雪国のオッサンが異世界へ  

桜 二郎

第1話 オッサン in Hell

 微かに街灯が先を照らす年の瀬の東北の田舎道。雪が深々と降りしきる。オレ、佐藤康成さとうやすなりは誰も待っていない我家に向かって、肩と頭に雪を積もらせながら歩いている。こんな日に限って車が故障したオレは、勤め先の駐車場に車を置いたまま、ダイヤの乱れ切ったバスに乗って自宅近くのバス停まで帰って来た。


 小学三年生と一年生の娘たちが冬休みに入ったと同時に、嫁は娘たちを連れてひと足早い里帰りで九州へ帰った。クリスマスも終わらないうちに正月休みとは、ずいぶんアバウトな日数計算ではあるが、こんな田舎に一緒に住む事を提案してくれたのは他でもない彼女だ。九州育ちの彼女にとって冬の雪国は異世界とも思える程の場所だろう。オレはその事にとても感謝していた。


 日頃はお袋の果樹園の手伝いもしてくれ、娘たちの面倒を見てくれている彼女への束の間の骨休めとして、一年に一度の少し早くて長めの正月休みなど安いものだ。それに、オレも大晦日には向こうで合流する事になっていた。




 彼女と出会ったのはオレがまだ東京でイケてる社会人ライフを満喫していた頃だ。勤めていた会社に派遣社員としてやって来た彼女を一目見た瞬間に、オレはビビッと来た。東京に住んで最初の数年は、たまに出る東北訛りがコンプレックスだったが、近頃ではそれも個性でありに出来るようになった。後は営業で鍛えた押しの強さと腰の低さのダブル攻撃だ。


 歓迎会の二次会でどさくさに紛れて彼女とのメールアドレスを交換に成功したオレは、それからすぐにネットで会社近くの美味しくてお洒落な居酒屋を検索しまくる。そして、何気ない会社帰りの付き合いを装って、断られても諦めずに何度かお誘いすると、一ヶ月後にようやく『OK』の返事を頂く。何度かそんな事を繰り返すうちに、最初は彼女の見た目に惚れたオレも、次第に彼女の内面の美しさに気付き始めた。ああ、この娘なんだ。ある時そんな事をふと感じた。


 そこから先は自分でも驚くほどトントン拍子に話が進み、オレたちは正式に付き合い始める。その後も話は上手いように進み続け、勢い余って一年後のある日、彼女から真面目な顔で『大事な話がある』と告げられる。白い検査用の棒に水色の線が入ったと。それから数週間後、オレは真夏だというのにスーツ姿で彼女の実家を訪れる事となる。


 スケベな先輩に『ジョギングをすれば、アッチの持久力もアップする』と言われ、彼女と付き合い始めてすぐに始めたジョギングは、今では毎朝の日課になっていた。肝心のアッチの成果はほとんど感じられないが、タイムだけがどんどん縮んでいった。オレはスケベな先輩の話を真に受けた、自分のアホさ加減に苦笑いしながら、額を流れる汗を拭う。


 電車と飛行機を乗り継ぎ、駅からタクシーで15分。ようやく彼女の実家へ到着すると、気立ての良いお義母様が優しい笑顔で迎え入れてくれる。そして、案内された客間には眉毛が濃くて立派な口髭とスキンヘッドが素敵な、とても堅気には見えないお義父様が腕組みしながら鎮座していた。オレも男だ。一通りの挨拶を済ませ、インターネットで購入した、お義父様へのお近付きの印の高級焼酎をそっと差し出すと、覚悟を決めて妊娠のご報告と、結婚のお願いをする。


 『妊娠』の二文字が出た瞬間に、お義父様のスキンヘッドに青黒い血管が次々と浮き上がる。消えたい。透明になりたい。こんな事を切に願ったのは高校の修学旅行で、温泉旅館に宿泊したとき以来だ。


 オレは営業で鍛えた土下座と、ほとんど持ち合わせていない誠実さを総動員し、茹で蛸の様に煮えたぎるお義父様を何とかなだめる努力をする。


 しばらくすると、お義母様の執り成しもあり、とりあえず食事でもしようという流れとなった。宴会部長と呼ばれる係長の実力を遺憾なく発揮し、何とかその場を乗り切ったオレは、ここぞとばかりに手土産の高級焼酎をお注ぎし、お義父様の前に改めて正座をすると床に頭をなすり付けながら結婚のお願いをした。


 高級焼酎が気に入ったのか、僅かばかりの誠意をくみ取ってくれたのか、お義父様の顔には既に先程までの鬼の様な形相は微塵もない。すっかりオレの事を気に入ってくれた様子で、日が沈みかける頃になると、お義父様はオレの事を『康成』と自分の息子の様に呼び、それに対してオレは『おやっさん』と砕けた呼び方で返す、そんな間柄になっていた。そして、辺りが真っ暗になる頃、ついに『娘を頼むぞ』の有難い一言まで頂戴する運びとなった。


 『娘を頼むぞ入りました! アザース!』オレの心の中でミッションクリアのファンファーレが鳴り響く。


 『土下座』と『宴会部長』という、営業マンとしてこれまでに身に着けて来た、唯一にして最大の武器でオレはこの難局を乗り切った。優秀とは言えないまでも、これまでに営業マンとしてそこそこの成績を上げてこられたのも、この二つのお陰だ。


 じつはオレにはこの二つの武器の他に、もう一つ、ちょっとした特技があった。スキンヘッドに青筋を立てて、怒り狂った鬼の様な形相をしていたお義父様を前にして、オレの様なヒヨっ子が逃げ出さずに拝み倒す事ができたのは、この特技の御蔭でもある。


 オレは自らの身に迫る『危険』を感じ取るのだ。いわゆる『危険感知』の能力だ。


 ただ、実際には能力などと言う、格好の良いものではない。『危険』を感知した時に、股間から尻にかけてゾクゾクと何とも言えない心地悪さを覚える、と言うかなり曖昧なものだ。ただし、この能力には、何故か女性相手にはまったく働かないという弱点があった。オレが子供の頃から自然に身に付いていて、その精度は自分で言うのも変だがかなり良い。


 学生時代にヤンキーたちに絡まれそうになった時も、東京に来てすぐに道端で妙な勧誘話に引っ掛かりそうになった時も、営業になり立ての頃に大口の注文を装った詐欺に合いそうになった時も、全てこの隠れた特技のおかげで大事に至らずに済んだ。


 オレはこの『土下座』と『宴会部長』に『危険感知』という特技を合わせた三つを駆使し、入社5年目にしてめでたく係長へ昇進した。彼女と出会ったのは、そのすぐ後の事だ。


 

 最初にお義父様に結婚のお願いをした時、『そんなに簡単に娘を渡せるか!』とテーブルを叩きながら怒鳴られた。しかし、何故かその言葉にオレの股間は一切の『危険』を感知しなかった。こんなに恐ろしい形相で激怒しているオッサンを目の前にしているのに何故だろう。オレは今までに感じた事の無い感覚を覚えた。その時はその正体が何なのかよく解らなかったが、娘たちが産まれて一緒に暮らしているうちに、ようやくそれが何なのかに気付いた気がする。


 あんな怖い顔で怒鳴りながらも、既に娘の結婚を心の中では許していたおやっさんは、それと同時に本気で『そんなに簡単に娘を渡せるか!』と本気で思っていたのだろう。それは『危険』では無く、父親としての心からの『愛情』だ。それに気付いた時に、オレは同じ父親として、オッサンとして、改めてこの怖い顔のおやっさんの事を尊敬したし、前より少しだけ好きになった。


 そして、その思いを叶えるためにも、毎日せっせと働きながらも、やる事はちゃっかりやって更に次女を授かり。嫁と娘たちを守りるためにか弱いながらも一家の大黒柱として頑張っている。


 今年の大晦日はオレも九州の嫁の実家に顔を出して、おやっさんと一緒に酒を飲む約束をしている。既に飛行機のチケットも予約したし、高級焼酎もゲットした。




 そんなオレが実家に戻る事になったのは3年前の冬。実家の親父がいきなり倒れた。いつも口うるさく、暇があれば田んぼと果樹園を見て周り、日長一日そこで過ごす。何が楽しいのか理解できない様な毎日だが、親父は判で押したようにそれを繰り返した。木々に何か話し掛けているようだと、お袋に聞いた時には聞いた時にはついにボケたかと思ったが、正月にたまに嫁と娘たちを連れて帰った時にも、まったくその様子は無く、どう考えても百歳まで余裕で生きそうだった。そんな親父が、病院へ搬送されるとそれから3日後にアッサリと他界した。


 その日はちょうどオレの誕生日だった。葬式が終わって、親父の果樹園の手伝いをしてくれていた親戚に聞いたのだが、親父はよくオレたち家族の事を話していたらしい。聞いてもいないのに、倅が最近どうしてるとか、嫁さんと孫たちがいつ田舎に来るかなど、そんな事ばかり話していたらしい。話す相手がいない時には、木に向かってまで孫自慢をしていた様だ。


 この話にはれ流石のオレも狼狽した。気付かないうちに涙が溢れて、頬を伝い落ちていた。


 『ここで暮らしてみるのもい良いんじゃないかな』四十九日の法要が終わる頃に嫁がぽろっと口にした。オレが不思議そうな顔で見ると、『お義母さんの事も心配だし』と優しく微笑む。もしかしたら、どこかで親父の事を引きずっていたオレを気遣ってくれたのかも知れない。『それに──』と嫁は付け加える。『前から雪がたくさん降る場所に住んでみたいと思ってたんだ』と。うちの嫁はポジティブでなかなかの男前だ。


 そんなこんなで中古の一軒家を格安で購入して、オレの実家に近い雪国の田舎街に移住した。




 38歳を迎える記念の夜に、アラフォーで二児の父のオレは雪の中を一人で歩いている。東北生まれのオレにとって雪は珍しくないが、この夜の雪は特別だった。夕方頃からだんだん強く吹雪始め、家に帰る時刻にはかなり酷い天気になっていた。


 すぐ先の角を曲がれば我家が見えて来る。田舎へ戻る事を決めた際に、知り合いに良さそうな物件をいくつか探してもらっていたのだ。そのため、リフォーム費用を入れても、それまでマンション購入のためにコツコツ貯めていたぶんと、僅かながらのオレの退職金で、ローンを組まずに小さいながらも庭付き一戸建ての我家を手に入れる事ができた。


 そんな所まで来た時に、吹雪が一段と強まり、急にまったく前が見えなくなった。ホワイトアウトと言うヤツだ。こうなると街灯の明かりもほとんど見えない。すぐそこに家があるのに、こんな場所で遭難なんて笑い話にもならない。闇夜に吹き付ける強烈な吹雪。次第に方向感覚は無くなり、ものの50メートルで我家だと言うのに、あても無く砂漠を彷徨うような感覚に襲われる。吹き付ける雪でまともに前を向いて歩く事もできない。嫁と娘たちが一緒じゃないのが幸いか。


 そんな事を考えていた刹那──── 


 オレは突然の浮遊感に襲われた。そして、直後に襲う身を裂くような痛み。それが尋常で無い冷たさである事に気付いた時には、全身を氷水で覆われていた。上着が時折、硬い物に勢い良く擦れる感触から、自分がその氷水と共に流されている事を認識する。それと同時に自分が置かれている状況が脳裏に過る。流雪溝か。それは雪国の歩道端に設置されている、除排雪作業時に使用される雪の塊を流すための特殊な水路だ。普段は蓋が閉められており、その上を普通に通行する事が可能で、使用する際にこの蓋を開けて中を流れる流水を目掛けて大量の雪の塊を捨てるというものだ。しかし、希にこの蓋が開けっ放しになっている事がある。数年に一度は老人や子供の痛ましい事故が報告される。今回はオレの番か。


 予想を超える激しい流れと、一緒に流れる雪のせいで上手く息ができない。それに、まったく身動きが取れず、次第に手足の感覚は無くなっていく。


 どれくらい流されたのだろうか。この勢いだとあっという間に隣町まで来たのかも知れない。何度か流れを止めようと試みたが、低温に浸かり切ったオレの体はほとんど言う事を聞いてくれなかった。オレは思いのほか冷静で、不思議なくらい頭も冴えていた。


 もしここで自分が先立てば嫁と娘たちはどうなるだろう。九州のお義父様は地元ではちょっとした資産家らしい。それに、長女である嫁の事はもちろん、孫である娘たちの事も本当に大切に思ってくれている。貯金残高が財布の中身と大差無いオレに出来る事は少ない。どうやらアイツらの心配をする必要は無さそうだ。こうなれば潔く辞世の句ってヤツでも考えるか。あれ、辞世の句って『五・七・五』でいいんだっけ。


 何度目かに頭を強打した瞬間に、そんな冷静な考えも意識と共に吹き飛び、オレは深い闇へと沈んで行った。






 ────騒がしい。天国とは意外に騒々しい場所なんだな。


 いや、そんな訳がない。オレはすぐに自分の考えを打ち消す。まず音が違う。オレがイメージする天国では女神さまが優しく竪琴を弾き、その周りを透き通る鈴の音の様な羽音を立てながら天使たちが舞う様な場所だ。しかしここでは、先程からガチャガチャとした雑音が鳴り響き、遠くの方で怒号すら聞こえる気がする。そして、匂いも違う。オレがメージする天国は素敵な花の香りがする場所だ。ところがここは、どことなくワイルドな獣臭や香辛料、酒の様な匂いまでする。そんな天国はオレの辞書には無い。


 そうか、ここは地獄か。そう考えれば全てがしっくりくる。自分の死後の行き先が地獄だった事に少しガッカリしながらも、心の片隅に『そりゃそうだ』と納得する自分がいる。確かにこれまで何一つ、人に自慢できる様な善行をした事が無。


 それにしても当事者の言い分をまったく聞かずに、地獄行きというのも乱暴な話だ。万が一、生前の記録に間違いや記録漏れなどがあったら、地獄では誰が責任を取ってくれると言うのだ。しかし、考えてみれば不思議な話でもない。前世ですら預けた年金が消えても誰も責任は取ってはくれなかったのだ。地獄なら当然の事で済まされるだろう。それに、毎日、日本では三千人以上、世界中では十五万人以上が亡くなっていると言う。一人一人の言い分を聞いていたら、物理的に裁き切れる訳が無い。いや、そもそも天国や地獄では時間という概念自体が存在しないのだろうか。


 薄らと目を開けると不思議な光景が目に飛び込んで来る。オレは部屋に置かれた大きな台の上に、布に包まれた状態で乗っていた。布が邪魔をして良く見えないが、周りには様々な野菜や果物などが一緒に置かれている様だ。そして、向こうの方から慌ただしい音や叫び声が聞こえる。地獄の鬼か悪魔たちが亡者たちに残忍な責めを負わせているのだろうか。地獄ならばそれも道理か。達観したふりをして見せるが、ときおり訪れる静けさがオレの恐怖心を煽る。

 

 死んでしまったのは仕方がない。でも、死んだ後に更に痛い思いをするのは嫌だ。辛いのも嫌だ。オレは安らかな死ってヤツを希望したい。その辺の希望は通るのだろうか。それとも、地獄にはそんな選択肢など存在しないのか。


 「おい、そっぢのは解体し終わっだのが!?」


 野太い声が辺りに響き渡る。


 「へい、親方! 今やるとこっス!」

 「馬鹿野郎! もだもだしでねーで、早ぐしやがれ!」


 金属同士を擦り合わせる様な甲高い音を立てながら、何者かが背後から近付く気配を感じる。恐る恐る布を寄せて声が聞こえる方を覗いて見る。薄暗い部屋の中はオレがイメージする地獄とは少し違う様だが、間違いなく天国では無さそうだ。考えてみれば本物の天国や地獄を見た人間が生きているはずも無い。オレのイメージもどこかの誰かに与えられたものだ。それに、地獄にも様々な種類があるのかも知れない。ここはその中の一つなのだろう。


 オレのイメージする地獄には建築物は一つしかない。亡者たちが地獄に来て最初に閻魔大王の裁きを受ける場所だ。前世で言うところの裁判所みたいな場所だろうか。だた、この場合は地獄に来てる時点で有罪が前提の裁判になるのだが。そして、その建物以外は果てしなく続く真っ赤な大地。所々から溶岩が噴き出したり、毒々しい煙が上がっていたりする。空には常に黒く重々し雲が渦巻き、血の池や針の山などの各種地獄コーナーの周辺には、砂浜で甲羅干しをする海水浴客のごとく亡者たちが横たわる。それを更に最後の仕上げとばかりに、鬼や悪魔たちが笑いながら槍でズタズタに刺しまくる。これこそ、地獄。


 それに比べると、ここはずいぶんと様子が違う。鍋、窯、大小様々な大きさの刃物などが並ぶ。そして、オレは大きなテーブルの上に、山ほど積まれた食材に埋もれる様に置かれている。しかも、何故かパンツ一丁でだ。向こうに見えるグツグツと煮え立つ大きな鍋の中には、白い骨が見え隠れしている。天井から下がるフックには大型の獣が皮を剥がれた状態で吊るされている。


 つまり、そういうタイプの地獄なのだろう。皮を剥がれ、バラバラに解体されて、釜で茹でられる。ある意味、オレの想像する地獄よりリアルに恐ろしい。その時、背後から近づく足音が、すぐ傍で止まった。


 「ちょっと、待ってぇーー!!」

 「ごわぁぁぁーーー!!!!」


 恐怖のあまり思わず叫んだオレの声に驚いたソイツが、オレより大きな野太い声で叫んだ。布を体から剥いで寝返りを打つと、オレの目の前には、片手に鉈の様に分厚い刃物を持ち、もう一方の手に研ぎ棒を持った薄汚れた恰好の化物が立っていた。それはCGや特殊メイクなどと言う類ではない。マジなヤツだ。


 土色の毛深い肌に、下腹の出た小太りの猫背なその化物は、異様に長い片方の腕には長い刃物を、もう一方には研ぎ棒を構えている。驚いたように見開いた瞳は人間のそれとは違い、全体が焦げ茶色で瞳孔は横長の楕円形で山羊の目を思わせる。前頭部の生え際辺りに肌より少し濃い色の、申し訳程度の小さな角が見える。耳はやや大きめで先が少し尖っている。鼻は低く二つの穴だけが目立ち豚か猪のそれに似ている。半開きになった口は下顎が異常に発達し、いわゆる受け口になった下顎からは、生成り色の牙が二本突き出している。左目の横には恐ろしい形相を引き立てる様に長い傷跡が残る。


 オレは『鬼だぁー!』と叫ぶべきか『悪魔だぁ―!』と叫ぶべきか一瞬、躊躇した後に『出たぁーーー!?』と曖昧な悲鳴を上げた。その鬼か悪魔か解らない化物もオレの叫びに驚いた様子で、目を見開いてオレを見つめる。そして、部屋の奥へ向かって大声で怒鳴る。


 「おい! ごれはいったいどういう事だ!」


 良く見ると部屋の奥にもう一匹、痩せぎすだが似たような特徴の化物が、煮え立つ鍋の向こうで野菜の様なものを切っている。その痩せぎすの化物はオドオドした様子で大声で叫ぶ化物を見る。


 「へ、へい親方! わ、私じゃありません……」


 痩せぎすの化物が背中を小さく丸めながら、竦み上がる様な声で答えた。


 「ごらぁー! ボルヂィー! お前がぁー!」


 親方と呼ばれる化物は、更に張り上げた声に苛立ちを滲ませる。すると、その声に反応するように小柄な化物が慌てて駆け付けた。


 「へい親方。呼んだっスか?」

 「呼んだがじゃねえ馬鹿だれが! ごれはどうなっでんだ!?」

 「え? うおぉ!?」


 ポルチと呼ばれた小柄な化物は、指さされたオレを見て、淀んだ焦げ茶色の目を大きく見開いた。一連の会話がから想像すると、本来ならオレは手足を縛られた状態か、猿ぐつわをされているはずで自由に動ける状態ではなかったのかも知れない。それとも、既に八つ裂きにされている手筈だったのだろうか。いずれにしろ、自由に動ける身ではなかったはずだ。だとすると、オレはこれから何らかの刑を受けるのか。


 それにしても、体中あちこちが痛む。これは何らかの刑による痛みではない。こんな中途半端な痛みで済むはずが無いからだ。それよりも、既に死んでいるのに痛みを感じるというのは意外だ。ということは死んでいながら、これから受ける刑によって更なる痛みだけが繰り返されるという事か。まさに地獄だな。


 それにしても、これから始まる刑が気になる。知りたい訳では無いが、知らずに恐ろしい目に会うのはもっと怖い。オレは改めて自分の置かれた状態を確認するように、部屋の中を見回した。ここは奥行きのある細長い部屋で、目の前にはポルチと呼ばれる小柄な化物が入って来た扉の無い入口が、奥には木で出来た古めかしい扉が見える。


 「ボルヂィ! お前、そっぢの解体は終わっだのが?」

 「へい、もう少しっス!」

 「馬鹿野郎! 早ぐしやがれ! ごれどうする気だ!?」

 「すぐに片付けないとまずいっスよね──」


 何やら揉めているようだ。親方と呼ばれる化物がポルチと呼ばれる小柄な化物を怒鳴り付けると、奥にいる痩せぎすの化物が一緒になってビクッと身をすくませる。次はオレが解体される番らしい。


 今しか無い。オレはそっと滑り出す様に布から抜け出して台から降りると、一気に奥の木の扉へ向けて駆け出した。体がギクシャクして思う様に動かない。それでも今は走るしかない。扉を開けるとそこには異国のスラム街を思わせるような、粗末な街並みが広がっていた。親方と呼ばれる化物が、背後から野太い声で叫びながら、オレを追いかけるのが聞こえる。人間は死んでも恐怖を感じる生物なのか。


 オレは振り向かずに一気に走った。パンツ一丁で街を駆け抜けた。こんな所で毎日のジョギングの成果が出るとは思ってもみなかった。


 途中で勢い余って通りに干していた洗濯物に突っ込むと、シーツのような大きな布が体に絡みつき転倒した。擦れた膝に血が滲む。しかし、痛みはほとんど感じない。あの化物に捕まれば、擦傷どころの痛みでは済まない拷問が待ち受けている。オレは絡みついた布を急いで丸めると、小脇に抱え辺りを見回す。後ろの方が何やら騒がしい。ヤツらが追って来ているに違いない。オレはすぐに立ち上がって駆け出した。


 宛ても無くとにかく入り組んだ道を走り続けた。途中で何度か他の化物を見掛ける。中には買い物をしていたり、子連れらしい化物の姿もあった。地獄でも日常生活の営みは普通に行われているらしい。もしかすると、あの子供たちは学校で亡者の痛ぶり方などを習ったりするのだろうか。そして、痛ぶり方が甘ければ成績表に『もう少しがんばろう』などと書かれるのだろうか。リアルな地獄はある意味、オレが想像していたよりずっと恐ろしい場所だ。


 オレはとにかく化物のいない方へいない方へと走り続ける。何度目かに角を曲がった後に、目の前に見える林の中に身を潜めた。呼吸を整えながら怪物たちが後を追って来ていないかを確認するが、自分の呼吸音と鼓動がそれを邪魔する。


 どうやら大丈夫そうだ。いくら地獄とは言え、流石にいつまでもアラフォーのオッサンがパンツ一丁で逃げ惑う姿は、ビジュアル的に数少ない読者を更に減らすに違いない。それこそ地獄だ。


 オレは途中で手に入れた布を民族衣装のように体に巻き付け、林の中を身を屈めて進みながら考える。自分は今どういう状況なのかと。ここが自分が想像していた地獄と違うのは解った。だとすれば、鬼や悪魔たちにも自分たちの生活があり、子育てをしたり、洗濯物を干したりするのだろうか。それにオレは今逃げている。しかも、一時的ではあるが身を隠す事に成功している気がする。もしかすると本当の地獄とは意外に自由度の高い場所なのだろうか。


 そもそも地獄で自由とはどういう意味だろう。オレは何がなんだか解らないままに、とりあえず地獄での逃亡を続ける。


 しばらく林の中を歩き続けると、緑に囲まれた一軒の粗末な小屋が見えて来た。耳を澄ますと裏の方から薪を割るような音が聞こえる。あの化物の仲間がここにも暮らしているのだろうか。オレは静かに林の中を移動し、小屋の裏側へと向かう。そして、林の中からそっと覗いて見た。


 そこにいたのはオレの肩くらいまでの身長の、ずんぐりとした体形の、これもまた鬼とも悪魔とも断定し辛い化物だ。やや浅黒い肌に、バサバサと伸びた茶色い髪の毛、目は全体的に黒目がちで、少し耳は大きめで先が尖っている。手と足の甲が妙に毛深く、どちらも人間のそれに比べて異様にサイズが大きかった。見た目的にはさっきの化物たちよりかなり友好的な雰囲気が漂うが、明らかに人間以外の何かなのは確かだ。その化物は斧を手に持っている。どうやら薪割りをしている様だ。


 地獄での亡者の務めが鬼や悪魔たちに痛ぶられる事だとすれば、亡者としの務めはその責めを受ける事だろう。つまり、ある程度の痛みを受けなければ、いつまで経ってもこの場所からは解放されないという事なのではないか。もし、そうだとすれば今こうして林の中に身を潜める自分は、どんな状態だと言えるのか。営業の合間に喫茶店で雑誌でも読みながら、コーヒーでも飲んで時間を潰しているようなものだろうか。だとすれば、見付からなければセーフという営業時代の解釈で良いのか。逆に言うとセーフではあるが、業績は上がらないと言う事か。難しい選択だ。本来ならここはスル―して通り過ぎるのが正解なのかもしれない。しかし、オレの中の営業魂が業績アップを求めている。そうだ。交渉してみるのはどうだろう。何事も簡単に引き下がってはものに出来ない。地獄のお仕置きにも様々なものがあるに違い無い。もしかすると、あまり痛くないタイプのお仕置きにしてもらうことも交渉次第では可能なのではないだろうか。

 

 その時、オレは不意に何かが足元をくすぐるのを感じる。驚いて目を向けると、そこにはサッカーボールより少し小さい、フワフワした綿毛の塊の様な物が置いてある。気になって覗きこむと、突然その綿毛がモソモソと動き出した。どうやらこれは生物らしい。よく見ると黒くてつぶらな瞳と紐の様な細長い尻尾がある。何て可愛いんだ。できる事なら前世で出会いたかった。まさか地獄でこんなに可愛い生物に会う事ができるとは。オレはその生物のあまりの愛らしさに、思わず手を伸ばした。その刹那──。


 『キュルルルル!』白い綿毛の様な生物が奇声を発しながら、全身の毛を真っ黒に染めて逆立てた。


 『うわっ!』オレは思わずその愛らしい生物の突然の変貌に思わず声を上げた。


 突然の声に驚いてその友好的な雰囲気を漂わせた見た目の化物は、斧を身構え茂みの中に身を隠すオレの方に身構えた。


 「そこに誰かいるのか!?」

 「いや、ちょっと待って! ちょっと話をさせて下さい」


 オレは両手を上げてゆっくりと茂みから姿を現した。


 「すみません。驚かせてしまって」

 「あぁ、オイラの方こそすまない。突然そんな所から現れたもんで──」


 どうやらこの化物は見た目通り友好的な性格らしい。ひょっとすると鬼や悪魔にも良心的なヤツもいるのかもしれない。オレは何度も会釈をしながら、ゆっくりと化物に近付いた。


 「はじめまして。私は佐藤と申します」


 まずは自己紹介をする。死者が鬼や悪魔に挨拶をするのも変だが、とりあえず初対面での挨拶は大切だ。この出来、不出来が、相手へ与える印象を大きく左右する。本来ならここで名刺の一つも出したいところだが、今のオレは布切れ一枚を体に巻き付けただけのホームレス以下の有様だ。もちろんその間も敵意が無い事を現す様に、オレの手は頭の高さに上げられたままだ。


 「はじめまして。サトウ。オイラはホビットのヴォーツェルだ。ところで、そんな所で何してんだ?」


 オレはそんなまともな返答があった事に、少なからず感動を覚えながらヴォーツェルと名乗る化物に交渉を持ち掛けてみる。彼の行動にも発する言葉にも、オレの股間は『危険』を感じていない。これは脈がありそうだ。

 

 「あの、ちょっとご相談がありまして──」

 「相談?」

 「はい。相談と言うか、お願いなんですが、出来ればなんですが、あまり痛くない方法で一気にやってもらう事って可能でしょうか?」

 「何をだ?」

 「例えば、その斧でスパッと首を切り落とすとか──」

 「何!? アンタ死にたいのか!?」

 「いや、死にたいと言うか、もともと不慮の事故的な感じだったんですが」

 「不慮の事故的?」

 「ええ。悪い事ってのは続くもんで、ついさっきまでも恐ろしいヤツらに追い掛けられてて、逃げ回っているうちにここに迷い込んでしまって……」

 「何と。それはお気の毒に」

 「ところで、やはり地獄にもいろいろと種類があるのでしょうか?」

 「地獄? 種類?」

 「例えば、血の池地獄的なヤツとか──」

 「血の池!? アンタずいぶんと物騒な話ばかりするけど、いったいどこから来たんだい?」

 「日本です。東北の雪国って答えた方が解りやすいんですかね?」

 「日本? アンタもしかして何か大きな勘違いをしてるんじゃ?」

 「え?」


 化物とこれだけ話が出来た事自体が奇跡的ではあるが、何故か話せば話すほど話が上手い事かみ合わない。オレは心の片隅にある疑問を投げ掛けてみる。


 「ここって地獄ですよね?」

 「地獄? ここはベスティアという国だが──」

 「え? ベスティア?」

 「ああ。ベスティアという国の外れにあるクライネスという街だ。やっぱり何か大きな勘違いがあるみたいだな」

 「あれ?」

 「とりあえず、お茶でも入れるから中に入ったらどうだろう。どうやら追われていたようだし」

 「はい。じゃあ、お言葉に甘えて……」


 ヴォーツェルに案内されて小屋の中へ入ると、香辛料の様な独特な香りが漂う。壁際に並んだ棚にはたくさんの壺や籠が置かれている。その他にも壁には干した植物や動物の角の様なものなど、物珍しいものが所狭しと吊り下げられている。オレが興味深そうに眺めていると、ヴォーツェルはそこに置かれているのは様々な薬草や薬の材料だと教えてくれた。どうやらヴォーツェルは薬師らしい。


 席に着いてしばらく待つと、ヴォーツェルが植物の根を煎じたお茶を用意してくれた。少し苦みは強いが、温かさが体に染みわたる様で、飲み慣れてくるとなかなか美味い。この植物の根には精神を落ち着かせる効果があるのだとヴォーツェルは説明する。ありがたい。今のオレに最も必要なものだ。


 「ところでさっき地獄とか言っていたが、アンタはそこに行く予定だったのかい?」

 「いや、予定と言うか、てっきりそうなのかと。気が付いたら知らない場所で、恐ろしいヤツらに解体されそうになってたもので」

 「解体!? 街でか?」

 「あれは鬼か悪魔なんでしょうか?」

 「鬼というのは解らないが、悪魔ではないだろう。この辺には悪魔は住んでいない。まして街中になどいるはずがない」


 ヴォーツェルはあっさりと悪魔の存在を肯定する。それにしても、悪魔以外にあんなに恐ろしい生物がいるなんて。本物の悪魔とはどれほど恐ろしい形相なのだろうか。オレの貧困な想像力ではまるで追いつかない世界だ。それにしても、ここが地獄ではないとすれば、今のオレはどういう状態なのだろうか。せっかくヴォーツェルにもらった、精神を落ち着かせる効果があるお茶がまったく効かないほどにオレは混乱していた。


 オレに唯一残された希望は、目の前に座るズングリ体型のヴォーツェル。彼の話が正しいとすれば、ここは地獄ではなく、ヴォーツェル自身も鬼でも悪魔でも無い。いずれにしろ、こんな訳の解らない場所で、これだけ話の通じる友好的な者は他にいないだろう。


 「サトウはここらでは見掛けない種族のようだが、その日本というのはどのへんにある国なんだろう」

 「何と答えたら良いのか……」


 どのへんと聞かれても、このベスティアという国がどこなのか、そもそも地球上なのかも解らないオレには答える術がない。


 「少なくともオイラたちホビットや、オークとも違うようだが?」


 ここでようやくオレはヴォーツェルが言う『ホビット』が自らの種族を示すものなのに気付く。と言う事は──。


 「人間とかそういう意味ですかね?」

 「おお。人間か、サトウは人間なのか? それなら聞いた事があるぞ」

 「え! 人間って知ってます?」

 「ああ。でも、ベスティアには人間は住んでいないから、実物を見るのは初めてだ」

 「ベスティアにはと言う事は、この世界にも人間が住んでいるって事ですか?」

 「ああ。詳しい場所はオイラには解らないが、以前に聞いた事がある。恐らくずっと西の方だろう」


 その内容は驚愕に値した。ここは地獄ではなくベスティアという国の外れにあるクライネスという街で、ヴォーツェルは鬼でも悪魔でもなくホビットという種族らしい。そして、場所は定かではないがオレ以外の人間も住んでいるらしい。てっきり吹雪の中で誤って流雪溝に流され、人生に終止符を打ったと思っていたオレは、死んであの世に来た訳では無かったらしい。しかし、ベスティアには人間は住んでおらず、元の世界に帰る方法が解らないのには変わりない。


 ちなみに、ヴォーツェルの話によれば、オレが最初に出会った化物たちも鬼でも悪魔でも無いらしい。見た目の特徴を伝えたところ、あれはオークという別の種族らしい。オークはクライネスの住民の中では、ホビットと同様に最も多い種族の一つらしく、ヴォーツェルが言うには少しばかり粗暴な所もあるが、生きた人間を解体して食料にする事など考えられないとの事だった。しかし、こればかりはヴォーツェルの言葉に嘘が無いとは言え、実際にオレを料理しようとしていたヤツらが恐ろしく無いと言われても納得出来かねる。


 更に聞くと、オレがいた場所はどうやら、オークが経営している『マーゲン』と言う飯屋らしい。街では美味いと評判の店なのだとか。客たちもまさか隠し味に人間の切り身を使っているとは知らないだろう。ある意味、あの店だけは本当の意味で地獄って事か。


 希望と同時に様々な新たな問題が浮かび出る。オレはいったいこの先どうしたら良いのか。


 「ヴォーツェルさん、他の人間に会うにはどこへ行けば良いのでしょうか?

 「さあ。オイラにも詳しい場所までは──」

 「そうですか……」


 新たな希望が湧き上がっては消えて行く。絶望するオレを見兼ねたようにヴォーツェルが口を開いた。


 「ゴミ集めのミュルの所へ行ってみてはどうだろう?」

 「ゴミ集めのミュル?」


 オレの目を見つめながらヴォーツェルは静かに頷く。


 「西の外れにゴミ集めを生業にしている、オイラと同じホビットのミュルという老人がいるんだ。ミュルは毎日街を歩き回きゴミを集める。それを持ち帰り使える物を手直しして売ったり、街の人に頼まれた物を修理してその賃金を貰って暮らしている」

 「なるほど──」

 「ミュルは、毎日、毎日、街を歩き回っているから、いろいろな情報を知っているはずだ。もしかしたら何か手掛かりになる事が解るかも知れない」


 オレは僅かな可能性に賭けて、西に流れる川の畔に住むと言う、ゴミ集めのミュルを尋ねてみる事にした。ヴォーツェルはああ言っていたが、街中を通るのは怖いので外周を歩いて西に向かう事にする。


 出発前にミュルに会ったら渡して欲しいと、ヴォーツェルから小さな草色の包みを預かった。そして、木を削って作った杖と、丸い木の実の殻を使った水筒、小さな布には木の実と擦り傷などに効く薬草を入れて持たせてくれた。


 『サトウ、気を付けて行くんだぞ』オレがこの世界に来て、初めて感じた心からの感謝だった。


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