004

 次の日、講義室でわたしの隣に座るまこちんは、この上ない程ご立腹りっぷくした様子で、古池ふるいけくんがやって来るのを待っていた。

 まこちんご立腹の原因は、言うまでもなく、その古池くんにあるのだけれど、彼女の怒りを再燃さいねんさせてしまったのは、このわたしだ。どうにも申し訳なくて、肩を怒らせるまこちんの隣で小さく身を縮めてしまう。

 大学で再会したまこちんは、開口一番、早速謝罪をして来た。謝罪の内容はもちろん、昨日、古池くんをケーキ屋に連れて来てしまったことだ。その日の夜にもメールを送って来てくれたのに、会った時にも律儀りちぎに謝って来るまこちんは、派手そうな見た目とは裏腹に、とても真面目まじめだ。わたしはそんなまこちんが好きだから、まこちんの謝罪にふるふると首を横に振りながら、笑った。

「別に大丈夫だったよ。気にしないで」

 そこで終わっておけば良かったのに、ついうっかり。

「まあ、あの後、お店の前で古池くんと会った時にはびっくりしたけど」

 言わなくてもいいことをするっと口をすべらせてしまったばっかりに、わたしに釣られて笑おうとしていたまこちんの目が、般若はんにゃのように吊り上がった。その顔に、まずいと今更口をつぐんでみても、もう遅い。

「何それ、どういうこと?」と詰め寄られれば、昨日に何があったか、洗いざらいぶちまけずにはいられなかった。

 まあ洗いざらいと言っても、電気をびたけものに襲われたことは言えなかったけれど。あんな奇想天外な話、流石さすがのまこちんが相手でも信じてもらえるか分からなかったし、分かってもらえたところで余計な心配をかけるだけだ。

 それに、あの時に起きた非日常は、わたしだけの秘密にしておきたかったのだ。

 わたしが命の危険を感じた時、颯爽さっそうとわたしを助けに来てくれたあの人の存在は、わたし一人だけの秘密に──。

 という訳で、古池くんがわたしをアルバイト終わりの時間まで待っていたということだけ、オブラートに包んで伝えたのだったけれど、それだけでまこちんの怒りは頂点に達してしまった。

 マジ有り得ないだの何だの叫びながら、地団駄を踏んだまこちんは、

「古池がやって来たらシめてやる!」

 と物騒ぶっそう台詞せりふをいとも簡単に口にして、数十分前からもうすでに臨戦態勢だ。

 あの獣に襲われた時、わたしを見捨てて古池くんが逃げ出したことを素直に話していたら、まこちんの怒りは一体どうなっていたんだろう。想像するだに恐ろしい。違う意図で話さなかった訳だけれど、本当に言わなくて良かった。

 何はともあれ、これから授業がある訳だし、当人としては出来るだけ穏便に事を済ませてもらえるとありがたいんだけど。まこちんのわった目を見る限り、どうやらわたしの願いは叶いそうもない。

 と、そこへ、タイミングが良いと言うべきか悪いと言うべきか、当の古池くんが暢気のんきに教室に駆け込んで来た。先生が来ていないことを確認するなり、ほっとした表情を分かり易く顔に浮かべる。それから、わたしたち二人の存在に気付いて、ぶんぶんと大きく手を振って来た。

「よう、惟子ゆいこちゃん、小笠原おがさわらさん! おはよう!」

 近付いて来る古池くんは、まだまこちんの不機嫌な顔に気が付いていない。

 まこちんが何か物騒なことを言い出す前に、わたしが先んじて口を開いた。

「古池くん、昨日は大丈夫だった? 無事に帰れた?」

 昨日、古池くんを見たのは、あの得体の知れない獣に襲われ、悲鳴を上げながら逃げ出した背中を為すすべなく見送ったのが最後だ。わざわざ確認しなくたって、今こうしてここに元気な姿を見せているということは、あの後、何事もなく家まで帰れたことを示しているのだろうけれど。でも、それはそれで何となく納得がいかない。

 もちろん、あんな獣に襲われたら、恐ろしくなって尻尾しっぽを巻いて逃げ出すのが当たり前のことだろうから、今更古池くんを責める気にはなれない。わたしだって古池くんの立場だったら、むしろ叫び声を上げることもなく、脱兎だっとの如く逃げ出していたことだろう。

 だから、今更責める気は起きないんだけれど。でも、昨日の今日の出来事だと言うのに、へらへらとした笑顔をわたしに向けられるその神経が、分からない。

 しかし、次に古池くんの口から出て来た一言は、尚更わたしを唖然あぜんとさせた。

「昨日……? オレ、昨日、惟子ちゃんに会ったっけ?」

 まさかの言葉に、わたしの表情は、ぽかんとした間抜けな物へと変わる。隣のまこちんだって同じだ。ぽかんと間抜けな表情を見せたかと思ったら、けれども、次の瞬間、その顔は怒りで真っ赤に染まった。

「会ったっけって、あんたねえ……!」

「いや、それがさあ」と申し訳なさそうに、古池くんが頭を掻く。

「オレ、昨日のことがいまいち記憶にないんだよね。昨日、オレがどこで何してたか分かる?」

 まさかの逆質問だ。わたしとまこちんが尚更ぽかんとした表情を浮かべたのは、今回もまた、ほぼ同時だった。

 古池くんは、悪い冗談を──それとも、嘘をついているんだろうか? けれど、笑顔を引っ込めて真面目腐った表情を浮かべる古池くんは、冗談や嘘を言っているようには見えないし、でも、だからと言って、昨日のあの衝撃的な出来事を忘れてしまえるだろうか?

 いや、寧ろ、あまりにも衝撃的だったからこそ、記憶が飛んでしまったのかもしれない。この現代日本であんなにも命の危険を身近に感じることは、そうないだろう。増してや、あんな獣──いまだわたしにだって良く分からない生き物に襲われたのだ。あまりに恐ろしい体験をしたせいで、それを中心に昨日一日の記憶がぼやけてしまう──うん、そういうこともあるのかもしれない。

 戸惑いからようやく目を覚ました様子のまこちんが、古池くんに向かって何か文句を言おうとしている。それを、

「古池くん、調子が悪いみたいだから、そっとしておいてあげよ、まこちん!」

 と声を大にしてさえぎった時、授業開始のチャイムとともに、先生がだるそうな顔付きで教室に入って来た。それをいいことに、わたしはまだまだ不満顔を見せるまこちんに、これで話はおしまいと言わんばかりに、にっこりと笑いかけるのだった。


●○●


 まだ大学に用があると言うまこちんと別れ、わたしは正門に向かっていた。

 時間はまだ早いし、おじいちゃんとおばあちゃんのケーキ屋に寄っても良かった。けれど、それは何となく落ち着かない。昨日の出来事が、まだまざまざとわたしの記憶の中に息づいている。

(……今日の所は、大人しく帰ろうかな)

 そう思いながら、大学を一歩外に出た時だった。

 誘われるように横を向いた時、正門の、ちょうど大学の名前が刻まれた石盤辺りに背中を預ける男の人と、目が合って──わたしは息を飲んだ。

 "カイゼルひげの君"だった。いつも通り高級そうなスーツを身にまとい、特徴的なカイゼル髭は今日もまた、ピンと天に向かって伸びている。

 "カイゼル髭の君"は、わたしの顔を見るなり、もたれかかっていた正門から背を離し、こちらへと真っ直ぐ近寄って来た。その迷いない動きからして、"カイゼル髭の君"が他でもないわたしを待っていたことがうかがえる。けれど、わたしは"カイゼル髭の君"に通っている大学名を教えたことはないし、そもそも、わたしが大学生だってことも"カイゼル髭の君"は知らないはずだ。それなのに、どうして──。

「体調は如何いかがですかな?」

 その低い声音こわねは、元々どぎまぎしていたわたしの心臓を尚更どぎまぎさせる威力を充分秘めていた。

 こんな所で出会うとは思ってもみなかった"カイゼル髭の君"の存在に、動揺を隠せないでいるわたしは、その問いにただこくこくと、勢い良く首を縦に振ることしか出来ない。どう考えても、答えになっていない。

 けれど、"カイゼル髭の君"にとっては、答えはそれだけで充分だったようだ。

「大事ないようで良かった。ずっと心配していたのです」

 気遣きづかわし気にハの字になっていた"カイゼル髭の君"の形の良い眉が、ほっと緩められる。その姿に、わたしもほっと安堵した。

 "カイゼル髭の君"は、こんな言葉足らずなわたしの内心を察してくれる。何て思慮深いんだろう。憧れてしまうし、何だかやっぱりどぎまぎが治まらない。

「良ければ少し、歩きませんかな?」

 本当は、こちらから聞きたいことが沢山たくさんある筈だった。それなのに、それを上手うまく言葉に出来ないでいる内に、"カイゼル髭の君"の方が先に口を開いた。

 紳士的な物言いの中に、どこか有無を言わせぬ調子が隠されている。けれど、それが何でか、不快じゃない。昨日、古池くんに勝手に待ち伏せされた時は、驚きと、その中に隠し切れない不快感がにじんでしまったと言うのに、"カイゼル髭の君"の場合はそれがちっともいて来ないから不思議だ。大人の彼の余裕ある雰囲気が、わたしに不快さを感じさせないのだろうか。それとも、その理由は、彼にではなく、わたしの方に──?

 答えの出ない考えにふけるのはやめた。それよりも、"カイゼル髭の君"に直接聞かなきゃならないことがある。わたしは再び、"カイゼル髭の君"からの問いにうなずきを返した。

 わたしに合わせてか、ゆったりとしたペースで歩き始めた"カイゼル髭の君"の隣に、並んで歩く。しばらくお互い何もしゃべらず、わたしはほんの少し顔をうつむかせて足元を見ながら、"カイゼル髭の君"はただ前だけを真っ直ぐ見ながら、歩き続けた。

 大きな桜の木が目立つ公園の側を通りかかった時だった。中途半端な時間だからか、普段は子ども連れのお母さんをちらほら見かけるのに、今は人気ひとけが感じられない。それをちょうど良く思ったのか、"カイゼル髭の君"が公園の中へと足を向ける。異論を挟むことなく、わたしもそれに続いた。

 公園に設置されているベンチの表面をわざわざ手で払ってから、わたしに座るよう促してくれる"カイゼル髭の君"。けれど、その言葉に甘えてしまうより先に、わたしはバッグの中から真っ白なハンカチを取り出し、"カイゼル髭の君"に差し出した。

「あの、これ……。貸して下さって、本当にありがとうございました」

「ああ。別に返してもらわなくとも大丈夫だったのに」

 昨日、泣きじゃくるわたしに差し出してくれた、あの白いハンカチだ。

 構わないと笑う"カイゼル髭の君"に、洗濯して返しますと無理を言って借り、昨日の夜、慌てて洗濯機の中に突っ込み、続けて乾燥機の中に突っ込み、どうにかこうにか今日に間に合わせたのだ。まあ、まさか昨日の今日で返せるとは、わたしも思っていなかったのだけれど。いつ"カイゼル髭の君"と出会ってもすぐ返せるようにと、いつも使うバッグの中に入れておいて本当に良かった。

 そもそも、わたしが流した涙は、このハンカチではなく、ほとんど"カイゼル髭の君"が着ていたスーツに染み込まれて行った筈だ。そう考えると、ハンカチを洗って返すことなんて些細ささいなことにしか過ぎなくて、本来ならわたしは、"カイゼル髭の君"が着ていたスーツこそ、クリーニングに出して返さなければならなかったんじゃないだろうか。でも、まさか"カイゼル髭の君"にスーツを脱げとは言えないし、言ったところで"カイゼル髭の君"は、笑ってやんわり断りを入れるだけだっただろう。

 今更ながら、顔が熱くなった。あの状況ではいたかたなかったとは言え、わたし──"カイゼル髭の君"に抱き付いちゃったんだ。

「──昨日の件ですが」

 不意に、低い声がわたしの耳に届いて、わたしはいつの間にか伏せていた顔を弾かれたように持ち上げた。

「きっと色々と疑問に思われることが多いでしょう。一体何から話せば良いのか──流石の私も迷いますな」

 そう続けた"カイゼル髭の君"が、再度、手でベンチを指し示す。

 わたしの赤く染まった顔は、きっと"カイゼル髭の君"から丸見えの筈だ。けれども、"カイゼル髭の君"には見えていない──そう自分に暗示をかけて、わたしは今度は素直に、ベンチの上に腰を落とした。

 続いて、"カイゼル髭の君"が隣に座る。押し付けがましい近さではなく、かと言って、話に支障がある程、遠い訳でもない。付かず離れずの距離感に、助けてもらった時と同じ安心感がわたしの中に広がった。

 けれど、その安心感にいつまでも腰掛けている訳にはいかない。

 分からないことがある。だから、聞きたいこと──聞かなければならないことが、沢山あった。

「昨日の、あの獣──」

 でも、何をどう聞けば良いのか分からない。だから、口にしようとした問いは空気中に中途半端な形で吐き出され、後に続く言葉が見つからずに宙ぶらりんになったまま、どこかへと消えて行った。

 だと言うのに、"カイゼル髭の君"は、わたしの問いの中身をすべて理解したかのような調子で言う。

「あれは、"魔獣まじゅう"と呼ばれる生き物です」

 膝の上で固く握り締めた手に落ちていた視線が、その声に誘われるようにしてゆるりと、隣の"カイゼル髭の君"に向く。

 "カイゼル髭の君"は、ベンチに座った状態で真っ直ぐ前を見つめていた。そして、わたしの視線が完全に自分に向いた頃合いになって、わたしと同じくゆるりと、隣のわたしへ視線を向ける。

 まじゅう──マジュウ。聞き慣れない単語を心の中で繰り返すわたしに、"カイゼル髭の君"は言う。

「その"魔獣"が何故こんな所に居るのか、そもそも"魔獣"とは一体何なのか──知るためには、長いだけでつまらない歴史の授業が必要になりますが、今の貴女あなたにとってそれを聞くのは苦痛でしかないでしょう」

 "カイゼル髭の君"は、苦笑めいた笑みを口元に浮かべた。

「貴女には少し時間が必要だ。目の前の物事をご自身で理解するために、心と体を休ませる時間が。その時間を経て、貴女の心身がともに整われた時、私は全てを語りましょう。知って頂きたいことが──貴女に話したいことが、沢山ある」

 言葉の中身が抽象的で、現実離れした難しさを秘めていたって、"カイゼル髭の君"の声は変わらず優しかった。いや、ただの優しさだけじゃない。その声には、もっと深い感情が滲んでいる──そう感じるから、わたしは"カイゼル髭の君"の瞳から目を逸らせなくなってしまう。

 そして、"カイゼル髭の君"は、わたしの瞳の中、今まで見て来た中でもとびきりの笑顔で言う。

「今はただ、こう伝えさせて欲しい」

 その笑顔は、どこまでも優しく、甘い。

「貴女が無事で、本当に良かった」

 何で──何で、この人は。こんなにも優しく、温かく。そして、甘く。わたしを包み込んでくれるのだろう。

 わたしとあなたはただのアルバイトと客の関係で、それ以上でもそれ以下でもない、たったそれだけの関係の筈なのに。なのに、どうして。どうして"カイゼル髭の君"は、あの時、わたしのピンチに颯爽と駆け付けて、命を助けてくれたのだろう。

 でも、そんなことを聞く前に、わたしにだって伝えたいことがある。

 わたしの方こそ、今はただ、伝えさせて欲しい。

「わたしこそ、伝えさせて下さい」

 膝の上で握り締める手の力が、知らず知らずの内に強くなる。

「本当に……助けて下さって、ありがとうございました。あなたが居なかったら、わたし、わたし……」

 どきどきと、心臓の音がうるさい。この音は、一体何の音だろう。古池くんの告白に鳴った心臓の音が保身の音だったとするのなら、今ここで"カイゼル髭の君"を前にして鳴る、この心臓の音は、一体何の音なんだろう。

 わたしが答えを出す前に、見つめる先の"カイゼル髭の君"が、不意に目を閉じながら、こめかみを指先で押さえた。

「──ああ、駄目だ。可愛かわい過ぎてもうこれ以上無理」

 口の中でぶつぶつと、何事かをささやいている。

「もうこれ以上シリアスムードを保つのは、私の我慢の限界が」

「……何ですか?」

 パチパチとまたたきを繰り返し、のぞき込むようにして"カイゼル髭の君"に聞いた。「良く聞こえません」

 すると、パチリとまばゆい音を立てて、"カイゼル髭の君"が目を開いた。その瞳は、黒々とした光をたたえ、澄んでいる。"カイゼル髭の君"の本心を余すことなく披露するかのように、澄み切っている。

 そうして、きっぱりと言い切られた一言は、あまりにも澄み過ぎていた。

「礼には及びません。将来のマイワイフを命懸けで助けるのは、男として当然のことなので」

 ああ、そうだったんですか。なるほど、それでわたしのことを命懸けで──。

「……は?」

 悲鳴のような素っ頓狂とんきょうな声がわたしの口から飛び出て、見つめる先の"カイゼル髭の君"の顔にゴツンとぶつかった。けれども、"カイゼル髭の君"は、ちっともひるまない。それどころか、何故だかつんのめるくらいの勢いでわたしに近付いて来て──安心感を感じる筈の絶妙な距離感は、あっと言う間に詰められてしまった。

「時に、惟子殿──あ、名前言っちゃった。まあ構いません、気を取り直して。貴女のお名前を教えて貰っても良いですかな?」

「え──あ、は? な、名前?」

 名前と言われましても、"カイゼル髭の君"。あなた、今、わたしの名前を確かに口にしましたよね? ていうか、そもそも何でわたしの名前を知ってるんですか?

「いえ、貴女が香坂こうさか惟子という素晴らしい名前をお持ちであることは、とっくに分かっているのですが、出来れば貴女の可憐かれんな口から可憐な声でその名を聞きたいという願望がありまして。という訳で、貴女のお名前を是非」

「え、えと、あと、わ、わたしは──その、香坂、惟子、です」

 つい"カイゼル髭の君"の勢いに釣られて、素直に名前を言ってしまった。その間にも、わたしの心に沸々ふつふつと湧いて出て来る疑問の勢いは絶えない。

「素晴らしい。貴女にお似合いの可愛らしい名前ですな」

 そんな中、そう言う"カイゼル髭の君"の手には、いつの間にかわたしの手がしっかりと握られている。

「ちなみに、私の名前は島田しまだ遼太郎りょうたろう──将来の貴女の夫です。以後、お見知りおきを」

 頭の中でチカチカと、蛍光灯のような白い光が眩く瞬いている。

 "カイゼル髭の君"が島田遼太郎という名であることは、どうにかこうにか理解することが出来たけれど、その後のこと──いや、その前のこと? とにかく、何が何だか、さっぱり訳が分からない。誰が誰のワイフで、誰が誰の──夫?

「ところで、どうでしたか? あなたのピンチに颯爽と駆け付ける私。その後、紳士的にあなたをなぐさめる私。いやー、今思い返してみても最高のシチュエーション! どうです、格好良かったですか?」

 わたしが頭の中で慌ただしく状況を整理しようとしている間も、"カイゼル髭の君"──島田さんのマシンガントークは止まらない。まるで今までの紳士的な態度を挽回するような──いや、挽回しているのか返上しているのか、分からない。とにかく、今までの彼からはまったく想像出来ないような台詞を今まで通りの笑顔で言ってのける島田さんに、わたしの頭はちっとも追い付けないでいる。

 当の島田さんは、わたしを置いてけぼりにしてもちっとも構わない様子で、それどころか、わたしの頭が置いてけぼり状態にあることすら楽しんでいそうだ。その口の動きが止まることは、ない。

「格好良い私に惚れてくれてもいいんですよ、と言うかもう惚れましたよね、現在進行形で惟子殿は私にもう惚れてますよね? いやー、困りましたな、願ってもない展開ですな、いやー!」

 混乱する頭の中で、とりあえず整理出来たことは、今この時、この瞬間──わたしの中で緻密ちみつに構成されていた"カイゼル髭の君"という理想の大人像に、細かいヒビが入ったということ。ただそれだけだ。

よろしい、では結婚しましょう。この島田遼太郎、永遠の愛をワイフである貴女、香坂惟子殿に捧げることを誓って──」

 そして次に、島田さんが、握り締めたわたしの手の甲に口付けた瞬間。

 ビシリと、とどめのヒビが、もう一つ。

 ──いや、本当にとどめを刺したのは、わたし自身だ。

「──っい、いやぁあああぁっ!!」

 刹那せつな、わたしの甲高い悲鳴と渾身こんしんのビンタが、島田さんの頬に炸裂さくれつした。

 こうして、わたしが"カイゼル髭の君"について勝手に巡らせていた想像──美しい大人の世界という物は、突然やって来た非日常とわたしのビンタによって、跡形もなく粉々に粉砕ふんさいされたのだった。

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魔法使いの嫁 @classic

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