現場

「やあ、川原さん。御無沙汰しています」

「やあ、書生君。相変らずだねえ君、洒落た襟巻なんぞして」

 あっはっはと、中年の川原警部と若き書生のうつろは、まるで旧知の仲でもあるかのように、互いの肩を叩きながら笑った。その真横には、当然ながら件の死体がそのまま積み重なっている。浅倉刑事は何とも変な気分で、そわそわと体を揺らした。

 しばらく待っていると、喫茶店「黒百合」には、どやどやと警官たちが押し寄せて来た。鑑識らは写真を撮ったり指紋を採取するなどし、刑事らは現場の状況を見つつ、ああだろうかこうだろうかと議論している。空と潔子はというと、安楽椅子に腰かけ、ぼんやりと警官らを眺めていた。

「さて、」空が膝を叩いて立ち上がった。川原警部がそちらを振り向く。

「撮影なんかは終わりましたかしら。僕らも、死体の状態を見てみていいですか。もしかしたら、顔見知りかもしれない」

「ああ、頼んだ。好き勝手――とは言えないが、まあよくよく調べてくれたまえ」

 空は手袋を着け、死後硬直した男の死体をべたべたと弄り、観察した。チョット退けますよ、と言って男の死体を横にずらすと、思っていたより若い女の死体がうつ伏せになっていた。そっと女の体の向きを変えると、

「おみえさん」

 潔子が言った。ふむ、と空は頷き、女の顔をじっと見て、

「お潔ちゃん、正解だ。彼女、給仕の高月たかつき美江みえさんで間違いない。――ああ、川原さんたちはご存じないでしょうが、僕らはこの店にもよく来るのです。お潔ちゃんもいるので、勿論昼間ですが。此処、夜は特殊喫茶みたいなこともしたのです。ですから、開店する時間も他の純喫茶よか、二時間くらい遅いんです」

 誰に聞かれるでもなく、空はぺらぺらと喋った。そしてしげしげと高月美江の死体を眺め、次いで男の死体に目を移して、心底残念そうに眉を下げた。

「此処の珈琲コオヒイ……現地の発音に近づければ、といったところでしょうかね、とにかく此処の珈琲が好物なんですよ。でも、この様子じゃあ、もうあの珈琲は飲めませんね。旦那もこれじゃあ……」

 すると、潔子がしきりに首を横に振った。横に退かされた男を指差している。不思議に思い、空は男の死体をひっくり返して仰向けにした。

「な、なんてこった! 俺、いや、僕、てっきりこの男性は此処の旦那だと……」

「この男は、此処の店主と違うのかね」

 珍しく年相応の顔を見せた空に、警部が尋ねた。空はガクガクと首を縦に振り、男の顔を指差しながら、潔子に尋ねた。

「お潔ちゃん、彼、誰だい?」

「もとはたさん」

 浅倉刑事は、驚いて潔子の顔を見た。先ほどから、生きている時とはまるで違う死人の顔を一目見るだけで、名前を言い当てているのだ。しかも、喫茶店の給仕の顔と名前など、大人でも覚えていないだろうに、この少女は完全に記憶しているらしい。一般に子供は大人より記憶力がいいと言うが、潔子の場合は、普通の子供よりもずっと優れているように思えた。

「もとはた……元畑もとはた辰弥たつやさんだ。何度かお話したことがある。このお美江さんと仲が良かったんだ。ああ、それと、此処の旦那とは幼馴染だとか言っていたなァ」

 空は独りでぶつぶつ呟き、瞳孔の開いた辰弥の瞳をじっと見ていた。ふっと彼は美江の死体に視線を移し、あることに気が付いた。

「あれ、お美江さんは絞殺だったのか。凶器は縄ですね」

「あ、本当だ。じゃあ、探せば縄も、元畑さんを殺した鈍器か何かも出て来るかな」

 浅倉刑事はじっと美江の首の周りを見たが、その首には縄の痕があるだけで、縄そのものは無い。それどころか、縄の繊維すら残ってはいなかった。次いで辰弥の方に視線を移したが、やはり凶器の破片らしきものも、見当たらなかった。其処で警部は、ふと浮かんだ疑問を口に出した。

「書生君、私、不思議だと思うことがあるんだが。私はてっきり、何者かが高月さんを殺そうとしたのを、元畑さんが庇おうとして覆いかぶさって、元畑さんが殴打され、それに圧迫されて高月さんも死んだのだと思っていたのだよ。しかし、高月さんの死因は絞殺だった……」

「あ、川原さん、鋭い。僕も、それが不思議でならないんですよ。もし、元畑さんがお美江さんを絞殺し、その背後から他の何者かに殴打されたのだとしても、此処に縄が無いというのがおかしいですからね。いや、二、三調べものをすりゃあ、もしかしたら説明がつくのかもしれませんがね……」

 空は、毛糸の襟巻を指先で弄りながら、肩を竦めて続けた。

「申し訳ないんですが、今日のところは僕ら、帰らせていただきます。もう此処では何も出な……あ、いや、現場の方は警察の皆様にお任せします。何せ僕、死体の扱いやら、捜査の仕方やら作法やらを知らぬものですから。勿論頼まれた以上、探偵として調はしますが、の方はそちらさんが専門でしょう」

空の突然の申し出に、警部も刑事も呆気にとられた。此処まで死体を弄っておいて、今日はもう引き上げるなど、気まぐれにも程がある――浅倉刑事は憤慨したが、去り際の潔子の一言で、怒りは刑事の胸中からすっかり消えてしまった。

「犯人は、どうして凶器を残しておかなかったのかしらね」

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