- Episode 15 -「犯人」

 翌日から、紫苑は学校に通うようになった。銀色の右手を、包帯と手袋で覆って。その決断は、龍之助には意外に思えたが、喜ばしいことでもあった。紫苑が自らの意思を示したのは、本当に久し振りのことだったのだ。

 復帰した紫苑を、友人達は受け入れた。受け入れざるを得なかった、と言った方が正しい。なぜなら、その正体を知ってもなお、目の前に現れた少女は、紫苑そのものだったのだから。

 誰も紫苑を偽者だと責めなかった。今まで通り、変わりなく、振舞っていた。その光景は、事件が起こる前と、何ら変わるものではなかった。

 紫苑は昼休みを奈津子と深雪の二人と過ごすようになった。紫苑は相変わらず飲まず食わずであったものの、そのことで関係がぎくしゃくすることはなかった。

 龍之助は正人と昼食を共にするようになったが、こちらはそろそろ屋上から退散し、暖かいところで食事をとりたいというのが、お互いの本音であった。

 親しい友人達だけなく、クラスメートや教員との関係も、少しずつ元通りになっていった。確かにおかしい時期はあったが、それはもう過去のもの。紫苑は紫苑であった。

「これは、あくまで一時的なことだ」

 携帯の小さな画面に映し出された久留美は、冷静に状況を説明した。調整により抑制されていた思考が、真実を知ったことで解き放たれたという。だがその分、枯渇も早いというのだ。

「荒療治は長く持たない。その覚悟はしておいてくれ」

 龍之助は画面に向かって頷いた。状況は好転していない。むしろ、長い目で見れば悪化しているともいえる。それでも、龍之助の心は穏やかだった。今では、その事実を受け止めるのは一人ではない。そのことが、龍之助を支えているのだった。

「それなら、久留美さんも紫苑とちゃんと話をした方がいいんじゃないですか?」

「そうだな……そうなのだろうな」

 久留美は歯切れ悪く答え、龍之助は歯痒さを感じた。紫苑の体……久遠が起動してしまったという事実は、当然、政府の知るところになった。その弁明のため、久留美は一時的に天照市を離れていた。幸い、紫苑は久留美の言う「荒療治」のおかげで安定している。もし安定していなかったとしたら、紫苑は問答無用で回収されていたことは間違いなかった。

 全てを知った紫苑と、久留美はまだ対面を果たしていない。紫苑は母との対面を望んでいたが、多忙を理由に断られるのが常だった。だが、龍之助は思う。本当に忙しいだけなのかと。単純に、会うのが恥かしいのではないかと、龍之助は疑っているのだった。

「今、ちょっとぐらい話せません? すぐかわれますけど?」

「なっ、その、か、会議があるから、切るぞ。紫苑には、またいずれと伝えてくれ」

 龍之助が引き止める間もなく、久留美の姿は画面から消えてしまった。龍之助は一つ溜め息をつくと、携帯を制服のポケットに収めた。そして、紫苑の待つ校門へと足を向ける。

「……また逃げられちゃったよ」

 龍之助はお手上げをして見せる。紫苑は笑みを返したが、少なからぬ落胆は隠せなかった。

「しょうがないよ、忙しいんでしょ?」

「それだけじゃないとは、思うけどね」

「でも、正直ほっとしてる私もいるのよね。もちろん、お話はしたいんだけど……」

 紫苑は腕を組み、小首を傾げて唸った。龍之助はその様子にしみじみと頷く。

「もう何年も会ってないんだし、緊張するよなぁ」

「うんうん。どんな顔をして会えばいいんだろう? ……あ~考えただけで顔が熱っ……」

 紫苑は頬を両手で擦った。一方、龍之助は単身赴任中の父のことを思う。こちらは一年の内に何度か帰ってくるが、それでも再会には妙な緊張感が伴った。

「よっ! お二人さん! 待たせたな!」

 正人が敬礼をしながら歩み寄ってくる。その横には、奈津子と深雪の姿もあった。

「お掃除、ご苦労様!」

 紫苑が手を振って声をかけると、奈津子が肩を回しながら答えた。

「……こういう日に限って、無駄にゴミが多かったりするんだよねぇ」

「まぁまぁ、菅原君も手伝ってくれましたし」

 そう言って、深雪が正人を振り返る。正人はまんざらでもなさそうに胸を張った。

「ま、困った時はお互い様ってね。さってと、あとは小虎ちゃんかな?」

 周囲をきょろきょろと見回す正人に、龍之助が答える。

「小虎なら先に行ったよ。座席を確保しておくってさ」

「さっすが、兄さんと違って気がきくねぇ。んじゃ、行こうぜ!」

 率先して歩き出した正人の後に、龍之介達が続いていく。

 次の日曜日に、みんなでどこかへ遊びに行こうという話が持ち上がり、その計画をマヌカンでお茶でもしながら立てよう……というのが、本日のご予定であった。

「んでさ、お嬢さん方はどっか行きたい場所とかあるんだっけかな?」

「こういう時は、遊園地ってのが相場でしょうね。ほら、紫苑が行きた言ってた……」

「あっ、それは嬉しいな! ……でも、混んでるんじゃないかなぁ?」

「休日なんて、どこも混んでるわよ。それに、それを嫌がってたらどこもいけないわよ?」

「そりゃそうだけど……」

「何でしたら、爺やに頼んで貸切りにして貰いましょうか?」

「……あんたが言うと、冗談に聞こえないから怖いわ」

「あら、冗談なんかじゃありませんのに……」

「なおさら怖いわ!」

 そんな何気ない会話に、龍之助は笑顔で聞き入っていた。ありふれた日常。その中に紫苑が溶け込んでいることが、何よりも嬉しかった。その後マヌカンで小虎と合流し、長時間に渡る会議……というより、他愛もないお喋りの果てに、行き先は遊園地に決まった。

 そして当日。駅前に集合した一行の中に、龍之助の姿はなかった。急用が入ったのである。延期という話も出たが、龍之助の勧めもあり、残ったメンバーで出発することになった。

 紫苑達を見送った後、龍之助はマヌカンへと足を向ける。新人のドールスタッフ……名前はリンと言い、アジア系の顔立ちをしている……に迎えられ、龍之助が向かった席には、すでに待ち合わせの相手が座っていた。

「ハァ~イ!」

 明るく手を振る女性。それは由比だった。


「……なるほどねぇ、そりゃ悪いことしちゃったねん」

 由比はそう悪いとも思っていなさそうな口調で呟くと、珈琲の入ったカップを傾けた。二人掛けの窓際の席。由比の向かい側で同じくカップを傾けていた龍之助は、首を横に振った。

「いいんです。また行けばいいんですから」

「また……ねぇ」

 由比は空になったカップを小皿に戻した。食器が触れ合い、小さな音を立てる。

「まぁ、希望を持つことは大事よぉ。でもね……」

「わかってます。でも、そういうことにしておいてください」

 言葉を遮られ、由比は肩を竦めた。まだ何か言いたそうな由比に、龍之助は言葉を続ける。

「実は、ちょっと練習もしておかないといけないかなって思ってるんです」

「ふむ?」

「その、自分なりに考えてみたんです。紫苑がいなくなるって、どういうことかなって。いなくなるってことは、会えなくなるってことですよね? 今の状況だって、表面的には同じです。でも、本質的には違います。何が違うかといえば、また会えるか会えないか、その一点だけだと思うんです。……もう二度と会うことができない。もう話すこともできない。だから、別れは悲しくて、辛いんだと思うんです。ですから……ってこともないんですが、紫苑が傍にいないって状況に、慣れておかなくちゃって思うんです。紫苑はここにいなくても、楽しくやっている……そう思うことができれば、別れも少しは楽になるかも……なんて」

 由比は眼を閉じ、黙って耳を傾けていた。龍之助は不安を覚え、おずおずと切り出す。

「……すいません、変なこと言っちゃって」

「んにゃ、ごめんごめん、お姉さん感心しちゃってねぇん。思わず聞き入っちゃったわん」

「そんなこと…」

「君は君なりに、紫苑ちゃんと向き合おうとしていたのねん。……私はね、君がもっとわがままで、自分勝手で、それでもいいと思ってた。それぐらいしたって、罰が当るもんじゃないぐらい、理不尽な目にあったんだから。でも……そういう子に限って、受け入れちゃう、乗り越えようとしちゃう……何とも、皮肉なことねぇ」

 由比は溜め息をつく。龍之助は僅かに躊躇いながらも、率直な気持ちをぶつけた。

「僕は……諦めてしまったんでしょうか?」

「どうかしら。それはまだ、判断するには早いと思うわん。何をどう諦めないかって問題もあるしね。まぁ、いずれにせよ……今の君になら、安心して話せるわ」

 由比はそう言うと、椅子の横に置いていた鞄を取り上げ、中から数枚の用紙を取り出した。テーブルの上に置き、指先で軽く突付く。龍之助は引き寄せられるように覗き込んだ。

 その用紙は、一見すると履歴書に見えた。顔写真が添えられている。暗い眼をした、痩せた男。その横には、男のものであろう名前から始まり、生年月日や血液型、住所、経歴などが、細かい文字でびっしりと書き込まれていた。

「ほんの一部だけど、勘弁してよねん。これでも、相当苦労したんだからぁ」

「これは……?」

 そう訊ねながらも、龍之助の中にはある種の確信があった。頭に血が昇っていくのがはっきりと分かる。由比が自分に教えてあげると約束したものは、一つしかない。

「容疑者よ。何の容疑者かは……言わなくてもわかるよねん?」

 分からないはずがなかった。龍之助の唇が戦慄く。この人が。この男が、紫苑を……。

「藤島一樹。二十七歳。無職。独身。アンドロイドのアクターとしては、それなりに優秀だったみたいねん。その腕を買われて、裏の仕事に手を出したのが二年前。それからは、裏の仕事で生活費を稼いでるみたい。まぁ、下っ端も下っ端、犯罪の下請け業者ってとこねん。今回は反アンドロイド組織からの依頼を受けて、マヌカンで大暴れしたってわけ。まぁ、本人は細かい事情も知らずに、ただ言われるままにやっただけだろうけど。お金目当てでさ」

 龍之助は由比の説明に頷くこともなく、食い入るように書類を見詰めていた。由比はそんな龍之助の様子を窺いながら、言葉を続けた。

「……で、通信記録も押さえてあるし、あとは捕まえるだけなんだけど、何か伝言はある?」

 龍之助はなおも書類を見詰めている。

「何発殴っておこうか? 大丈夫、痣が残らないように痛めつけるのは得意だからん!」

 それでも、龍之助は書類から眼を離そうとしない。由比は肩を竦めると、すっと書類を持ち上げた。龍之助の目線も上にずれる。由比は書類を折っては千切りと繰り返した。

「……はい、証拠隠滅っと。で、改めて言うけど、速やかに伝言と殴る回数を申告しなさい」

 細かく千切った書類をジャケットに詰め込む由比に、龍之助は首を振って答えた。

「いいんです。そういうことは、その……」

 龍之助は言葉を濁す。由比は自分の髪を片手で掻き乱した。

「……まぁ、捕まえたらまた連絡するわねん。それでいい?」

 龍之助はこっくりと頷く。由比は笑顔を作ると、頬杖を突いて龍之助の表情を窺った。

「さてと、これで私の話はおしまい。せっかくの休日をぶちこわしちゃったお詫びに、君にはなんと美人のお姉さんとデートをする権利がありますが?」

 魅力的な誘いにも、龍之助は無反応だった。ぼそぼそと小声で呟きながら、その目線は宙を泳いでいる。由比は眉根を寄せて、頬を膨らませる。

「君ねぇ、こんなチャンスめったにないんだからねぇ?」

「えっ、あ、ああ、その……あの、まだ早いんで、その、友達と合流しようか、なんて……」

 龍之助はどこか浮ついた様子で返事を返す。由比はそんな龍之助をじっと見詰めていたが、やがて溜め息をついて立ち上がった。

「……それがいいかもねん。かっこつけてたって、損するだけ。楽しんできなさいな」

 由比は龍之助の肩を軽く叩く。「みんなによろしくねぇ」由比はそう言い残すと、マヌカンを後にした。一人残された龍之助は、ぶつぶつと呟きを続けたまま、携帯端末を取り出した。


 由比と別れた龍之助は、閑静……というより、寂れた住宅街を歩いていた。龍之助はどこでも行こうと思っていたが、書類に書かれていた住所は徒歩でいける距離だった。その事実は、いくらかは龍之助の気持ちを軽くしたに違いない。遠隔操作は設備と技術さえあれば、どこからできる。最悪、海外という可能性もあったのだから。

 龍之助は物覚えの良い方ではなく、暗記が特に苦手だった。そんな龍之助が、短時間で住所を暗記できたのは奇跡に近い。だが、それで喜んでいるわけにもいかなかった。

 龍之助は高層マンションを見上げる。建物ばかりが立派だが、生活感が感じられない建物。住宅というよりは、商社が借り受けたオフィスビルといった印象である。

 龍之助は怯む心を奮い立たせ、ロビーへと入る。がらんとした空間。本当に誰か住んでいるのだろうかと、疑いたくなるほど静まり返っている。

 ロビーの奥は、自動ドアで閉ざされていた。暗証番号を入力するか、家主に招き入れてもらうしか、入る術は無い。これは龍之助も予想していたので、そこまでの落胆はなかった。

 龍之助は操作盤の前でしばらく躊躇っていたが、決心したように指先でボタンを押し、反応を待つ。カメラの黒いレンズに睨まれ、龍之助は居心地の悪さを感じた。

 一回目は反応がなかった。続いて二回目、三回目と続ける内、留守ではないかと疑念が浮かぶ。また日を改めて……そう思う気持ちを、龍之助はぐっと堪えた。またという日が来るとは、龍之助には信じられなかった。またという言葉で、逃げたくはなかった。龍之助は何度も呼び鈴を鳴らした。その数が二桁を超えた時、男の不機嫌そうな声が響いた。

「うるせぇなぁ、何なんだよ、お前は!」

 その声は乱暴で苛立ちがまじり、親しみの欠片も認められなかったが、龍之助は安堵した。

「藤島一樹さんですね?」

 沈黙。人違いなのだろうか……龍之助は額に滲んだ汗を、手の甲で拭った。

「……お前、何なんだよ? セールスか?」

 警戒の声色。疑われている……そりゃそうだろう、龍之助は苦笑いを浮かべた。

「違います。僕は、あなたと話がしたくてきたんです」

「話だぁ? 俺は話すことなんてないね。第一、お前誰なんだよ?」

「僕は……守屋龍之介と言います」

「知らねぇな、新手の詐欺か何かか? あんましつこいと、警察呼ぶぞ? あぁ?」

 龍之助の丁寧な態度に触発されたのか、藤島は言葉に余裕が生まれていた。自分はお前よりも偉い……そういう意思を端々に忍ばせた、高圧的な物言い。

「呼べるんですか?」

 龍之助はとっさにそう反論した。すぐにしまったと思ったが、口を突いて出た言葉を今更引き戻すことはできない。龍之助の意味深な言葉は、藤島の耐え難い不審を誘った。

「……お前、何なんだよ、ほんとにさ?」

「詳しい話は、実際にお会いしてからさせていただきます」

 自分にしては上出来な切り返しだ……龍之助はそう思った。不安を感じるには充分なほど、たっぷりと長い沈黙のあと、突然回線が切られた。駄目だったか……龍之助が肩を落とすと、自動扉が音もなく開いた。それが意味することはただ一つ。龍之助は扉の奥へと駆け込んだ。まずは、第一関門突破。龍之助は藤島の部屋番号を捜し求めた。

 龍之助が部屋の前に立つと、呼び鈴を鳴らす前に扉が開いた。藤島は歓迎の意を示すことなく龍之助を室内に上げると、リビングまで誘導する。藤島は座り心地の良さそうな椅子に深々と腰掛け、龍之助は藤島に言われるまま、革張りのソファに腰を下ろした。

「で、話ってのは何なんだよ?」

 席に着くや否や、藤島は鋭く尋ねた。色白で痩せた、よく言えばスマートな青年。無機質なのは部屋の内装だけでなく、着るものも洗いざらしのシャツにジーンズと味気ない。龍之助は背筋を伸ばし、呼吸を整えてから言葉を紡いだ。

「あなたは先月、アンドロイドを操って、マヌカン天照駅前支店に押し入りました」

「……さぁ、覚えがないなぁ」

「マヌカンに入ったあなたは、次々とドールスタッフを壊していきました。あなたは知らないでしょうが、彼女達には名前があったんですよ? エミリー、サラ、マリアってね」

 藤島の言葉を聞き流し、龍之助は先を続けた。藤島は無視されたことで、表情を歪めた。

「それが何だってんだよ? そんなの知るわけないだろ、そんなとこ、行ったこともな……」

「そこであなたは、一人の女の子を傷つけました」

「おい、お前、黙れよっ!」

 藤島は立ち上がり、龍之助を見下ろした。龍之助は顎を上げ、しっかりと藤島を見詰める。

「黙りません。僕はこれを言うために、ここまで来たんですから」

「誰に聞いてきたんだ、あぁ? 仕事の依頼じゃねぇのか?」

 藤島は強面で龍之助に迫る。いつもなら、怖くて視線を背けたくなるような表情だったが、龍之助は自分でも驚くほど冷静だった。

「あなたが傷つけた女の子は……」

「黙れって言ってるだろうが!」

 藤島は龍之助の髪を掴み上げた。龍之助は痛みに顔を顰めながらも、大声で叫んだ。

「死にましたっ!」

「……何ぃ?」

「あなたが、殺したんだ! 僕の、幼馴染を!」

 男は呆気に取られたような表情を浮かべていたが、やがてそれが笑みに変わった。

「お前、バカか? そんな見え透いた嘘、誰が信じるっていうんだよ?」

「あなたが信じる、信じないなんて関係ない! 紫苑はあなたに殺されたんだから!」

 藤島は龍之助の髪から手を離し、椅子に戻った。深々と腰を落とし、龍之助を睨みつける。

「……で、何だって?」

 藤島はさっきまでとは打って変わって、酷く冷静な口調で、龍之助に語りかけた。その変わり身の早さに、龍之助は動揺を隠せなかった。だが、ここで怯むわけにはいかない。

「……僕はあのとき、現場にいたんです。あなたが紫苑を殺す瞬間を、この目で目たんです」

「ああ、あのときのうるさいガキか……」

 男は納得がいったという風に、何度も頷いた。そして、再び口を開いた。

「……で、結局何が言いたいんだ?」

 龍之助は答えに窮した。それは、龍之助が全く予期せぬ答えだった。犯人に紫苑の死を知らせる。これは、自分がやらなければならない使命だと思っていた。アンドロイドを介して間接的に起こした殺人であり、本人に自覚がないことは、覚悟していた。だからこそ、真実を明かす必要性を感じていたのだ。取り乱すにしろ、否定するにしろ、もっと過激な反応が返って来ると、龍之助は思っていたのだ。まさか、犯人から問い返されることになるなんて。

「何がって……わからないんですか? あなたは、人を殺してるんですよ?」

「まぁ、お前の言う通りなら、そうなんだろうな。で、それがどうしたっていうんだ?」

 龍之助は絶句した。なぜ人の命を奪ってはいけないのか……それを、自分より十歳も年上の男に説明しなければならないのか。龍之助が眩暈を覚える間にも、藤島は先を続けた。

「そんなことより、あの女のことを教えてくれよ。グラサンつけた姉ちゃんだよ。あいつがお前に色々入れ知恵したんだろ? 警察か何か?」

「そんなことってなんだよ!」

 龍之助は弾かれたように立ち上がった。紫苑の死が。紫苑の人生を奪った行為が。そんなことの一言で片付けられた。他でもない、その命を奪った張本人が片付けたのである。

「あなた、何も思わないんですか! 人を殺しても、謝罪の一言もないんですか!」

 龍之助は感情に任せて言い放つ。だが、藤島は頭を掻きながら、めんどくさそうに答えた。

「なんだ、結局謝って欲しかったのか?」

 その言葉を聞いたとき、龍之助は体の力が抜けていくのを感じた。自分の声が、届かない。

「……自首、してください。少しでも……紫苑の死に責任を感じているのなら」

 龍之助は何とかそれだけ言うと、椅子に腰を降ろした。

「俺が自首したって、どうなるもんでもないだろ?」

 藤島はご丁寧にも、そう付け加える。そんなことは、龍之助は分かっていた。百も承知だ。だが、それをあんたに言われたくない……龍之助は声にならない叫びを上げた。

 出口のない迷路に迷い込んだかのような沈黙。これ以上、自分には何もできない……龍之助はそんな気持ちを噛み殺し、何か言葉を続けようとしたが、藤島が先に口を開いた。

「わかった」

 龍之助は顔を上げた。余りにも意外な言葉だった。聞き間違いだとも思った。だが、「支度するから、待ってな」そう言い残して、藤島は部屋の奥へと消えていった。

 自分の思いが届いたのだろうか? ……そう考え、龍之助は首を振った。藤島が紫苑の死に対して、何ら思うことがないことは明らかである。人を殺した、という自覚や実感もなかったはずだ。むしろ、自覚と実感があった上での態度だったとしたら……龍之助は寒気を覚えた。

 龍之助は、命は大切なものだと思っていた。それを疑うこともなかった。そして、それは誰もが抱く真理だと信じていた。しかし、そうではなかったと、思わずにはいられなかった。

 なぜ人が人の命を奪うのか。命を危険にさらすことを厭わないのか。龍之助は、その理由を垣間見た気がした。決して、見たいものではなかったが。

 藤島が消えた部屋の扉が開き、一人の男が出てきた。その姿は、藤島のものではなかった。だが、龍之助には見覚えがあった。二メートルに近い巨体。日本人離れした彫り深い顔立ち。身にまとうのは、暗い色をしたロングコート。それは、あの日マヌカンに現れた男だった。

「逃げなかったのか? ほんと、救いがたい馬鹿だなぁ?」

 男の口から、姿に見合った低い声が響く。だが、その台詞はどこか浮ついたものであった。まるで、日本語吹き替えの洋画のようである。流暢な日本語を操る、登場人物達。

 龍之助は突然、笑いの発作に襲われた。大男は、その冷たい眼差しを龍之助に向けている。

「……何がおかしいんだ?」

「はは、いやぁ、その、ほんとに、僕は馬鹿だなぁと、思いましてね」

 そう言う龍之助の表情は、どこか安らいで見えた。そのことが、藤島の癇に障った。

「いいんだぜ、もっと笑っても。どうせ、もう笑えなくなるんだからよ」

 あからさまな脅しにも、龍之助は堪えた様子は無かった。

「僕は馬鹿だけど、あなたほどじゃない」

「何だと?」

「僕は、自分がいつか死ぬということを知っている。だけど、あなたは自分が、自分だけは死なないと思ってるんだ。だから、他人の命をいくら奪っても平気なんだ」

「何言ってんだ、人が死ぬのは当たり前のことだろ?」

「でも、それが今だとは思ってないでしょう?」

「当たり前だろ! 何で俺が死ななきゃ……」

 言葉はそこで閉ざされた。もう、喋るのも煩わしいほどに、藤島は苛立ちを感じていた。大男が龍之助の前に立つ。そして、拳が高々と振り上げられた。

「お前、うるさいんだよ」

 拳が振り下ろされる。その軌跡を、龍之助は微笑を湛えて見詰めていた。何で挑発するような言動をしてしまったのか……そう思うと同時に、この状況を心のどこかで望んでいたのではないかと考え、龍之助は新鮮な驚きを感じた。まさか、自分に自殺願望あったなんて。

 そして、龍之助の世界は暗転した。

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