「記憶の齟齬(そご)」3

                 ***





病院に到着し、とりあえずあの女医に会おうと思った。ウサミ先生と連絡を取れる方法を探ろう。



すぐさまトイレに寄って、顔を洗ったり、服を正したりした。鏡に映る自分は怯えたような表情をしていて、おまけに傷だらけで酷い外見になっている。暴行してきた奴等の顔を思い出し、悔しさと怒りで鏡を殴りつけた。あの出来事が現実で起きたことなのかは分からない。分からないけど、沸々と湧き上がる怒りを抑えられそうもない。何処から何処までが現実かも分かってない状況だからだ。



トイレを出てエレベーターに乗り込んだ時、異変に気付いた。隔離病棟のある5階のボタンだけがないのだ。一緒に乗り合わせた人に訪ねてみたが、5階などのこの病院に存在しないと笑われてしまう。訳が分からないままエレベーターを降り、ロビーに戻った。見回してみたが、いつも来てる病院に違いない。



一体どうなってるんだ?今朝まで居た場所なのに、急に無くなるなんて変だ。受付カウンターに行き、そこに居た人に声を掛けた。



「この病院に、隔離病棟ありましたよね?」



そう問うも、女性は目を丸くさせ首を傾げる。



「いえ?ございませんが」


「じゃあ、ウサミという名前の医師は居ませんか?」


「さあ―― わたくしは存じておりませんが」



事態が全く把握出来ない上に、頼れる人の居所が掴めない。もう何も策が浮かばず、完全に迷走してしまった。



「無駄だよ、ハル」



背後から声が聞こえ、思わず振り返る。待合椅子にユミさんが座っていた。先程のコスプレのような格好ではなく、制服姿だ。



「ユミ、さん――。いったい今、何が起こってんの?」


「ハルは知らなくていい」


「どうして?」


「私が守るから」


「さっきから何言ってんだよ。頭が可笑しくなりそうだ」


「少しだけでもいいから、記憶を遅らせたいの」



隣に座ると、そっと手を握ってきた。ぎゅっと力を込めた後、瞳を潤ませながら言う。



「だけどね、ハル―― もしも全て思い出してしまったら、呼んで欲しい。もう私の事を記憶の底に埋めないで。一緒に過ごした事を、思い出して欲しいの」


「え?」


「ハルの気持ちは、私の気持ち。傷を分かち合えるのは、私しか居ない。それだけは絶対に、忘れないで」



そう言うとゆっくり立ち上がった。思わず手を掴んで引き留めると、今にも泣いてしまいそうな顔で振り返る。



「一緒に居ると見つかり易くなる。それに時が進んでしまいそうだし―― だから、今は離れてた方が良いと思うの」



何を言っているのか全く分からず、頭の中は疑問だらけだった。そうこうする内に、ユミさんは足早に出入口の方へ向かってしまう。



この状況で1人になってしまったら不安だし、心細いし、本当にどうしたらいいのか分からなくなってしまう。ユミさんの名を呼びながら、急いで後を追う。だけど振り向く事なく、外へと出ていってしまった。



抽象的な事を言われても理解出来ない。何か事情があるなら、僕だって当事者だろうし聞く権利があるはずだ。全てを打ち明けてもらう為、ユミさんを捕まえようと足を走らせた。



自動ドアを出た瞬間、何かに躓いて転んでしまう。体が地面に叩きつけられ、予想とは違う衝撃を受けた。倒れ込んだ地面は、コンクリートや土ではなく、古びて湿った木の板だったのだ。



顔を上げると、ざわざわとした喧騒が耳に入ってくる。大勢の人が居た。椅子やカウンターに座って酒を飲む人や、トレイに乗った飲み物を運ぶ、露出度の高い服装の女性達が居る。何故か世界は白黒で、起き上がって自分の体を確認するも同じく白黒だった。



「おいおまえさん、飲み過ぎたのか?」



そう声を掛けてきたのは、巨体で野獣のような外見の厳つい男。咥え煙草で僕を見るその男は、何かの映画で観た登場人物だ。迫力に驚いて何も言えずにいると、ふんっと鼻で笑い近くの椅子に腰掛けた。



自分のてのひらを見つめ考える。確かに、基本白黒のアメコミ映画があった。映画の記憶の中に来てしまったというとこは、やはりマイ・レメディーの中なのだろう。それか、幻覚が悪化してこうなったのかもしれない。



ゆっくり立ち上がり辺りを見回す。ここは酒場のようだ。



爆音で音楽が流れだした時、酒場の中央にあるステージに女性が現れた。周りは白黒なのに、その女性だけがカラーだった。金色のロングヘアーで、服装は上はビスチェに下はショートパンツにガーターベルト、右手にむち、左手に酒が入っているであろう瓶を持っている。瓶を床に置き、鞭を振り回しながら踊り出した。



周りの客のテンションが一気に変わり、大盛り上がりだった。その中で僕は1人、ぽかんとして棒立ちになっている。ステージに立っていたのが、ユミさんだったからだ。ふらつきながら踊り、客を挑発するような動きをしている。



ユミさんを大声で呼ぶも、周りの騒音に紛れ全く届かない。



悲しみと怒りが交ざり合ったような、悲壮感を漂う表情を見せていた。突然踊ることを止め、客を睨み付けながら瓶を手にする。飲み物を口に含んだ後、客席に向かってかけるように吹き出した。何かを憎むような目で口元を拭い、ふらついた足取りで舞台裏に消えていく。周囲の人は「まだ早いだろ」「もっとやれ」など言って不満を叫んでいた。



ユミさんを捕まえなければ。



ステージによじ登り、舞台裏の奥に進むと扉があった。そこを開けると、白黒の大道路に出る。遠くの方に、何処かへ向かって走るユミさんが居た。



「ユミさん待って!」



何度も呼び止めたけど、振り返らず走り続けている。まるで何かから逃げるかのように。もしかしたら、僕から逃げているのかもしれない。



白黒の世界を暫く走り回った。日本の道路ではない。標識や建物に掲げられた看板が全て英語だった。この景色のお陰で、此処は僕が好きなアメコミ映画の1つの世界だと気付く。此処に来られるなんて、ファンなら夢のような体験だ。だけど喜びよりも、焦燥感や恐怖のが大きかった。人は居らず車も走っていないことから、奇妙な場所に居るような気にもなっている。



突然、上から何かが飛んできて地面に刺さった。それは矢だった。足を止め顔を上げると、真っ黒の空に月だけが黄色く浮かび上がっている。建物の屋上に、弓を射ようと無表情で僕を見る女性が居た。あれもこの映画の登場人物だと思うが、よく見るとユミさんだ。



いつの間にあんな所に。さっきまで追っていたはずのユミさんの姿はない。僕の記憶が正しければ、ユミさんが成り切っているあの役は、冷徹な殺し屋のような人物だった。殺されては困ると思い走り出したが、どんなに足を動かしても全く前に進まなくなった。汗が吹き出る様に出てきて、体力だけが奪われていく。



目の前に、肌が黒く女子プロレスラーのような格好をした女性が現れた。同じような格好をした、露出度の高い女性達が徐々に集まってきて囲まれる。



「あんた、あの子を追い掛け回すなんて、どういうつもり?」



力尽きて、その場で手を付いてひざまずく。体力が限界だった。



「ユミ、お望み通りやっちまいな!」



その一声でユミさんは、建物からひらりと軽やかに下りてくる。僕に向けて弓を構えると、無表情のまま小さく口を動かした。



「さようなら、ハル」



終わったと思い、ぎゅっと目を瞑りやられる覚悟をした。



正気を取り戻したい。こんな風に映画の記憶の中を彷徨っている場合じゃないんだ。現実の僕はどういう状況なんだ?僕に一体、何が起きているんだ?イッタは、ユミさんは、ユウダイはどうなってる?



もういい、作られた世界は、もうたくさんだ。



そう考えていたその時、体が強風に吹き飛ばされたような衝撃が走った。そのまま猛スピードで何処かに飛ばされていく。

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