003

 まこちんたちが帰った後、しばらくして、"カイゼルひげの君"もまた、席を立った。その場に残して行ってくれてもいいのに、律儀りちぎに皿とコーヒーカップをトレイに乗せて、カウンターまで持って来てくれる。もちろん、皿とカップの中身はからだ。

「ご馳走ちそうになった。長居して申し訳ない」

 穏やかに微笑む"カイゼル髭の君"に、眉をハの字にして答える。

「いえ。こちらこそ、さわがしくて申し訳ありませんでした」

 わたしの謝罪にも、"カイゼル髭の君"は穏やかに微笑み返すだけだった。

「それでは、また」

 コーヒー代をきっちりと、お釣りなくカルトンの上に置き、相変わらず颯爽さっそうと去って行く"カイゼル髭の君"の背中を見つめる。

 それでは、また。また来てくれると、声に出して約束してくれた。

(今日一日だけで、今まで以上に"カイゼル髭の君"と話したな)

 と言っても、内容は当たりさわりなく、所詮しょせんアルバイトと客の関係をはみ出た物ではなかったけれど。

 それでも、些細ささいな会話が何だか嬉しくて、わたしはアルバイトの残り時間をぽかぽかとした温かい気持ちで過ごしたのだった。

 その温かい気持ちが急速にしおれてしまったのは、花冷えの季節、日が落ちた時間に店を出たから、という訳ではなさそうだ。

「──あ、惟子ゆいこちゃん! 遅かったね、いつもこんな時間までバイトしてんだ?」

 店を出た所でばったり出くわした古池ふるいけくんの存在が、わたしの心に暗い影を落としたことは、言うまでもなかった。

 もしかして、まこちんと一緒に店を出た時からずっと、わたしを待っていたのだろうか。チラリと視線を動かし、まこちんの姿を古池くんの側に探すも、まこちんの姿は見えない。

 答えを知っていながら、わたしは隣に勝手に並んで歩き出そうとする古池くんに聞く。

「あの……まこちんは?」

小笠原おがさわらさんとなら、店を出てすぐに別れたけど」

 当たり前のように、答えが返って来る。続く言葉は出て来ていないのに、その口調がまるで、「オレ一人じゃ駄目だった?」と聞いて来ているようで、わたしは慌てて笑顔を作った。

「そうなんだ。古池くん、もしかしてわたしのこと、待っててくれたの? ごめんね、でも──」

 約束もしていなかったのに、と続けようと動きかけた口をすんでの所でつぐむ。これは流石さすがに嫌味丸出しだ。いくら戸惑いを隠せないからって、せっかく待っていてくれた友達相手にその発言はどうなんだろう。

「気にしないでいいよ。約束もしてないのに勝手に待ってたオレが悪いんだし」

 ドキッとした。たまたまだろうけど、まるで心の中を読まれたみたいで、どうにも落ち着かない。

「家まで送って行くよ」と嬉しそうに言う古池くんに、あらがえない。

「……ありがとう」

 蚊の鳴くような声で礼を言い、引きった愛想あいそ笑いを浮かべながら、仕方なく古池くんの隣に並んで歩き出した。

 古池くんはわたしの家の場所を知らないから、自然と歩きの主導権はわたしが握ることになる。一歩遅れてわたしについて来る古池くんは、従順な子犬のようにしか見えなくて、やっぱり恋人にはなれない──告白されてもいないくせに、上から目線でそんなことを思ってしまうわたしは、調子に乗って勘違いしているだけなのだろうか。

 住宅街へと入り込んだ足が、不意に軽やかになる。ここまで来れば、家まではもうあと少しだ。大学のことや、入部したばかりのサークルのことを楽しそうに話す古池くんに、適当に相槌あいづちを打ちながら、話が途切れた所でこちらから切り出す。

「古池くん、送ってくれてありがとう。わたしの家、すぐそこだから。悪いし、ここまでで大丈夫だよ」

「いいっていいって。家までちゃんと送るよ」

 善意か、それとも下心か。律儀にそう申し出てくれる古池くんに、首を横に振った。

「ううん、大丈夫。それに、一人暮らしだったら少しはお構いも出来たんだろうけど、わたし、実家暮らしだから」

 店では答えられなかったことを今ここであえて口にしたのは、牽制けんせいの意味も込めていたからかもしれない。

「そっか」と足を止めた古池くんは、納得した素振りを見せつつも、少し不満そうに唇をとがらせていた。何だかその姿に、自分から言い出したことにもかかわらず、申し訳なさがつのる。

 古池くんの顔をこれ以上見ていたくなくて、わたしは「じゃあ」と短く別れを告げると、古池くんに背を向け、足早にここから去ろうとしたのだけれど。

「惟子ちゃん、あのさ!」

 切羽せっぱ詰まったような調子に抗えず、振り向いてしまったのが悪かったのだろうか。

 照れたように頭を掻きつつも、真っ直ぐわたしを見つめて来る古池くんに──嫌な予感。

「惟子ちゃんって、誰か付き合ってる人……居るの?」

 どきどきと、心臓の音がうるさい。でも、これは多分、ときめきの音じゃない。

「居ないよ」と短く端的に、答えを返す。けれど、どうしてそんなこと聞くの、とこちらから話題を差し向けることは出来なかった。

 自分から古池くんの問いの続きを促そうが促すまいが、古池くんの告白からのがれられないことを、わたしはその時点でもうすでに知っていたからだ。

「そっか、良かった」

 口の中で小さく嬉しそうにつぶやいた古池くんが、躊躇ためらわずに続けて言った。

「オレ、惟子ちゃんのことが好きなんだ。良かったら、オレと付き合ってくれないかな?」

 わたしののどが、ひくり、小さく震えた。

 答えは決まっている。断る──答えは最初から決まっているのだ。

 それでも、どう断ればいいのか、それが分からなかった。

 どうすれば、古池くんを傷付けずに断ることが出来るだろうか。まこちんは、

「カドが立つとか考えずに、コクられたらきっぱりはっきり断ること!」

 と言ったけれど、そんなこと出来るはずがない。下手なことを口にすれば、幾ら明るくてノリが良い古池くんでも傷付いてしまう。

 古池くんを傷付けたくない。それに、この告白を切っ掛けに、古池くんとの関係が気まずくなってしまうのも嫌だった。どうすれば、これからも友達という良好な関係を維持したまま、古池くんからの告白を断ることが出来るだろうか。どうすれば──どうすれば、当たり障りなく古池くんに断りを。

 ううん、古池くんのためじゃない。わたしはもう知っている。自分の汚くてずるい部分に、とっくに気が付いている。

 古池くんのためじゃない。わたしは、わたしが傷付きたくないから──わたしが古池くんに、嫌な女って思われたくないから。だから、上手うまい断り文句を探しているのだ。

 さっきからどきどきとうるさい心臓の音は、ときめきの音でも、かと言って、驚きの音でも何でもなかった。──保身の音だ。自分を大切に守りたいがための、焦りの音以外の何物でもない。

 古池くんのぶれない真っ直ぐな視線が、わたしの揺れ動く瞳には痛い。たまらず顔を伏せたわたしは、古池くんの目にどういう風に映っているのだろうか。突然の告白に、照れている子──そんな風に見えているのだとしたら、古池くんの目は節穴だ。わたし、そんなにも可愛い女の子なんかじゃない。

 永遠にも思える数秒が過ぎ去ったのち、わたしは顔を伏せたまま、乾いた唇を舌先で小さくめた。そうしないと、何の声も出せなそうだったから。

 それから、思い切って顔を上げ、揺れる瞳もそのままに、古池くんの顔を真っ直ぐ見つめた。

「あの、古池くん……わたし──」

 わたしの声が、中途半端な所で止まった。

 古池くんの顔から視線を逸らし、きょろきょろと辺りを見回す。

 突然声を止め、辺りを見回し始めたわたしに、戸惑っているのか、古池くんの顔がいぶかし気にゆがんだのが分かる。古池くんの立場からしてみれば、思い切って告白したのに返事を与えられず、宙ぶらりんなまま放置されている状態なのだ。戸惑うのも無理はない。

「ゆ、惟子ちゃん? どうかした……?」

「古池くん……。今、何か変な音がしなかった?」

 どきどきと、さっきとはまた違う意味で、心臓がうるさい音を立てる。

 何だろう、聞き違い? でも、古池くんに意を決して返事を返そうとしたその時、確かに変な音が聞こえた気がしたんだけど──。

「音? 変な音って?」

 更に顔を歪めた古池くんに、わたしはまだ辺りを見回すことをやめないまま、答える。

「何か……けものうなり声みたいな、そんな音」

 住宅街だから、飼い主と一緒に散歩に出た犬が、どこかで唸り声を上げたのかもしれない。たったそれだけの些細なこと──かもしれないのに、どうしてか、胸騒ぎのようなどきどきが、ちっとも治まってくれない。

 何だろう、何かが変──。何が変なのかはさっぱり分からないけれど、心の中の本能的な部分がわたしに警鐘けいしょうを鳴らす。

 逃げた方が良い。ここから逃げなければ。そんな焦りがわたしの体をかすというのに、思いとは裏腹に、わたしはここから逃げ出すことが出来ない。変だと感じる何かに気圧けおされたかのように、わたしの足は完全に動きを止めていた。

 住宅街を照らす街灯の明かりが、チカチカと怪しく点滅を繰り返し、そして。

 ──消えた。

 瞬間、訪れた本物の暗闇の合間から不意を突いて現れたのは、闇の中でも目立つ金のたてがみを逆立たせたライオンだった。

 と言っても、この現代日本でライオンが堂々と住宅街に現れる筈がない。考えられることと言えば、動物園のライオンが脱走してここまで逃げて来たってことくらいだけれど、ここら辺には動物園などないし、そんなことになっていようものなら、もっと町全体が騒がしくなっている筈だ。

 それに、よくよく見てみれば、それはただのライオンじゃなかった。逆立った金のたてがみからは、バチバチという嫌な音と一緒に青白い電気が弾けている。その獣が電気をまとっているのか、それとも、まるでその獣自身が電気のかたまりであるかのようだ。こんな生き物は、生まれてこのかた、見たことがない。

 けれど、それ以上その獣について何かを考えている暇はなかった。逃げなければ。状況は分からなくとも、それだけは分かる。

 でも、わたしの体はちっとも動かず、口を間抜けに開けてその場に固まるだけのわたしより先に動きを開始したのは、見つめる先の獣の方だった。

 そのライオンに似た獣は、一際甲高い声で唸り声を上げると、わたしと古池くんに向かって勢い良く突っ込んで来たのだ。

 古池くんが慌てて後ろに跳び退すさったのと、わたしが為すすべなく、その場に尻餅をついたのは、ほぼ同時だった。わたしたちの間を裂くように突っ込んで来た獣は、一度そのままの勢いでわたしたちの脇を通り過ぎると、体の周りにまぶしい電気をほとばしらせながら、すぐさまこちらに頭を向ける。

 獣の目とわたしの目が、合う。

 金色のたてがみよりも強く怪しく光る瞳には、えの気配が色濃く宿っていた。

 その瞳が、わたしを捉えて離さない。

 ──食べられる。本能的にそう感じて、これ以上ない危機感がわたしの体の内を駆け巡った。だと言うのに、それと同時に現実離れした恐怖感がわたしの身を包み込んでいるせいで、わたしはその場に尻餅をついたまま、ちっとも動くことが出来なかった。それどころか、恐怖で喉が引き攣って、声すらも出ない。

「──う、うわあああああ!!」

 そんな時、声も出ないわたしに代わって恐怖一色で固められた悲鳴を絞り出したのは、古池くんだった。

 わたしがその声に釣られ、獣の飢えた瞳からどうにか視線を引きがして古池くんを見ると、当の古池くんは両脚に力を込めて駆け出す所だった。

 わたしの視線と古池くんの視線とが交わることはない。古池くんは、離れた先の獣とわたしから背を向けると、誰も居ない住宅街の向こうだけを見つめ、一心不乱に駆けて行く。

 見捨てられた。さもすればいて出て来そうなよどんだ絶望は、今のわたしには欠片かけらも浮かんで来なかった。その代わりにわたしの体内をめるのは、古池くんに見捨てられたという絶望に遥かにまさる、もっと暗くて切ない──圧倒的な、死への恐怖だった。

 わたしは、ここでこの獣に食べられて、死ぬんだ。

 自然にすとんと心の中に落ち込んで来た予感に、涙も出て来なかった。

 もう一度、金色の獣が甲高い声でいた。その啼き声が、獲物を前にした高揚感から来る雄叫びなのだと気付いたその時、わたしの喉がひくりと誰にも聞こえない小さな悲鳴を上げ、そして。わたしは呼吸を止めた。

 目を閉じる暇もなかった。ただ、よだれを垂らしながら大きな口を開け、牙をき出しにして勢い良くこちらに突っ込んで来る獣を、息を飲んで見つめていた。

 鋭いきばが刺さる感触は、いつまで経っても訪れなかった。もしかしてわたし、痛みを感じる暇もなく──死んじゃった? けれど、閉じずに開けっぱなしにしていた視界の中には、いまだ現実の世界が映り込んでいる。

 灯りの消えた街灯。静かな住宅街。

 そして、牙を剥き出しにした金色の獣──の姿がない。

 その時、ようやく、わたしは思い出したように、止めていた呼吸を再開させる。

 誰かがこちらに背を向け、わたしと獣の間に立ち塞がっていた。何かをつっかえ棒にして、迫る獣の牙からわたしの身を守ってくれている。その背には、どこか見覚えがあった。

 思い出せずにまたたきを繰り返したその時、わたしの睫毛まつげの揺れにあおがれるようにして、ふわり──品の良い香水の匂いが、鼻をくすぐった。

 瞬間、わたしの体に電撃のような予感が走り──それはすぐに確信へと変わる。

 "カイゼル髭の君"だ。高級そうなスーツの下に意外とがっしりとした体躯たいくを隠し、少し動くたびに香水の良い香りを振りいて、いつも穏やかな笑みを浮かべている──"カイゼル髭の君"だ。

 わたしが目の前に立ち塞がった人の存在を正しく認識すると同時、その"カイゼル髭の君"が動いた。恐らく真一文字に引き締めているであろう唇の隙間から、フッと短く、気迫に満ちた声と吐息とを吐き出すと、手に持っていた棒を持つ両手にぐっと力を込める。すると、金色の獣が悲鳴のような唸り声を上げて、まるで投げ飛ばされたかのように勢い良く、その場から吹き飛んだ。

 フーッと今度は長い息を吐き出した"カイゼル髭の君"が、そのがっしりとした体をくるりと回転させ、不意にわたしを振り向いた。

 振り向いたその顔には、やっぱり穏やかな微笑みが浮かんでいる。そして、恐ろしさに震えたり、憔悴しょうすいに乱れたりすることもない、ピンと逆立ったカイゼル髭。いつもと変わらないそれらがいつにも増して心地ここちく感じられるのは、この非現実の中、感じられる唯一の日常がそこにあるからだ。

「──怪我はないですかな?」

 そう言って、ちょこりと首を傾げてみせた"カイゼル髭の君"の手には、わたしがただの棒とばかり思っていた物が未だに握られている。

 それは、ただの棒じゃなかった。棒状のの端に刃がついた、言うなれば、鎌。けれど、それは、わたしが見たことのある農具の鎌とは違い、とても特徴的な得物だった。

 背の高い"カイゼル髭の君"に負けず劣らず、大きくて長い。そして、何よりも特徴的なのは、一見すれば小説や映画の中に出て来る死神の鎌のようなそれが、柄から刃から、何もかもが薄透明の水色で出来ていたことだ。

 それは、氷で造り上げられた鎌だった。

 声にならない疑問が白い吐息となって、こぼれ落ちる。けれど、わたしがその鎌について確かめている暇はなかった。それどころか、"カイゼル髭の君"からの問いに、まともに答えることすら。

 穏やかに微笑む"カイゼル髭の君"の向こう──突き飛ばされた獣がよろよろと立ち上がり、もう一度こちらに飛び掛かって来るのが見えたからだ。

「う、うしろ──!」

 さっきまではちっとも動いてくれなかった喉が、わたしを守ってくれた"カイゼル髭の君"の危機に、漸く声を絞り出す。

 けれど、わたしの切羽詰まった叫びを聞いても、"カイゼル髭の君"は相変わらず余裕ある態度を崩さなかった。ただ、流石に、浮かべていた笑みは引っ込められた。

 少し不愉快そうに眉根を寄せ、向かって来る獣に優雅な所作しょさでもう一度向かい合い──手にした鎌を緩やかに一回転させた後、構えた。

「私と彼女が話をしているのだ──」

 低い声の内側に、隠し切れない怒りがあった。

「邪魔をしないで頂きたい!」

 瞬きを惜しむくらいの、一瞬の出来事だった。

 "カイゼル髭の君"が軽々と鎌を振り上げたかと思ったら、その次には。その刃が下からえぐるようにして金色の獣の喉を捉え、引き裂いていた。

 断末魔だんまつまを上げる余裕もなく、喉から一閃いっせん、引き裂かれたその獣の巨体が、地面の上に呆気あっけなく倒れる。けれど、地面に触れるか触れないかの内に、獣の体は細かい粒子一つ一つに分かれて──消えた。名残惜し気に弾けたパチパチという最期の電気の音だけが、わたしの耳の奥に今でも残っている。

 夢かもしれない。これは、夢かもしれない。だって、電気を纏った大きな獣が急に目の前に現れたかと思ったら、それに襲われて、死にかけて、でも、危ない所を"カイゼル髭の君"に助けてもらって、そしたら、獣の体が消えて──。一つ一つがどれもこれも現実離れしていて、こんなの夢だ、夢でしか有り得ない。

 だと言うのに、再びこちらを振り向いた"カイゼル髭の君"の顔は、こんなにも穏やかで、いつも通りで──。

「怪我はないですかな?」

 さっきと一字一句変わらない台詞せりふを口にして、"カイゼル髭の君"は不意にわたしの目の前に膝を付いた。

 その顔に、いつもとは違う、困ったような色が浮かぶ。

「申し訳ない。もっと早く助けられていれば、貴女あなたにこんな恐い思いをさせずに済んだと言うのに」

 "カイゼル髭の君"が、言いながらわたしに手を差し出す。その手に真っ白なハンカチが握られているのを見た、その時になって漸く、わたしは自分が涙をボロボロと零して泣いていることに気が付いて、情けなくはなすすった。

 差し出されたハンカチに恐る恐る手を伸ばし、受け取ったそれを目に押し当てる。それでも、わたしの涙は止まってくれず、むしろ零れる涙の勢いは強くなる一方だ。見兼ねた様子の"カイゼル髭の君"が、わたしの頭に手を伸ばし、子どもをあやすようにして優しく撫で始める。

 もう、駄目だった。

 "カイゼル髭の君"の高そうなスーツに手を伸ばし、驚いたように動きを止める"カイゼル髭の君"をまるで無視して、わたしは彼のたくましい胸に飛び込んだ。そして、スーツがしわになるのも構わず、その胸に顔を押し当て、子どものようにわんわんと声を上げて泣いた。

 一拍ののち、動きを止めていた"カイゼル髭の君"のてのひらが、再びわたしの頭の上で優しく動く。もう片方の手はわたしの背中に添えられ、ぽんぽんと心地好いリズムを刻んだ。

 今更、忘れていた恐怖心がよみがえって来たのか、命が助かったという安堵感からか──それとも、今までの日常にはもう戻れないと、本能的に感じたからか。

 答えは分からないけれど、わたしはただひたすら、"カイゼル髭の君"の優しい腕の中、いつまでも泣きじゃくり続けたのだった。

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