダブルスキャンダル、二股をかっこよく言ったら、このような表現になるのかもしれない。要するに2つの熱愛を同時に進行させるのである。必ずしも、不倫である必要はない。考えようによっては、カッコいい。ダブルブッキング、2つのスケジュールを同じ時間帯で設定してしまった。と、間抜けな話であるが、これも、考えようによっては、その人が忙しく人気者であるのかもしれないという別の見方も存在する。ということで、ワンリアル・アンド・ダブルイリュージョンのダブルはあまり意味を持たない。また、イリュージョンというとマジックとか芸術とかを想像してしまう。が、ここでは、単純に幻想である。さらに、おとなしく、想像とでも言っておこう。

 会社を経営していると、しばしば、このようなことに遭遇する。しかも、ベンチャーであればあるほど、その頻度は高い。よく耳にするキーワードは、乗っ取り・M&A・集団離脱・詐欺。実際に起こった話は、まさに小説より奇なりである。

 7年程前に、とある営業マンが入社した。それなりにできる営業マンであった。営業というのは、貪欲でなくてはならない。それもそのはず、会社の中の営業マン以外の社員の分の食いぶちも稼いでこなければならないからだ。人類の誕生から、原始時代を経て、人類は、採取・農耕・狩猟を経験してきた。営業はまさに狩猟である。そんなことを考えたこともない人も、あらためてじっくり考えれば、誰もがなるほどと思うほどわかりやすい。できる営業マンは貪欲である。これがまた、難しい話を含んでいる。会社に入るときは、誰でも、会社に対して忠誠を尽くします、的なことを具体的に口に出して言う。その会社が、傍から見て魅力的であれば魅力的であるほど、強い口調で。でも、本当にそうなのか? 実際には、あり得ない。営業は狩猟。貪欲さは、稼ぐことに対してはもちろんのこと、生きることに対しての貪欲さも持ち合わせていることを忘れてはならない。強ければ強いほどリスクも高くなることを忘れてはならない。しかも、そのリスクは複雑多岐にわたる。この営業マンの場合は、踏み台または、副業を行うことによる副収入を手にすることにあった。私は、公務員をしていたことがある。公務員の服務規定の中の副業の禁止は、民間のそれよりもはるかに重い意味を持っているので、副業をするという感覚は、まったく無かった。まあ、家庭教師ぐらいは、やっていましたが。民間にもどって、この副業を行うことによる副収入については、実は、数人に遭遇している。みんな生きることに貪欲なのである。ぼーっとして生きてはいない。いつも、攻撃的に獲物を狙っているわけである。もちろん、狩猟をしている最中に、採取も行うことは、実質的に可能である。ここでいう採取とは、農耕にも似ているが、もともとは狩猟から始まる。

 月曜日、それは、発覚した。営業マンの机の上に会社の仕事とは、まったく無関係な資料が置かれていた。会社のコピー機を使ってプレゼンの資料を作っていたのは、すぐにわかった。それが、何者なのかは、プレゼンのキーワードから容易に理解できた。こんな仕事があるんだと呆気にとられた。しかし、そのキーワードから、いろいろと調べていって、やっと把握できた。貪欲は、ときに、得てして、能力以上の能力を引き出す。そのキーワードはTVバナー。TVバナーとは、サービスエリアとか、スーパー銭湯とか、不特定多数の人が集まる場所のTV放送の映像を一旦、データとして扱い、その画像とスポンサーからのコマーシャルを画面下部に帯で流すという仕組みのものである。それで、そこからは、容易に想像がつくが、そのバナーに掲載したいと思ったスポンサーから、掲載料金を頂くということである。このプロダクツ及びプロジェクトが成り立つというのは、地デジ、つまり、TVの映像をデジタルで処理しなければならないということから、TVチューナーの技術が発達し、たぶん、いつものことで、中国などが、その技術を利用してTVの画像をリアルタイムに加工することができるようになったからではないかと思われる。似たような話はいくらでもある。EV(電気自動車)もそうだ。エンジンを積んだ自動車は、ガソリンエンジンなどを作る技術があって初めて自動車にまで発展できたわけで、そうは簡単に、素人集団が手を出せるものではなかった。もちろん、そこまでの技術を独自で開発したメーカーは、実際、航空機さえも手掛けることが可能であった。有名なメーカーは、日本では、富士重工であったり、三菱であったり、スウェーデンであれば、サーブであったりと。それは、男にとって、とっても魅力的なメーカーであることに間違いない。サーブのエアロなんかは、ほぼ、航空機といっても過言ではない。でも、ボディが非常に大きいので、実用的ではないので、購入して乗ってみようとはなかなか思わないのも事実である。実際、サーブのエアロがその辺を走っているのを見たことがない。たぶん、ポルシェのカイエンもその部類であると思うが。で、EVの話に戻るが、EVはモーターで走るため、部品というか、ユニットというかを寄せ集めてうまいこと組み合わせて閉じ込めれば、自動車が完成するわけで、あと、クルマが売れる要素はと言えば、デザインと価格なんだろうなと、簡単に想像がつく。それこそ、食品メーカーが、住宅メーカーが、新規参入しても成り立つかもしれない。考えてみれば、すごい時代になったものだ。でも、まだまだ、道は険しい。なぜなら、最近の出来事で言えば、ボーイング787という最新鋭のジェット機が、相次いで、リチュームイオン電池のトラブルを起こし、運航停止になったなど。技術の見切り発車的なことも見られるからだ。あの事件は、リチュームイオン電池が過熱して発火したらしいが、実際に製造したメーカーがどこであるかとかが報道で公表されていないのはなぜなのだろう。ボーイング社が、いろいろな国から部品を調達して787を製造しているため、公表すると国家間での影響が大きいのかもしれない。いずれにしろ、最近では、腑に落ちない内容の報道である。ということは、EVがモーターと電池の組み合わせでできるとしても、価格競争にさらされて、粗悪な電池を積んだとしたら、自動車の世界でも787のようなことがおこるかもしれないということである。

 で、話は戻るが、TVチューナーの技術を利用して、TVの下部にバナーを流すのは、需要はどうなのだろう。まあ、もっとも、それのお客さんをとってくるのが営業であるわけであるが。その会社も、たぶん、自社の営業マンを抱えて事業を展開していたのであろうが。想像であるが、貪欲な営業マンであれば、他の会社に属していても、副業で回って仕事をとってくる的なことを交渉していい条件を引き出し契約することは可能なのだろう。幸い、幸いというのは、営業マンからみた好都合のことを言っているのだが、会社は、全国を相手に商売を行っているので、しかも、全国の市町村役場に出向かなければならないので、真っ当なルートを通って、全国を相手に営業ができる。もちろん、本業の自社の製品を売る以外の目的も達成できるのである。このような恵まれた環境が与えられれば、あとは簡単。ここからは、誰でも想像がつくが、本業の自社製品の営業に行ってきますと言って、その通り道にあるサービスエリアとか、道の駅とか、スーパー銭湯とかに立ち寄ってTVバナーの営業を行えばよい。もし、こんなビジネスが簡単に成り立つようであれば、今でこそ、ブームのピークを通り過ぎてしまっているが、ご当地キティちゃんに代表されるようなご当地向けにリメイクしたお菓子や小物を販売してもらうということをシステム化して、ビジネスにすることも可能であっただろう。もちろん、システム化するためのメリットを打ち出し、アピールを行わなければならないが。こじつけの理由はいつもあとで考えればいい。

 果たして、この営業マンが実際に、そのTVバナーの会社と契約し、報酬を得ていたかどうかはわかっていないが、未遂としても、確信犯には違いない。一般的に会社は、そのようなことに対してどのような対応をとるのであろう? 究極の方法は、まともに、その会社に電話して聞きだす。である。しかし、すでに、打ち合わせができていて白を切られる、など、なかなかその方法は取りにくいのも事実である。それでは、まず、様子をみる。これが、もっとも一般的な方法である。次に様子の見方であるが、これもなかなか難しい。GPSの技術は、かなり、進化している。が、簡易に、長期に、追跡を行う方法の選択肢は意外と少ない。用途は? その多くは、犯罪調査・浮気調査の探偵向けだったりして。何が難しいかというと、一般的に売られているものの充電式のバッテリーが、2、3日しかもたないというどうしようもない事実。充電式のバッテリーは、ノートパソコンやスマホでも、ヘビーユーザーなら、1日しかもたない。これぐらいが常識なんでしょうね。では、充電式のバッテリー以外の方法はというと、クルマの場合、シガーライターの電源から、常時電気を供給するという方法がある。しかし、これはNG。なぜなら、GPSロガーを合意ならば配線が見えていてもよいが、合意でなければ、配線が見えていてよいわけがない。では、どうするか? 方法は、エンジンルームのバッテリーから配線を伸ばし、GPSロガー本体を車内に隠さなければならない。これは、結構、専門的な作業を伴う。つまり、クルマが自由になる立場でなければ、事実上、この作業は無理である。さらに、GPSロガーのデータは、無線で飛ばすことができなく、GPSロガー本体の中のメモリに貯め込まれるため、頻繁に記録を分析しなくてはならない。一般的にいうとこういうことになる。労使が合意のもとで行っている運行記録は、トラックやダンプカーやバスといった人や物を運ぶのが目的の会社が行っているものに限るということだ。浮気調査などは基本的に、クルマは他人のクルマなので、設置作業ができなく、充電式のGPSロガーをワンポイントで仕掛けるしか方法はない。余談ですが、社員の中に趣味でGPSロガーを実際に使っている人がいました。用途はというと、自動車や自転車、バイクで行ったところを自動的に記録していくということらしい。あくまでも趣味である。しかも、だいたいが、グーグルマップにプロットできるため、記録としては、かなり役に立つものとなっている。ということは、その社員は、ある程度、知識があると思ってよい。充電式のGPSロガーについては、もっと需要があってもいいような気がするがどうしてなんだろうか? あ、そうそう、携帯のGPSは、もっと、難しい。というのは、位置を記録するわけではなく、受け手の本人の同意があって初めて位置をつきとめられるということである。だから、主な用途としては、家族や子どもの所在を明らかにすることのようだ。この営業マンは、主に会社のクルマで営業に出かけていたので、エンジンルームのバッテリーから配線を伸ばし、GPSロガー本体を車内に隠すタイプのものが採用された。こうして、毎週、運行記録を確認することが始められた。案の定、明らかに、本来の営業ではなく、TVバナーの営業で立ち寄ったと思われる形跡があった。さらに、驚いたことに、実家に度々、泊っていた。宿泊費は8,000円の定額が支給されていたため、実家にタダで泊れば、その8,000円は、まるまる懐に入るという寸法だ。これによる収入は、狩猟・採取・農耕のうちのどれであろう。何だか面白い。答は搾取?

さて、この営業マンの結末であるが、年末のボーナスの振込額を確認して、クルマの運転中に会社に電話を掛けてきた。開口一番、「何ですか? このボーナスは?」だった。当然のことながら、経営者としては、ペナルティを与えていたわけで、これは、当然といえば当然であり、胸に手を当てて、冷静に考えてみればわかることであるのに。さらに、「携帯に何かGPSみたいなものを仕掛けているのか?」と、かなり、パニックになった感じで食ってかかってきた。まず、この会話からわかることは、やはり、一般的に、GPSロガーを他人に仕掛ける方法は、ほとんど認知されていないということだ。携帯になんか仕掛けることはできないのだから。人間の心理として、悪いことをやっていれば、どうして、バレたのだろう。から始まって、どこまで、バレているのだろう。どのようにして、バレたのだろう。もしかして、出張の時に、実家に泊まったのがバレた? とか、東北に出張に行ったときに、彼女を助手席に乗せて一緒に行動していたのがバレた? とか。と、次々と妄想を描き、パニックになるのは、当然だと思う。このボーナスは? と発したのは、それもそのはず、思っていた金額の5分の1ぐらいしか支給されていなかったからだ。とどのつまり、こんな会社を辞めてやる。であった。

 できる営業マンは、基本ができているのは確かである。やはり、それなりの研修を受けている。管理者研修地獄の10日間というのがあった。今でも、あると思う。何でも、ある有名なブライダルの会社の女性の社長さんもその研修を受けたことがあるらしい。私は、その研修を受けたことはないが、3日間のダイジェスト版には、参加したことがある。研修のコース名は社長養成コースであったように記憶しているが。まあ、地獄の10日間と似たようなことをやっているというのは、地獄の10日間も同時に行われていたので、見学することができたからだ。3日間のダイジェスト版を受けた人の中には、地獄の10日間も受けた人がいた。それは、どのような立場の人かというと、将来、会社の社長になる人で、自分を高めようと思っていた人であった。話をしたが、ずいぶんまともな人物であった。で、その種の研修を受けた人は、それなりに、見分けがつくようになった。また、営業マンは営業マンの専門研修で得た知識をポロっとひけらかす。例えば、営業するスタイルの中で、客先での始めのあいさつをオープニングといい、最後の締めをクロージングというのだが、実際、何を言うべきかは、研修を受けた者であれば、結構、決めフレーズを使うことができる。しかも、聞きかじりで、実際には、まだ、その会社の事情を詳しく知らなくても、ある程度、話のつじつまが合っているのがすごい。そして、相手のことに気を使いながらというところも、感心する。地獄の10日間の中で、人生の応援歌みたいなのを、人前で、大声で歌うカリキュラムがある。あれは、かなり恥ずかしい。何でも、この研修の本番では、静岡県内の、とあるJRの駅前で歌うらしい。実際は、富士宮の駅前。その場面を実際に見たことはないが、見ている方が恥ずかしいぐらいだ。というか、頭がおかしいのではないかと思われないか不思議なぐらいである。歌を歌うまではいかないが、JR渋谷の駅前でも、週1回、ある会社の社員全員が一列に並んで、今、考えている自分の考えみたいなものを、ひとりずつ大声で言うという一風変わった朝礼の紹介をTVでやっていた。どんな会社かと思ったら、企業に対して、研修をコンサルティングしている会社であった。その口調はというかイントネーションは、まさに、この地獄の10日間で耳にしたものとほぼ同じであった。このTVだけでなく、よく特集で紹介されているのも、実際、ルーツは同じかもしれない。アジ演説もそうだった。基礎からの発声練習をしてから、大声でしゃべるわけではないので、慣れていない人は、ほぼ、みんな怒鳴っているようにしか見えない。ただし、本当にイントネーションは似てくる。経験して、次に、嫌だと思ったったのは、仕事に対する心構えの10カ条を暗記して、それを、人前で、大声で発表するカリキュラムである。仕事に対する心構えの10カ条といっても、他人が考えて、提唱したものである。よく考えられてはいるが、日常使わない単語がでてきたり、いきなり、こうだと押しつけられ、丸暗記しなければならないとなると、やはり、少し抵抗を感じる。時間も限られているし。この分野は、不得意な人は、まったく不得意である。事実、3日間のコースでは、その中の3カ条で、許してもらえているのだが、将来、社長を目指している人の集まりであるにもかかわらず、何回やってもできない人がいた。仕舞には気の毒になった。これも素質がある人は、素晴らしい出来栄えである。あ、そうそう、こんなことばかりを紹介していると、こんな研修を受けたいと思う人が世の中にいるのかと思われるであろう。驚くなかれ、自費で、15万円を払ってこのような研修を受ける人がいるそうである。私には、とても考えられないが、人生で余程のことがあったに違いない。世捨て人? 大半の人たちは会社の命令で、仕方なく受けているのである。事実、1日で辞めていく人もいるそうだ。この種のことは、消防大学校の事例でも聞いたことがある。消防大学校の場合は、自分が有名大学を出て、実際に消防士の仕事に触れてみて、プライドが許さなくなったのだろう。もちろん、防衛大学や自衛隊や軍隊なら、そのような事例はいくつでもあるんだろうなあ。ちなみに、3日間のダイジェスト版の中で、楽しかったのは、20kmのウォーキング、しかも富士山の樹海で、富士山の樹海をウォーキングできるチャンスなど、それこそ滅多にない。確かに、何か冷気(霊気)を感じるような場所もあった。、それと、楽しみは、食事の時間だった。デザートこそ無かったが、唯一ビール1缶だけは許された。それは、からだに関係することなので、何も考えなくてよかったというだけの理由である。からだを使わなくて、面白かったカリキュラムもある。それはディスカッションの時間だった。これは、テーマが何であれ、反論するのが楽しい。

 いつも、感じることだが、できる営業マンとサギ師は紙一重なんだろう。言ってみれば、できないことでもできますぐらいのことを言う。つまり、はったりで勝負するわけで、それが本当にできなかったら、サギになるわけである。そんな凄腕の営業マンも何人か雇ったことがある。経営のリスクは、やってみないと本当にわからないことだらけ。自社の製品を売ってもらうための営業をやってもらっているにもかかわらず、何度かサギに合ったような錯覚を覚える。しかし、凄腕の営業マンは、しっかり、売上もあげてくるので、まだ、許せることもある。一番手に負えないタイプは、口だけは達者で、売上をあげなくて、営業に行くと言って営業しないで、堂々とさぼるやつだ。そのタイプにも3人ほど遭遇した。みんな、一見、顔は穏やかだ。共通して口は達者である。世間話も得意である。で、なんでこの人がということになる。生きる態度がそれなら、もう、それ以上相手にしたくない。サギの中にも、会社を踏み台にして、成り上がっていくタイプは、やられたという感じで、その生き方が良いとは絶対言えないが、逆に、たいしたものだと思えることもある。また、一番危険を感じるタイプは、会社の乗っ取り、あるいは、M&Aに加担するような人物である。幸いにも、実際に、具体的な話にまで展開したケースはないが、話が持ち上がり、あるところまで進行したケースはある。M&Aを仕掛ける会社は、それを生業としており、欲しいとなったら、どのような手を使ってでも仕掛けてくるまさにプロである。株式を公開していたら、間違いなくやられていたであろうと思う。その昔、経営の「け」の字も知らないとき、単なる取引条件のことでやられたことがある。絶対に、現金での商売をするように言われていたのに、立場を利用して手形での取引を強要されたことがあった。そのときは、その会社にまで出向いて行って現金払いにしてくださいと頼み込み、やむなく、割り引いて現金化してもらった。経営学を学んでいれば、たぶん基本的にわかっていなければならないことなのだろうが、経営学を学んでいなかったために、実務で、割引手形とは、一体どういうことなのかを思い知らされた。そのころ、「東京は、生き馬の目を抜く街である。」ということを教えてもらったが、東京どころか、H市なんかの田舎でもそうなんだと実感した。そもそも、M&Aに魅力を感じる人たちは、どんな人たちかというと、M&Aを仕掛ける立場の側からすれば、魅力を感じる事業に参入して、より大きな企業にしていこうとするわけで、M&Aを仕掛けられる立場の側からすれば、まさに、となりの芝生が青く見えるわけで、多少なりとも現状に不満を持っていれば、経営者が変われば何かが変わることを期待しているわけである。現実には、そんなうまい話はないのに。世界一裕福な村ということで、中国のある村が紹介された。中国で、何でそんな村が存在するのか、最初、理解できなかったが、となりの芝生が青く見えるという視点でみたときに、この村は、確かに青く見えた。もっとも、それが魅力で中国に住みたいとは、ぜんぜん思わないが。なぜ、納得できたかというとルールがすべて具体的であったからだ。その村に住んでいる住人には、村から一戸建ての家が与えられ、税金も、医療費もゼロで、村の中には、村が経営する大きな会社が複数あり、もちろん、雇用が確保され、さらに村の中には、他からの観光客用のテーマパークまで存在するという夢のような待遇が保障されていた。しかし、M&Aの場合は、どのような待遇が保障されるかとかが、まったく未知数であるため、結局、新しい経営者が「こうしろ、ああしろ。」と言えば、それに従わなければならないわけである。結果が吉と出るか、凶と出るか、開けてみなければわからない。それに、大きな会社に吸収されれば、何か具合が悪くなったときには、真っ先にリストラの対象になるであろう。そんなM&Aがらみの悪事を企む営業マンは現実にいる。そのような人種が、どれほどのことを企んでいるのか、一般的には、想像ができないと思われるので、ちょっとした、そして、様々なエピソードをここで紹介しておかなければならない。いずれも、なるほどと思うことばかりである。まず、当社の出張規定の中で、少し、紹介したが、宿泊の際は、実費ではなくて、定額の8,000円の宿泊費が支給される。つまり、5,000円のビジネスホテルに泊まれば、3,000円うかせることができるのだ。これは、別段、普通に合法的であるので、みんなその差額で、食事をしたり、あるいは、飲みに行ったりと、自由である。しかし、だからといって、出張の度に、実家に泊まって全額うかせるというのは、出張の経路からしても、無理があり、それこそ、余分なガソリン代までも、会社が負担することになる。実際にあった話は、もっとすごい。実家という選択肢がない場合、ふだんから、シュラフを用意して、ワゴンタイプの営業車のメリットを最大限に生かし、座席を倒してクルマの中で寝るというテクニックを使う猛者がいた。ただ、これは、頭を使って、合法的にやっていることなので、発覚したとしても、注意ぐらいで済むのであろう。

では、シャワーとかお風呂はいったい、どうなっているのだろう。最近のビジネスホテルはすごいことになっている。システム的にフロントを通らないところもある。そのような場合、お風呂の場所とかが予めわかっていれば、マイタオルを持って、そそくさとシャワーを浴びることも可能である。しかしながら、これは、立派な犯罪であることを忘れてはならない。ならば、と、休憩タイプのサウナという選択肢がある。これは、ビジネスホテルほどの料金を払わずとも、ゆっくりできる。実際は、マジで、そこで寝るタイプではないが、わからなければ、ビーチチェアーみたいなところで、ぐっすり寝てしまえば、よいわけである。ビジネスホテルのサービス合戦もすごい。これは、実際に、ビジネスホテルを利用していないと比較ができない。何がすごいかといえば、まず、朝食付き。それも、食べ放題、しかし、朝なので、忙しいし、たくさん食べれない。また、パンなどの質も悪い。こともあって、積極的に食べ放題のメリットを享受しているわけではない。また、先着10名様に、カレーライス1皿、無料というのもある。フロントには、本格的なコーヒーメーカーを置いて、普通にレギュラーコーヒーの飲み放題、つまり、ウェルカムコーヒーというわけである。もちろん、インターネットも部屋ではなく、フロントの近くで利用できてしまうところもある。東京なんかだと、ホテルの地階が、デパ地下みたいになっているところもあり、ジャストなタイミングで、そこに買い物に行けば、ビーフステーキ弁当みたいな値段の高いものも半額で手に入る。それと、缶ビールを1本買えば、OKみたいな。実際に、社員の待遇で、社員の目線で行動するといろいろな発見があり、なるほどと、感心させられてしまうこともある。

 さて、ワンリアル・アンド・ダブルイリュージョンの目線でみると、これらの営業マンの悪事も、いろいろな解釈、いろいろな展開に発展してしまう。GPSロガーが仕掛けられていると、それは、リアルに面白くなる。こんなことがあった。営業マンAに女性の営業アシスタントBが同行して、営業に出かけたことがある。会社では、別段、普通のことなので、だれも何も気にはしていないが、GPSロガーの目を欺くことはできなかった。高速道路を利用しての営業であるので、目的地に行くには、通常、地図で見て、合理的な、誰がみても合理的なインターチェンジで下りて、街中へと進み、目的の営業活動を行う。それは当然のことである。そして、用事が済み、帰ることになる。その時は、ピンポイントの営業であるので、もとの来た道を戻ればよいわけだが、GPSロガーは、それ以外の軌跡を示していた。つまり、帰るために、高速道路に乗るのに、1つ分、遠くなるインターチェンジに向かったのである。そこで、単純に20kmぐらいの無駄な走行のためのコストがかかってしまうのは、誰がみても明らかなことである。こういうことが1件起こったぐらいで、何も目くじらを立てる人はいないが、経営者的には、悪の芽は小さなうちに摘まなければならない、が鉄則である。もし、1件だけでなく、かなり、こういうことが横行していたとするならば、企業内で、節電、節約とばかりに余分な電灯を消したりとかをしていても、まったく間抜けである。さらに、営業マンAに女性の営業アシスタントBが同行というファクターは、イリュージョンを醸し出す。出張先の場所は、観光地の近く。女性の営業アシスタントBが、耳もとで、「ちょっと、山道でもドライブして帰らない?」とささやいたら、あなたなら、どうする? 的な話である。あとは、営業アシスタントの質にもよるが、どのような展開になるかはわからない。もちろん、何もないかもしれないし、とんでもないことになっているかもしれない。この営業マンと女性の営業アシスタントの組み合わせの泊りの出張は何かと物議を醸し出す。実際に、こんなこともあった。営業マンCと女性の営業アシスタントDが数泊のスケジュールで、クルマで営業活動をしたことがある。クルマには、パソコンが2台とディスプレイが2台、リアウィンドウから見える位置に積まれていた。見るからに金目の物である。道中、山の中の公園のようなところで、2人ともトイレに入るために公園の駐車場に駐車したらしい。まわりには、他のクルマは1台も無かったという。そして、事件は起こった。トイレからでてきたら、パソコン2台とディスプレイ2台がクルマから消えていた。というのだ。普通に考えて、その短い時間に、しかも、まわりに他のクルマがいないのに、消える? カギをかけて無かったの? ありえないことである。経営者的には、総額30万円ぐらいの損害で、当たりまえに気分が悪い。その場で、警察を呼んで、指紋でも採取したのならば、何か糸口はあるかもしれないが、車上荒らしなどは、日常茶飯事で、まず、犯人が捕まることはない。まあ、普通に怒ることはそこまでであろう。次の疑問は、では、一体何をしていたのかだ。そのころは、まだ、GPSロガーの存在すら無かったので、どこで、その事件に遭遇したのかも、本人たちの証言を信じるしかない。さらに、何をしていたかは、のちに起こった忘年会の出来事をみれば明らかであるのだが、かなりのことをイマジネートさせてしまう。忘年会の出来事とは、泊りの忘年会で朝、解散するとき、営業マンCと女性の営業アシスタントDは、自室で服を着たままではあるが、ベッドの上で抱き合っていたのである。すでに、他の社員には公認であったというのも驚きであった。数年後、営業アシスタントDは、めでたく、普通に寿退社した。営業マンCというのは、奥さんと子どもが2人、営業アシスタントDは、もちろん、その営業マンCと結婚したわけではない。この事件は、ミステリー扱いで、迷宮入りとなっている。しかしながら、パソコンがごっそり無くなったという事件は、この事件より以前にもあった。ワゴンタイプのクルマというより、最近では、あまりないハッチバックタイプのクルマの、まさにハッチバックのガラス越しにパソコンを積んでいたのが、大胆にも、リアウィンドウをハンマーのようなもので割られ、ごっそりやられた。これは、実に悪質である。単純にパソコンを盗まれただけでなく、クルマのリアウィンドウを修理する方に、余程お金がかかってしまった。もっとも、このときの会社は、駅前の飲み屋が2件入居している雑居ビルの中にあり、クルマもその周辺の駐車場に駐車してあったので、車上荒らしに会っても不思議ではないという状況だったため、たいへん反省したわけである。

 折も折、このころ、燃費がどうの、エコがどうのと叫び始める時代に突入していた。できる営業マンは、こんなことも、味方につけ、いろいろなアピールを始める。これは、天性のものなのだと思う。ちょうど、景気対策で、ETCを利用しているクルマで、土日の高速道路利用料金を無料にするという施策があった。対象となるのは、自家用車、というより普通車で、トラックとか、マジで、仕事を行うクルマは対象外であった。土日にレジャーでクルマで遠出してもらい、経済を活性化するという施策であった。つまり、土曜日の真夜中0時以降に、高速道路のインターチェンジの出口(出口で正しい)を通過すれば、高速道路利用料金が無料になるわけである。これを、どのようにアピールするかというと、こうだ。九州の福岡のインターチェンジで高速道路に乗り、静岡県の浜松のインターチェンジで高速道路を降りるというルートで、到着時刻から逆算し、九州を金曜日の正午に出て、浜松の出口で、ちょうど、土曜日の真夜中0時過ぎになるように、うまいこと調整して、帰還する。なんだか、サスペンスドラマの綿密な計画のようにもみえる。これにより、2万円ほどのコスト削減ができる。このこと自体は、会社にも多大なメリットがあるので、他の社員がいる前で、さも、誇らしげに、しかも、面白おかしく語るのである。それこそ、インターチェンジの出口でカウントダウンして、スリー・ツー・ワン・ゼロと。ETCの出口を通過したぞ、と、ばかり。この辺のアピールは、実は、普段から、悪事に頭を使っているのと、同じ種類のことであるというのは説明するまでもない。

 内部情報の流出は、いつの時代にも、日常茶飯事である。それには、いろいろなものがある。中には、国を揺るがすようなものも。防衛の中心にいる職員が、お金欲しさのため、超機密情報を外国のスパイに売り渡したなど。特に軍事産業あるいはそれに類する産業には、つきものである。そういえば、I市にあるY社のラジコンヘリコプターの設計図流出事件もあった。もちろん、一般企業でも、同じようなことが頻繁に起きている。やはり、お金欲しさに、顧客情報や会員情報を、他の企業に売り渡したりと。ああ、いつものことかと、もはや、慣れっこになってしまっている感があるが、ここのところを心配しだすとリスク対策をいくらしても、これも、危ないのではないかと、負のスパイラルに入り込んでしまう。内部情報の流出については、もう、社員を信用するしか手がないと言わざるをえない、というところに、いつも到達するのである。度々、そして、いろいろな団体が開催するセキュリティセミナーでは、セキュリティの手段として、パスワードとか暗号化とかの議論をするのが一般的である。それは、まさしく、いたちごっこでしかないのであるが、世間では、このことで、十分食っていける素地ができあがってしまっている。しかし、いろいろなテーマで講演している講師の話の中に、「こういう場合は、どうしようもないですがね。」というフレーズが決まってあらわれる。それは、「内部で管理している人間から、情報が漏れるのは防ぐことができない。」という類の内容である。情報だけではない。薬品会社で、劇薬の管理を任されていた、いわゆる管理者が、その薬品を持ちだして事件に使用したということも、普通に起きている。AV業界でも、モザイクをかけ、ビデ倫を通している作品が、モザイクなしの無修正ものとして流出するのは、今や、ぜんぜん珍しくないことである。それがゆえに、昔は、そのようなビデオは、なかなか手に入らないものとして、存在していたため、かなり、高価であったが、今では、DVDのコピー技術も進化したため、信じられないほど安価で大量に出回っている。株のインサイダー取引も内部の情報が漏れるという意味では、同様なことであるが、ただ、その情報を利用して、儲けようとするのは、かなりのリスクを伴う。それは、無修正AVの比ではない。まず、元金として、何百万円とかの単位の資金がいる。そして、タイミングもさることながら、いかに、足のつかない他人の名義をチョイスするかにかかっているといっても過言ではない。しかも、ほどよい利益と、ほどよいタイミングで売り抜かなければならない。もし、タイミングがずれ、利益がほとんど得られなかったとしたら、リスクを犯してまでやっていることが、何もやっている意味すら無くなってしまう。もっとも、利益が得られなかったとしたら、犯罪としての追求の可能性も極端に少なくなるのであろうが。お金を儲けようとして、内部情報を利用したり、内部情報を漏らしたりという行動にでるのは、人間である以上、もはや、どうしようもない。しかし、内部情報を漏らすということでは、共通していることでも、内部告発は、その背景が、まったく異なる。その種類もいろいろある。上層部がやっていることに、よほど、不満を抱いていたり、やっていることが頭にきて、爆発して、その事件が起こるケースが多々ある。ソフト制作会社でそれが起こることもある。ソフト制作会社でも、前述の薬品会社と同じで、やはり、管理者を決めて、開発しているソフトのソースを管理している。その管理者が犯人の場合には、もはや、どうすることもできない。また、他社と共同開発しなければならない場合や、ソフトの情報を提供する場合などは、最初に、機密保持契約を交わしてから、作業に入るのが当然のこととされている。しかし、これすら、紙切れ1枚のことであり、その資料の中に隠されたアイディア等が読み取られれば、直接には、情報を抜き取られていないにしても、何か似たようなものが、間髪を入れず、他社から発表されることが頻繁に起こっている。一番大きな話題となったのは、やはり、アップル社がiPadを世に出してから、すぐに、同じような操作ができるタブレットがサムスンから発売されたという事件である。この情報の流出については、会社を退職する社員についても警戒しなければならない。この場合も、その社員がいたポストとその任務の重要性を加味して、必要であれば、機密保持契約を交わさなければならない。ただ、会社に不満をもって辞めていく社員の場合には、この紙切れ1枚が、どれほど意味を持つかである。

 セキュリティセミナーで、いつも決まって、講師が脅かすことがらがある。パスワードの話であるが、一般的に広く使われているシステム、例えば、Windowsのログインパスワードとかは、それを解読するソフトが普通に出回っているという事実である。えっ、と思うようなことが、普通にできてしまうというのは、本当に驚きである。ただし、こういう事実を知らされていないと、一般的には、わからない。つまり、一般の人の大部分は、例えば、Windowsのログインパスワードをかけていれば、絶対安心であると思い込んでいるのである。

 他社との関わりのリスクと、内部の社員の悪事というリスクに、絶えずさらされながら、企業は生きていかなければならない。というのは、やはり、会社を経営してみないとわからないことである。M&A絡みに関しては、また、別のリスクを考えなければならない。社員の中にも、知恵を絞って、上に登りつめようとする者がいないとも限らない。そのような、雰囲気を醸し出す社員は、過去、何人もいたが、どれも、最終的に、思い過ごしではあったが、その話が進行している間はスリルがあった。まず、相手が、会社をいくらで買うつもりなのか? 逆の立場で考えれば、この会社の価値はいくらなのか? 皮算用が始まる。自分の側から、見てしまうと、やはり、ひいき目にみてしまうので、過去の売上がどうのこうのはともかくとして、これから将来に向けて、会社がどれほど、稼ぐ能力を持っているかなど、あること無いことをこじつけて、並べ立てるのである。実際、こういうときは、人間、一番能力を発揮するものである。M&A絡みではなく、集団離脱して、他の、同規模な、そして、類似した会社にごっそり、移る、または、新たに会社を作って、同じようなことを始める、というリスクも考えなくてはならない。意外と起こり得ることである。隣の芝生が緑に見えることに端を発するのは、前者の同規模な、そして、類似した会社にごっそり、移る、である。また、自分たちでも同じようなことができそうな気がするという勘違いに端を発するのは、後者の新しい会社を作るである。実際には、どちらもうまくいかないのが世の常である。ライブドアの例でもわかるように、企業を成り立たせるには、様々なことをコントロールしなければならないからだ。すばらしい物を作り出すクリエーターが、ベンチャー企業を作っても、よくもって3年が相場である。なぜならば、往々にして経営の落とし穴にはまってしまうからだ。また、すばらしい物を作り出すクリエーターが作ったすばらしい物は、本当に、世間に受け入れられるかは、まず、その物事をスタートしないとわからない。意外と考えていることとかけ離れていることに気付く。以前、東大の何とかという教授が、BトロンというコンピュータのOSを作って、しかも、それ用の変な形をしたキーボードやマウスまで作って公開していた記憶がある。その時の話題性は、結構すごいものがあったが、つまり、日本で作られた始めてのOSとしてなのであるが、今、どうなっているか、その話題を聞くことはない。実際、当社のソフトのプログラム開発を担当していたSEたちが、ごっそり、会社を辞めて、新しく会社を作ったことがある。後でわかったことだが、彼らは、いわゆる職人が2人でスタートした。その後、何を考えたのか当社の営業マンが1人合流した。まず、そこが大きな間違いであるということに彼らは何も気付いていなかったのである。そのような仲間でスタートすると、開発している人間は、営業という存在について、何も理解できていないので、何も売り上げていない営業マンにまで、同じような金額の給料を払い始める。それは、お友達だから、仕方がない。例えば、設立した会社が有限会社であり、資本金が300万円あったとして、2・3ヶ月売り上げが無かったら、1人20万円の3人分で60万円、3ヶ月分で180万円と、自分たちで、それぞれ、100万円ずつ出資した資本金の中から、給料を払う。だいたい、どれほど頭が悪くても、2・3ヶ月もすれば、自分たちが置かれている現状に気が付き始める。つまり、よくもって6ヶ月である。当社の設立よりも、2年程前に、知人たちが、共同で出資して会社を設立したのを覚えている。私が、会社設立前に個人で事業を営んでいたころは、その会社から、下請け的な仕事を頂いたこともある。その仕事の内容はともかくとして、あとでわかったことであるが、その会社が400万円で受けた仕事を、私は、さらに、その会社から、200万円で引き受けた。仕事の完成まで、1ヶ月かかったので、実質、月200万円の仕事であった。下請け・孫請けなんてそんな相場らしい。そのような仕事が継続的にあるのであれば、2・3年我慢して、稼げるだけ稼ぐという考え方もあるが、そんなに継続的にあるわけではない。元請けがいい金額で仕事を取ってくることができるのは、それなりの理由がある。それは、コンサルティングを引き受けていたりして、それなりの信用を得ているからだ。ローマは1日にして成らず、つまり、歴史があるからだ。それから、そのような会社は、普通に手離れが良くなさそうな仕事も、強引に手離れを良くするテクニックを持っている。例えば、その開発を行った人間は、今度、別のプロジェクトを手掛けることになって、ちょっとサポートができませんとか、いうわけである。そのことで、お客さんが困る素振りを見せれば、さらに、追加のお金を巻き上げるという、いささか、ていのいいヤクザのようなことをする。実際、大きくなっていく会社は、それと似たような生き方をしている。で、その仕事を出してくれた会社については、設立のころからを知っているのだが、始まりは、開発をする人間が4人、社長は開発を兼ねていた、というよりオタクっぽい職人、営業マンが2人という構成であった。当時、三菱のオフコンを使って業務のソフトを作るというようなことをしていたように記憶している。理由は仕事の単価が高かったからだ。もちろん、何の関係もない人が、そのような効率のいい仕事をもらえるわけがないので、以前からのお付き合いということである。それで、結局は、三菱から仕事をもらっているような感じではあったが、生々しい設立秘話を聞くことができた。やはり、共同で出資して、株式会社を作り、営業マン2人を養う。というところに問題はあった。資本金をどんどん取り崩し、つまり、売上がない状態で、給料を払い続けるという非常に辛い状況を赤裸々に語ってくれたことを思い出す。そして、ついに、給料が払えなくなった。その時、彼らは、お米も買うことができなかったそうだ。なんだかんだで、人間は、そこから、奮起するのである。今でも、その会社は生きている。が、しかし、設立当時の社長は若い年齢で亡くなった。さらに、営業マンは、何人も辞めては、入っては、を繰り返している。この部分は、どこの会社も同じ。ただ、設立のときから、営業マンであったうちの1人が、現在、社長となっている。さらに、その奥さんとなったのは、これまた、設立時に、開発を担当していた人である。これが、事実だ。世の中、そんなものなのかもしれない。さて、会社が、お客さんから信用を得て仕事をもらう。というのが、いつまで続くかというと、意外と、その信用は脆いということにすぐに気が付く。もし、永久に続くとしたら、仕事は、どんどん増えていき、ずっと儲かるという構図が描ける。しかし、会社とユーザーの関係は、製品についてだけでなく、営業マンと客先の担当者の関係、また、会社同士の上層部の関係など、いくつもの要素が、影響してくる。もちろん、接待、いわゆる袖の下も実際、横行している。中国じゃないんだからと、高をくくってはいけない。これは、人間が生きていくうえで、必ず発生することであるのだ。また、営業マンが一番、やる気をなくすのは、いわゆる天の声だ。天の声にも、いろいろ種類がある。公的機関であれば、天は、首長や議員であることは、誰でも想像が付く。ただ、最近は、世間の圧力の関係で、首長が声を出すのは余程のリスクを覚悟のうえであるらしい。

 中国では、賄賂が横行している。というのは、誰もが知っている事実である。数年前、ある機会があって中国の江蘇省南部に位置する常州市のIT関連企業を視察に行ったことがある。目的は、日本の企業から、彼らに仕事を出して欲しいみたいなことで、中国のIT関連企業は、こんなことができるんですよ、と、アピールする場であったように思える。その時の視察団の中には、すでに、中国で何年も仕事をしている人がいて、その人から、いろいろなことを聞くことができた。当然、賄賂の話や、違法コピーの話などである。実際に、その人が体験したことで、非常に興味深かったのは、コンピュータのLANカードが、普通は、国際的に、ユニークなマックアドレスをセットして、出荷するのに、中国で、作っているものの中には、同じマックアドレスのものが平気で存在しているということだ。実際、同じマックアドレスがあったら、コンピュータを個々に識別することができなくなる。こんな非常識みたいなことが、中国では常識だなんて、本当に信じられない。そう言われると、さらに、思い当たる節がある。当社の製品で、USBメモリを利用するものがある。その際、USBメモリを個々に識別する手段として、1本1本のUSBメモリに付けられたシーケンス番号を利用していたのであるが、あるメーカーのUSBメモリを採用して、実際の現場で、セットアップ作業をしていたら、驚いたことに、本当に同じシーケンスが存在していたのである。違法コピーは、IT関連だけではない。その人が経験したことの中には、アントニオ猪木のとあるグッズを中国で販売を始めた途端、ものの1ヶ月でコピー商品が出回り始めたそうである。実に、驚きである。

 日本では、賄賂はどうなのか? 横行までは、していないが、こんなこともあった。西日本のある都市で、コンピュータシステムの入札があった。だいたい、コンピュータシステムというのは、5年リースで導入されることが多い。それで、5年前の入札では、あるソフト会社の製品が品名指定で導入されることとなった。当時の落札金額を担当者から聞くことができた。ただし、これは、特別に知り得た情報ではない。なぜなら、官公庁の入札は、結果が公表されるからだ。1番手がどこの会社でいくら、2番手がどこの会社でいくら、という感じで、かなりのことまで、わかり、それにより、かなりのことまで推測できる。その落札金額を聞いて、非常に驚いた。今回、想定していた金額の軽く2倍以上であったからだ。実は、今回も、前回と同様のことを行おうとしていたみたいで、折も折、当社の営業マンが、断られながらも、何とか見積りを提出するところまでこぎつけた。その見積書を、当事者である担当者が見て、たいへん驚いた。こういう場合、ふつうは、対応もしてくれないのだが、その金額の差が異常であったため、これは、無視できないということになり、ついに、門戸開放に至ったわけである。実際に、「本当にこの金額でいいの?」ということばが出たほどである。その前振りとして、興味深い事実があった。当社の営業マンがちょうど、その職場内に居合わせたとき、コピー機の業者がやってきた。その業者に対して、コピー機の担当と思われる人が、「例のものはどうなっているの?」みたいな会話を平然としていたという。例のものとは、だいたい想像はつくが、現場でのニュアンスから、何か別の製品をオマケに要求していたようだ。もちろん、私的に。

 そもそも、官公庁の入札というのは、直接の札入れ・郵送による入札・電子入札などがある。直接の札入れは、昔ながらの方法で、「何々の入札」というタイトル、入札者の住所・氏名(業者)、落札したい総額の金額などを書いた紙を封筒に入れて入札箱に入れるという、ごく原始的な方法である。全員が入札箱に入れ終わると、すぐに、開札が行われる。普通は、一番安い金額を書いた業者が落札するわけであるが、一番安い金額が、事業を発注する側で予定していた金額よりも高ければ、もう1回、さらに、もう1回と札入れを繰り返す。だいたい、3回やってもクリアできない場合、入札が不調に終わるのである。また、その場合は、一番手の業者とお話合いを行い、金額を決定することもある。首尾よく入札が完了すると、その場で、発表が行われる。そして、契約書などを渡されるわけである。ここで、注目すべきは、発表の内容であるが、1番手がいくら、2番手がいくらと言ってくれるので、それをメモすることができる。同じような内容の入札が、ときに、その日のうちに、2回、3回と行われることもあるし、次の年に行われることもあるし、さらには、5年後のリース替えのときに行われることもあるわけで、まさに、お互いの手の内は、見えているわけである。であるならば、その経験をもとに次回は勝とうと思うわけであるが、そうは問屋が卸さない。手の内といっても、わかっているのは、あくまでも、総額であるからだ。いろいろなものを含む入札であるため、自分が有利になるように、前々から、根回しをしていかなければならないのは、商売・取引を行う者にとっては、あまりにも当然のことである。勝つということは、そういうことなのである。まさしく、問屋が卸さない、なのである。では、次回の入札で、2番手・3番手であった業者が、かなりの大差で逆転勝利をすることが、実際にあるのは、どういうことなのかというと、往々にして、そのとき、勝負の次元がまったく違ってしまうことから生じる。業者のうしろについているメーカーが、いつも負けていては、面白くないからだ。あるとき、火山の爆発のように奮起するから怖い。ファイトマネーと呼ばれるものがメーカーから出ることがある。メーカーから業者にお金が渡る。これは、民間と民間の取引であるので、癒着とか賄賂とかは関係がなく、実際、何をやっても許される。ときに、それは、億の単位で動く。えっ、どうして? と思うかもしれないが、それは、全然、現実的に不思議ではない。例えば、コンピュータの製造メーカーが、その年の利益をすでに十分出してしまっている状態であるならば、それが、100億円を見込んでいるとすると、必然的に、100億円に対して、法人税を払わなければならない。その利益分から、1億円を引いて、99億円になったとしても、法人税もその分安くなり、さらに、大規模にそのメーカーのコンピュータが導入されれば、その分野でのシェアや知名度が一気に上がる、ということを考えれば、まさに、一挙両得である。しかしながら、どのメーカーが、今年、どの分野をテーマに攻めるか? 具体的にどの案件がターゲットになっているかは、企業の戦略であるため、それこそ、ふたを開けてみないとわからないわけである。郵送による入札、これは、実に曲者である。郵便は、指定した日にちまでに、届いていなくてはならない。また、その指定日をまたいで、つまり、1日おいて、開札が行われるケースがある。開札は公開ではない。しかも、疑惑の空白の1日が存在する。この世の中、何々と何々がグルであったら、ということが、すぐに頭をよぎる。つまり、空白の1日が何を意味するかを誰も知らない。もし、当局と、癒着業者がグルであったとしたら、そっちの側に立って、どのようなことをしたらいいか考えてみよう。まず、封筒を透かしてみて、その時点で、入札金額が確認できれば、そして、癒着業者の金額より安かったら、その金額を癒着業者に教えて、それを下回る金額で、再度提出させる。その際、あまり金額を安くしたら、儲けが少なくなるので、怪しまれない、しかも、ほどよい金額にするわけである。ここで、郵送だとすると、出し直しの消印は、時間的につじつまが合わなくなってくるのだが、当局と癒着しているのであれば、それも何とでもなる。実際の入札に首長まででてくることはないし。郵送の場合、中が透けて見えたら、このような不正が行われたら、打つ手がないから、と、封筒の中の金額を書いた用紙をさらに、アルミホイルで巻いたらどうかという意見もでたほどであった。しかし、よくよく考えれば、もし、当局と癒着しているのであれば、透かして見るどころか、堂々と封を開けて、中を見ることもできるのではないか、とか、妄想も、どんどんエスカレートしていくのである。不正のエスカレート、妄想のエスカレート。いずれにしろ、どちらが真実かは、その当事者のみが知っていることである。神のみが知ることではない。それで、この西日本の一件は、まさに、この郵送による入札で、空白の1日が存在し、1番手と2番手の差額が、何と70万円であった。総額が6億を超える案件で、この70万円という差額が、いったい何を意味するのか? 結果は、2番手で、すなわち、負けである。が、のちに、この件につては、地元の市民オンブズマンにすべてを打ち明けて調査を依頼した。

その内容はこうだ。

 ・○○市教育委員会の担当者交代(A氏→B氏)

 ・当該ソフトウェア部門において、仕様、金額について、メーカー数社からヒアリング

 ・昨年の株式会社Aの提示金額1億5,000万円からして、推定2億円前後の提示は誰もが予測

 ・当社の提示金額は5,500万円

 ・この時点で、昨年の落札金額とのとんでもない乖離に関係者一同、驚きを隠せず

 ・この提示金額は、外部に漏れてはいけないはずのものであるのに、1、2週間で関係者に知れ渡る

 ・前担当者が教育委員会に入った情報をすべて、B、Aに漏らしていた模様。

 ・株式会社Aの圧力作戦が開始される

 ・仕様レベルで、導入条件を厳しくし、しかも細かく指示(2度に渡り改変が行われる)

 ・これにより、当初3社が導入条件をクリアしていたが、1社脱落、残りは当社と株式会社Aとなる

 ・11月9日、第1回目の指名参加業者による入札の中止決定

  理由は、前回落札したBが工事資格がない旨を、Cが通報

 ・仕切り直し、第2回目の入札日、入札スタイルを発表

 ・ここで、明らかに怪しい動きがある。第1回の入札スタイルが通常の札入、即、開札であるのに、

  第2回目は郵送による入札、しかも開札は郵送締切から、1日あいだを空けるという異例のスタイル

  明らかにこの空白の1日は、外部から怪しまれても不思議ではない、封を開けずに、中を見ることは

  比較的容易なことである。一般競争入札に切り替え。

 ・当社の最終提示金額は3,500万円

・12月6日、第2回目の郵送による入札締切

 ・12月8日、第2回目の入札決行、開札

   第1位(落札者)F社(株式会社B・株式会社A)6億3,790万円

   第2位      N社(株式会社O・当社)   6億3,860万円

   第3位      T社(株式会社A)       6億6,000万円台

   ※ここに出てくるF社、N社、T社は今回の疑惑に一切関係ありません。

    単に名前貸しです。

注目すべきは、第1位と第2位の差が、70万円であること。通常、あり得ない。

   第1位から第3位までの差が、2,000万円ぐらいであること。通常、あり得ない。

   当社が1回目と2回目に提出した金額の差が2,000万円であること。

   第3位のT社がトップレベルで株式会社Aを担ぐことを決定したにもかかわらず、最終の見積金額をもらえないまま、予測の入札金額で入札に参加していること。 通常、あり得ない。

   ○○市教育委員会と株式会社Aの関係が密であればあるほど、公開入札を通過したあと、残予算にて、追加物件を随意契約にて納品できる可能性があること

   地元の業者は、他の物件に影響するため、疑惑を持っているにも関わらず、何もできない状況であること。

 オンブズマンは、実際に、行動を起こしたかは不明。しかし、何らかの影響を及ぼしたのは、確かであろう。この中でも、説明しているように、この案件が、普通の案件ではないことは、素人でも想像が付く。ふつうの案件では、入札が1回で終わり、無事、落札して、その日のうちに契約書の書類を持っていくパターンであるが、この案件では、すでに、入札前に、1社脱落、そして、1回目の入札は中止、さらに、一般競争入札に切り替え、第1回目の通常の入札スタイルから、第2回目は郵送による入札スタイルに切り替え、しかも、1日あいだを空けるという異例のスタイル、第1位と第2位の差が、70万円。20数年会社を経営してきて、このような、ポーカーでいえば、ローヤルストレートフラッシュみたいな、マージャンでいえば、数え役満みたいな入札には、後にも先にもお目にかかったことはない。最近では、電子入札みたいなものが主流になりつつあるが、確かに国や県の組織に絡む入札であれば、いちいち、遠くまで出向いて行って、入札を行うより、ずっと楽なので、ネットでやることに疑問をもたないが、もっと、小さな組織では、わざわざ電子入札にする必要もなく、従来どおりの入札や、郵送による入札が残っていっても、これまた、不思議ではない。ということは、このような二転三転する、明らかに疑惑の要素を含んだ入札は無くならないのではないだろうか。日本でも、このような大きなお金が絡めば、怪しいことが起こるわけであるので、中国なんかは、いったいどんな事実が存在するのか、非常に興味深い。このオンブズマンへの告発資料の中に出てくる株式会社Aというのは、とても、尋常ではない商売をする会社である。まさに、大阪商人丸出し、えげつないということばがぴったり。大阪商人のすべてがこのタイプというわけではないが、この株式会社A以外にも、いろいろな話を耳にする。まあ、そのえげつなさもおいおいお話することとして、ド派手な話の一部を紹介すると、夏は、ユーザーを招待して、クルーザーで一本釣り、春は、シーガイアでゴルフ大会。もちろん、そこまでの旅費や宿泊費もタダ。みたいな。さすがに、海外旅行という話は聞いていないが、実際、このような経費は、製品の代金に転嫁されているというのは、誰しも考えてしまうが、なにせ、ものごとを決める決定権を握っている人たちを接待するわけであるので、そんなことはおかまいなしということである。世の中、コストダウン、コストダウンと叫ばれ、安くすることが、いいことだと思われている時代があったが、それにより、デフレのスパイラルから抜け出せなくなっているのも事実である。実際、このように接待し、ものの値段を高くすれば、それを流通させる立場の人たちも、より利益を受けるというメリットも生じている。なので、大阪商人のやり方がいいのか悪いのか、一概に判断できない。それにしても、では、大阪人は、なんでケチなんだろう。という疑問は残るが。話は変わるが、アベノミクスは、とんでもない方向に向かっているような気もする。が、実際に、インフレまでいったとしたら、たいしたものだと思う。一歩間違えば、バブル再来ということになるが。それは、おうおうにして、あり得るから怖い。だいたい、大胆な金融緩和策を行えば、株か土地にお金が流れるというのは、だれもが経験していることである。一般国民の給料が目に見えて上がるところまでは、絶対にいかないだろうに。

 さて、接待に関しては、とりあえず、もし、自分が接待を受けたらと考えたら、ハテナがついてしまうが、えげつなさというのは、どれほどのレベルのものかというとこれがまた、すごい。ふつう、入札があり、落札が決定されたことに関しては、一度決めた製品群を変更しないのが常識である。しかし、大阪の商人というのは、一度、応札書を提出しておいて、落札したものを、応札書とは違うものに差し替えるということを平気で行う。ここで、応札書というものについて、説明しておく。応札書というのは、入札に参加する前に、全体の機器構成(納入する製品をこの時点で決定)と数量を報告する仕組みである。事前に、報告してあるため、常識的に考えて、入札が終わって、落札者が報告どおりのものを納品するのが当たり前である。果たして、こんなことが許されるのだろうか? そして、当局に対して、どのような言い訳をしているのだろうか? 当局が田舎の地方都市であれば、それは、たぶん通用することなのだろうが、政令指定都市だろうが、何だろうが、おかまいなしというのはどういうことなのだろうか? そこが、大阪商人なのだろうと思う。そういえば、こんなことも、よく、耳にする。あそこの中古車販売会社がつぶれたそうだ。よくよく聞いてみると、地元の中古車販売会社がつぶれたのは、その地区に大阪の中古車販売会社が進出してきて、あくどい商売をしたからであるらしい。他の会社を短期間につぶしてしまうほどの商売とは、いったいどんなことなのだろうか? にわかに信じがたいが、そういうテクニックが存在しているのは確かである。しかし、実際に、そのテクニックに遭遇したら、ああ、そういうことなのか、と納得できるであろう。そのテクニックとは、こうだ。たぶん、会社ぐるみの仕業であろうと思われるが、「○○という会社は、今年の7月につぶれます。」と、営業マンが、訪問先で吹聴するという手口である。そのようなことを聞いたら、品物を買う側は、どう思うだろうか? すぐにつぶれる会社の製品を、だれが、好んで買うであろうか? 買うわけがない。つぶれる会社は実際に存在するから、気を付けなければならない。以前、こういう事件が、実際にあった。ある市役所で、1人の職員が、聞いたこともない中古車販売会社から、市場価格の半額ぐらいで、新車を購入したことがある。それも、その当時としては、ランクがある程度上のトヨタのMarkⅡというクルマで、200万円ぐらいするのを、100万円で買ったらしい。そのことが、口コミで伝わり、さらに、1人、また、さらに、1人と買っていくといういかにも、危険な匂いのするできごとが進行した。事件は、そのうちの何人目からか、先に、お金を振り込んでいたにも関わらず、クルマが届かず、その業者との連絡も急に途絶えてしまった。という展開である。その業者は、業者というより、個人で営業をしていた感じである。しかも、普段、つなぎを着ていて、見るからに、現場、つまり、クルマに詳しそうな格好であり、その見た目で、少しばかり、信用を得ていた。年は、40そこそこで、一生懸命に、働いていた感があった。ふつうに考えて、そんなうまい話が存在するなんて考えられないし、そもそも、市役所の職員ということで、だまされた人間の方が考えが甘いということで、片付けられてしまいそうであったが、100万円をだまされたとなると、これは、大きな問題である。その真相は、細かい部分は定かではないが、その中古車販売業者というのが、大阪の商人であったのだけは確かである。他の会社をつぶして、さらに、サギを行うとは、本当にたいしたものだと思った。それ以来、偏見と言われても、しかたがないほど、大阪の商人に対する見方は変わってしまった。それで、当社も、実は、「今年の7月でつぶれる。」と吹聴される目にあった。この事実が、発覚したのは、当社の営業マンが、とある客先に出向いて、偶然、聞いた話題からである。「○○という会社の営業が、おたくの会社が今年の7月ごろ、つぶれる。」と言っていたよ、と。だいたい、7月というのは、いったい、どういう根拠からきているのだろうか? 確かに、当社が関わる業界の商戦の年間のピークが夏であり、つまり、7月・8月であり、噂話が出たのが、会社が活動を始める4月であることから、鼻先にちらつく当社の存在が無くなれば、その会社の思い通りの営業展開ができるわけで、この仕業が、その会社の会社ぐるみのものであったとしても不思議ではないわけである。当社は、すぐに、敏腕の弁護士に相談した。その弁護士も、ことの重大さに驚き、これは、大弁護団を立てて訴えた方がいいということにまでなった。しかし、実際には、それは実現しなかった。なぜかというと、その理由はこうだ。まず、証人になってもらう人たちは、どのような立場の人たちなのか? という、単純な問題から始まった。しかし、ここは、かなり重要なのである。つまり、公的な立場にいる人が、自ら、進んで、検察の要求により、証人になるかということである。ことの進み方により、へたをすれば、法廷に立たなくてはならないということも考えてしまう。第一、そんな、自分に関係のないことに協力して、リスクを冒すかということである。メリットは何もないわけであるから。誹謗中傷は、れっきとした偽計業務妨害という犯罪である。しかも、会社ぐるみとなれば、極めて悪質であることに間違いない。しかし、この種の犯罪が実際に裁かれるのが、難しいらしいことも確かである。このような理由から、大弁護団は諦めることとなった。企業として、それを跳ね返すには、そうとうなエネルギーを要する。これは、想像を絶することであり、実際に、遭遇しなければ、絶対わからないことである。それこそ、事業を辞めることまで考えても不思議ではない。さて、この話の中で、話題にした、接待のことについても、大阪の商人であった。さらに、入札の不正についても、大阪の商人であった。もう、考え始めると本当にいやになる。日本で、こんなことが起きているのだから、中国では、毎日のように、もっとすごいことが起きているのであろう。そうそう、中国に、視察団の一員として参加したとき、折も折、上海でF1グランプリが開催されていた。上海から、常州市へ、高速道路で、バスで移動するときに、目にした光景は、とてつもないギャップに満ちていた。高速道路脇の看板にでかでかと「F1グランプリ開催」の文字が、もちろん、中国語で。そして、走っているクルマといえば、黒のBMW、黒のベンツ、いずれも排気量の大きい新車、日本車も多い。黒のレクサス、これも排気量が大きいやつだ。ところが、日本でいう、サービスエリアみたいな場所に立ち寄ると、そこには、信じられない光景があった。もちろん、高速道路と高速道路の付属設備は、近代化していた。そうでなければ、危険極まりないから、当然と言えば当然。信じられない光景とは、サービスエリアのちょっとした隙間から見える畑であった。ちょうど農家の人が作業しているところであった。日本でも、50年ぐらい前には、目にしたことがある。まさに、同じだった。人糞を桶に入れて、両天秤で担いで、歩きながら、柄杓で、それを巻いていた。もちろん、匂いがした。つまり、高速道路は、ほぼ今の日本と変わりがないのに、道路から、1歩、離れた場所は、50年前にタイムスリップした光景であったのだ。相当な違和感を感じた。これが、中国なのだ。ほんの極一部の富裕層が、高級車を駆って、高速道路を走っている。そして、その人たちを支えている人たちは、50年前の人たちである。人間の世界とは、こんなものなのかもしれない。ただ、ブータンではないけれど、そこに高速道路が走っていなければ、案外、幸せなのかもしれない。中国のギャップは、まだまだある。都会である上海にしても、例外ではない。海辺に面し、近代的なビルが立ち並ぶ場所から、1歩、ごみごみした街中に入ると、道路は、ゴミがいっぱい。しかも、道路には、ホコリのような、ドロのようなものがうっすらと堆積していて、常にゴミ収集車と清掃車が動いている状態である。うっすらと堆積しているものの正体は、例のPM2.5なのか? そこを通行するだけで、日本人なら、病気になるのではないかと思ってしまうほどだ。もちろん、匂いもする。ケニアのナイロビも、少し似たような光景があったにはあった。匂いということで言えば、アジアの開発途上国では、人々が集中して住んでいる場所の排水設備が追い付いていないところが、もっともひどい匂いがする。それと、スラム街だ。アジア・アフリカの開発途上国は、どこも似ている。いわゆるスラム街は、どこにでも存在する。そして、アジアの建物には、かなり、共通した特徴がある。日本のそれとは、まったく違う。ただ、沖縄には、少し、似たような色使いが見て取れるが。建物は、だいたいが、クリーム色と赤がかかった茶色の組み合わせである。しかし、材質は、少しずつ違っている。そして、バイクと牛。バイクを売っている店・バイクを修理する店・ガソリンをビンに入れて売っている店・ビールをビニール袋に入れて売っている店。もはや、何でもありか。日本も、このような貧困を経験し、貧困から抜け出す過程の中で、人は知恵を絞り、独自の不正を編み出し、人を陥れ、人を押しのけて生きてきた。大阪商人が、どのような変遷で、今の知恵を持ったのか、ルーツを知りたい。たぶん、なかなか面白いことがわかるであろう。

 F1グランプリといえば、中東で、2回、開催される。バーレーンとアブダビだ。アブダビには、F1のテーマパークがあるくらいだ。今、中東はホットである。将来的に、ドバイでも、カタールでも、F1のレースが行われても不思議ではない。ドバイは、すでにメジャーになってしまった。オイルマネーのエネルギーはとてつもなくすごい。そして、カタールも急成長を始めている。象徴は、高層ビルとゴールドとハーバーと高級車であろう。ドバイの空港はとにかくでかい。そして、ドバイのタワーはとにかく高い。人を集めるには、集客するには、ショッピングモールみたいに、何でもあれば、いいという考え方も当然ありである。しかし、とにかく、1つだけ特徴を作れば、人々は集まってくると言われている。そこに、人々は集まり、人々は語り始めるのである。当然、それを仕掛けるプロもいるわけで、彼らは、そのことを競い合っている。中東なんて、常時、灼熱の太陽が照りつけ、しかも、砂漠。実際、暑くて生活できるようなところではない。なのに、人が集まり始めている。オイルマネーのすごさである。中国と違って、お金持ちのイメージがたいへん強く、中国と違って不正が少ないように思える。実際にどうなのかは知らないが、気の効いたコンピュータのソフトを売りに行ったら、売れるのかもしれないという妄想をかってに抱いてしまうほどである。ただ、アラビア語が、コンピュータの画面に並んでいる様は、どうしても、奇異に感じる。これが、本当に意味を持った文字なのか? まあ、彼らからすれば、日本や中国な漢字の方が、奇異に見えるかもしれないが。中東の人たちの国民性はどうなのか? アジアの中でもマレーシアやベトナムなどは、勤勉でまじめな気質から、工業製品や電子部品を作らせたら、非常に品質の高いものを作り出す能力を持っている。中国とは大違いだが。中東は、お金を手にしてしまった分、そこのところは、ハテナかもしれない。

 さて、ベンチャー企業といっても、いろいろな成り立ちがある。一般的には、まず、資金調達から始まるケースが多いと考えられる。それは、当然のことである。というのは、今まで無かったようなビジネスモデルを事業として取り組むわけで、無いものを創造していくには、資金がいるからだ。資金がいらない事業というものがあったら、是非、知りたいものであるが・・・。往々にして、資金調達は、外部からということになる。まあ、当たり前か。そして、金額も半端ではない。ということは、きちんとした会社組織を始めから作らなければならないし、同族で会社を作ることも、たぶん、許されることではない。仲間内で会社を作るのであれば、まだ、何かと融通が効くかもしれないが、実際には、資金の外部調達となると、ほぼ、何も自由が効かなくなるのである。会社を運営するのであれば、当然といえば当然である。以前、当社とは、異なる技術を持つ会社と取引をしたことがある。その会社は、高い技術力を持っていたが、きちんとした会社組織を作っての出発のベンチャーであったため、最初の段階の思い描いていたことは、できていたように思えるが、途中から、ずいぶん変わり始めた。販売戦略をCOOPを介して、一般に求めたり、中国語やハングルに関連した分野に進み始めたり、おもちゃのロボットみたいなものを中国の会社に作らせたりと・・・。そして、最後には、ある大手のゲームメーカーの傘下に入ってしまった。そこのところの詳しい経緯まで、さすがに聞くことはできなかったが、まあ、聞いていれば、語ってくれたかもしれない。しかし、戦略として、いくつか見てきたが、どれもこれも、単価が低いものでの勝負をしていた。しかも、一般大衆向けのプロダクツやアプリであった。よく、日用品などで、発明して、特許を取って、販売して、大成功したみたいな会社を紹介するような企画があるが、成功するのは、ほんの一握りであり、ほぼ、みんな一発屋であると思っても過言ではない。「企業は継続なり」とは、本当に的を得たことばである。それで、ベンチャー企業にとって、継続とは、一体何を意味するのかだ。ベンチャー企業にとって、継続とは、次々と、ヒット商品を世に出していくことに他ならない。これは、一言でいって、非常に疲れることであり、非常に辛いことである。ならば、この疲労と辛さを解消してくれるものを求めるのは、普通に、自然なことではないだろうか? 実は、資金の外部調達という選択肢さえ選ばなければ、それは、可能なことであるのだ。では、資金が無くて、理想とする事業が始められるのかというと、それも、ふつうはあり得ない話である。よほど、始まりがラッキーであり、そして、始まりだけではなく、そこそこ、ラッキーが続き、運転資金に少しでも余裕ができて、始めて、現実味を帯びる。

 ここで、少し、話題が変わります。

 最近、妙に日本語がうまい外国人がいたり、妙に日本語の歌がうまい外国人がいたりする。日本人が外国あるいは、外国人に興味を持っている以上に、外国人は、日本あるいは、日本人に興味を持っているみたいである。漢字に興味を持つのであれば、中国でもいいのではないかと思うが、なぜか日本の漢字である。それは、単なるTシャツであったり、タトゥーであったり。しかし、時々使い方を間違えているのが面白い。それは、別として、1文字・2文字なら、確かに芸術性が高いから、わからないでもない。また、外国人は、日本人の名前に興味を持っている可能性もある。漢字という要素と漢字できている名前という要素の両方に魅力を感じても別段、不思議ではない。最近、こんなことがあった。Facebookには、友達申請をして、友達を作っていく仕組みが備えられている。知り合いの「明美」という女性に外国人から友達申請があった。彼女は、その申請をしてきた人の友達を見てみた。驚いたことに、その外国人の友達になっている人は、すべて日本人であった。その数、20数名。その日本人のすべてが、英語ができるとは思えない。よく見ると、共通することがらが、すぐにわかった。それは、友達の名前の部分が、すべて「明美」であることであった。まさに、何これは? の世界である。一番最初に友達になった「明美」は、たぶん、その外国人の友達が、20数人の「明美」ではない状況、つまり、ふつうに、外国人の友達がその国の外国人であった可能性が非常高いと思われる。その中に、ひとりだけ、「明美」が加わったと考えるのが、自然である。その次の行動は、また、違う「明美」を探し出し、友達に加えていったと思われる。日本語で、しかも、名前の部分で「明美」をキーワードで検索することが、簡単にできるのか、よくわからない。で、簡単にできるものだとして、次に、2人目の「明美」に友達申請をして、簡単に友達になるのだろうか? たぶん、「明美」と「明美」以外の比率の問題で、何も違和感を感じなければ、2人目の「明美」も友達になったのだろう。そうこうしていくうちに、「明美」と「明美」以外の比率が逆転し、さらに、徐々に「明美」が増えていって、最終的には、「明美」という名前の友達コレクションが完成するのではないだろうか? このようなことが、もし、流行しているとしたら、怖いと思う。このようなことは許されるのであろうか? Facebookを作った人たちは、このようなことを想定していたのであろうか? そのコレクションを完成させた人は、いったい、それから先、何をしようというのか? 考えれば考えるほど、わけがわからなくなる。

彼女は、デジタルの世界で生きてきた人間ではない。都会の空気の中で生きてきた人間ではない。「アナログ人間である。」という言い方を、ちょっとカッコいいと思う世代は、実際に、存在する。全部が全部ではないが、とにかく、彼女は、アナログである。そもそも、コンピュータが発明されてから、いろいろな表現が可能となったわけで、そのコンピュータで表現されるものは、すべてデジタルであるということを忘れてはならない。一見、芸術的に表現され、しかも手描きされたアートも、実はデジタルであり、素晴らしい光景を収めた写真もデジタルである。確かに、コンピュータが発明される前に、表現されていたアートは、アナログである。写真もアナログである。音楽でさえ、レコード盤から聞こえてくる音は、元を正せば、アナログであった。ここで、明らかに意識して区別していることがらは、実は、コンピュータという存在についてである。いっとき、ベンチャー企業を作ること、イコール、コンピュータ関連企業・IT企業を作るような錯覚をしていることがあった。しかし、例えば、印刷屋さんでさえも、昔は、輪転機みたいな印刷機を使って印刷していたが、今は、デジタルの印刷機で印刷をしている。もちろん、印刷をする元になるデータもデジタルである。しかも、印刷屋さんで使っているコンピュータは、Macで決まりみたいな感がある。それは、優れた、デザイン関連のソフトのほとんどがMac対応であるからだ。そうそう、昔は、「コンピュータ、ソフトが無ければ、ただの箱」などと言ったものである。幼稚な表現に聞こえるが、まあ、考えてみれば、的を得た表現でもある。画像だけではない。文字の情報も、今では完全にデジタル。コンピュータが世間に出回る以前に、IT機器は、ワープロというものが先行した。今は、印刷屋さんも、原稿渡しは、ワープロで作ったデジタルデータで行っているが、ほんのちょっと昔は、手書きの原稿を、刻印機で1文字1文字打刻して、マスターを作っていた。実は、それこそ、アナログなのである。彼女は、コンピュータのことは、わからない。デジタルなことは、わからない。しかし、どういうわけか、この仕事をすることとなった。それは、私といっしょに会社をやることとなったからだ。わからないものをやらなければならないというのは、ストレスを感じるものである。その度合いが大きいほど、ストレスは大きい。当たり前だ。でも、仕事はやらなければならない。印刷屋さんが、しかも、もう、中年の域を越えた、おばさんたちが、ワープロまたはコンピュータを駆使し、デジタル印刷機を駆使しているように。時代の波に乗って、デジタルに対応していかなければならない、というのは、これから生きていくという行為に匹敵することである。ある大物タレントは、いまだに、携帯電話を持っていないという。私の会社の中にも、いまだに、携帯電話を持っていない社員がいる。ひとは、それを奇異の目で見るであろう。社員ならば、単に、友達がいないから、持たなくていいというふうに片づけられても、まあ、納得できることであるが、大物タレントの場合、どうなのだろう。連絡は、マネージャーがとるので、それもありか? しかし、携帯を持たないというのは、どことなく、「私はデジタルの人間ではない」にも似ているような気がする。

 さて、この仕事をしていてのストレスは、いろいろな状況から発生する。その前に、言っておかなければならないことがある。彼女は、間違ったことが大嫌いである。彼女は、いい加減な人間が大嫌いである。彼女の中では、いい加減には、二通りあって、いい加減なことをするということと、ものごとをいい加減に考えているという人物である。彼女が、大嫌いなのは、どちらもである。もうひとつ、「彼女は、江戸っ子だ。」 江戸っ子は、気前がいい。江戸っ子は、歯切れがいい。江戸っ子は、白黒はっきりつける。一見、江戸っ子とは、男前、男の気質のような感を受けてしまうが、どっこい、男の特権ではない。女であっても、男気というのは、間違いなく存在する。ここで、間違えてはいけないのは、さきほどの、いい加減な人間の考察である。つまり、江戸っ子ではない人、イコール、いい加減な人間ではない。このような方程式は成り立たないのである。   

 こんなことがあった。会社を始めた当時は、CD(コンパクトディスク)というものは、すでに存在していたが、それは、ほぼ100%、音楽が閉じ込められた、つまり、マスターからプレスされた読み取り専用のメディアであった。それから、数年が経って、デジタルなデータ(音楽であったり、プログラムのデータであったり)を書込みすることができるCD-Rというものが発明され、さらに、パソコンでも、そのCD-Rにデータを書き込めるという技術が発達し、誰でもが、データを閉じ込めたCDを作れるようになった。会社の中では、当初、製品はフロッピィディスクにソフトのインストール用のデータを書き込んで、出荷していた。ただ、その時は、データの全体量が、フロッピィディスクに収まる量であったため、問題はなかったが、次第に、そのデータ量が増えて、フロッピィディスクに収まらなくなったため、重い腰を上げて、CD-Rに同時に、複数枚書き込めるデュプリケータなるものを購入して、ついに、CD-R対応に踏み切ったのである。ここで、なぜ、重い腰を上げてとか、踏み切ったとかの表現をしているかというと、実は、CD-Rを採用する前に、製品のCDを外部に頼んでプレスすることを試みたからだ。もちろん、そういうふうにすれば、実際に、店頭で、パッケージに入って売られている立派な商品に変身するわけで、その方法については、3回ほど、試みた。いや、試みたというよりは、実際に、作成した。出来上がりは、やはり、カッコよかった。何か、一人前のIT企業になったような錯覚さえ覚えた。会社をやっていて、自分で、プロデュースしていたカタログが完成した時の次に、気持ちがよかった瞬間であった。問題はというより、ある疑問が、ここから始まった。実は、フロッピィディスクの時代は、作り置きしていた製品が古くなってしまったときに、フロッピィディスクのシャッターを手で開けて、中の盤面にカッターで傷を付けて、廃棄していた。そのあと、CDをプレスする時代になって、古くなった製品を廃棄するときに、2面あるCDの面のどちら側にデータがプレスされていて、ならば、どちらを傷つければいいのかという場面に出くわした。傷を付けるという行為を、気にかけるということについては、2つの方向から考えが及ぶ。ひとつは、製品を作るうえでの少なくともデータが記録されている面を傷付けてはいけないという考え方と、廃棄するうえで、どちらの面に傷を付ければ、データを読み取られなくなるかという考え方である。一見、相反することのようにも思えるが、データを記録する原理さえわかれば、すべて解決することである。しかし、この答え方が、のちに、いろいろな問題を引き起こす原因となるとは・・・。人間が「自分以外の人が何を考えて生きているか」について、かなり真剣に考えないといけないぐらい・・・。人生の重みを感じた。

 ある時、彼女は、私に聞いた。「CDのどちらの面を傷付けてはいけないの?」その答として、私は、あまりものごとを深く考えずに答えてしまった。「裏側のキラキラしている方だよ。」と、しかし、彼女は、この会社を始める前に、音楽CDを扱う会社にいたことがあり、その時のことを思い出し、「確か、表側を傷付けてはいけない。」と言った。私のいい加減さが露呈した瞬間だった。つまり、信用している人からかえってきたことばは、やはり、信用できると思うのが、ふつうだから、信用している人からかえってきたことばが、間違っていたら、逆に、その人は信用できないに変化してしまう。答自体が単純な内容であっても、間違った答を平気で答えたというその行為そのものが、問題である。その人に対する信頼感が強ければ強いほど、聞いた答の「受け売り」の期間は短く、すぐに「知識」となる。極端な場合、最初から「知識」であるともいえる。であるとすると、信頼していると思っていた人の答が、間違いであった場合、得た「知識」は、もちろん、間違いであり、そして、その答を、他の人に伝えてしまったら、どういう問題を引き起こすかである。むしろ、信頼感への裏切りの気持ちは倍増するのである。彼女は、「江戸っ子」である。ひとつの間違った認識の答は、のちに、とんでもない問題まで発展する。その問題については、あとで、詳しく話さなければならないが。そして、彼女にとって、「信頼」ということばへの疑念が始まった、ということになった。

そもそも、CD-Rが一般向けに発売されてから、まだ、10年ぐらいしか経っていない。パソコン用のドライブが初めて発売されたのは、平成8年である。実際に、どれくらいで劣化するのかは誰にもわからず、一般論の「10年程度」というのは、発売されてからの年数と同じことを指しているらしい。つまり、この数字は、実際に検証できた年数ということであるらしい。当たり前か。「この住宅は、100年もちます。」なんていうコマーシャルも、実際、100年経たないとわからないし。しかも、CD-Rの場合、直射日光の当たる場所や、高温多湿の場所という保存状態にもかなりの影響を受ける。特に記録面に直射日光が当たり続けると、データが消えてしまうことがあるらしい。そして、さらに、重大な事実がわかった。CDとCD-Rは、データを記録する仕組みが違うということである。そんなことは、詳しく聞いてみないとわからないことである。ここが最大の落とし穴。

 音楽CDは、プレスにより作られる。CDの記録面には、目に見えない小さな溝が刻まれている。要するに凹凸があり、その凹凸にレーザー光線をあてると光が変化して、それがデジタルの信号に変わる。プレスというのは、この凹凸のある原版の金型をまず作り、あとは、この金型で、まさに、ハンコを押すように記録する。最初のころ、製品のCDをプレス屋さんに発注して作ってもらっていたが、値段が高いことだけは、鮮明に覚えている。一方、CD-Rは、記録面には、特殊な色素が塗られている。実際、CD-Rの裏側を見ると、緑や青の色が付いているのがわかる。それに高温のレーザー光線を当てることによって、色素が変化する。要するに焼き跡が付くわけである。CDの場合、表側に傷が付くと、データが読み取れなくなる。裏側は裏側で、指紋、ほこり、油などの汚れが付くと、またまた、データが読み取れなくなる。裏の記録面の汚れや、軽い傷は、クリーニング等により、データが読めるようになる可能性がある。しかし、表面に傷が付くと修復が不可能となり、二度とデータが読めなくなる。致命傷である。原理的には、CDも、CD-Rも、デジタル信号が記録されていて、裏の記録面にレーザー光線を当てることによって信号を判別し読み取っている。ということまでは同じだ。プレスされたCDは、記録面に、目に見えない小さな溝が刻まれていて、その凹凸にレーザー光線をあてると光が変化し、それがデジタルの信号になる。一方CD-Rは、記録面には、特殊な色素が塗られていて、それに高温のレーザー光線をあてることによって、色素が変化し、焼き跡が付く。その焼き跡に再生用のレーザー光線があたると、プレスCDの凹凸に光を当てたときと同じように、光が変化し、それがデジタルの信号となる。プレスCDとCD-Rは、それぞれの製造、記録方式の違いによって、それぞれメリット、デメリットがある。まず、プレスCDは、長期保存が可能である。製造しているメーカーによれば、100年以上もつということらしい。実際に、気軽に扱え、大きな傷を付けなければ、いつまでも再生できる。このことは、大きなメリットであるが、デメリットとして、製作コストがかなり掛かるということである。まず、原版の金型を作らなくてはいけないので、これに費用がかかってしまう。当然、専用の設備が必要となり、専門の工場でしかできないということである。ただ、この金型さえ作ってしまえば、1枚作るのも、1000枚作るのも同じで、同じものを多く作れば、それだけ単価は安くなるわけである。一方、CD-Rの最大のメリットとして、1枚、あるいは、少量を作る場合は、メディア代だけで済む。デメリットとしては、保存や扱いの面で、シビアになってしまうということになる。熱で色素を変化させて記録するため、同じように熱を加えると、変化してしまい、データが読めなくなってしまうことも考えられる。また、プレスCDのように、物理的に溝が有るのではなく、熱で変化した色素を凹凸に見立てて読み取るため、録音の際に使用した機器の性能により、焼き具合が悪かったり、使用メディアが粗悪で、色素が正常に変化しない、あるいは、ムラがある、と言ったことが原因で、信号を読み取れない現象も起こる。また、再生側の機器の仕様や性能によっても読み取れない場合が生じる。このように、CDとCD-Rは、微妙に違っているわけであるが、そのことが、一般に理解されるに至ったのは、ずいぶんあとからのことであるので、その時代にCDのどちらの面にデータが記録されているかという質問には、実は、正確に答えることができなかった。つまり、データが記録されているのは、表から見ても、裏から見ても、内部であるからだ。言い換えれば、どちらの面であると特定できない表現になってしまう。つまり、「どちらでもない。」だ。

 プレスCDとCD-R、どちらを選ぶかは、生産コストにも影響してくる。彼女は、事業家の家に生まれ育った。数字の計算は、どちらかと言えば、弱いのに、「どちらが得か」「どちらが安いか」ということには、かなり、正確に反応する。もちろん、「どちらが安いか」とは、100円のものと200円のものを比較して、結論を出すようなことがらでは、まったくない。いろいろな要素が複雑に絡み合って、ひとつのシステムとなった状態のコストの比較である。どちらが安いという要素ではなく、例えば、製品に付けるメディアの考え方にも、影響を与えていく。会社を始めたころは、まだ、ライセンスという考え方がなかった。1本2万円のソフトに対して、200円のフロッピィディスクを1枚付けるという売り方で、それこそが、単純にコストだと思っていた。そして、それを20本買ってくれたら、それぞれに、フロッピィディスクを付ける、つまり、20枚つけるのが、当然といえば、当然であるとも思った。そのフロッピィディスクの代金は、微々たるものであるから。そして、フロッピィディスクの時代が終わり、プレスCDの時代となったとき、CDの製造コストを低くするために、多くの枚数を製造し、20本買ってくれたら、20枚のCDを付けることに、あまりためらいもなかった。つまり、ここでもまだ、ライセンスの考え方が無かったといっていい。なぜなら、ソフトの単価が高いから、紙切れだけでは、申し訳ないような気もしたからだ。さらに、メディアの代金は、本体の代金に吸収されると判断した。ところが、CD-Rが利用できる時代となって、事態は一変した。前述したように、CD-Rの寿命は10年ぐらいとされていた。ソフトというのは、5年もてばよかったから、この点はクリア。5年というのは、ソフトが使い捨てられるサイクルである。しかし、Windowsの進化とともに、ソフトの中身が、どんどん膨れ上がっていったため、1枚のCD-Rを製品にまで仕立て上げる時間と手間は、増えていくばかり。ここでやっと、ライセンスという考えを取り入れたのである。20本のソフトを買ってもらっても、CD(メディア)は1枚で、あとは、紙切れに20台のコンピュータで使えますよ、的な、使用許諾書をパッケージに入れておく方法をとることにした。もちろん、他のメーカーもそのようにしていたわけであるが。ここで、リスクを考えなければならないのは、当然である。例えば、20台のコンピュータで利用するのに、1台のコンピュータで利用するというウソをついて、ソフトを注文されたとしたら、売上げは、単純に20分の1になるわけで、その対策については、各メーカーともいろいろな方法を考え、違法使用といたちごっこをしていたわけである。そのリスクが非常に高いのは、個人を対象に売っているソフトであった。幸いにも、当社のユーザーは、90%以上、公的な機関(学校など)であったため、特に目立った違法使用は無かった。もちろん、何も無かったわけではない。明らかに、1本買って、数台のコンピュータで使っているケースも存在した。実際に見たわけではないが、電話での問い合わせの内容がそのことを物語っていたからだ。ここで、導き出された結論は、ライセンスの考え方を取り入れることによって、「CD-Rで、製品を作る」であった。「どちらが安いか?」を判断する典型的な例である。もちろん、CD-Rで作った場合、いかにも手作り感があり、プレスCDからすれば、ずいぶん見劣りするので、体裁をちゃんとしていたいという会社は、やはり、プレスCDを選択している。当社の製品の場合、お客さんが、普段から、そのメディアをずっと見るわけではないので、それでいいのだ。

 缶コーヒーのコマーシャルで、宇宙人が出て来て、「このろくでもない惑星のこのろくでもない人たち」と、地球人を揶揄するのがある。「信頼とは何か?」この大命題は、非常に難しい。アインシュタインの相対性理論が学問であるならば、「信頼に関する相対性理論」も立派な学問になるに違いない。まず、このろくでもない人たちとは、適当なことを言っている人たち・適当なことをやっている人たちも含まれているとしよう。江戸っ子でなくても、適当なことを言っている人たちを信用するであろうか。ごく普通の人でも、適当なことを言っている人たちは、やっぱり、信用できない。しかし、これはどうだろう。からだが弱っていたり、気持ちが弱くなっている人が、よく当たると噂されている占い師にみてもらって、みてもらった結果が、本当のことなのか、そうでないのか、判断がつかないのに、それを、一方的に信じてしまう。もっと、ひどいのは、デタラメな新興宗教みたいな教祖からの説法を信じ込む。客観的にみて、どのように考えても、おかしなことなのに、本人は、まったく信じて疑わなくなる。信頼に関する相対性理論という学問があるとすると、いろいろなケースを分析して、この場合は、この人のおかれている環境がこうだから、というような環境係数みたいな数値と、さらに、その人間が接触した関係者について、分類し、それぞれの影響係数みたいな数値を掛け合わせるような理論展開で、その信頼の程度を計算することができるのではないだろうか。実際に、デタラメな新興宗教の言っていることだけを信じて、一般常識的な普通の人の言うことを聞かないというのは、説明がつかない。

 さて、私が、あなたの敵であったのか、味方であったのか、それとも、単なる適当な人物であったのか? この先、この話の内容を念頭において生活をすれば、何らかの答が出ると思います。1度、離婚をしたら、このようなパートナーというかたちで、ものごとを共有できるケースはそんなに多くはないと思います。あなたに感謝します。

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