第2話 Go Go West?

 一人でいる事がこれほど心細いものだとは──。


 出来るだけ林から姿を現さない様に、しかしながら、街から遠ざかり過ぎない様に。オレは慎重に西の外れを目指して歩き続けた。歩きながら痛烈に思う。足が痛い。とりあえず靴の代わりになりそうな物を調達しなければと。


 途中、何度か林の中から街の様子を覗いている内に、いくつかクライネスについて気付いた事がある。


 街にはオークやホビットの他にもいくつか他の種族が住んでいる。それらも人間のように自分の家を持ち、子育てをしながら家族で暮らしているようだ。様々な店が区画ごとに存在するようで、食料品、香辛料、布、木工品、刃物の店など、同業種の店が何軒かで軒を連ねて密集して建っているのが解る。向こうの方にいくつか大きな建物も見える。街全体の雰囲気から考えれば、大した建築技術があるようには思えないが、それらの大きな建物に関しては、少なくともヴォーツェルの小屋に比べれば天と地の差がある。住民にそれなりの貧富の差があるという事だろうか。


 しばらく進むと少し開けた場所に立つ巨木の下に、四人の異種族の子供たちが集まっている。ホビットの男の子が一人、オークの男の子が二人、もう一人は何という種族かは解らないが男の子らしい。


 この世界で恐らく最底辺の存在であるオレは、相手が子供だとしても迂闊に姿を見せるような事はしない。人間を隠し味に使う様な料理を食っている種族の子供だ。ひょっとすると子供でもかなり獰猛かもしれない。


 子供たちは巨木の洞を囲むようにして中を覗き込んでいる。コイツらいったい何をしてるんだ。この位置からでは見辛い。オレは音を立てない様に、見やすい場所にある岩陰に移動する。よく見ると、子供たちの中の一人が手に短い釣り竿の様なものを持っており、その糸を木の洞の中へ垂らしているようだ。何故そんな所に釣り糸を。もしかして、あの洞は地底まで続いていて、そこに流れる川や地底湖に住む魚を狙っているのだろうか。でも、西に行けば川があるはずだ。ヴォーツェルから聞いたゴミ集めのミュルは、その川の畔に住んでいると言っていた。


 いや、ひょっとすると、見た事の無い生物たちが当たり前に生活している世界なのだから、もしかすると木の洞に住む魚もいるのかも知れない。オレは静かに茂みの中から子供たちの行動を見守った。しばらく待つと釣り糸に強い引きが来た。


 「お! 来たぞ!」

 「よし、引け!」


 その声と同時に子供たちが急いで釣り竿を引き上げる。獲物が必死にもがいているらしく、釣り糸はなかなか上がって来ない。一人が竿を持つ子供の体を支え、もう一人は一緒に釣り糸を引っ張る。


 『やった!』ようやく釣り上がった糸の先には、500ミリリットルのペットボトル程の巨大な芋虫が噛みついていた。子供の一人が素早くそれを捕まえて籠へ入れると仲間から一斉に歓声が上がる。コイツらあんな巨大な芋虫をよく素手で掴むな。オレは背中にザワザワと悪寒のようなものを感じる。子供たちは期待に満ちた目で、意気揚々と再び洞に釣り糸を垂らす。オレは虫が嫌いだ。ましてやあんな巨大な芋虫が相手なら、半径1メートル以内にも入りたくない。気持ち悪いのでほっといて先を急ぐ事にした。静かに茂みを進もうとしたその時──。


 『ブオォォォ―ン!』けたたましい音が近付いて来くのが聞こえる。その音に気付いた子供たちが、慌てて糸を引き上げて必死の形相で駆け出した。何が起こっているのか意味が解らないが、オレは股間は何かを感じとるかのように強い違和感を発していた。音が近付く方角を恐る恐る覗いて見ると、そこには大きなカラスの影が。いや、違う。カラスより一回り大きな青黒い巨大な甲虫だ。オレの股間がすぐに逃げろと警報を鳴らす。


 巨大甲虫は敵の位置を確認する様に、けたたましい羽音を立てながら空中で停止飛行をする。そして、子供たちを目掛けて一気に急降下した。蜘蛛の子を散らすように四方に逃げる子供たちを追い掛ける巨大な甲虫。ちょろちょろと逃げ惑う子供たちを、空中で大きく弧を描いて方向を転換しながらどこまでも追い回す。


 甲虫の羽が巨木の枝を擦ると、まるで刃物で微塵切りにしたかのように、葉も枝も一瞬にして粉々になる。オレは一瞬、自分の目を疑うと同時に、股間に走る強い『危険』の理由を知る。子供たちが必死の形相で逃げ惑う理由はこれだ。


 この巨大甲虫の硬い甲羅の中には、一瞬で枝を切り刻むほどの硬度と鋭さを持った切り羽が隠されている。籠の中の巨大な芋虫がガチガチッと牙を打ち鳴らすと、巨大甲虫がそれに反応して怒り狂ったように木の洞の周りを飛び回る。あれは子供たちが釣り上げた巨大芋虫の親か。


 「あの糞ガキたち──マジで何やってんだ!」


 思わず心の声が漏れる。これはもう夏休みの昆虫採取なんてレベルの話しではない。そんなに必死で逃げ惑うなら、最初からこんな危ない遊びするな。オレは岩の陰から心臓をバクバク言わせながら心の中で子供たちに心の中で説教をする。それと同時に頼むから上手く逃げてくれと叫ぶ。


 やがて巨大甲虫は、芋虫の入った籠を持って逃げ惑う、オークらしき見た目の子供に狙いを定めたらしく。ゆっくりとその子供を追い詰める様に、何度も上空を旋回しながら次第にその範囲を絞り込む。そして、一気に籠を持つ左手を目掛けて襲い掛かる。一瞬早く振り向いたオークの子供は辛うじて身をかわすが、バランスを崩してその場へ倒れこんだ。巨大甲虫はスピードに乗ると小周りが効き難い様で、巨木の枝や葉を切り刻み、撒き散らしながら、大きな羽音を立てて空中を旋回し、一気にオークの子供を目掛けて襲いかかる。


 オークの子供は立ち上がって必死で逃げる。しかし、直線でのスピードは圧倒的に巨大甲虫の方が早い。もの凄いスピードで追い上げて、鋭い切り羽が籠を持つ左腕を吹き飛ばしたかと思われた瞬間に、つまずいてオークの子供は勢い良く転がり命拾いをした。

 

 巨大甲虫はそのまま勢い良くその場を通り過ぎ、一瞬、オークの子供を見失ったかのように空高く飛び上がると、空中で停止飛行をしながら再び起き上がって逃げようとするオークの子供に狙いを定める。上手くかわしたかの様に見えたが、切り羽が僅かに掠っていたのだろう。オークの子供の腕には赤い色が滲んでいる。


 大きな羽音を立てて空中で狙いを定める巨大甲虫に、他の子供たちがオークの子供を助けようと小石を投げるが、巨大甲虫まったく意に反さない様子でその場をゆっくりと旋回する。そして、オレが隠れている岩の方へと必死で駆けるオークの子供に狙いを定め急降下すると、地面から1メートル程の低空を一気に追い上げる。


 『こっちに来るな!』オレの顔には確実にそんな表情が浮かんでいるはずなのに、オークの子供はそんなオレにすがる様な視線を向けながら駆けて来る。おかしいだろ。だって、オレはオークに食われかけたと言うのに、どうして身を挺してオレを食おうとしたヤツらを助けなきゃいけないんだ。その時、何故か脳裏に妻と娘たちの笑顔が過る。化物の親でも子供が先立てばその悲しみは計り知れないだろう。


 「うおぉぉぉーーー!!!!」


 何故かオレは岩陰から飛び出し、大甲虫を目掛けてヴォーツェルから貰った杖を、渾身の力で巨振り下ろしていた。大声を出したのは。気合とかでは無い。恐怖を紛らわすためだ。竹刀は学生時代に何度か経験しているが、生活指導の先生にしばかれる側だった。振るう方は初めてだ。当然、オレの杖は思いっきり空を切る。だが、そのお陰で巨大甲虫は、オレを警戒して大きく空中へと旋回した。


 「大丈夫か?」


 オークの子供が今にも泣き出しそうな顔で頷く。オレはその手を引き、オークの子供を岩の陰に隠すと、岩の前に立ち杖を構えた。空中に舞い上がった巨大甲虫の青黒い体が太陽に照らされて輝く。やがて、太陽を背にする黒い塊は、もの凄い羽音と共に急降下しながら旋回し、明らかな敵意を発しながら一直線にオレに向かって来る。


 恐怖のあまり闇雲に振り回した杖の先が、少し手前で旋回した巨大甲虫の切り羽に触れ破片をまき散らす。オレの手には杖がチェーンソーを打ったかの様な衝撃が走る。十代の若者とは違い、アラフォーのオレなら正しくこんな時に『超ヤバイ』を使う。オレの心臓はまるで耳元で鳴り響くかのように大きな音を立て、股間は最大の『危険』警笛を鳴らしている。


 岩陰から飛び出して5分も経たずにオレは後悔していた。かっこつけて助けになんか入るんじゃなかった。やっぱり無理だ。真正面から怒りを周囲にぶちまけながら、巨大甲虫はこれまで最も早い速度でオレの顔を目掛けて突っ込んで来た。もう駄目だ。心の中でそう叫んだ瞬間に、オレの体は流れる様な自然な動きで、営業時代に何度も繰り返し修羅場を潜り抜けて来たあの動きをしていた。


 土下座────。それは巨大甲虫にとっては、自然界には存在しない予測範囲外の行動だった。


 かつて営業の先輩に教えてもらった『最後は土下座だ!』という教訓がオレの命を救う。度肝を抜かれた巨大甲虫は勢い余ってそのまま岩に激突し、その勢いで岩の裂け目にはまり込んだ片方の切り羽が、弾け飛んでオレの足元に落ちた。一瞬、何が起こったのか理解できないでいたオレのすぐ後ろに、巨大甲虫がゴロリッと転がり落ちて来た。ひっくり返った巨大甲虫が、宙を掻く様に一所懸命に脚を動かしている。オレは即座に手元に転がっている杖を拾い上げて、渾身の力で何度も巨大甲虫の腹を打ち据えた。


 何度目かに緑色の液体を吐き出すと、巨大甲虫はそのまま動かなくなっていた。気が付くと、全身の力が抜け落ち、その場にへたり込むオレを、岩の陰から出てきたオークの子供が心配そうに覗き込んでいた。


 「あの、大丈夫ですか?」 

 「大丈夫じゃねえよ!」


 他の子供たちも駆け寄って来る。オレがゆっくりと起き上がり、オークの子供の腕を掴むと一瞬ビクッと緊張したように背筋を伸ばした。安心させるようにオレは包みの中からヴォーツェルに貰った薬草を取り出して見せる。そして、その子の腕に貼り付け、体に纏った布の端を細く破って薬草の上から巻き付けて先を結んだ。


 「とりあえず、これでいいだろ。よく頑張って逃げ切ったな」


 そう言ってオレが微笑みかけると、ようやく子供たちの顔に安堵の笑顔が浮かんだ。


 「ありがとう!」

 「ああ。でも、気をつけたほうがいいぞ。あれは遊びのレベルじゃないぞ」


 子供たちは何か言いたそうにしていたが、反省しているようで俯いて頷いた。


 「これ……」

 「うわっ!」

 「助けてもらったお礼に」


 急にオークの子供が巨大な芋虫の入った籠をオレの目の前に差し出した。いきなり気持ち悪いもの目の前に差し出されて、思わず後ずさりして尻もちをついたオレは、一瞬マジで頭を叩いてやりたいと思ったが、そこは大人の度量の広さを見せないと。どうやらお礼のつもりらしい。

 

「いやいや。結構です。マジで……」


 オレが丁重に断るとオークの子供は一瞬、困ったような表情を浮かべた。虫が嫌いだから触りたくないと言うのもかっこ悪いので『それはお前たちが頑張って仕留めたんだから』と言っておく。何だったら巨大甲虫の死骸も持って行けと言うと、子供たちは驚いたように目を丸くして理解が出来ない様子だ。さすがに死んだ虫はいらないのかと思ったら、本当にいいのかと何度もオレに尋ねる。欲しかったのか。オレは遠慮せずに持って行けと伝える。オレはそもそも触りたくない。それでも本当に貰っていいのかとしつこく聞くので、そんなに有難いならお前らが大人になったらお礼に何かしてくれよと、冗談めかして言ってみる。そんなにこの世界に長居する気はないのだが。


 それにしても、子供とは言えあんな危険まで冒してあの虫を欲しがると言う事は、人間界で言うところのレアな種類のカブトムシやクワガタの様な扱いなのだろうか。それにしても、昆虫採取と言うよりは猛獣退治といった感じだったな。


 「オレは記念にコレだけもらっておくよ」


 そう言って、目の前に落ちていた、琥珀色に輝く巨大甲虫の切り羽を拾い上げた。見た目も綺麗だし、これなら虫が苦手なオレでも触れる。これだけ鋭く頑丈ならナイフの代わりにもなるかもしれない。それを見て子供たちが満面の笑みを浮かべる。自分たちだけで全部持ち帰るのは気が引けたのだろう。


 「こんな危ない事は二度とするな。お前らに万が一の事があれば、悲しむ人がいるんじゃないのか?」


 オッサンらしく虫の死骸をやったくらいで偉そうに説教をたれて自己満足すると、オレはさっさと旅の支度をする。


 『あの──』その時、子供たちの一人が話し掛けた。ホビットでも、オークでもない、肌が青白く、毛髪の色が銀色で、耳の先が尖った、人間に似た見た目の子供だ。緑色のその瞳には子供ながらに知性を感じる。


 「どうした?」

 「もし良かったら、ボクたちの工房へ来ていただけませんか」

 「工房?」

 「はい。ボクたちの工房がすぐ近くにあります。ぜひ!」


 良く解らないがオレに恩義を感じての事だろう。それにしても工房とはどういう意味だ。どう見てもコイツらは人間にすれば小学校高学年といったところだ。いずれにしろ、コイツらを目の前にしてもオレの股間は何の反応も示していない。工房へオレを連れ込んで、何かを企んでいるとは思い難い。子供同士で作った秘密基地でも見せてくれると言うのだろうか。少し疲れたし、すぐ近くなら寄せてもらって休憩するのもいいだろう。もしかしたら、ゴミ拾いのミュルの事も何か聞けるかもしれないし。


 「オレの名前は佐藤だ」

 「サトウ。ボクはヘルトラです」

 「ボクはアルス」

 「ボクはヘジオ」

 「ボクの名前はボルス。さっきは本当にありがとう」


 銀髪で緑色の瞳の男の子が挨拶をすると、それに続く様に次々と子供たちが挨拶をする。そして、最後に左腕に布を巻いたボルスが言った。そして、オレは四人の異種族の子供たちに連れられて、彼らの工房へと向かった。




 ボルスたちの工房は、林を一つ抜けた場所にある人の背丈程もある葦の様な植物が生い茂る中に、隠れるように建てられたボロボロの掘っ立て小屋だ。まあ、子供たちの秘密基地にしては上出来のレベルだ。オレはそんな事を考えながら部屋の中へと案内される。ボルスがオレに椅子を進めると、ヘルトラがすぐに蝋燭に火を点けた。やがて、薄暗い部屋の中には所狭しと、異様な顔が浮かび上がる。


 オレは一瞬、ビクッと背中を跳ね上げた。百以上の顔が蝋燭の灯に照らされる。しかしそれは、よく見ると壁いっぱいに広がる仮面だった。色も模様も様々な仮面が、壁だけでなく棚の中にもたくさんある。いったいこれは何なんだ。


 「こ、これは──」

 「トゥータの祭りに使うお面ですよ」

 「トゥータの祭り?」

 「はい。死者を弔うベスティアで最大のお祭りです。それに参列する者は仮面を着けるのが習わしなのです」

 「そのための仮面か──」

 「ボクたちはこの工房で作った仮面をトゥータの祭りの前に売って、そのお金を元にいつかもっと大きな本物の工房を手に入れたいんです」

 「コレってこんなにたくさん売れるのか?」

 「うん。これでもボクらの作る仮面は評判が良いんだよ。流石にクライネスで全て売り切るのは難しいけど、他の街からも注文をもらっているからね」


 しばらくするとボルスがお茶を運んで来てくれた。何コイツら。あんな危険な虫取りとかしててアホな糞ガキなのかと思ってたら、もの凄くしっかりしてるじゃないか。コイツらガキのくせにこんなカオスな世界でマジでビジネスをしてやがる。


 「サトウのおかげでギガタスクルの素材がたくさん手に入ったから、高額注文の仮面も作れそうだ。本当にありがとう!」

 「あの巨大甲虫か」

 「はい。金持ちたちは高額素材を用いた仮面を好むんです」

 「なるほど──」

 「死者の弔いに金を厭わない方が、死後に安らかに過ごせるんだ。だから、高額のお面も準備しないと、金持ちたちが困るんだよ」

 「そ、そうか……」

 「それに、できるだけ良いお面を着けて祭りに参加する事自体が、金持ちの象徴でもあるんです」


 コイツら目の付けどころがなかなか鋭い。そのお祭りで使う仮面は、単純にお祭りで着けるためのお面としてだけでなく、人それぞれの虚栄心や信仰心など、様々な要素が組み込まれている。もしかして、コイツらこの世界でいずれ大物になるのではないだろうか。


 「なかなか良く出来たお面だな」

 「ありがとう! 良かったらお礼に好きなものを一つプレゼントしたいんだけど、どうだろう?」


 祭りなんかに出る気はない。でも、素顔を見られないという点ではけっこう便利かも知れないな。


 「いいのか?」

 「ええ。ぜひ!」


 オレは壁に飾られた仮面に目をやる。良く見ると一つ一つの表情がまったく違い、様々な素材を丁寧につなぎ合わせた仮面は、どれもハンドメイドで一点物の良さを醸し出していた。これならば芸術品としての価値もありそうだ。


 「なあ、この中で一番安い仮面はどれだ?」

 「安い仮面?」

 「ああ。どれだ?」


 ボルスとヘルトラが不思議そうに顔を見合わせる。そして、頭を傾げながら壁の隅の方に掛けられた、地味な色彩の仮面を指さした。


 「この辺のは作りが単純で、素材的にもあまり高くないけど──」

 「そうか」


 オレはボルスが指さした辺りの仮面を一つ手に取る。こげ茶色と黒の斑模様の、植物の皮と動物の革で作られた地味な仮面だ。後頭部から項を覆う栗色の毛がトウモロコシの雄しべの部分に似ている。


 「じゃあ、これ貰っていいかな?」


 ボルスたちは口々に素晴らしいチョイスだと言うが、オレからするとどの辺が素晴らしいのかまったく解らない。コイツらが頑張って夢のために金を貯めようとしているのに、通りすがりのオッサンがその邪魔をする訳にはいかない。だから安い物にしようと思っただけだ。それに、あまり目立ち過ぎるお面は、素顔を隠すための目的にも適さない。


 オレはお茶を飲みながら、ボルスたちにヘルトラの事を聞いた。この街には学校の様な施設もあるらしく、それはオレがここに来る途中に見た大きな建物の一つらしい。基本的に学ぶ内容は計算や文書の他に様々な職業訓練の様な事をするらしく、とくに卒業という概念は無く、自分が十分に学んだと思えば通うのを辞めたり、また学びたい事があれば通うという場所のようだ。驚いた事に大きな街へ行けば、魔法などの高等学術を学ぶための特殊な学校も存在するらしい。その他にも、街には保安場という警察と役所を合わせたような施設や、唯一の賭博施設でもある闘技場などもあるらしい。彼らとの話は予想以上に有意義なものだった。


 オレはボルスたちに途中まで送ってもらい、街の西側へたどり着いた。向こうに見える川を流れに逆らうようにしばらく進めば、やがてゴミ集めのミュルが住む大きな天幕が見えてくるらしい。


 オレはボルスたちと別れ、貰った仮面を着けて歩き続ける。もし、これが人間界なら、オレの周りには半径3メートル程度の見えない壁が出来たかのように、街行く人たちはオレを避けて歩く事だろう。日常生活で仮面を着けた半裸のオッサンよりも怖いものは少ない。


 太陽がだいぶ低い位置へ移動していた。途中の木陰で水分を補給して、ヴォーツェルから貰った木の実を食べて休憩をする。粒のアーモンドのような形で、味はクルミに似ている。まったく、この世界の住民の『しばらく』とは、いったいどれだけ歩けばいいんだ。オレは愚痴をこぼしながら木の実を口にもう一つ放り込む。貴重な木の実もあっという間に残り三つ。こんな事なら仮面なんかじゃなくて、少しでも食料を貰っておくんだった。体力はどんどん削れて、愚痴ばかりが次々と沸いてくる。


 一瞬、危険を承知で近道になる、街中を通るべきだっただろうかという考えが頭を過る。いや、それで捕まって食われたら元も子も無い。しかし、水と食料が尽きて野垂れ死んだのでは、それこそ本末転倒だ。今頃、嫁と娘たちはどうしているだろうか。そもそも今日は何日なのだろう。食いしん坊の次女は、最近、毎日のようにどんなクリスマスケーキが良いかその話しばかりしていた。九州のお義父さんたちと楽しいクリスマスを過ごしているだろうか。『どんなケーキ食べたかメールするからね』最後に話したのはそんな他愛も無い事だったが、既に携帯も紛失したし、あったとしても電波が通じるはずがない。


 オレは無言で歩き続ける。よく東北育ちの人間は寡黙で真面目だなんて言われるが、全ての人がそんな訳ではない。少なくともオレに関してはまったく当てはまらない。でも、今はとにかく黙々と進むしか無い。


 やがて川の畔にガラクタの山に囲まれた大きな天幕が見えて来た。きっとあれだ、間違いない。疲れ切った体に少しだけ力が沸いて来る。


 オレはようやくゴミ集めのミュルの天幕にたどり着いた。


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