「記憶の齟齬(そご)」4

どんどん急降下していって、何処かの地面に体が叩きつけられる。そのままごろごろ転がっていって、うつぶせ状態で止まった。目を開くと床が見える。顔を上げたら景色に色が戻っていて、僕は学校の廊下で寝転んでいた。



やっと元に戻れたのだろうか。辺りが静寂に包まれていて、それが妙な気はしたけど、此処は間違いなく僕が通う学校だ。立ち上がったその時チャイムが大きく鳴り響く。驚いているのも束の間、全部の教室の扉が一斉に開き、中から生徒が大勢出てきた。



全員が30cmほどの長さの四角い発砲スチロールを持っていて、こっちに向かって走ってきては、それをぶつけてくる。痛くはないけど、砕け散った発砲スチロールの小さな玉が、全身に纏わりついてきた。鬱陶しさで暴れるも、絶え間なく生徒がぶつけようとやってくる。



「何だんだよ、もう」



避けながら走り続け、階段をどんどん駆け上がっていく。背後から大勢の生徒が走る足音と、地響きのような揺れを感じていた。とうとう屋上まで来てしまい、扉を開いて外に出る。だがそこは屋上ではなく、何故か違う場所に出た。



「止めろ!」



後ろからイッタの声が聞こえ、振り向く。場所は校舎裏にある“廃墟”と呼ばれるプール。そこにはユウダイと悪友あくゆう達、ユミさん、イッタ、何と僕まで居た。ユミさんは両手足を縛られ、口をガムテープで止められていた。もう1人の僕は、傷だらけで項垂れるように倒れている。



イッタはユウダイ達に立ちはだかっていて、握った拳に力が込められ震えていた。その時、耳鳴りと酷い頭痛が僕を襲う。今見えてる景色とは違う映像が、早送りのようにして脳裏に映し出された。



イッタとユミさん3人で過ごした日々、笑い声、ユウダイとの思い出、中学の頃の記憶、幼少期、全てが猛スピードで駆け巡っていく。



まさか――。そう思った時、誰かに腕を引っ張られた。ユミさんだ。



再びユウダイ達が居る方に目を向けると、そこにはもう一人の僕とユミさんがまだ居る。僕の隣に居るユミさんは、髪の毛が長かった。冷たい風が吹いて、その髪が揺れる。表情は酷く悲しげで、涙を流していた。



「どうしてハル?どうして、捨て去った記憶を追い求めるの?」


「目の前で起こってるあれは、僕の記憶?」


「私達の、記憶だよ」



動悸が激しくなってくる。胸を押さえながら、徐々に見えてきた“本当の自分”を押し殺そうとした。だけど、どんどん真実が溢れ出てくる。頭を振ってその真実から目を背けた。でも目の前で再現される記憶を見ていると、頭と心が破裂しそうな程の痛みを感じる。パニックを起こしそうだった。



ユミさんは僕の腕に絡みつき、支える様に寄り添ってくる。



「もう終わりなんだね、ハル」



目の前で起きる記憶から逃げるように、目を閉じて僕の腕に顔を押し当ててきた。僕達は体が震えていて、止めどなく涙が零れている。ユミさんを抱き寄せ、縋るようにして細い体を抱き締めた。



目の前に居る僕は、ユウダイ達に暴行され動けなくなっていた。ぐったりと顔を地面につけ寝転んでいる。



そうだ、あの時のコンクリートの地面が酷く冷たくて、腫れ上がった瞼には応急措置のように思えたんだ。



ガムテープで口を塞がれたユミさんの前に、数人の男が群がっている。ユミさんが暴れるも、制服を脱がそうとしていた。助けに行こうと暴れるイッタを、無表情のユウダイが押さえつけている。



「おいおまえら、ちゃんと最後まで俺のスマホで撮れよ」



ユウダイがそう声を掛けた瞬間、イッタがユウダイを殴り飛ばした。そしてユミさんの周りに居る男を1人、また1人と蹴散らしていく。ユウダイは倒れた体を少し起こし、口から出た血を拭って鋭い目でその様子を眺めてる。



6人ほどがイッタの手によって倒れた。



奥底から湧き出てくるように、ゆっくり記憶が蘇ってくる。頭の中の記憶と目の前で再現される記憶が、徐々に重なってきたその瞬間、僕は傍観者ではなく倒れていた方の僕となった。腕の中に居たユミさんも居なくなっている。



体中が痛さを通りこして麻痺してた。辛うじて動かせるのは、腫れ上がった顔だけだ。そっと目を開き、震えながら少しだけ顔を浮かせる。イッタがユミさんの口に貼られたガムテープを外し、後ろに固定されていた腕を解いてあげている。



ユミさんは大泣きしていて、イッタに抱き付いている。良かった―― ユミさんが助かって。そう思って少し笑みが零れた。



イッタがこっちにもやってきて、心配そうな表情で肩を揺すってくる。



「ハル、大丈夫か」


「やっぱりイッタって、凄い、な」


「ほら、立てるか?」



差し伸べられた手を掴もうとした瞬間、一瞬にして暗い影が僕達を包み込む。聞こえたのは、ユミさんの叫び声だった。イッタは顔を顰め、震えながらゆっくり振り返る。それによって視界に入ったのは、死んだような目で立ち尽くすユウダイだった。暗い影は、ユウダイがやってきた事によって出来たものだった。



イッタが倒れる姿が、スローモーションのように見える。倒れた背中にナイフが深く刺さっていた。ユミさんが泣き叫びながらやってくる。ユウダイはその様子を無表情で見ていた。



「楽になれよ、イッタ」



イッタにやられた男達が、慌てふためき出した。ユウダイがここまでするとは思ってなかったようで、戸惑いの声を上げている。何人かが逃げるようにこの場から走り去っていく。



「ユウダイおまえ、正気かよ。ここまでやったらヤバイことになんぞ」


「何がヤベーんだよ。もう充分ヤベーだろ。虐め、恐喝、美人局つつもたせ、強姦未遂、どれも警察が動けるレベルじゃん。捕まるのも時間の問題だ。もう終わらせる」



地面にイッタの血が流れてくるのを見た時、全く力が入らなかったのに立ち上がる事ができた。震えながらもユウダイの胸ぐらを掴んだ。



「何が終わらせる、だよ。だったらおまえが死ねよ!」


「ハル、いい顔してんな」


「殺してやる!」



そこで、消え入るような細くて小さい声が聞こえてきた。



「ハル、止めろ。殺す、価値もねぇ」



こんな状況なのに、心配させない為か、イッタは無理に笑顔を作ってそう言う。



「相手に、すんな。んなことより、救急車呼んで」



ユミさんが震えた手でスマホを操作し出す。僕はイッタに寄り添い、強く手を握った。



「ハル―― この事は、忘れろ」


「バカじゃねぇの。無理だよ」



ユミさんが電話で此処の住所を告げている。噎せ返るほどに泣いていて、酷く動揺している様子だった。ユウダイはゆっくり後ろ向きに歩きながら、不敵な笑みを見せている。



「俺を殺したきゃ殺せよ。待ってるからよ、おまえしか知らない場所で」



そう言うと、隅に転がっていたスマホを拾い上げ、丁寧に地面に置き直した。追い掛けようとするも、イッタが握った手に力を込めてきた。引き留めている気がしたのと、イッタを放ってはおけないという想いが勝った。去って行くユウダイを、憎しみを込めて睨みつける事しか出来なかった。



胸に抱いた怒りが爆発しそうだ。血を流して倒れるイッタ、乱れた服で震えるユミさん、2人を見ていると更に怒りが増していく。無力な自分にも腹を立てていた。憎しみで体が震える。呼吸が荒い。



もしもイッタを失ってしまったら、僕は――。



『イッタは防波堤のような存在なの。イッタが居なくなれば、何もかもが決壊してしまう。それは―― ハルも同じだよね?』



前にユミさんに言われた言葉が脳裏を過る。



その通りだ。イッタを失ったら、何もかもが崩れ落ちて決壊する。僕は正気ではいられない。



電話を切ったユミさんが、イッタに駆け寄ってきた。握っていたイッタの手を、姉であるユミさんに委ねる。全身が震えながらも、ユミさんは優しい声でイッタの頭を撫でていた。



「イッタ?大丈夫だよ。もうすぐ救急車が来るからね?あともう少しの辛抱だよ」



そこで再び、体が吹き飛ばされたような感覚に陥る。一瞬息が止まって、頭の中が真っ白になった。呼吸が出来たその時、場面は変わっていた。



薄暗い病院の廊下に僕は佇んでいる。



沢山の人が居た。イッタの両親と祖父母、ユミさん、それに数人の警官と刑事。



「嫌!イッタ、イッタ!」



ユミさんは泣き叫び、立っている事もままならない。イッタのお母さんが、涙ながらにユミさんを支えている。全員が泣いている。僕の目からも、止めどなく涙が溢れ出てきていた。



そうだ――



イッタは、死んだんだ。出血多量で助からなかった。

ユウダイに殺されたんだ。



現実を受け入れられない。心臓の鼓動の音が近くに感じる。ドクドクと血が早く駆け巡り、全身熱を帯びて汗も掻いていた。ユミさんが刑事に詰め寄り、叫ぶようにして言う。



「早く捕まえて!窪田くぼた ユウダイ、あいつが主犯格なんだから!他の奴等が捕まったって意味ない!」



そうだ、この時、ユウダイだけがまだ捕まってなかった。僕はそれを好都合だと思えた。ユミさんの背中を摩り宥めながら、ある事を決意したんだ。目にはみなぎるる程の憎しみの炎が灯り、心が漆黒の闇に包まれる。そんな感覚だった。



何も知らない奴が、当事者じゃない奴等があいつに罰を与えるなど、納得がいかない。警察が、法律が、国が、あいつを罰せられる訳がないんだ。捕まっても少年法があいつを守る。そんな事はさせない。絶対に許さない。



どれだけ大きな存在を奪ったかを、思い知らせてやらなければ――。僕がユウダイを、罰してやるんだ。



ユミさんが落ち着いてきた所で、誰にも気付かれない様そっと小声で伝えた。



「ユミさん―― 今の内に謝っておくよ。ごめん」


「ハル?」


「僕達は似てるって言ってくれたよね。ユミさんならきっと、僕の気持ちを分かってくれるはずだ」



涙で潤んだ瞳と、真剣な表情を僕に向ける。この汚れきった心を、読み取られてしまうような気がした。目を逸らし、俯きがちに伝える。



「さようなら、ユミさん」


「ハル!」



最後にユミさんの声を聞いたのは、何かを察して引き留めるような、僕の名を呼ぶ声だった。



病院を飛び出し、ひたすら走って走って、走り続けた。遥か彼方に葬った、ユウダイの記憶を探る。ユウダイがバイトしてると誰かに聞いた居酒屋、一緒に行ったファストフード店、川沿いにある土手、学校付近、血眼になって駆けずり回る。



その最中、何度もイッタを失った悲しみが押し寄せてきた。



『ハールー!今日泊まってけよー!』



イッタはよく僕の背中に飛び付いてきた。悩み事など何もないみたいに、笑い上戸で無邪気な明るい奴だった。その明るさに何度も心が救われた。何度も笑わせてもらった。



『俺のダチに手出したらぶっ殺すぞ!』



虐められている僕を救ってくれた。大人しくて何の取り柄もない僕を、友達だと呼んでくれた。暗いだけの救いようのないこの世界で、イッタはたったひとつの灯火ともしびなんだ。希望のような存在だ。ユミさんも同じ気持ちだろう。



泣き叫びながら、道端のコンクリートの地面にしゃがみ込む。そして何度も地面を叩きつけた。傷を負うのは自分の手だけだ。地面は何の反応も見せずにただそこにあるだけ。たまたま通りがかった人が、危機感を抱いたように走り去っていった。



暫く泣き続けていたその時、ふと、忘れかけていたある事を思い出した。



『やってみたら来れたから』



暗闇を背に、無表情でそう言ったユウダイの横顔を思い出す。ゆっくり立ち上がり、傷だらけになった手で拳を作る。



あそこだ―― あそこしかない。



再び全速力で走り出した。何も考えられない。無我夢中で足を進めるだけで、後先など考えてはいられない。たったひとつを胸に抱くのみだ。



あいつを、殺してやるんだ――。



再び場面が変わる。



強く吹く風、黒い空、心に残らない景色、明かり一つない、20階建てのホテルの屋上。普段人が立ち入る事のないこの場所に、僕は立ち尽くしている。



目の前には、僕に気付きほくそ笑むユウダイが居た。瞬き一つせずに、ゆっくりユウダイに近付く。するとそれに応えるように立ち上がり、馬鹿にするように拍手をした。



「おめでとう。此処はハルと俺しか知らない場所だ」


「最後に一つだけ答えてくれ。友達だった男を殺した気分って、どんなだ?」



ユウダイの瞳は濁っていて、腐り切っている。微動だにせず口だけを動かした。



「友達だったって、おまえの勝手な解釈だろ。俺はただ、邪魔な奴を消しただけだ。キリのない争いは、もうウンザリだったからな」


「争いは終わってない。僕がまだ、生きてる」



ユウダイは口の端を微かに上げ、鼻で笑う。



「おまえも俺に殺してほしいのか?イッタのように」


「イッタが死んだのは、無力だった僕のせいだ。先におまえを殺しておけば良かった」


「おまえにそんな度胸あんのかよ」



風が僕達を包み込む。寒くて冷たくて、イッタが居なくなった僕の心を表すような、痛みを感じる風だ。



この世は、人の心を闇へと引きずり込み、残酷なほどに現実を叩きつけてくる。そのひずみから、ユウダイのような人間が生まれる。その心に芽生えた闇に僕がいち早く気付き、何か行動を起こせていたら、阻止出来たのかもしれない。今となっては分からない、もうひとつの道だ。



だけど、これだけは分かる。



悲劇は繰り返される、永遠に。全ての悲劇は阻止できない。少なくとも僕は、アメコミ映画のようなヒーローにはなれない。闇に落ちた後の僕に、這い上がる程の力は残っていない。絶望に呑み込まれ、落ちていくだけの哀れな男だ。



だけど、この世に無数ある悲劇の内の、たった1つでも終わらせることが出来れば―― 無力な僕でも、ほんの少しだけ誰かの役に立つかもしれない。



ユウダイにゆっくり近付き、胸ぐらを掴んだ。



「全部僕のせいだ。今までの事も、これから起こる事も」



ユウダイの瞳が少しだけ揺らぐ。次の瞬間――



胸ぐらを掴んだまま、暗闇を目指して全身に力を込める。2人が倒れる先は、足場のない真っ暗な空だ。



見えるもの、聞こえるもの、全てがゆっくり遠くに感じる。



僕達は落ちた。心も体も、人生も、すべて堕ちていく。



イカれてしまったユウダイの気持ちなど分からない。僕が知ってる昔のあいつが、今も胸に生き続けているのかさえも。だけど、一瞬見えたあいつの顔は、嬉しそうな笑みだった。その顔を見た時、死を強く望んでいたのかもしれないと思った。



これでもう、全部終わりだ。少なくとも、僕達の争いと悲劇はこれで終息する。天国と地獄が存在するならば、僕等は今から地獄に行くのだろう。



あっちでは会えないや、イッタ。

僕は人を憎み、恨み、復讐してしまった。



地獄行きを表すかのように、漆黒の穴の中へと落ちていく。

深く、深く、永遠に続く闇の世界へと――。

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