- Episode 13 -「アンドロイド」

「も、門前さん、ちょっと待って!」

「いいからくる!」

 奈津子は振り返ることなく言い放った。奈津子は龍之助の手首を掴み、容赦なく引きずる。奈津子の歩幅に合わせるため、龍之助はちょこまかと足を動かさなければならなかった。

「最近の女の子は積極的なのねぇ」

 そんな感想を述べながら、由比が龍之助の後に続く。奈津子が足を止めたのは校門の前。そこで不安そうに二人を待っていたのは、紫苑ではなく深雪であった。

「……連れてきたから、後は説明をお願い」

 奈津子の言葉に、深雪は神妙に頷いた。龍之助の前に立ち、まっすぐとその眼を見据える。

「守屋君、落ち着いて聞いてくださいね」

「九条さんまで……どうしたんですか?」

「紫苑ちゃんが、誘拐されました」

「はっ?」

 龍之助はぽかんと口を開き、周囲を見回した。確かに、紫苑の姿はどこにも見えない。

「ゆ、誘拐って、誰がそんな……」

「……武藤、武藤の大馬鹿野郎だよ」

 奈津子が吐き捨てた名前に、龍之助は血の気が引いた。武藤徹、三年生。晴嵐高校一の秀才であり、生徒会長も務めている。教員からの評価は極めて高く、信頼も厚い。まさに非の打ち所のない好青年である一方、黒い噂も絶えない人物であった。

 晴嵐高校にも存在する、不良と呼ばれる生徒達。その元締めが武藤であるという噂は、晴嵐生で知らぬ者はいない。優れた頭脳を使い、痕跡を残さずに悪事を働いているというのだ。

「紫苑が野郎共に囲まれててさ、私は助けたかったのに、菅原の奴が止めるもんだから……」

「正人が……?」

「ええ。菅原君もなっちゃんも、放課後は紫苑ちゃんの様子を遠くから見ふぇふぃふぇ……」

「……余計なことは言わんでよろしい。とにかく、今は菅原が尾行してる」

「尾行……」

 龍之助は余りの展開に頭がくらくらとした。だが、納得できないことが一つあった。

「でも、おかしいよ。僕は紫苑に校門で待っているように言ったんだから……」

 力なく頭を振る龍之助を、奈津子は腕を組んで冷ややかに眺めた。

「大した自信ね。確かに、守屋が言えば紫苑はその言いつけを守っただろうさ。じゃあ、こう言われたらどう? 『守屋が呼んでいるよ。僕達がその場所まで連れて行ってあげる』ってね」

 龍之助は絶句した。今の紫苑は与えられた情報に対し、その時適切と判断した反応を返す。そこに自分の名前を持ち出されたら……その反応は劇的なはずだ。

 龍之助の思考を断ち切るように、優雅な旋律が鳴り響いた。奈津子が制服のポケットから携帯を取り出し、画像を表示させる。そこには、険しい顔の正人が映っていた。

「……すまない、見失った」

 正人の第一声を聞いた瞬間、奈津子は泣き顔を見せたが、それはすぐに怒りと変わった。

「このすかたんっ! 『俺に任せろ』なんて威勢のいいこというから、私はねぇ……」

 奈津子は言葉に詰まる。正人が悪いわけではない。それは、充分過ぎる程分かっていた。正人は捜索を続けると言い残し、通話を着る。暗い沈黙の中、深雪がおずおずと切り出した。

「やっぱり、先生に言った方が……いえ、警察の方がいいかしら?」

「無駄よ。私達の言葉を信じるとは思えない」

「へぇ~、そのむとーってのは、そんなにヤバイ奴なのん?」

 場違いな程明るい声で、由比が奈津子に尋ねる。奈津子は由比に訝しげな視線を向けた。

「……あなたは?」

「はじめましてぇ、龍之助の美人なお姉ぇさんでぇす!」

「……まだそれで通すんですか」

 由比の返答に、龍之助は溜め息をついた。その様子に、奈津子はますます不審を強める。

「守屋、どういうことなの?」

「いや、何というか……」

「いいじゃない、そんなことぉ。それより、質問に答えて欲しいなぁ?」

 奈津子は由比をしばらく見詰めると、観念したように言葉を続けた。

「……やばいし、最低な奴よ。特に、女の子にとってはね」

 嫌悪感たっぷりの言葉に、由比は得心がいったように頷きを返した。

「それじゃ、きっつ~いお仕置きをしてあげないとねん」

 由比はそう答えると、ジャケットの内側から携帯端末を取り出す。

「武藤……何? あとは、お誕生日とか、分かればどうぞぉ~」

「……徹だったかな。誕生日なんか、知りたくもないね」

「あらら、嫌われちゃってるのねぇ。まぁそれでも……」

 由比は携帯に眼を落とし、素早く指先を走らせる。奈津子と深雪は顔を見合わせると、再び由比に視線を向ける。由比は黙々と指先を動かしていたが、ふとその手が止まる。

「……武藤徹。私立晴嵐高校三年生っと……へぇ、嫌われものなのに生徒会長なんだ?」

「先生の受けだけはいいから。表向きは優等生を気取ってるのよ」

 奈津子の苦々しい物言いに、由比はくすりと笑う。

「ま~でも、こりゃ凄いねぇ。祖父は国会議員で、父親は教育委員会の重鎮、親戚筋には警察官僚、母親は資産家の娘……と。いや~、これじゃまっとうに育つのは難しいかもねぇ」

「えっ? 何、それって、本当のこと?」

 奈津子は驚きを隠せなかった。深雪も大きな瞳をぱちくりさせている。

「手元の資料じゃ、そうなってるわねぇ。案の定、ブラックリストに入ってたわん」

 奈津子は呆然としていたが、ふと我に返ると、龍之助の耳を引き寄せた。

「……ちょっと、守屋! あんたの姉さん、何者なのよ?」

「姉さんじゃないって。由比さんは、その……」

 混乱気味の二人を差し置き、由比が携帯端末に声を流し込む。

「……そそ、すぐにまわしてねん。大丈夫よん、責任は私が持つからぁ」

 由比はそう言って通話を終えると、携帯端末を折り畳んでジャケットに納めた。

「じゃ、紫苑ちゃんを迎えにいくとしますかぁ」

 一斉に由比へと視線が注がれる。由比はにやにやと口元に笑みを浮かべている。

「迎えにって、どこに行ったかもわからないのにですか?」

 代表して龍之助が口を開くと、由比は人差指を揺らした。

「甘~いっ! ブラックリストってのは、ただ名前が載ってるだけじゃないのよん?どこでどんなおいたをしているか……そういう履歴も、ちゃんと載ってるわけ。で、この子の場合は工場跡地の倉庫みたい。何か、いかにも! って感じじゃな~い?」

 その時、校門前に黒塗りのワンボックス車が滑り込んできた。龍之助には見覚えのある車体である。周囲に立ち込める臭いも忘れがたい。奈津子は顔をしかめ、深雪はハンカチで口元を覆った。由比はドアを開け放ち、素早く体を潜り込ませると、手招きをする。

「三名様、ご案内~!」

 呼びかけられた三名は顔を見合わせると、まずは奈津子が車に向かって駆け出し、その後に深雪がそそくさと続いた。龍之助は慌てて声をかける。

「ちょ、二人とも! あの、由比さん、危なくないんですか?」

「大丈夫よん、私がいるんだから。でも、君はお留守番かなぁ?」

 由比のからかうような口調に、龍之助は憮然として車に乗り込んだ。後部座席では三人が並んで座り、由比が細い体を滑らせて前方の助手席に収まる。運転席では、サングラスをかけた男性がハンドルを握っていた。ややあって、由比の合図で車が走り出す。

「……紫苑ちゃん、大丈夫かしら」

 不安そうな深雪の呟きに、由比が意気揚々と答える。

「心配ないわよん。私が心配なのは、むしろのそのお相手ねぇ」

「どういうこと?」

 奈津子の問いに、由比が答えることはなかった。奈津子は龍之助を横目で見たが、龍之助も堅く唇を引き縛っている。奈津子は諦めたように溜め息をつくと、シートに身を沈めた。

 国際基準値を遥かに超える二酸化炭素を撒き散らしながら、車は国道を飛ばす。途中で正人をピックアップし、窮屈感が増した車内では、もはや誰も言葉を発しなかった。


 夕闇が迫る工場。等間隔に並んだ倉庫は閑散としていたが、その中の一棟からは明かりが漏れ出していた。錆びついた倉庫の中央で、紫苑は馴染みの薄い少年達に取り囲まれている。

「龍之助はどこ?」

 紫苑は周囲の少年達を見渡しながら尋ねた。椅子に腰掛けた武藤が、優しい声色で答える。

「もうすぐ、来るはずだよ」

「そっか」

 何度となく繰り返されたやり取り。紫苑が黙り込むと、武藤は椅子を回して作業に戻った。自宅から運び出したコンピューターの画面を目で追いながら、キーボードに指を走らせる。

「……なぁ、いつまでかかるんだよ?」

 痺れを切らしたように、大柄な少年が武藤をなじる。服装こそ晴嵐高校のブレザーだが、その着こなしは粗野であった。一方の武藤は、端正な顔立ちに見合った着こなしである。

「焦ることはないさ。時間はたっぷりあるんだ」

 その返答に、少年は舌打ちをする。そして、視線を紫苑に向けると、訝しげに眉を顰めた。

「……それにしても、守屋の名前を出しただけでこんなにうまくいくとはなぁ」

 少年は一人ごちる。今まで何人も連れ出してきた実績を持つ少年も、ここまで拍子抜けするほど簡単なことは初めてだった。警戒することもなく、ただ言われるがままに従った紫苑。

「龍之助、龍之助、龍之助……まるで魔法の言葉だね」

 武藤の呟きに、少年は唾を吐いた。暇を持て余した肉体が、苛立ちとなって不満を訴える。仲間も退屈そうに時間を潰している。いつもなら、今頃はお楽しみの真っ最中であろう。

「武藤さんよ、本気であれがアンドロイドだと想っているのか?」

「さぁね。だから、確かめようとしてるんじゃないか」

「さぁね……って、そんなことで俺達を使ったのか?」

「いいじゃないか。金はいつも通り払ったんだし」

「だけどよ、こんな回りくどいことしなくたって、軽く切っちまえば分かることだろう?」

 少年の言葉に、武藤は呆れたような、哀れむような表情と声で答えた。

「そんなの、つまらないじゃないか。せっかくの玩具なんだ、楽しまないとね」

「ふん、そいつも『おもちゃ』の一つってわけだ」

 男は視線を向ける。そこには、背筋を伸ばして椅子に腰掛ける青年男性の姿があった。その瞳は正面を見据え、身じろぎ一つしていない。皺の目立つ、薄汚れた作業着。首筋から伸びた黒くて太いケーブルが地面を伝い、武藤が向かうコンピューターに接続されている。

 それは、武藤がこの工場跡地で拾った「おもちゃ」だった。撤退時に処分されることもなく放棄された機械。椅子に腰掛けているアンドロイドも、そんな廃棄物の一つだった。

「ようやくシステムが復旧したからね。その試運転の相手があの神崎さんだなんて……ふふ、これだから人生は面白いなぁ。君も、そう思うだろ?」

 同意を求められても、少年には答える言葉を持たなかった。武藤は構わず先を続ける。

「近頃の神崎さんがおかしいのは一目瞭然だけど、いまいち確証が持てなかったんだよね」

 武藤はアクター用のバイザー付きヘッドセットを取り上げ、頭に被って装着した。続いて、手袋型のマニピュレーターを両手にはめて装着する。それは、個人には過ぎた設備であった。

 武藤の指先が僅かに動き、呼応するようにアンドロイドが腰を上げた。おおっ! と周囲からどよめきが起こる。アンドロイドは日常的に見慣れていても、遠隔操作の現場は滅多にお目にかかることはできない。武藤はその場でしばらく、アンドロイドの動きを確かめていた。

「さてと、ウォーミングアップは終わりだ」

 その声はマイクを通じて変換され、アンドロイドの口元から発せられた。まるで、アンドロイドが喋っているかのように。作業着姿のアンドロイドは、ゆっくりと紫苑に歩み寄る。

「神崎さん」

 紫苑は振り向き、その焦点がアンドロイドに重なった。口から零れるのは同じ言葉。

「龍之助はどこ?」

「こないよ」

 その返答に、紫苑は初めて違う言葉を返した。眉根を寄せ、訝しげな表情で訊ねる。

「こないって、どういうこと?」

「そのままの意味さ。君は騙されたんだよ」

 ストレートな言葉にも、紫苑は大した感銘を受けた様子もなく、ただ一言。

「そっか」

 とだけ返した。端から見れば、随分と滑稽なやり取りであっただろう。実際、周囲の少年達は遠慮なく笑っていたし、武藤も紫苑との会話を楽しんでいるようであった。

「神崎さん。実はね、君がアンドロイドじゃないか……なんて、噂があってね」

「私が?」

 紫苑はさも心外といった様子で驚き、自分を指差した。アンドロイドが先を続ける。

「そう。守屋……君の大切なご主人、龍之助のお人形ってわけさ」

「そんなこと、あるわけないじゃない」

 紫苑は性質の悪い冗談でも聞かされたように、苦笑して答えた。一体、この人は何を言っているのだろう? だが、確実なことが一つ明かされ、紫苑はその一つが分かれば充分だった。

「龍之助がこないなら、失礼するわ」

 紫苑は踵を返し、倉庫の出口へと足を向けた。だが、歩みはすぐに止まる。目の前に、数人の男子が立ち塞がったからだ。武藤からの指示があったわけではないが、獲物を逃さないことが自分達の役割だということを、充分に弁えているようである。

「どいてくれない?」

 紫苑の言葉にも、少年達はにやにやと笑いを返すだけである。紫苑が足の向きを変えると、今度はアンドロイドが行く手を阻む。その身体は、紫苑に手が届く距離まで詰め寄っていた。

「さぁ、実験開始だ。こいつは工業用だから、見た目以上に力が……って、待ってよ」

 紫苑はサッカーの試合よろしく、素早くアンドロイドをかわそうとしたが、アンドロイドの手が伸びて紫苑の制服を掴む。紫苑は身をよじったが、アンドロイドはびくともしなかった。

「離してっ!」

「弱いなぁ。安全装置が働いているのか、それとも……まぁ、すぐに分かることさ」

 アンドロイドは空いている手を握り締め、ぎりぎりと堅く引き絞る。紫苑は抵抗を止め、拳を凝視した。その瞳は大きく見開かれている。拳が唸りを上げて迫り、紫苑の意識は弾けた。


 寂れた工場跡地を、由比は先陣を切って走っていた。その後ろには龍之助、続いて奈津子と深雪、最後に正人が殿を務める。目的地の倉庫までは、あと百メートルもなかった。

 悲鳴が聞こえたのは、由比らが曲がり角に差し掛かった時である。黒ずんだ建物の陰、進行方向から悲鳴の主達が転がるように走り込んでくる。晴嵐高校の制服を着た少年達だった。

 そのまま脇目も振らず走り去ろうとする少年の一人を、正人が首根っ子を掴んで捕まえる。

「お前ら……神崎さんをどうした?」

「し、知るかっ! あんな化け物っ!」

 意外な言葉に、正人の気が削がれる。その一瞬の隙を突いて少年は正人の手から逃れ、一目散に逃げ出した。正人は舌打ちして後を追おうとしたが、由比の間延びした声が制する。

「ほっ~ときなさい。あとからいくらでも苛めてあげれるからん」

「……何が起こっていると思います?」

「きっと最悪なことか、最低のことが起こっていると思うわ」

 由比はそう言って駆け出し、正人はその後に続いた。奈津子は深雪の手を取って頷き、深雪は頷きを返す。そんな二人の脇を、龍之助が凄い勢いで駆け抜けていった。


 規則正しく、一定のリズムで音が響いている。金属と金属がぶつかり合う、耳障りな高音。扉が開け放たれた倉庫の前で、由比は急に足を止めた。正人はたたらを踏んで振り返る。

「入らないんですか?」

「……私だって、気が進まないときはあるのよん。女の子だから」

 そう言って髪を掻き揚げる由比の隣を、黒い影……龍之助がすり抜けて行く。

「あっ、ちょっと待っ……」

 由比が止める間もなく、龍之助は倉庫の奥へと足を踏み入れた。

「紫苑っ!」

 龍之助は見た。そして、凍りついた。続いて倉庫に入った由比は溜め息をつき、正人は言葉を失い、深雪は両手で口元を覆い、奈津子はただ呆然として呟いた。

「何、これ……」

 奇妙な光景だった。仰向けに倒れている男の上で、馬乗りとなった紫苑が、何度も拳を振り下ろしている。延々と繰り返される作業。そこに、けたたましい笑い声が重なった。

 龍之助以外の視線が、全て一点に集まる。そこには、体を二つに折って笑い続ける武藤の姿があった。由比は頬を撫でながら武藤に歩み寄ると、背後から首に腕を回して締め上げた。

「あんた、うるさい」

 武藤はほんの一瞬で意識を失い、歪な笑顔を浮かべたまま、その場に崩れ落ちた。

「さてと……どうしたもんかね」

 由比が考えあぐねている中、龍之助が動き出した。一歩ずつ、紫苑へと近づいていく。

「紫苑」

 龍之助の呼びかけが届いたのか、紫苑の手が止まった。そして、ゆっくりと振り返る。その眼差しを一目見て、龍之助は息を呑んだ。その瞳には、人が持ち得ない冷たさがあった。

 紫苑は手を下ろして立ち上がった。乱れた服装を正すこともなく、ただまっすぐと龍之助を見詰めている。だらりと下がった右腕の先が、蛍光灯の明かりを照り返していた。

「なんだ、ちゃんと龍之助が来るんじゃない」

 いつもの口調、いつもの表情。紫苑の様子は、いつもと何ら変わらないものであった。

「奈津子、深雪、正人君……それに、お姉さんまで」

 紫苑は順々に顔を巡らせ、最後は龍之助に視線を戻す。

「みんな揃って、何か面白いことでもあるの?」

 紫苑は無邪気な笑みを浮かべる。この場所、この状況において、その表情は不自然と言うより他になかった。紫苑は足を踏み出し、一歩ずつ龍之介達に近づいていく。

「……紫苑ちゃんっ!」

 深雪が声を上げ、紫苑に向かって駆け出した。奈津子もその後に続く。

「止まりなさい!」

 警告が三人の足を止めた。腕を組んで紫苑を眺める由比に、三人分の視線が集まる。

「……危ないから」

 由比は言葉をそう結んだ。一方の紫苑は、きょとんとした表情で瞬きを繰り返している。奈津子はどんな表情を浮かべればいいのか分からず、困惑の混じる笑顔で語りかけた。

「紫苑……その手さ、大丈夫なの?」

「えっ?」

 手を上げて確認しようとする紫苑に向かって、龍之助はとっさに声を上げた。

「見るなっ!」

 それは、命令というより懇願だった。そして、紫苑はどこまでも龍之助に素直だった。興味を失ったかのように、だらりと右腕を下ろす。龍之助はぎこちなく笑いかけた。

「……さっ、早く病院へいこう。榎津先生が待ってるよ」

 紫苑は頷き、龍之助に向かって歩き出す。奈津子は龍之助の横顔を覗き込んだ。

「……守屋、あんた……」

 紫苑が龍之助の前に立とうとした時、由比が二人の間に割って入った。

「はい、ストップ。……認めたくないだろうけど、もう限界だと思うんだよねん」

 由比の言葉に、龍之助は反射的に首を振った。その表情には脅えの色が浮かんでいる。

「そんな、そんなことないですよ! まだ、まだっ!」

「……気持ちはわかるけどねぇ。こちとら、久留美から頼まれててねん」

「何を……」

「『久遠が起動した場合、紫苑の意識に与える影響は未知数だ。だから……』」

 由比は紫苑に微笑みかけた。そして、素早くその手首を掴み上げ、紫苑の目前に運ぶ。

「さぁ、紫苑ちゃん。よく見なさい。これが、現実って奴よん」

 紫苑の眼が自らの手を見る。最初は何でもなかった紫苑の瞳が、少しずつ見開かれていく。

「……これ、何?」

 紫苑の手。美しい手。銀色の光沢を放つ、鋼鉄の手。それは、機械の手だった。皮が裂け、肉が抉れ、その中に見えるのは骨ではなく金属の輝き。紫苑は戸惑いの表情を浮かべつつも、その視線が右手から放れることはなかった。直面している現実を理解できていない顔。

「紫苑ちゃん、君はもう死んでいるの」

 由比の言葉は、それを聞いたものに衝撃を与えた。龍之助は上ずった声で反論する。

「由比さんっ! なんてことをっ!」

「……どういう、意味なんだ?」

 正人がようやく、といった面持ちで言葉を吐き出した。その声には疲労が色濃く出ている。

「そのまんまの意味よん」

「じゃあ……じゃあ、今そこにいるのは、なんだっていうのよ!」

 今度は奈津子が声を上げた。嘲るような、自嘲するような、笑いが混ざった言葉。根拠もない誹謗中傷を聞かされたような気分。さぁ、言ってみなさいよ。奈津子は由比を睨みつけた。

「それは……」

「駄目だっ! 言っちゃ駄目だ!」

 龍之助は由比の背中に掴みかかった。ジャケットに爪を立て、揺すり立てる。だだをこねる子供。由比は困った母親のような微笑を浮かべたものの、その意思が揺らぐことはなかった。

「アンドロイドよ」

 独り言のような何気ない一言。龍之助はその場で崩れ落ちた。奈津子と深雪、正人の三人は龍之助ほどに感銘を受けた様子はなく、ただ戸惑いと共に立ち尽くしている。

「あははははははは!」

 倉庫に明るい笑い声が響き渡った。紫苑は銀色の手で腹部を押さえ、体を二つに折って笑い続ける。本来、聞くものの気持ちを楽しくする声が、今は何よりも不気味なものとして周囲を満たしていた。紫苑はひとしきり笑い続け、浮かんでもいない涙を指先で拭う。

「もう、お姉さんったら。一体どこでどーなったら、そんは話が出てくるんですか?」

 紫苑は笑顔で由比に話しかける。由比はにこりともせず、沈黙を守った。じっとりとした時間が流れ、紫苑から笑顔が消えていく。そして、自分を納得させるように呟いた。

「……私が死んでるって? アンドロイドだって? そんなこと、あるわけないじゃない」

「じゃあ、その手はどう説明するのん?」

 由比の容赦ない一言。紫苑は自分の銀色の手をためつすがめつ眺める。

「これは、これは、これは、これは」

 紫苑は何度も同じ言葉を繰り返し、四つ這いとなった龍之助に声をかける。

「……ねぇ、龍之助。私はアンドロイドじゃないよね? そんなこと、ないよね?」

 龍之助は答えない。紫苑は間の悪い笑顔を浮かべた。

「私、龍之助の言うことなら信じるよ。何だって信じる。だから、教えて欲しいの」

 龍之助は答えない。石のように固まったままだ。

「どうして、何も答えないの? そうじゃないって、嘘でもいいのに、私、信じられるのに」

 もう、紫苑の表情は笑顔とは言えなかった。喜怒哀楽が入り混じり、黒に濁り落ちている。

「そう……何も言えないんだ。それが、龍之助の答えなんだ……」

 紫苑は髪を掻き揚げる手を額で留める。

「でも、……私は、どうすれば、信じることが? ……あれ……あれがそうなの?」

 紫苑は眼を泳がせながら、ふらふらと一歩を踏み出す。由比の手が素早く動いた。

「ストップって、言ったでしょ?」

 紫苑の目の前には、由比が突き出した棒……トンファーの先端があった。

「どいてっ!」

 紫苑はトンファーを掴んだ。由比はトンファーごと引き回されそうになり、右手を離す。由比の左手にはトンファーが残っており、由比はそれを紫苑に向かって振り下ろした。紫苑はその一撃を、奪い取ったトンファーで打ち返す。鈍い音が響くと同時に、由比の手からトンファーが落ちた。紫苑の回し蹴りが由比に襲い掛かる。由比は左腕でこれを防いだが、身体が大きく吹き飛ばされる。その間に、紫苑は倉庫の出口へ向かって駆け出した。龍之助に正人、奈津子、深雪の脇を通り抜ける際にも、言葉は交わされることがなかった。

「あいたたた……久遠が起動すると厄介ねぇ……」

 由比は身を起こすと、だらりと下がった左腕をさすった。由比が眼を向けても、倉庫の出口に紫苑の姿は見えなかった。正人は龍之助に歩み寄り、四つ這いの姿を見下ろした。

「……龍之助、本当なのか」

 龍之助は答えない。正人は右膝を立てて屈んだ。

「今の神崎さんは……アンドロイドなのか?」

 龍之助は答えない。正人は龍之助の両肩を掴むと、無理矢理引き起こした。

「答えろよっ! 神崎さんはどうなったんだよ!」

 龍之助は正人から視線を逸らし、うな垂れたまま、ふて腐れたように答えた。

「……死んだよ」

「何?」

「……死んだんだよ」

「何だって?」

 正人は大声で聞き返す。もう十分、聞こえているはずであった。龍之助は湧きあがる苛立ちを押さえることができず、正人を睨みつけて大声で叫んだ。

「紫苑は死んだんだ! あれはアンドロイドだよ! 紫苑はもういない、いないんだよ」

「……そうか」

 正人は搾り出すような声で呻くと、俯いて歯を食い縛った。二人のやり取りを静かに聞いていた奈津子は突然、まるで糸が切れた操り人形のように、ぺたんとその場に座り込む。

「そんな……そんなことって……」

 奈津子の傍らで、深雪は立ち尽くしていた。震える両手を、胸の前で堅く握り合わせる。

「これは……夢なの?」

 深雪は唇を戦慄ながら、呟きを洩らした。

「夢よ、現実って言うね」

 由比が答える。唇を噛み締めているのは、腕の痛みを堪えるためだけではなかった。


 暗雲垂れ込める夕暮れの街を、紫苑は走り続けた。衣服を乱したまま走り続る紫苑の姿は、周囲の注目を集める。だが、紫苑は振り返ることもなく、自分の拠り所を求めて走り続けた。

 広大な敷地の中、数多の記憶が眠る場所、天照霊園。紫苑は一つの墓石の前で足を止めた。薄紫色の花が供えられた、真新しい墓。花の淡い香りが、紫苑に届くことはなかった。

「……神崎紫苑」

 紫苑は墓標に指先を伸ばし、何度もその上をなぞった。やがて、その数が二桁を超える。

「……かんざき、しおん」

 紫苑はおもむろに拳を振り上げ、墓石へと叩き付けた。墓石にめり込む銀色の拳を、紫苑は直視することができない。紫苑はひび割れた墓石に額を寄せ、嫌悪感に肩を震わせていた。

 ふと、紫苑は天を仰いだ。雨粒が一滴、また一滴と落ちてくる。……冷たい。それは、本当に自分の気持ちなのだろうか。そう思うようにと、誰かに仕組まれた感情ではないのか。

 紫苑は泣きたかった。誰が為、何の為に、自らの死を、自らが認めなければならないのか。紫苑は泣いた。雨が頬を伝い、涙となって流れ落ちる。

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