- Episode 16 -「お別れ」

「あ~、楽しかった!」

 天照駅の改札口を抜け、紫苑は開口一番、本日の総括を一言で済ます。その後ろに続く面々には疲れの色も見えたが、そのどれもが笑顔であることに違いはなかった。

「龍兄ぃ、来なかったねぇ」

 小虎の呟きに、正人は腕を組んで首を傾げた。

「あいつのことだから、ちゃっかり後から合流すると思ったんだがなぁ」

「何か急な用事があったんでしょ? 仕方が無いわよ」

 奈津子がお手上げする。その隣で、深雪が頬に手を添えて溜め息をついた。

「でも、残念でしたわねぇ。なっちゃんがお化け屋敷で泣き叫ぶふふぁふぁんふぇ……」

「……その記憶は、抹消するように言ったわよねぇ?」

 奈津子は深雪の白い頬をつねり上げたが、深雪は笑顔を絶やさなかった。

「ま、俺は両手に花で役得だったから、満足満足」

 正人は心の底から頷いた。紫苑は振り返り、雑談を交わす友人達を眺める。その中に眼鏡をかけた幼馴染の姿がないことを、紫苑はちょっぴり残念に思った。

 その時、紫苑の携帯が震えた。紫苑は上着から携帯を取り出す。

「龍之助がとうとう痺れを切らしたかな?」

 正人の推測。紫苑もそうかと思ったが、画面に映し出された文字に手が止まった。だが、それでもなお、携帯は震え続ける。紫苑はその震動に促されるように、通話ボタンを押した。

 小さな画面に女性の顔が映し出される。力のある眼差しは、紫苑の持つ過去の記憶と何ら変わるところはなかった。それは、紛れもなく「お母さん」の顔であった。

「久しぶり……と、言うべきなのだろうな。紫苑、成長したな」

「……お、お母さん、そんな、なんで……」

 紫苑は思いがけない対面に、狼狽を隠せなかった。溢れ出る思いに、言葉が詰まる。

「すまん。だが、今は積もる話をしている場合ではない」

「えっ……?」

「守屋龍之助が連れ去られた。場所は由比が追っている。場所の特定は可能だろう。突入できるかどうかは、別問題だがな。いずれにせよ、危機的な状況に変わりはない」

「それは、どういう……?」

「守屋龍之助を救い出せるのは紫苑、お前しかない。至急、病院までくるんだ」

 紫苑が問い返す間もなく、画面から久留美の姿は消えた。紫苑は呆然として、暗くなった画面を見つめていた。母娘の会話を意図せず聞いてしまった正人達も、戸惑いを隠せない。

「……綺麗な人だったな」

 正人は間の抜けた呟きを洩らす。だが、その感想を否定するものはいなかった。

「龍兄ぃが、連れ去られたって……」

 小虎が頭を振り、髪留めが鳴った。紫苑は携帯を閉じると、素早く上着にしまった。

「……私、行かなくちゃ」

 紫苑の決意に満ちた一言に、視線が集まる。何が起こっているのか、何が待っているのか、それらが分からなくても、紫苑が取り得る道は他になかった。

「紫苑……その、これでお別れってことは……ないよね?」

 奈津子はそう聞いてから、すぐに後悔した。そんなこと、誰にも分かるはずがない。だが、聞かずにはいられなかったのだ。不安の波が押し寄せる中、沈黙を破ったのは深雪だった。

「紫苑ちゃん、短い間でしたけれど、ありがとうございました」

 深雪は深々と頭を下げた。紫苑は眼を丸くし、奈津子は声を荒げる。

「こら、深雪っ! あんたは何でそーいう……」

「人生、何が起こるかわかりませんもの。笑顔で再会できる保障は、どこにもありませんわ」

 頭を上げた深雪は、平然と答える。奈津子は唇を噛み、髪の毛を掻き乱した。

「そりゃ、そうだけど……そんな……」

「現に、私は紫苑ちゃんにお別れの言葉を言うことができませんでした。あんな辛い想いは、一度で十分。ですから、紫苑ちゃん、今はありがとうと、言わせてください」

 深雪は紫苑の手をとり、笑顔を見せた。紫苑も笑顔を返し、柔らかな手を握り返した。

「紫苑姉っ! 私も、その、紫苑姉ぇに会えて、嬉しかったよ、楽しかったよ!」

 そう言って、小虎は紫苑に抱きついた。紫苑は小虎の髪の毛を優しく撫でる。

「神崎さん……いや、紫苑さん。俺は、君のことが好きでした」

 正人の突然の告白に、紫苑は眼を瞬いた。正人は笑顔で首を振って先を続ける。

「答えは聞かなくても分かってる。ただ、これを伝えないと、俺は前に進めないからさ」

「菅原まで……みんな、どうしちゃったの? 申し合わせたみたいにさ、信じらんないよ!」

 奈津子は苛立たしげに言い放つと、両腕を組んで顔を背けた。誰も一言も発さぬまま、時間だけがじりじりと流れる。やがて、深雪が奈津子の腕に触れ、そっと声をかけた。

「なっちゃん」

 奈津子は深雪を横目で見ると、次いで紫苑に眼を向けた。そして、深々と溜め息をつく。

「……分かったわよ、言えばいいんでしょ、言えば!」

 奈津子は紫苑と向き合った。奈津子の方が身長が高いので、どうしても見下ろす形となる。

「……あんたは、紫苑だよ。誰が何と言おうと、紫苑だ。だから……ここにいる全員、あんたに言葉を託したんだ。うまく言えないけど、あんたは決して代用品じゃなくて、私達の……」

 奈津子の言葉はそこで途切れた。紫苑が奈津子を抱き締めたからである。

「……ありがとう、奈津子」

 紫苑はそう呟くと、体を離した。そして、次に深雪を抱き締める。次は正人、最後は小虎。それぞれに感謝の言葉と、それぞれの名前を添えて。そして、紫苑は全員の顔を見回しながら、一歩一歩後退していく。遠ざかる面々が浮かべる笑顔は、見えない努力の賜物であった。

「みんな、ありがとう。大好きだよ」

 紫苑はそう言い残すと、踵を返して駆け出した。

 

 龍之助は薄暗い部屋で眼を覚ました。ぼやけた視界。目覚めは最悪だった。頭が割れるように痛み、気だるさと吐気で体を起こすこともできない。

 だが、龍之助は生きていた。痛みも、苦しみも、頬に広がる床の冷たさも、確かに現実のものであった。どくどくと、脈打つような熱さを額に感じ、龍之助はゆっくりと手を伸ばす。ぬるりと嫌な感触が、指先から全身に広がる。龍之助は自らの行為に後悔した。

 ここはどこだろう……龍之助は視線を動かしたが、暗いばかりで何も見えない。両手を床につき、渾身の力を込めて伸ばしたことで、体を起こすことはできた。だが、立ち上がることは諦め、尻餅をついたような姿勢で、天井を見上げる。

 意識がはっきりするにつれ、痛みや気持ち悪さがいよいよ耐え難くなっていく。このまま、死んでしまうのだろうか。そう考え、龍之助は自分の間の悪さに苦笑した。

 暗さに眼が慣れてくると、部屋の様子が分かるようになっていった。すると、部屋にいるのが自分だけではないことに気付く。部屋の隅で、ぐったりと横たわる背中が見えたのである。龍之助は這いずるように、その背中に近づく。一人じゃない、そのことが嬉しかった。

「あの、大丈夫ですか?」

 龍之助は声をかけながら、肩を揺する。背中がごろりと傾き、仰向けになった。その瞬間、龍之助は小さな悲鳴を上げた。

 それは、藤島一樹だった。眼を見開き、だらしなく開いた口からは、舌がはみ出している。シャツが胸から腹まで黒々と染められており、濃密な血の臭いに龍之助は口元を押さえた。

 藤島は死んでいた。少なくとも、龍之助にはそう見えた。驚きや戸惑いより、耐え難い吐気に何度もえずいたが、込み上げるのは酸っぱい胃液ばかりで、気持ち悪さが増すだけだった。

 殺されそうになった自分が生きており、自分を殺そうとした相手が死んでいる。理不尽な状況。何が起きたのか分からぬまま、その死を悼んでいる自分に、龍之助は驚きを感じた。

 死んだら終わり……もう自分の声は届かないし、相手の声も聞こえてこない。完全な断絶。会ったばかりで、会話も少しだけ。それも、決して心が弾むような会話でもなかったのだが、言葉を交わした相手が二度と物言わぬ躯となった姿は、何とも言えない悲しさがあった。

 突然、扉のロックが音を立てて外され、開け放たれた扉から、部屋の中に光が差し込んだ。龍之助は思わず眼を細める。光りの中に浮かび上がる、黒い人影。

「やっほ~! 生きてるかな~?」

 由比はそう言いながら龍之助の前に歩み寄ると、片膝を立ててしゃがんだ。そして、龍之助の顔を見て眉を潜める。腰のポーチから手際よくガーゼを取り出し、龍之助の額を拭った。

「ちょっと傷口診るかんね……ま、出血はしてるけど、そう深いわけじゃなさそうねん」

 由比は笑顔を見せると、傷口を消毒する合間に、龍之助の鼻先を綿棒で突っつく。

「眼鏡がないことの方が問題かな? 私のこれ、かける? 調整すれば眼鏡にもなるよん?」

 由比はいつものサングラスを指先で持ち上げる。だが、龍之助が首を振ったことで、サングラスは元の位置に戻った。由比は龍之助の額に包帯を巻き、ポーチのファスナーを閉じる。

「んじゃ、とりあえずこっから出るわよん」

 由比はそう言うなり、龍之助に肩を貸して立ち上がらせる。龍之助は自力で立ち上がろうとしたが、腰が抜けてしまったのか、足を踏ん張ることができなかった。

「遠慮しないの。私はこう見えても、力持ちなんだから」

「すいません……あ、えっと……」

 由比が顔を向けると、龍之助は言い淀みながら、視線を足元に向けた。その先には、藤島の焦点のあっていない双眸が見える。由比の視線を確認し、龍之助は切り出した。

「あの、やっぱり……死んでるんですか?」

「これ以上ないってぐらいにね。手の施しようもないし、一緒には連れていけないわよん?」

 由比に釘を刺され、龍之助はそれ以上言葉を続けることができなかった。

「んじゃ、いくよん」

 由比に支えられたまま、龍之助は部屋を後にした。一歩足を踏み出すと、そこはまるで別世界であった。廊下には毛足の長い深紅の絨毯が敷き詰められ、通路の壁には等間隔でランプの光りが輝いている。高級感溢れる洋館といった雰囲気に、龍之助は思わず辺りを見回した。

「あの、ここは一体……?」

「簡単に言えば、悪党の秘密基地ねん」

「悪党、ですか?」

「そ、悪趣味なね。君も生かされたところを見ると、商品にしようと思ってたみたいねん」

「商品……僕が?」

「そ。どんな商品か聞きたい? 押収したカタログもあるよん?」

「……遠慮しておきます」

 自分はろくでもない運命を辿ろうとしていたことが分かっただけで、充分だった。長い通路の道すがら、由比は龍之助に何があったのかを訊ね、頷きながら状況を解説した。

「大体の状況はこうね。藤島がかっとなって君をアンドロイドで殴った……それで、怪我を負った君をどうしていいか分からなくて、最悪の相手に連絡をとったわけだ」

 藤島は、以前仕事を請け負った犯罪組織が、未成年の肉体を商品にしていたことに思い当たり、コンタクトをとったのだ。身の危険など、何も感じていなかったであろう。むしろ、報酬を期待していたに違いない。だが、その思いは最悪の形で裏切られてしまったわけだ。

「ここの組織は小さくないからねん。自業自得……っていったら、それまでなんだけど」

「はぁ……」

 龍之助はただ頷きを返した。言葉が途切れると、由比は正面を見据えたまま呟く。

「ごめんね。私、君のことを甘くみてた」

「えっ?」

「……まさか、犯人のところまで直接乗り込むなんてねぇ」

「そんな、気にしないでください。僕が勝手にやったことなんですから」

 龍之助は精一杯の笑顔で答える。由比も微笑を返したが、すぐに表情を強張らせた。

「私のミスよん。本当は、こうして助けに来ることもできなかったんだからん。さっきも言ったけど、ここの組織は小さくない。警察はもちろん、私達も眼を光らせてたんだけど……ガードが硬くてねん。見て見ぬ振りしかできなかった。そりゃ、機動隊や自衛隊に出動してもらえば鎮圧もできただろうけど、融通が利かないのが世の中ってものなのよん」

 通路の終着点。由比は扉の前で足を止めた。近づくほどに、その先から聞こえる物音が、大きくなっていく。龍之助は由比の表情を窺った。由比は唇をへの字に曲げ、扉を睨んでいる。

「……ま、百聞は一見ってね」 

 そう言うと、由比は扉を開け放った。その途端、耳障りな騒音が飛び出してくる。

 扉を抜けた先は、ホールとなっていた。大人数で社交ダンスが出来そうなほど、広々としている。中央には大きな階段が据えられ、二階部分へと伸びている。今そこで舞い踊るのは、紳士淑女ではなかった。いつもは高級な料理が並ぶであろう、テーブルの上に横たわる男。絨毯の上にも、階段の途中にも、倒れ込んでいる男の姿が見えた。全員、揃いのスーツ姿である。だが、龍之助の視線はそれらには向けられず、ただ一点に注がれていた。

 ホールの中央で、複数の男達に囲まれながらも、華麗な戦いの舞を見せる少女。由比とお揃いのボディスーツを着こなしているのは、紛れもなく紫苑だった。

「紫苑が……何で……?」

 龍之助は開いた口が塞がらなかった。そんな龍之助を横目に、由比が答えた。

「これが、紫苑ちゃんの決意よ」

 犯罪組織の要となっていたのが、アンドロイドの私兵である。人間よりも遥かに屈強な上、壊されたところでアクターの身柄は保証されている。この状況で、生存すら不確かな一介の学生を救出する為に動こうとする組織はなかった。ただでさえ、三桁を超える「迷子」の身柄がそこにあると分かっていながら、今もって動くことができていないのだから。しかし、個人レベルで見てみると、たった一人でも突入しようと目論む人物がいた。由比である。

 だが、いかに由比が対アンドロイド戦のエキスパートだとしても、一人で二桁以上のアンドロイドを相手にすることなどできない。事態は膠着状態、言うなれば手詰まりであった。

 こうした状況を覆す、たった一つの可能性が紫苑の……正確に言えば、紫苑の身体、久遠の存在であった。久遠の身体能力を本来の水準まで引き上げ、戦闘用プログラムを組み込めば、最強の戦士となる。だが、その処置を行なってもなお、紫苑の意識が保たれるという保証はなく、むしろ、完全に消失してしまう可能性の方が高かった。

 そうした事実を、久留美は脳神経センターに訪れた紫苑に告げた。十年振りに近い、本当に久しぶりの対面であったが、交わされる言葉はどこまでも事務的なものであった。

 紫苑は迷うことなく調整の道を選んだ。「龍之助を救うためなら、私は何でもする」……紫苑の決意に対し、久留美は最後の最後まで調整を躊躇っていた。あと一つキーを叩けば、作業が始まる。その段階になって、久留美の指先は動かなくなった。一方、全てを気丈に受け入れた紫苑は、寝台の上に横たわり、その時を待っていた。自分の首筋から伸びるコードには戸惑いを隠せなかったが、それを厭うことはなかった。久留美はスクリーンを見詰めたまま呟く。

「……私は馬鹿だ。なぜ、お前に知らせてしまったのだろうな。こうなることは、分かっていたはずなのに。お前の答えは、分かっていたはずなのに」

 紫苑は小さく震える母親の背中を、黙って見詰めていた。やがて、穏やかに切り出す。

「私は、感謝してるよ。知らせてくれたことも、私のことを諦めないでいてくれたことも。お母さんに、感謝してる。だって、お母さんがいなかったら、私、こうしてここに存在していないもの。龍之助を助けることも、できなかったもの。だから、ありがとう。そして、お願い。私に、龍之助を助けるための力を……お願い!」

 そう言うと、紫苑は天井に顔を向け、眼を閉じた。両手をお腹の上で組み合わせる。久留美は振り返らなかった。そして、その指先がキーボードを叩く。その瞬間、スクリーンに無数の文字が流れ出した。微かだった機械の唸りが、その響きを増す。久留美は振り返り、駆け出していた。紫苑が中で横たわる、蒲鉾型のガラスケースに、転ぶように張り付いて叫んだ。

「紫苑! 私は、私はっ!」

 だが、紫苑は眼を閉じたまま身じろぎ一つしない。その頭脳の中では、新たな情報が急速に刻まれているのだ。久留美は固めた拳を振り上げ、ケースに何度も叩きつける。

「……話したいことが、いっぱいあるんだ。一緒に行きたいところも、たくさんあるんだ。なのに、それなのに……それなのに……でも、でもなぁ……私だって……わたし、だって……」

 久留美は床に崩れ落ち、うずくまる。噛み殺した嗚咽は、紫苑の調整が終わるまで続いた。

 

 紫苑の回し蹴りが、男の側頭部を捉える。首は胴から離れ、サッカーボールのように飛び、壁にぶつかって落ちた。頭部を失ってもなお、胴体は動き続けていたが、紫苑に足を払われ転倒し、さらに拳で貫かれると、痙攣を繰り返すだけとなった。やがて、その動きも止まる。

 これで、紫苑の周りで稼動しているアンドロイドはいなくなった。二十体を超えるアンドロイドが、紫苑の手によって破壊されていた。このホールに至るまでも、多くのアンドロイドが配置されていたが、それらをものともせずに突破口を切り開いたのが、紫苑だった。

 別働隊……紫苑がアンドロイドを担当するという条件でようやく思い腰を上げた……は、犯罪組織の構成員を捕らえるべく、本拠地をくまなく捜索した。しかし、見つかったのは幹部の一人と目されていた男……その死体だけであった。結局、組織の人間は一人だけ、それも口封じのためかアンドロイドに絞め殺されていたので、組織の全容解明は困難であった。

 戦いを終えた紫苑は、ただ立ち尽くしていた。次の指示あるまで、頑なに動かないつもりなのだろうか。由比は紫苑と龍之助を見比べると、躊躇いがちに呟いた。

「……さて、なんて声をかけるべきかねぇ」

 だが、龍之助に迷いはなかった。

「紫苑っ!」

 龍之助は由比の支えから抜け出し、よろめきながらも紫苑に駆け寄った。龍之助が名前を呼び続けても、紫苑は振り返らない。龍之助は紫苑の前で立ち止まった。

「紫苑……」

 ようやく声が届いたのか、紫苑がぎこちなく振り返る。どこか虚ろな眼差し。

「りゅう……の、すけ?」

 紫苑は途切れ途切れに呟くと、ゆっくりと微笑んだ。

「よ……かった……ぶじで……」

 龍之助の思いは言葉にならなかった。紫苑はおずおずと右手を伸ばす。

「あ……れ? ……なんだか……とおいなぁ……」

 龍之助は伸ばされた右手を、両手で包み込むように握った。ありったけの、力を込めて。

「……そっか……もう……おわかれ……なんだ……」

「そんなことない! そんなことあるもんか!」

 龍之助は叫んだ。だが、溢れる涙が、迫り来る現実を告げていた。それでも。

「僕はまだ、何も君に伝えていない、それなのに、君は……」

 龍之助は頭を振ると、顔を上げて言葉を続けようとする。

「僕は、僕はね、君のことが……そう、ずっと君のことが……」

 だが、龍之助の言葉はそこで遮られた。紫苑の左手がゆっくりと持ち上がり、龍之助の顔へと伸び、その指先が唇に触れたからである。そして、紫苑は小さく首を振った。

「……だめ……それは……しおん……ための……こと……ば……」

「何を……それじゃ、それじゃ君は……」

「いいの……わたしは……できたから……す……な……ため……に……」

 紫苑の口から零れる言葉は、もはや言葉ともいえないようなものであった。龍之助はその全てを聞き漏らすまいと、耳を澄ませる。紫苑は微笑を絶やさぬまま、唇を動かした。

 「満足よ」……龍之助の耳には、そう聞こえた。その瞬間、龍之助は紫苑を抱き締めていた。龍之助にできることは、もうそれしか残されていなかった。紫苑の手が少しずつ、ミリ単位で持ち上がり、やがて龍之助の背に触れる前に止まった。そして、紫苑は動かなくなった。


 その日、新聞の一面を飾ったのは、都内の一流ホテルに潜伏していた国際的犯罪組織の検挙だった。二十一世紀末、誘拐や人身売買が横行する一方で、伸び悩む検挙率を鑑みると、快挙といって良かった。十人を超える逮捕者、百名を越える少年少女の救出劇。

 だが、実情は異なる。被疑者死亡で逮捕者はなく、犯罪の中核にはアンドロイドが関わっていた。それでも、救出された少年少女の人数が正確だったことは、幸いであった。しかし、もう一人の死者と、救出された高校生の存在は、ついに報道されることはなかった。

 そんな紙面の片隅に、一つの記事が掲載されていた。それは、一ヶ月以上前に起こった事件の続報である。マヌカン天照駅前店で起こった傷害事件。逃亡を続けていた犯人の逮捕を伝えるニュース。だが、それは吉報だけではなかった。被害者の訃報も伝えられていたのである。


 紫苑の葬儀には、多くの参列者が集まっていた。晴嵐高校の生徒だけでなく、親交のあった他校からも、多くの生徒が駆けつけている。その他にも、紫苑の訃報を知った地元の天照市民やマヌカンの関係者、ドールスタッフまでもが集まり、長蛇の列を作った。

 棺に納められた紫苑の遺体は、生前と何ら変わるところのない美しさを保っていた。結局、久留美は紫苑の体を保存していたのである。脳も元通り、戻されていた。

 紫苑の死は明かされたが、その全てが真実というわけではなかった。「久遠」の存在は国家機密であったし、逮捕されたはずの犯人もすでにこの世にいない。そして、犯行にアンドロイドが使われたことも、決して公にできる事実ではなかった。

 真実を知る一行……龍之助、正人、奈津子、深雪、そして小虎は、この葬儀を他の参列者とは異なる思いで受け止めていた。峠はとうに越えている。それでも、深雪は堰を切ったように泣き出し、奈津子が慰める一幕が見られた。

 参列者の中には、榎津医師に由比、久留美の姿もあった。久留美が公の場に姿を見せたことに龍之助は驚いたが、さらに驚いたのは、久留美が母親として、参列者に向けてスピーチを行なったことである。黒い喪服の中にあって、白衣姿の久留美は注目を集めた。白衣の他にもその若さや美貌など、眼を引く要素はいくつもあったが、極め付きはスピーチの内容である。

「紫苑は幸せだった」

 久留美の言葉に、葬儀会場は静まり返った。だが、久留美は臆することなく先を続ける。

「……そう思う権利ぐらい、遺族にはあるはずだ。殺されただけで不幸だと否定されるほど、私の娘はやわな人生を送っていなかった。私は、そう信じている」

 そして、久留美は龍之助に視線を向けた。

「そうだろう、少年?」

 龍之助は久留美の黒い瞳をまっすぐと見返し、はっきりと答えた。

「はい!」

 紫苑には未来があった。それはきっと、眩いばかりに輝いていただろう。それを見ることができないのは残念だけれど、紫苑は今までもずっと輝いてきた。その事実は、誰かが奪えるものではない。紫苑と日々を過ごしてきた龍之助だからこそ、答えることができたのである。


 出棺の準備が進む。龍之助は、由比と並んでその様子を眺めていた。由比と久留美は、火葬場にはいけないのだという。そしてその前にと、由比は龍之助を呼び出したのだ。

「ま、大人の事情って奴でねん」

 別れの理由を、由比は簡潔に述べた。龍之助は不承不承でも、納得せざるを得ない。

「……本当に、僕が遺族代表でいいんですか?」

「久留美たってのお願いだしねん。それに、君以上に相応しい人がいるとは思えないけど?」

 そう言われると、龍之助はそれ以上遠慮することができなかった。

「でね、お別れの前に、君にこれをプレゼントしようと思ってねん」

 そう言うと、由比は背負っていたリュックを下ろし、ファスナーを開いた。

「君の学力だと、何年か浪人しなきゃならないだろうけど……」

 由比はリュックの中から次々と本を取り出し、龍之助に手渡していく。物理や数学など、龍之助にとって鬼門とも言うべき単語が並ぶ参考書の山。龍之助はその重みに呻いた。

「……由比さん、なんですか、これ?」

「紫苑ちゃんの未来よ」

 さらりと言った由比の言葉に、龍之助は眼を見開いた。紫苑の夢、それは……。

「ま、これでどうしろとか、野暮なことは言わないわん。ただ、これも一つの道だってことを伝えておきたくてねん。もう、二度と会うこともないだろうし」

「えっ……?」

「意外でもないでしょう? 本来、私達は君と出会うべき存在じゃない。それに、もう会う理由もなくなったしねん。だから、お別れ」

「そんな……」

「まぁ、お姉さんと別れたくない気持ちもわかるけどねん。まぁ、縁があったら……ね?」

 龍之助は躊躇いながらも、頷くしかなかった。すると、由比は軽く手を打ち鳴らした。

「ああ、そだそだ。肝心なものを渡すのを忘れてたわん」

「……まだ、何かあるんですか?」

 龍之助は参考書を由比から渡されたリュックに詰め込みながら、呆れたように訊ねた。

「ラブレターよん」

「……またですか?」

「私がそう何度も同じネタを使うものですか。正真正銘、本物よん」

 龍之助は半信半疑の眼差しを向けていたが、由比がジャケットのポケットから薄緑色の紙を取り出した瞬間、その眼が大きく見開かれた。心当たりのある紙色。

「そ、それは……」 

「紫苑ちゃんの遺品の中にあってね。内容的に、君のだと思ったんだけど?」

 紛れも無かった。由比から受け取った手紙には、龍之助の言葉が記されていた。一体なぜ? ……首を傾げる龍之助の脳裏に、その手紙にまつわる出来事が鮮やかに思い出される。

 あの時、手紙の内容を知りたかった紫苑は、こっそりと中身を抜き取っていたに違いない。それしか、理由は考えられなかった。まったく……龍之助は苦笑した。

 だとすると、紫苑はこの手紙の内容を知っていたのだろうか? それとも……。それを確かめる術はないが、龍之助は手紙から顔を上げると、由比に話しかけた。

「……由比さん」

「ん?」

「言葉にしなくても、伝わることって……きっと、ありますよね?」

「ない!」

 由比はきっぱりと即答した。だが、次の瞬間、サングラスをとって破顔する。

「……なんてね、君の顔が答えよ」

 龍之助は噴出し、由比がそれに続いて笑い出す。葬式の場において、二人の笑いは参列者にとっては奇妙な光景であったに違いないが、それは何よりの弔いであった。


「……龍之助っ! どこだっ!」

 不意に自分を呼ぶ声が聞こえ、龍之助は振り返った。正人が人込みを掻き分けながら、あちらこちらに首を巡らせている。そして、龍之助の姿を目に留めると、激しく手招きをする。龍之助は参考書をリュックに押し込むと、それを肩に担ぎ上げ、正人のもとへと走った。

 その途中、龍之助は一人の女性と擦れ違い、振り返った。思わず眼を惹かれたのは、薄紫色という髪色のせいだけではない。ほんの一瞬だけ視界に入った姿には、確かな面影があった。

「紫苑!」

 龍之助は思わず叫んでいた。だが、女性は立ち止まることなく歩き去っていく。

「……おい、何やってんだよ?」

 正人が龍之助の肩を叩く。少し呆けた様子の龍之助に、正人は溜め息をついた。

「正人、今……その……」

「話はあとだ、とにかくこいって! お前がこないと、始まらないんだからよ!」

 正人は龍之助の腕を掴んで、強引に引っ張って行く。龍之助はそれに従いながらも、何度も振り返った。だが、一度溜め息をついた後の表情は、落ち着きを取り戻していた。

 気のせいでもいい。僕はまだ、君を身近に感じることができる。今は、それだけで……。


「……で、感想は?」

 由比は並んで歩く女性に語りかけた。だが、薄紫色の髪を持つ女性の答えは、そっけない。

「ありません」

「……そっか。やれやれ、これじゃぁ、先が思いやられるわねん」

 由比は大袈裟に溜め息をつく。女性は由比を一瞥すると、正面を見据えた。

「ただ、私のことをシオンと呼んだ少年がいました」

 その言葉に、由比は女性の横顔を見詰めた。女性の目線はまっすぐと進行方向に向けられ、これといった感情の色を読み取ることはできなかった。

「そうか」

 黙り込んだ由比の代わりに、久留美が答えた。そして、何気なく言葉を付け加える。

「それでは、お前の名前はシオンにしよう」

「はい、わかりました」

 シオンは久留美の提案を、あっさりと受け入れるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る