- Epilogue -

- Episode 17 -「ここにいるよ」

 離れていく。振り返ることもなく、遠ざかって行く。それでは駄目だと、何度も叫んだが、自分の足を止めることができない。別れたら、再会までに五年以上の月日がかかる。それは、決して短い時間ではない。それなのに……。

「龍之助っ!」

 シオンは声を上げると、思いっ切り手を伸ばした。その拍子に、体を固定していたハーネスが悲鳴を上げる。シオンに接続されていた端子が正規のプロセスを踏まずに外されたことで、けたたましい警報が鳴り響いた。ついにはハーネスが千切れ、シオンはまっさかさまに落下。その途中でケーブルが絡まり、振り子のようにメインコンピューターに衝突。さらなる警報が音を増した。突然の大騒動をガラス越しに眺めながら、久留美は呆れ顔で髪を掻き揚げる。

 騒ぎはすぐに収まった。メインコンピューターの損傷は軽く、シオンも大事に至らなかった。強かに打った額を撫でながら、衝撃の余韻に浸るのみである。

「どんな夢を見ていたんだ?」

 メインコンピューターに自己修復プログラムを走らせながら、久留美は尋ねた。

「う~ん……忘れちゃった」

「……そうか」

「ただ……何だか、とっても不思議な感じだった。嬉しくて、楽しくて、悲しくて……」

「随分と壮大なゴキブリ退治だったようだな」

「うんうん……って、やだなぁ、お母さん、私がゴキブリの夢ばっか見てるみたいに……」

 シオンは拗ねように唇を尖らせる。久留美は指先を宙で止め、シオンを顧みた。

「……シオン、今、何て言った?」

「へっ? 私がゴキブリ……」

「その前に、だ」

「えっと……お母さん?」

 シオンの言葉を反芻するように、久留美は眼を閉じた。久しく聞いていなかった言葉。

「……シオンは、私を、母と呼ぶか」

「あっ、そういえば……あれ、何でだろ?」

 シオンは首を傾げる。思わず口をつい出た言葉。そして、長い髪の毛をいじりながら続ける。

「はは、寝惚けてたのかな? 私に、お母さんなんているはずないのに……」

「そんなことはない」

 久留美がすかさず反論する。それが余りに素早かったので、シオンは眼を丸くした。

「お前を作ったのは私だ。だから、私がお前の母親だということは間違いではない。間違いじゃないんだ。……お前にも、母親がいるんだ」

「……そっか。何か、嬉しいな」

 シオンは言葉通り、心の底から嬉しそうに呟いた。

「ずっと前から、そう呼びたかったって、気がするよ。……忘れてたけどね」

 シオンは座っていたベッドから腰を上げると、久留美に向かって小さく舌を出した。久留美は笑み返すと、スクリーンに眼をやった。

「検査の結果は申し分ない。もう、事務所に戻ってもいいぞ」

「あ~、良かった! ありがとう……お母さん」

 二度目の言葉は、偶然ではなかった。シオンはその言葉を伝えたかったし、それは伝わった。

 紫苑が研究所を後にすると、久留美はスクリーンに一枚の写真を表示させて呟いた。

「……十年、か」


 事務所に足を踏み入れたとき、シオンは我が眼を疑った。事務所はすっかり様変わりし、いつもは忙しそうに働いている職員が、仕事以上の熱心さで大騒ぎをしていた。その一因がアルコールだということは、疑いようもない。そこら中に、ビールの空き缶が転がっている。

 いつもは書類が並ぶ机には様々な料理が並べられ、即席の立食パーティ会場となっている。部屋中に飾り付けが解かされ、一際目立つ看板には次のように記されていた。

『十歳のお誕生日おめでとう! シオン!』

 職員達の盛り上がりは、まさに宴もたけなわといった様子で、すっかり出来上がっている。紫苑はそんな光景を、呆然と眺めていた。

「あっ、シオンだ~! お誕生日、おめでとう~!」

 間延びした声を振りまきながら、ミナがとことこと駆け寄る。大人用の白衣をだぶつかせているのは、若干十二歳の技術顧問である。日本人の父とインド人の母を持つ、ハーフの少女。

 ミナが手招きすると、花束を抱えたアンジュがシオンに歩み寄り、花束を手渡す。

「おめでとうございます、シオン」

「アンジュ……」

「これをあなたに渡し、祝辞を述べるよう、ミナから言われまして」

「あ~っ! 駄目でしょ、ばらしちゃ~!」

 ミナの言葉にも、アンジュは悪びれた様子もない。騒ぐミナの隣に、グラスを片手に浩太こうたがふらふらと現れる。茶髪で長身、軽そうなイメージそのままに、お気楽な二十四歳である。

「おめっとさん。まだ十歳とはねぇ。ミナも見習わなくちゃな、特に胸とかお尻とか……」

「コータ! またそーやってエッチなことばっか言うから、恋人ができないんだぞ!」

「ふん、恋とは何かも知らぬお子様が、何を言うか!」

 ミナと浩太は睨み合うと、いつものように舌戦を繰り広げる。そんな二人の様子を、シオンは笑顔で見詰めていた。そこに、新たな人影が歩み寄る。仕立ての良いスーツ姿で、恰幅もいい中年男性。生え際の退行が著しい、通称「ハゲの宮」こと一之宮和重かずしげ、その人であった。

「おめでとう、シオン。ここにきたということは、検査も問題なかったようだな」

「チーフ、これは一体なんの騒ぎ?」

「無論、お前の誕生会だよ。今までは一度もやれなかったが、十年という節目であるしな。今年こそは盛大に祝ってやろうと、計画を練っていたわけだ」

「……うちって、こんなことできるほど暇だったっけ?」

「暇じゃないさ。だが、それでも行なわれていることがどういうことか、考えて見ればわかるだろう? まぁ、他支部からの応援もあるし、由比も張り切っているしな。よほどのことがない限り、問題ないだろう。もっとも、アルコール抜きは職員全員分、用意してあるがな」

 そう言って、チーフはにやりと笑う。シオンはまだ信じられないといった面持ちで、事務所を見回す。シオンの存在に気付いた職員が、思い思いの方法で思い思いの祝辞を述べた。

「……主役を差し置いて始めてしまったのは悪かったが、大目に見てやって欲しい」

「いいですよ。みんなが楽しんでくれれば、私も嬉しいんですから」

 シオンはそう言うと、手にした花束に視線を落とす。色取り取りの花弁。様々な香り。

「シオン、それは?」

 様子を窺っていたアンジュが、シオンの顔を指差した。

「えっ、どうかした?」

 シオンは自分の顔を手の平で撫で回した。頬が温かく濡れている。

「これって……?」

 シオンは目元を拭う。拭っても拭っても、溢れ出る滴が枯れることはなかった。アンジュは興味深そうにシオンを眺める。シオンの変化に気付いたミナが、嬉しそうな声を上げた。

「あっ! シオンが泣いてる~! ほらほら、私の設計ミスじゃなかったでしょ?」

 ミナは飛び跳ねながら言葉の前半を口にすると、後半を浩太に向ける。

「う~ん、美人の泣き顔は絵になるねぇ」

 浩太はしみじみと頷き、ミナはその足を踏みつけた。浩太は悲鳴を上げる。シオンはミナからハンカチを受け取ると、涙を拭いながら周囲を見渡した。

「……龍之助は?」

 その一言に、周囲の空気が凍りつく。ただ一人、アンジュだけは平然と無表情を通す。沈黙は長く続いたが、やがて観念したように、浩太が口を開いた。

「……ミナ、守屋先輩に今日のこと、ちゃんと伝えてくれたんだろうな?」

 話を振られたミナは、胸の前で左右の人差指をぐるぐると回しながら、歯切れ悪く答えた。

「その……リュウなら知ってるだろうと、思って、その……」

「言わなかったわけだ。まずいぞ、先輩はちゃんと言っても忘れるぐらいなんだから……」

「守屋なら、有給をとっているな」

 遠目でスケジュール表を眺めるチーフに、浩太が振り向いた。

「……って、チーフ、受理しちゃったんすか!」

「毎年のことだからな、つい……」

 そこまで言うと、アンジュを除いた三名は、どんよりと肩を落とした。ミナが上目遣いでシオンの顔色を窺うと、そこには明るい笑顔があった。

「大丈夫よ。私が連れてくるから」

「さっすが~! シオンはリュウがどこに行ったか、ちゃんと知ってるんだ~!」

「ん、何となくね」

 シオンは頷くと、机の上に置かれたケーキに歩み寄る。お祝いが刻まれた、イチゴのケーキ。だが、紫苑が手を伸ばしたのはケーキではなく、その箱を縛っていた長いリボンだった。

「これ、貰ってくね」

 シオンはそう言って踵を返した。リボンを口に咥え、長い髪を両手で掴んで持ち上げつつ、事務所を後にする。その後ろ姿を、ミナは扉から顔を出して見送った。

「……シオン、変わった?」


 時が流れるにつれ、多くのものは変わっていくが、中には変わらないものというものも、確かに存在する。龍之助が立つ場所も、そんな変わらないものの一つであった。

 だが、龍之助は変わった。それが良いことなのか、悪いことなのか、龍之助は断言することができない。少なくとも年齢は少年から青年、大人へと変わった。身長が伸びたことも事実である。逆に、変わらないものは眼鏡だ。もっとも、レンズはさらに分厚くなり、フレームは激しい運動でも落ちないようにと、設計されたものに変わっていたが。

 天照霊園において、龍之助が立ち止まる場所は一つしかない。幼馴染が安らかに眠る墓石。それは、十年前から何一つ変わっていないように、龍之助には思えた。

 毎年9月22日になると、龍之助は墓参りに訪れる。朝から晩まで、龍之助は飽きることなくその場に立ち尽くすのだ。端から見れば、奇異な光景に映るかもしれない。だが、龍之助はそれだけの時を過ごせるだけの想いを持ち、その場所に立っていた。

 一年間の出来事を、たっぷりと時間をかけて語り終えたあとは、懐かしい日々の思い出話に花を咲かせる。そうしていると、一日はあっというまに過ぎていくのだった。

 龍之助は口を休め、穏やかな表情で墓石を見詰めていた。玉砂利を踏みしめる音が、遠くから近づき、徐々に大きくなっていく。やがて、それが龍之助の背後で止まった。龍之助は何気なく振り返る。すると、そこにはシオンの姿があった。

 龍之助は言葉もなく呆然としていた。シオンがこの場所にいる、それだけでも驚きなのに、その髪型はどうだ。いつもはストレートの髪を、頭の後ろで縛っている。それはまるで……。

「お墓参りをしているの?」

「あ、ああ……」

 龍之助は、やっとの思いで答える。シオンは墓石に歩み寄り、膝に手を当て腰を曲げ、顔を墓石に近づける。そして、そこに刻まれた名前を読み上げる。

「紫苑……私と、同じ名前だね」

 龍之助はシオンの横顔から眼が離せなかった。そして、その顔が振り向き、訊ねる。

「大切な人だったの?」

「ああ」

 龍之助の言葉に、迷いはなかった。シオンは体を起こして龍之助と向き合うと、両手を広げて待ち受ける。だが、首を傾げるばかりの龍之助に、シオンはからかうように声をかけた。

「今日は泣かないの?」

 龍之助は息を呑んだ。そのまま言葉を失っていたが、何とか息を吐き出し、言葉を紡ぐ。

「シオン、お前……」

「夢を、見たんだ。本当に、長い夢。その夢の中で、いつも私のそばにいる男の子がいたの。丁度、誰かさんみたいに、こーんな眼鏡かけた、頼り無さそうな男の子」

 シオンは親指と人差指で円をつくり、目の前に当てた。おどけた調子のまま、先を続ける。

「……今でも、辛いの?」

 シオンの問い掛けに、龍之助は微笑を浮かべた。

「辛くない、ことが、辛い……かな」

「何よ、それ」

 シオンは口元を押さえる。龍之助もつられて笑っていたが、表情を改めて先を続けた。

「毎年、ここに来る度に、乗り越えそうになっている自分を感じるんだ。ここに来るのも、年に一日だけだしね。あの時は、あんなにも悲しくて、辛かったのに。もう、思い出になってしまったのかもしれない。手の届かないところに、行ってしまったのかもしれない」

「龍之助……」

 シオンは唇を噛むと、決意を込めた眼差しで龍之助を見据えた。

「私は、ここにいるよ」

 龍之助はシオンの青い瞳を見返す。深海のような色。龍之助の手がシオンのリボンに伸び、それを解いた。シオンの髪がばらけ、ふわりと流れ落ちる。龍之助は頷いた。

「ああ、僕もここにいる」

 いつか……は、必ず来る。だが、今の永遠は、すぐ傍にある。

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久遠のシオン - Reminiscence - 埴輪 @haniwa

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