- 久遠のシオン -

- Episode 14 -「今という永遠」

 小雨舞う深夜。眼下には眠りを知らない繁華街の明かりが、鮮やかに広がっていた。

 とあるビルの屋上。そこに、紫苑の姿はあった。長年閉ざされていた、屋上へと続く扉の前には、赤錆く錆びた鉄の鎖……その残骸が散らばっている。

 自殺防止用にと、張り巡らされた金網。その外側で、紫苑は足元を見下ろしていた。足裏の三分の一……つま先の下には何も無く、地面までは数百メートルの開きがあった。

 紫苑は金網を掴んだまま、じっと立ち尽くしている。チェックのスカートが風になびく。

 ……私は自分のために、墓に眠るもののために、何ができるというのだろう。その答えは、何度考えてようとも、一つしかなかった。全てを精算し、正す必要があった。

 そのための方法を、紫苑は探した。一番手っ取り早く、かつ確実な方法。そして、周囲に余り迷惑をかけない方法……それらを考慮した結果、紫苑の足はふと目についた雑居ビルへと向かった。その高さが、紫苑には充分だと思えた。自らを終わらせるためには。

 残業中なのか、ビルの窓には複数の灯りが見える。だが、部外者が屋上へと登っていく可能性を考えるものはいなかった。紫苑はあっけなく屋上へと辿り着き、唯一の障害であった鎖も簡単に引き千切る。紫苑にはそれができると思っていたし、体もそれによく応えた。それが今の自分、不自然な自分なのだと、紫苑は改めて実感した。

 金網をよじ登ることも、紫苑には容易いことであった。運動神経には昔から自信があった。体を動かすことが大好きだった。当たり前なことが、楽しかった。

 ビルの縁から見渡す景色は、天照市を一望できるほどではない。ただ、その一部を視野に納めることは出来た。雨色のカーテンから覗く幻想的な煌きに、紫苑は見惚れていた。

 後は、ここから足を踏み出すだけでよかった。足元の闇に眼を凝らしても、そこに人の歩みは見えない。タイミングとしては、申し分なかった。

 恐怖はなかった。きっと、それが正しいことだからだと、紫苑は思った。気になるのは、これで自分を終わらせることができるのか……という一点である。自分の体がどれほどの強度なのか、紫苑には推し量ることもできないが、少なくともこの高さから投げ出されば、何か致命的なことが起こるであろうとは、漠然と想像することができた。いずれにせよ、試してみれば分かることである。これ以上、状況が悪化するとは思えなかった。

 どれぐらい、時間が経ったであろうか。紫苑はじっと眼下を見下ろしたまま、彫像のように固まっていった。雨は上がり、薄っすらと光が差し込んでいる。夜が明けようとしていた。

 早く、飛び降りなければなばらない。紫苑の考えとは裏腹に、身体は動かない。自分が紫苑であるためには、飛び降りなければならない。……さぁ、飛ぶのよ! 飛びなさい! 紫苑は自分に言い聞かせる。だが、踵はビルの縁にへばりついたまま、離れることはなかった。

 すっかり夜が明けた天照市に、朝の空気が満ちていく。明るい日差し。一日の始まり。それは、生命の営みを強く感じさせる光景であった。

 ……羨ましい。紫苑は思った。目前に広がる命は、自分にはないものだ。自分は影。紫苑の命が残した影。その命が消えた今、影だけが逃げ回っているのだ。

 紫苑は飛べなかった。足先に見えるゴールへと、身を委ねることができなかった。それは、理性を超えた本能の理であった。紫苑は金網に寄りかかると、弱々しく呟く。

「……死にたくないよ」

 それが、心からの想いであり、願いであった。


 紫苑が失踪した翌日。守屋家のリビングには、五名の学生が集まっていた。

 長方形のテーブル。龍之助の左手には正人、向かいには奈津子と深雪が並んで座っている。いずれも私服姿で、龍之助は長袖に長ズボン。正人は構成こそ龍之助と同じだが、こだわりが随所に見られた。奈津子はパーカーにタイトなジーンズ。深雪は大人しいワンピース。

 それぞれの前には紅茶が湯気を立てているが、誰も口をつけようとはしない。

 重苦しい雰囲気の中、居心地悪く上座に腰掛けるのは、制服姿の小虎だった。小虎はいつも通り学校へ行く予定だったが、玄関から出たところで、先輩方に鉢合わせしたのである。

「……いつまで、黙っているつもりだ?」

 龍之助を横目に、正人が口を開いた。その声に促され、ようやく龍之助は口を開いた。

 マヌカンの事件から始まり、久留美との再会、紫苑に施された処置へと、話は続いていく。だが、小虎は信じることなどできなかった。……紫苑姉ぇが、アンドロイドだなんて……。

「どうして、黙っていた?」

 正人の問い掛けに、龍之助は答えることはなかった。すると、正人は眼を閉じて頷く。

「そうか」

 正人は席を立つと、龍之助の両肩を掴んで引き立たせ、その顔を拳で殴りつけた。龍之助は床に倒れる。衝撃で跳んだ眼鏡が床の上を滑り、食器棚に当って止まった。

「龍兄っ!」

 いち早く動いたのは小虎だった。椅子を蹴るように立ち上がると、兄のもとへと駆け寄る。龍之助は頬を押さえたまま体を起こし、手の平を向けて小虎を制した。

「すまん」

 正人は型通りの謝罪を述べた。龍之助は頬を擦りながら、涙の滲んだ瞳で正人を見上げる。

「……でもな、こうせずにはいられなかった。その理由、分かるか?」

 龍之助は答える事ができなかった。何もかもが理由であるような気がしたからだ。

「俺には、神崎さんの死を悲しむ権利もないっていうのか?」

 続く正人の言葉に、龍之助は驚きを隠せなかった。頬の熱い痛みも、一瞬だけ消える。

「悲しみまで、お前だけのものだっていうのか?」

「そんな……」

 龍之助は首を振った。そんなつもりはなかった。では、なぜ隠そうとしたのだろう?

「真実を知るのは辛いさ。くそったれな現実なら尚更だ。でもな、俺はそれすらも知らなかったんだぞ! 神崎さんが死んだのに、無事で……良かったと、俺は、俺はなぁ!」

 正人は拳を高く振り上げた。固められた拳が小刻みに震えている。だが、その拳がテーブルに落とされることはなかった。正人は肩の力を抜いて拳を下ろすと、溜め息と共に開いた。

 龍之助は両手を床に突いた。自分の味わった深い悲しみ、無力感を、誰にも味あわせたくなかった。だから、それらを遠ざけてしまおうと思った。だが、それは全くの逆効果だった。

「……まぁ、何ていうかさ」

 息詰まる沈黙を破ったのは奈津子だった。静かに席を立つと、食器棚に歩み寄り、腰を曲げて龍之助の眼鏡を拾い上げる。曲がったフレームを指先で整えながら、先を続ける。

「私も色々言いたかったんだけど、おいしいところを全部持ってかれちゃったからね」

 奈津子が振り返り、正人に視線を向けた。正人は憮然として顔を背ける。奈津子は溜め息をつくと、数歩で龍之助の前に立ち、膝を曲げて腰を落とした。

「一人で抱え込むんじゃないの」

 奈津子は両手に持った眼鏡を龍之助に差出す。龍之助は眼を瞬かせながら、眼鏡を両手で受け取り、かけ直した。間近に迫る奈津子の顔には、意外にも微笑が浮かんでいる。

「辛かったでしょ? 私から見ても不器用なんだから、あんた、相当なもんだよ」

「門前……さん?」

「死なんてもんはね、一人で耐えるものじゃないし、耐えられるものでもないよ。だからさ、正直に言ってくれればよかったんだ。そしたらさ、皆で泣いてあげるからさ」

 それが慰めの言葉であることを龍之助が理解するには、しばらくの時間が必要だった。龍之助は言葉に詰まり、溢れる涙を堪えながら、やっとの思いで頭を下げる。

「ごめん……なさい」

 項垂れる兄の姿を呆然と見詰めながら、小虎は誰にともなく呟いた。

「それじゃ、本当に紫苑姉ぇは……」

 その問い掛けに答えるものはいなかったが、それが何よりも真実を物語っていた。

「……そっか」

 小虎はあっさり答えると、取り憑かれたように走り出した。リビングを飛び出し、自室へと向かう。乱暴に閉められた扉が、大きな音を響かせた。気まずい沈黙の中、深雪が呟く。

「……今の紫苑ちゃんは、どこに行っちゃったのかしら?」

 三人の視線が、深雪へと注がれる。奈津子が呆れたように声をかけた。

「深雪、あんた……」

「でも、気になりません? だって、あの子も……紫苑ちゃん……なのですから」

 奈津子は返答に窮し、視線を正人に向ける。正人はむすっと黙り込んだままだ。

「……僕が、探してくるよ」

 視線が龍之助に集まる。龍之助はゆっくりと立ち上がった。赤味がかっていた左頬は青痣となりつつあり、見るからに痛々しい。奈津子は腰に手を当てて頷く。

「よし、手伝うよ」

「私も行きますわ。早速、爺に連絡して……」

 深雪の言葉は、龍之助が首を振ったことで中断された。奈津子が怪訝そうに眉を曲げる。

「守屋、あんた私の言ったことちゃんと聞いてた? またそうやって……」

「……心当たりでもあるのか?」

 正人が重い口を開いた。龍之助は正人をまっすぐと見据えると、大きく頷いた。

「ある。だから、僕が行く」

 正人と龍之助、視線の交錯は続いたが、やがて正人が眼を閉じたことで終わりを告げた。

「……最初から、そういえばいいんだよ」

 正人は口元に笑みを浮かべると、眼を開けて歩き出した。ハンガーに掛けられていた上着に手をかけつつ、振り返って奈津子と深雪に声をかける。

「さっ、そろそろお暇しようぜ。後は龍之助に任せてさ」

「ちょ、ちょっと菅原、それでいいの?」

 奈津子の問い掛けに、正人は上着に袖を通しながら答える。

「いいも悪いも、それしかないだろ?なぁ?」

 正人が顔を向けると、龍之助はぎこちなく笑みを返す。奈津子は二人を見比べた。

「……これだから、男って奴は」

「まぁまぁ、いいじゃありませんか」

 いつの間にか座っていた深雪は、小指を立ててカップを持ち、口元で傾けている。奈津子は苦々しい表情で深雪を見下ろすと、自分のカップを取り上げて、一気に煽った。

「あら、もう帰っちゃうの?」

「ええ。お邪魔しました」

 玄関から虎子と正人の話し声が聞こえてくる。奈津子はカップを置くと、優雅にお紅茶をすする深雪の襟首を掴み上げた。

「ほら、私達もいくよ!」

「あぁん、まだ残ってますのに……」

 名残惜しそうにカップを見詰める深雪を、奈津子は構わず引っ張って行く。そして、龍之助の目前を通り過ぎてから足を止め、振り返った。龍之助に緊張が走る。

「……守屋、しっかりね」

 奈津子は龍之助の返答を待たずに前を向き、再び歩き出す。

「紫苑ちゃんのこと、お願いします」

 奈津子に引きずられながら、深雪が龍之助に声をかける。龍之助は頷きを返した。

「……突然お邪魔をして、ご迷惑をおかけしました」

「とんでもない、またいつでもいらしてくださいね」

「はい、喜んでお邪魔させて頂きますわ。その時にはぜひ暖かい紅茶をいふぁふぁひふぁふ」

「……すいません。この娘、ちょっと図々しくて」

 玄関の扉が閉ざされると、賑やかさが一転、静けさが残る。リビングに現れた虎子が、笑顔のままカップを片付け始めた。龍之助は誰もいなくなった玄関を見詰めている。

「良いお友達じゃない。お母さん、嬉しいわ」

 龍之助は心の底から頷いた。自分の周りには、こんなにも暖かい人達がいる。

「遅くなるようだったら、ちゃんと連絡するのよ?」

 龍之助は振り返った。虎子は優しい笑みを浮かべている。龍之助はばつが悪そうに答えた。

「……聞こえてたんだ」

「もちろんよ。可愛い息子が殴られる姿は、何度も見たいものじゃないわね」

 龍之助は思わず左頬に手を伸ばした。膨れた感触。

「小虎は私に任せて。龍之助は、紫苑ちゃんを」

 龍之助は頷き、玄関へと向かった。


 守屋家を辞した三人は、どこへともなく歩いていた。まだ昼前だが、これから学校へという気分にはなりようもなかった。言葉を交わすわけでもなく、かといって離れるわけでもない。

「それにしても、あんたがねぇ……」

 奈津子は腕を組むと、隣を歩く正人を横目で見た。正人はまっすぐ正面を見据えている。奈津子も視線を正面に戻した。しばらくの沈黙。そして、奈津子が再び口を開いた。

「紫苑のこと……好きだったんだね」

 正人は苦笑いで応える。お似合いのカップルだと、周囲からは言われていた二人。だが、現実はそこまで単純でも、幸せでもなかった。そのことが、正人の笑いには現れている。

「つまり、なっちゃんと同じということですわね」

「何がっ!」

 深雪の言葉に、奈津子は振り返って吼える。すると、深雪は眼を丸くして答えた。

「あら、なっちゃんは紫苑ちゃんが嫌いですの? 私は大好きですけれど?」

 奈津子はぐうの音も出ないまま、正面を向きなおした。頬が赤く染まっている。

「まぁ、最初から無謀だとは思っていたけどな」

 正人があっさりとした諦めを口にする。奈津子はその口調が気になり、噛み付いた。

「そう? 全くの脈なしってわけじゃ、なかったんじゃない? あんた、見てくれもいいしさ」

「そういうことでどうにかなるなら、どうにかしてるんだがなぁ」

「……まぁ、そうだろうね」

 奈津子はうんざりしたような表情を浮かべた。一瞬でも同情した自分が、愚かに思える。

「でもな、俺には神崎さんがどこに行ったのか、見当もつかないんだよ」

 奈津子は黙り込む。それは、自分も同じだった。もちろん、紫苑が好きだった洋服店や雑貨屋、他にもアルバイト先や一人暮らしをしている自宅などは思い浮かぶ。だが、それらが今、紫苑の行き先だとは思えなかった。そうした思いの中、奈津子はようやく言葉を返した。

「それは、大きな差……だね」


 龍之助がまず足を向けたのは、天照霊園だった。だが、そこに紫苑の姿はなく、変わり果てた墓石があるのみである。それが、人の手でなしえるものでないことは、明らかであった。

 心当たりはまだある。名前も住所も忘れてしまったが、龍之助は敢えてそれを調べようとはしなかった。自らの記憶に身を委ね、歩き始める。それこそが、正しい道だと信じて。

 龍之助が紫苑と出会ったのは十年前。当時の龍之助は、図書館通いが日課だった。お目当ての絵本や児童書を求めて、遠く離れた図書館までえっちらおっちら通いつめたものである。

 その日も、図書館の帰りだった。通りかかった公園で見かけた少女。それが、紫苑だった。龍之助はまだ眼鏡をかけておらず、遠くからでもその姿がはっきりと見えた。

 龍之助の目には、その少女がとても辛そうに見えた。楽しいはずのブランコに、あんなに、も悲しそうな顔をして腰掛けている子を見たのは、生まれて初めてだったのである。

「女の子には優しくしなくちゃ駄目よ? 龍ちゃんは、お兄ちゃんなんだから」

 母親の言葉が蘇る。そう、龍之助はお兄ちゃんだった。去年生まれた妹は、兄を兄とも思わぬ暴君振りだったが、それでも、守るべき存在であることに変わりはなかった。

 そうした使命感も手伝って、龍之助は少女に声をかけようと決意する。だが、そこから先が長かった。理想と現実の差に、幼いながらも打ちひしがれることになる。

 勇気を出して隣のブランコに腰掛けたものの、声をかける勇気がない。何だか恥かしいし、何と声をかけていいかもわからない。だが、間近で見る少女の横顔は、とても儚げに見えた。それをどうにかしたいと、龍之助は強く願ったのだが、願うばかりでは何も変わらなかった。

 やがて、龍之助は泣き出してしまった。慰める側が泣いてしまっては世話が無い。しかし、いくら言葉を尽しても、彼女の悲しみを拭うことができない……その現実に涙が溢れた。

 そんな龍之助に、優しく声をかけたのは紫苑。その表情から、悲しみは消えていた。方法はどうあれ、龍之助は紫苑の笑顔を勝ち取ったのである。それは、ささやかな勝利であった。

 龍之助が図書館を見つけたとき、陽はすでに傾き始めていた。おぼろげな記憶が、年期の入った外壁と重なった瞬間、龍之助の足取りから迷いは消えていた。

 そして辿りついのは、小さな公園だった。ジャングルジムも、滑り台もない。遊具といえば二席並んだブランコぐらいである。その一席に、紫苑は腰掛けていた。


 子供用のブランコに座るには、紫苑の身体は大きくなり過ぎていた。それでも、小さく膝を折り畳み、紫苑は器用に腰掛けている。伏し目がちな眼差しの先には、乾いた土の地面。

 龍之助は公園に足を踏み入れると、まっすぐブランコへと向かった。龍之助にもブランコは小さく、上手に座れる体勢を見つけるまでには少しの時間がかかった。

 言葉を交わさぬまま、時間だけが過ぎていく。やがて、紫苑が機械的に口を開いた。

「……よく、わかったね」

「うん」

 龍之助は簡単に答える。言葉が途切れる中、紫苑はさらに一歩踏み込んだ。

「私、ここに来ちゃ駄目だと思ってた。だけど、来ちゃった」

「何で……」

「私が、偽者だから」

 偽者。その言葉は、見えざる重しとなって龍之助の心にまとわりついた。

「……ねぇ、教えて。私は……一体何なの?」

 紫苑の問いに、龍之助は途切れ途切れ言葉を紡いだ。紫苑はその一つ一つに頷きを返す。龍之助は時間をかけて全てを語り終えると、安堵に似た溜め息をついた。

「……やっぱり、お母さんが関わってたのね」

 紫苑の呟きは、龍之助の意表を突くものだった。

「色々と考えてみたんだけど……こんなことをしそうな人って、お母さんしかいないもんね」

 龍之助は頷きを返すこともできずに、ただじっと、紫苑の言葉に耳を傾けていた。

「あとは、誰かさんとね」

 紫苑は付け加える。「誰かさん」は、顔を強張らせたまま、黙り込んでいた。

「私の体、久遠っていうのね。本当に、よく出来てるわ。私にそっくりだもん」

 紫苑は小さく笑った。だが、その笑いに答えるものはなく、紫苑は表情を堅く改めた。足元を見詰める眼差しは、まだ一度も隣へと向けられていない。それは、龍之助も同じだった。

「……何しに来たの?」

「迎えに、来たんだ」

「誰を? それとも、何を?」

 沈黙。紫苑は辛抱強く答えを待っていたが、やがて痺れを切らしたように先を続けた。

「久遠を迎えに来たなら、私、いくよ。でも……紫苑を迎えにきたのなら……私は……」

「君は紫苑じゃない」

 紫苑は眼を見開いた。龍之助も口をついて出た言葉に戸惑う。そんなことを、言うつもりはなかった。何よりも恐れていた言葉。退路を失った龍之助は、同じ言葉を繰り返した。

「君は、紫苑じゃない」

 紫苑は問い質すこともなく、ただ、龍之助の言葉に耳を澄ます。

「紫苑じゃない誰かが、紫苑になることはできない。そんなことが、僕は信じられなかった。だけど、今なら信じることができる。……随分と、遠回りしちゃったけどね」

 紫苑はスカートの裾を強く握った。龍之助が言っていることは、当たり前のことだった。当たり前すぎて、疑う必要もなかった摂理。それ故に、紫苑は悲しかった。

「でも、これだけは言わせて欲しい。君は、望まれてここにいるんだ。君は紫苑にはなれなかったけれど、僕は君にいて欲しいと思っている、君がいて良かったと……」

「勝手なこと言わないでよ!」

 紫苑はそこで初めて声を荒げた。鋭い視線を、龍之助の横顔に向ける。

「私が紫苑じゃないなんて、そんなの、言われるまでもないわよ! それにね、龍之助はそれでも良いって、私が紫苑じゃなくても良いって言うけどね、私は、私はね、誰が何と言っても、紫苑なんだよ? そうじゃないって、この手が、体が、いくらね、自分は紫苑どころか、人間じゃないって訴えても、私は、私の記憶は、どうしようもなく紫苑なんだよ?」

 紫苑は黙り込む龍之助から眼を逸らした。歯を食い縛り、搾り出すような声で呟く。

「……ずるいよ。龍之助はずるい」

 紫苑は何度も「ずるい」と繰り返した。そして、繰り返すほどに声から力が抜けていく。

「ずるいよぉ……」

 最後には、もう泣き声であった。だが、紫苑の瞳が涙に濡れることはなかった。龍之助は意を決したように腰を上げ、紫苑の前に立った。差出された右手を、紫苑はじっと見詰める。

「帰ろう」

「……どこへ?」

「僕の家さ。母さんが待ってる。それに、小虎も」

 紫苑は小さく頭を振った。そして、僅かに微笑を浮かべる。

「私は……行けないよ。だって、私は……」

「君は紫苑じゃない。だけど、紫苑なんだ」

 龍之助の矛盾した物言いに、紫苑の微笑が苦笑に変わる。

「……何それ?」

「その……うまく言えないけど、君が、紫苑じゃないってことは……事実だ。でも、君が自分を紫苑だと思っているように、僕にとって、君は……やっぱり、紫苑なんだよ」

 龍之助は唇を堅く引き結び、不安そうに、だがしっかりと、右手を差出している。

「よし、そこまで言うなら、帰ってあげよう……なんてね」

 紫苑は龍之助の手に自らの手を重ねようとして、躊躇った。夕日を赤く照り返す右手。龍之助は逃れようとする紫苑の手を、しっかりと掴んだ。冷たい感触にも、龍之助は怯まない。

「……やっぱり、君は紫苑なんだ。誰が何と言おうと、君は……」

「わかってる」

 紫苑は龍之助の言葉を遮ると、そっと手を握り返した。そして、すっくと立ち上がる。

「だから、帰ろっ」

 その屈託のない笑顔は、紛れもなく紫苑のものだった。そう、龍之助は思った。


 守屋家で龍之助と紫苑を待っていたのは、テーブルを埋め尽くす料理の山だった。

「小虎ちゃんと一緒に頑張ったのよ~!」

 にこにこと嬉しそうに語る虎子。その傍らで小虎は複雑な表情を浮かべていた。ちらちらと視線を紫苑に向けるものの、視線が合うと慌てて顔を背ける……その繰り返しである。

 紫苑は食べることができない……そう息子から説明されると、母親と娘は顔を見合わせた。

「だから言ったじゃないっ! どーするのよ、こんなに作っちゃって!」

「そんなこと……小虎ちゃんだって、ノリノリだったじゃない?」

 龍之助は溜め息をついた。虎子と小虎。この二人が揃って、丁度良くなった試しなどない。単身赴任中の父親の姿が、妙に懐かしく思い出される龍之助だった。

「……ごめんなさい」

 紫苑が頭を下げると、虎子と小虎は紫苑に顔を向けた。ゆっくりと頭を上げた紫苑は、テーブルに並んだ料理の数々を見渡す。寿司、ステーキ、酢豚、カルボナーラ、カレー……等々。

「こんなにたくさん作って貰ったのに……食べることができなくて……」

 しゅんとする紫苑の隣で、龍之介はばつが悪そうに眼鏡の位置を直した。小虎は泣きそうなほど狼狽していたが、虎子は落ち着いた笑みを浮かべ、紫苑に優しく話しかけた。

「紫苑ちゃん、気にしなくていいのよ。料理は気持ちだから」

「でも……」

「いつか、食べれるようになるといいわね」

 ……いつか。私に、そんな日が来るのだろうか。紫苑は自分の未来という考えに、新鮮な驚きを感じた。私にも、いつかは来るのだろうか。

 虎子の言葉は、龍之助の心にも響いた。決して遠くない未来、必ず訪れる、紫苑との別れ。それは決定事項だと、由比は語っていた。覆ることのない、未来であると。

「いつかじゃなくて、今ならなぁ」

 小虎が呟く。それは、心からの言葉だった。いつかなんて、いつ来るか分からないもん。

「ふふ、じゃあ、今を楽しみましょう!」

 虎子の言葉が合図となり、夕食が始まった。もっぱら食べるのは龍之助と小虎、そして虎子である。その横で、紫苑は手持ち無沙汰な様子で、食事風景を眺めていた。龍之助と小虎は、気まずそうに食事を食べ進む。そんな子供達を見かねたように、虎子が声を上げる。

「ほらほら、そんな暗い顔をしないの!」

 龍之助は思わず紫苑に視線を向けた。紫苑は笑顔を作って首を振る。

「ううん、私のことは気にしないで!」

 紫苑は明るく答える。だが、龍之助と小虎は気にせずにはいられなかった。

「みんな、いいこと? 今という時はね、永遠なのよ」

 虎子の言葉に、周囲の視線が集まる。虎子は一人一人を見渡し、ウインクをして一言。

「どんな時だって、今はくるでしょ?」

 虎子の言葉に、三人は顔を見合わせた。過去は過ぎ去った今、未来はいつかくる今である。神妙そうに見詰め合う三人を代表して、小虎が虎子に聞き返した。

「……それって、今が良ければいいってこと?」

「その通り!」

 虎子は元気よく答え、龍之助と小虎からは力が抜けていった。だが、紫苑はその言葉に天啓を受けたのか、考え深げに頷く。そして、紫苑は行動を起こした。

 紫苑は箸を持ち上げると、車海老のフライを挟んだ。そして、龍之助のあんぐりと開いた口の中に放り込む。龍之助はとっさに口を閉じ、もぐもぐと口を動かしたあと、飲み込んだ。

「おいしい?」

 紫苑は小首をかしげて訊ねる。

「そりゃ、おいしいけど……突然どうしたの?」

「だって、私は食べられないから、代わりに食べて欲しいの」

「代わりって……」

「それでね、味の感想を聞かせて欲しいの。私にもちゃんと味がわかるようにね!」

「そんな……むぐっ!」

 龍之助の抗議は、紫苑によって口の中に押し込まれたブリ大根で塞き止められた。

「おいしい?」

 その後も、紫苑は龍之助に次々と料理を食べさせ続けた。その様子を呆れ顔で見ていた小虎だったが、少しずつ笑顔が増え、食卓には賑やかな笑い声が上がった。


 その日、紫苑は守屋家にお泊りすることになった。一人で暮らしているマンションに戻ったところで、出迎える人がいるわけでもない。

 紫苑はお風呂にも入った。虎子は「久しぶりに三人で入ったら?」と勧めたが、一人はそれもいいかもと乗り、一人は顔を赤くして戸惑い、一人は断固として反対した。結局、最後の意見が採用された結果、一緒に入ったのは三人の内、二人だけとなった。

 紫苑はずっと小虎の視線を感じていた。龍之助と共に帰って来た時も、食事中も、お風呂に入っている時も、小虎は探るような視線を紫苑に向けていた。……特に、銀色の右手に。

 紫苑はそのことに関して、何一つ小虎に問い質すことはなかった。そういう目で見られても仕方がないし、それは当然のことだと、紫苑は思っていたからである。小虎ちゃんが気のすむまで、何でもつきあってあげよう……そう思っていた紫苑だったので、小虎から恥かしそうに一緒に寝たいと頼まれたときも、断る理由は何一つなかった。

 小虎の部屋は、年頃の女の子らしい内装であった。どこを見ても必ず目に入る、ぬいぐるみの数々。一際眼を引くポスターには、大人気アクターのアリスとリデルの姿があった。

 大きなベッドの上。布団の中で並んだ二人は、暗い天井を見上げていた。おやすみと声を掛け合ったものの、二人ともまぶたを下ろそうとしない。時計の針が緩やかに時を刻み、その音だけが響いている。やがて、先に口を開いたのは紫苑だった。

「小虎ちゃんから見て、私はどう?」

 小虎は息を詰まらせたが、高鳴る心臓を押さえながら、平然を装って答えた。

「どうって?」

 声がうわずり、小虎は思わず布団から手を出し、口を塞いだ。顔が火照り、汗が滲む。

「ちゃんと、紫苑をやれてる?」

 小虎は言葉に迷った。即答してよいものかどうか。だが、返事が遅すぎても駄目だ。そうして思い悩んだ末に、自分では最適とは思えないタイミングで、小虎は答えた。

「紫苑姉ぇは、紫苑姉ぇだよ」

「……そっか」

 紫苑の返事から生まれた切なさをごまかすように、小虎は言葉を続ける。

「スタイルは、良くなったかもしれないけど」

「こらっ、言ったなぁ!」

 紫苑が小虎に笑顔を向けると、小虎は小さく舌を出した。打ち解けた雰囲気、だからこそ、小虎は言わなければならないことがあった。ずっと、胸にわだかまっていたしこり。

「……ごめんなさい」

 紫苑はおどけた表情を改める。それほど、小虎の謝罪には深刻な響きがあった。

「あの時……私がシフトを変わらなければ……紫苑姉ぇは……」

 紫苑ははっとして口をつぐむ。小虎の小さな肩に手を乗せると、ゆっくりと口を開いた。

「……バカね、そんなこと気にしてたの?」

「だって、だって!」

「私はね、変わってもらって良かったなって、思ってるんだ」

「えっ……?」

 紫苑の言葉を、小虎は意外に感じた。それは、思いもよらぬ言葉であった。

「サラ、マリア、エミリー……皆が傷つけられて、あなたが黙ってるとは思えないもの」

 紫苑の言う通りだった。小虎はドールスタッフの三人が好きだった。そんな三人が目の前で傷つけられたとしたら……自分は、何も考えずに犯人へと向かって行ったかもしれない。それが、他人からはどんなに愚かな選択に見えたとしても、その先に、何が待っているとしても。

 小虎はたまらず紫苑の胸に飛び込んだ。紫苑は小刻みに震える肩をそっと抱き締める。

「……よしよし、ごめんね、辛かったね」

 小虎は何度も頭を振った。紫苑は優しくその髪を撫でる。

「死んじゃって、ごめんね。本当に……ごめんね」

 小虎が泣き疲れて眠った後も、紫苑は小虎を抱き締めていた。紫苑は眠くなかった。眠りを必要としていないことも分かっていたがそれは些細なことのように思えた。それよりも、一晩中小虎の温もりを感じていられることが、幸せだと感じていた。

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