- Episode 12 -「悪いお知らせと嫌なお知らせ」

 かくして、紫苑は調整された。紫苑を演じさせることを止め、僅かに残った思考をベースに、神崎紫苑としてではなく、一人の女の子として振舞うように、調整が行なわれたのである。

 紫苑を人間らしく見せるためには、その方法しか残されていなかった。紫苑らしさを残そうと無理に調整を重ねた結果、人間らしさも同時に奪ってしまっていたのである。

 意識、心、人格、思考。指し示す言葉が数あるように、たった一つでその存在を証明できるようなものではない。癖や趣向といった、些細な要素の先にあるものこそ、紫苑という存在だったのである。そのどれか一つでも失われたとしたら、それはもう、紫苑ではない。

 調整を終えた紫苑が、周囲にどう受け入れられるのか……龍之助の懸念は杞憂に終わった。紫苑は受け入れられたのである。それも、拍子抜けする程、あっさりと。

 紫苑は必要最低限のコミュニケーションを取ることはできた。つまり、声をかけられたら挨拶を返す……単純なことである。だが、それすらもままならなかった一時期に比べると……声をかけられても、呆けたように無反応なことがあった……格段に受けはよくなった。

 紫苑らしさをなくしたことで、受け入れられた紫苑……この皮肉な結果に、龍之助は苦笑せざるを得なかった。始めからこうしていれば……と思うこともあったが、龍之助から見れば、今の紫苑は別人と言ってよかった。同姓同名の他人、といったところである。

 調整を受けた紫苑は、誰とでも分け隔てなく接するようになった。それは、喧嘩別れしていた奈津子に対しても同様である。廊下で擦れ違った時、あくまで無視を決めこもうとする奈津子に、屈託の無い挨拶を送る紫苑。「奈津子」とその名を呼ぶのは、僅かに残った記憶の片鱗であった。そんな紫苑の挨拶に、奈津子は戸惑いを隠せない。それは、ほんの一瞬だけ、かつての関係を取り戻せたような気がしたからである。道行く人に挨拶しながら歩き去っていく紫苑の後姿を、奈津子は深雪に促されるまで、じっと見詰めていたのだった。

 サッカー部の活動も、マヌカンでのアルバイトも、紫苑はそつなくこなした。小虎は小首を傾げつつも、紫苑と言葉を交わす程に、細かいことはどうでもよくなってしまう。

 調整は功を奏した。そう龍之助が思い始めた頃、来訪者が現れた。


 それは、ホームルーム終了後、間もなくの出来事だった。

「守屋君、お姉さんが来てるわよ?」

 廊下からクラスメートに呼び出され、龍之助は怪訝そうな表情を浮かべる。妹はともかく、姉の存在は初耳であった。龍之助は首を傾げながら席を立つと、教室の外へと足を向けた。

「ハァ~イ!」

 見覚えのある女性が、ひらひらと手を振っている。黒いサングラスに黒いジャケット、そして黒いボディスーツという出で立ちは、学校にあって異彩を放つ。それは、由比であった。

「お久しぶりねぇ~! 元気だったかなぁ?」

 由比はすたすたと龍之助に歩み寄り、躊躇いもなく抱擁する。強張る龍之助の顔に、柔らかな感触が容赦なく押し付けられた。

「ちょ、やめてくださいっ!」

 顔を赤くして抗議する龍之助に、由比は頬擦りをする。

「あは~っ、照れるな照れるな! 睡眠薬を飲ませた仲じゃないかぁ?」

 なおも強く抱き締められる龍之助。その姿は、周囲の注目を否が応にも集める。ひそひそと囁き合う女子生徒に、指を咥える男子生徒。そんな中、一人の女子生徒が二人に歩み寄った。

「龍之助?」

 龍之助と由比の動きが止まる。声の主は紫苑であった。その構図は「浮気現場を目撃された男」というタイトルが相応しい。だが、龍之助は弁明も狼狽もすることなく、淡々と答えた。

「紫苑、校門で待ってて」

 紫苑は頷き、視線を由比に向ける。由比は龍之助の肩に腕を回したまま、片手を振った。

「やっほ~っ! 紫苑ちゃんっ! 龍之助のお姉さんでぇ~っす!」

 不自然な挨拶にも、紫苑が疑問を抱くことはなかった。微笑を浮かべたまま、挨拶を返す。

「こんにちは、お姉さん」

 紫苑は頭を下げると、振り返って歩き出した。由比の視線が、その背中を見送る。

「……随分と安定してるみたいじゃない?」

「そうですね。以前より、周囲とうまく溶け込んでますし……」

「紫苑ちゃんもそうだけど、君もね」

 龍之助が首を回すと、由比の顔が間近に迫った。由比の吐息が、龍之助の鼻先をくすぐる。

「ちょっち、君に悪いお知らせと嫌なお知らせがあってねん」

「……良い知らせはないんですか?」

「さぁて。ないこともない……かな?」

「……分かりました。だけど……まずは、離れて貰えませんか?」

 龍之助が首を巡らせ、由比もそれに続く。二人は、周囲の関心をこれでもかと集めていた。


「う~っ、さっむぅ~いねぇ~!」

 突然の突風に、由比は身を縮こませる。だが、その口調は明るい。

「……本当に、ここでいいんですか?」

 龍之助は両腕を抱き、辺りを見回す。そこは、龍之助には見慣れた場所……屋上であった。傾いた日が空を赤く染め出し、吹き抜ける寒風が夜の訪れを予感させる。

「何いってるのよん、君が選んだんでしょう?」

「人気の無い場所って言うから、ここぐらいしか思いつかなかったんですよ」

「ふ~ん。てことは、君はいつもココで、あんなコトやそんなコトをしているわけ?」

 由比は手摺に手をかけながら、訳知り顔で頷く。龍之助は呆れたように頭を振った。

「……昼食を食べてるだけですよ」

「紫苑ちゃんと一緒に? ……って、あ、食べられないんだったかぁ」

 由比はしまったと口元を押さえたが、龍之助は微笑で答える。

「ええ。でも、紫苑も一緒ですよ。一人にしておくわけにはいきませんから」

「そっか。デザートは紫苑ちゃんってことね」

「どうしてそうなるんですか!」

 龍之助の非難にも、由比は笑顔を絶やさなかった。手摺に両肘を乗せ、夕日に顔を向ける。赤く照り返すサングラス。赤く燃える髪。ただ流れていく時間に、龍之助は痺れを切らした。

「由比さん、お話って何なんです?」

「それそれ、それなんだけどさぁ~……」

 由比は間延びした声で答え、おもむろに振り返った。

「やっぱ、話さなきゃ駄目?」

「……何を言ってるんですか、そのために来たんですよね?」

「私の話はね、決定事項なのよん」

 由比は体を反転させると、今度は背中を手摺に預けた。傾いた顔を龍之助に向ける。

「……どういうことです?」

「つまりね、君がどんだけ駄々をこねようが、ゴマをすろうが、一切覆らないってこと」

「……ってことは、僕が駄々をこねたり、ゴマをすりたくなるお話なんですか?」

「そ。だから、君に選んで貰おうかな。知りたいか、知りたくないか。どっち?」

 選択を迫られた龍之助は、少し考え込むように俯くと、顔を上げて頷いた。

「僕は、知りたいです」

「へぇ、そうなんだ?」

「……拒否すると思いましたか?」

「正直ね。自分の世界に閉じこもっていたい子かなぁ~って、思ってたから」

「確かに、少し前なら……そうだったかもしれません」

 龍之助は素直に認めた。その上で、何かを振り切るように、龍之助は頭を振る。

「でも、それじゃどうしようもないって、思えてきたんです」

 由比は黙ったまま、サングラス越しの視線で龍之助の表情を窺っていた。

「それに……由比さんがせっかく話してくれようとしているんですから」

「ほぇっ?」

 由比は素っ頓狂な声を出した。龍之助は笑顔で言葉を続ける。

「決定事項なら、それを僕に話す必要性なんて、最初からありませんよね? その上で、僕に選択肢を用意してくれた由比さんには、感謝するべきなんじゃないかと思うんです」

「なるほど、そうきたかぁ……」

 由比は片手で髪の毛を掻きぜると、観念したように頷き、サングラスを外した。

「それなら、話しても大丈夫そうねん。中々ポイント高いよ、君」

 柔らかな笑顔に、龍之助は見惚れた。由比は表情を引き締めると、腕を組んで語り始める。

「まずは、私達の組織について教えてあげる。私達はね、簡単に言えば日本の裏に属する存在なの。秘密結社……なのかなぁ? でも、公務員といえば公務員なのよね。ともあれ、何事にも表があれば裏がある……どんな人気アイドルも、トイレには行くでしょ?」

 生々しい例えに、龍之助は閉口した。由比はおかしそうに笑うと、先を続ける。

「裏の組織といっても、別に血も涙もない仕事屋ってわけじゃないから、安心してねん。単に国が表立ってできないことを、細々とこなしているだけだから。

 私の担当はアンドロイド犯罪。マイナーだけど、アンドロイド犯罪って厄介なのよね。今後も増えていくだろうから、いずれは全国規模の組織になるって話しだけど、今はモデルケースってわけ。私はそこで、対アンドロイド格闘術の研究をしているわけさ」

「格闘って……アンドロイドと戦うんですか?」

「あはは、イメージできないよねぇ。でも、最近のアンドロイドは、すっごい進んでるのよ? 見た目は人間と区別がつかないし、動きだって完璧だもん。それだけでも、色々と悪事に使えそうでしょ? そんなアンドロイドを生身でど~にかできるようにってのが、私の役目」

「それは……大変ですね」

「大変も大変、重労働よん。かといって、他にやってくれる人もいないからねぇ。それでね、私のもう一つの仕事は久留美のボディーガードなの。重要度でいったら、こっちの方が上ね」

「久留美さんって、やっぱり偉い人なんですか?」

「偉いっていうか、久留美は政府直属の科学技術顧問でね。特命でアンドロイドの開発を手がけているの。で、その最大級の成果が久遠……そう、今の紫苑ちゃんの身体のことよ」

 龍之助は思わず表情を強張らせる。由比は僅かに言葉を休め、再びその先を続けた。

「久遠はね、すっごい技術が詰め込まれているの。何しろ、ここ数年は欧米に押されっ放しのアンドロイド産業を、日本が一気に盛り返すための切り札なんだから」

「それは、すごいですね……」

 想像の範疇を超えた現実に、龍之助はただ嘆息するしかなかった。

「でもまぁ、それは建前でね。本当のところ、お偉方が求めているのは不老不死なの」

「えっ?」

 突拍子もない単語に、龍之助は唖然とする。その様子に、由比も苦笑で答えた。

「ほんと、笑っちゃうよねん。まぁ、政府高官の平均年齢が百歳を超えるご時世ですからぁ、お偉方には老化と死が身近な問題なんでしょうね。でも、不老不死の研究には税金を使わせて貰えないから、表向きはアンドロイド技術の革新というお題目で話を進めているわけ」

「……不老不死なんて、本気で言ってるんですか? いくらお金をかけたって……」

「まぁ、無理ね。だけどねぇ……仮初でもいいなら、心当たりがあるんだけど、どう?」

 そう促され、龍之助は気付いた。ごく身近にいる存在のことを。

「ビンゴよ。紫苑ちゃんはある意味お偉方が求める理想に近いものがあるわね。意識を機械の身体に移す……無茶な話だけど、それが実現した今となっては……ねぇ」

 龍之助の内心は複雑である。実現はした。しかし、それは不老不死とは程遠いものだった。

「久遠はね、プロトタイプだからまだ一体しか存在しない。今はその機能チェックという建前で国家機密が高校に通ってるわけだけど……あくまで、それは一時的なこと」

 由比の言葉に、龍之助は確信の足音が聞こえたような気がした。龍之助は息を凝らす。

「いつまでも久遠を……紫苑ちゃんを一介の高校生に任せるほど気前はよくないの。これは、久留美もわかっていたはずよ。結局は、有限の未来だってってことがね。それでも……」

 言葉が途切れる。確信が現実に変わると、龍之助は眼を閉じ、溜めていた息を吐き出した。

「分かりました。覚悟を……決められるように、努力します」

 由比は眼を丸くすると、頬を指先で掻いた。眉根を寄せた表情は、戸惑いを隠せない。

「随分と……その、物分りがいいわね?」

「最初に由比さんが言ったんですよ? これは、決定事項だって。覆ることはないって」

「そりゃそうだけど……」

 由比は不満そうに唇を尖らせ、龍之助は思わず噴き出した。自分以上に、自分の態度を納得していない由比が、何だかおかしかったのである。鼻白む由比に、龍之助は慌てて弁解する。

「もちろん、そんな日が来て欲しいとは思いませんよ。でも、仕方が無いこと、仕様が無いことって、世の中にはありますよね? むしろ、それが自然なことだってことも……」

「ふぅ~ん。なんか、少し見ない間に大人になったわねぇ。お姉ちゃん、嬉しいわぁ」

 由比は龍之助を手招きして呼び寄せると、頭に手を伸ばして乱暴に掻き乱した。

「とまぁ、これで悪いお知らせはおしまい。次は、嫌なお知らせの番ね」

 由比は表情を引き締めると、サングラスをかけ直した。龍之助は耳を傾ける。

「私はね、紫苑ちゃんを殺した犯人を捜しているの」

 紫苑を、殺した、犯人。言葉の意味が染み入るにつれ、龍之助の身体は震えだした。決して難しい言葉ではない。歴然とした事実。紫苑は殺されたのだ。誰かに。

「……その様子じゃ、忘れてたみたいねん」

 忘れていた。忘れたかった。思い出したくもなかった。誰が殺したかなんて、そんなことはどうでもよかった。紫苑を失った喪失感の前では、全てのことが霞んで見える。紫苑が戻ってくるのなら、いくらでも犯人を捜したであろうし、いくらでも犯人を憎んだであろう。

 龍之助は両肩を抱き、奥底から湧きあがる衝動に打ち震えていた。引き縛った唇の間から、歯軋りが漏れる。額に浮かんだ大粒の汗は、拭われることなく頬を伝い落ちた。

「犯人の目星はついてるんだけどね。捜査に時間がかかるのよ、ブレインジャックは」

 耳慣れない言葉に、龍之介は顔を上げる。荒い呼吸を繰り返すその表情は、疲労の色が濃く出ていた。夕日に照らされてもなお、青白い肌。虚ろな瞳。由比は構わず話を続ける。

「ブレインジャック……ようは、アンドロイドの不正操作ね。遠隔操作で手も汚さず、痕跡を消してしまえば追跡も困難……これ以上、ローリスクな犯罪もないと思うわ。

 あの日、私は海外から不正に持ち込まれた軍事用アンドロイドを張っていたの。でもって、ようやく尻尾を掴んで駆けつけたら……まぁ、あの現場だったっていうわけ。

 これは企業秘密なんだけど、世間で流行ってる凶悪犯罪って、実はその大半がアンドロイド犯罪なのよ。ただ、その事実を公にしていないだけで。なぜだと思う?」

 由比の問い掛けに、龍之助はぼんやりとした表情で考え、ぼんやりとした表情で答えた。

「……混乱を、避けるため?」

「四割ってとこね。今の日本にとって、アンドロイド産業は唯一の主力産業よ。日本のアンドロイドは、表向きの用途に関しては世界一だからね。だから、国家基盤のアンドロイドが人々の生活を脅かす一面を、国民に知られるわけにはいかないの。少なくとも、車並みの普及率になるまではね。アンドロイドが禁止されたら、日本はあっという間に破綻しちゃうから」

「そんな……」

「大人の世界って汚いでしょう?」

 由比の笑顔に、龍之助は返す言葉が見つからなかった。

「犯人は必ず捕まえる」

 由比はきっぱりと断言した。その声色がいつになく真剣なものだったので、龍之助は戸惑いを覚えた。だが、続く由比の口調は、聞き馴れた軽い調子に戻っていた。

「でね、見つけたら必ず教えてあげるから」

「えっ……いいんですか?」

 意外だった。由比の所属している組織や事件の性質を考えると、それを自分に明かして良いものではないはずだと、龍之助は訝しんだのだ。だが、由比は平気で笑い飛ばす。

「もっちろんよ。そりゃ、禁止されてるけど、そんなの知ったこっちゃないわ」

「でも、それじゃ由比さんが……」

「あらぁ、私の心配までしてくれるのぉ? いい子ねぇ。でも、心配はご無用。だって、本当はこの話を君にしている時点で、アウトなんだからさ。気にしない、気にしない!」

 由比は悲観を全く感じさせない調子で言い放った。龍之助は思わず噴出してしまう。由比も口元に笑みを浮かべる。その時、一際強く風が吹き込み、由比は両肩を抱いた。

「うぅ、寒っ! ……さてと、これでお話はおしまい。また来週のお楽しみってね」

 由比は手摺から離れると、龍之助の前まですたすたと歩み寄った。

「ご拝聴のお礼に、プレゼントをあげよう」

 由比はジャケットの内側をわざとらしくまさぐると、ピンク色の封筒を取り出した。

「じゃ~ん、これな~んだ?」

 由比は右手の人差し指と中指で封筒を挟み、龍之助の目前で振って見せる。

「手紙、ですか?」

「ぶぶ~っ! はっずれ~! 残念でした~っ!」

 いやに楽しそうな由比。龍之助は馬鹿にされていると感じたのか、むすっとしている。

「これはね、紫苑ちゃんの鞄の中から発見されたものなのさ」

「えっ……じゃあ、紫苑の手紙なんですか?」

「だ・か・らぁ、手紙じゃないって言ってるでしょ? ラブレターよ、ラ・ヴ・レ・タぁ……」

 由比は甘い声で囁くと、龍之助の鼻先に封筒を押し当てた。龍之助は封筒に手を伸ばすと、ひっくり返して宛て名に眼を細める。そこには漢字で「龍之助へ」と書かれていた。

「お、気付きましたか色男っ! ひゅーひゅー、憎いねこのぉ~!」

 由比は龍之助を肘でぐりぐりと押したが、龍之助は憮然とした表情で手紙を見詰めていた。

「ささ、早く中身を見て見て! いやだなぁ、覗くなんで野暮なことはしないわよん」

 由比はサングラスを両手で覆い、背中を向けた。龍之助は封を開けて中身を取り出す。これまた、ピンク色をした手紙。龍之助が目を通すと、そこには乙女の甘酸っぱい想いが、切々と綴られていた。龍之助はくすぐったさを感じながらも読み終え、溜め息をつく。

「読み終わった~?」

 まるで背中に目がついているかのようなタイミングで、由比が声をかけた。

「ええ、しっかりと」

「良かったじゃない、紫苑ちゃんの想いを知ることができて」

 龍之助は手紙から顔を上げると、笑顔で首を振った。

「これじゃあ、逆効果ですよ。想いが伝わったことを、確かめられないんですから」

「あっ……そういう考えもあるかぁ。まいったなぁ……」

「でも、由比さん、ありがとうございます」

「私は……その、郵便屋さんなだけだから、お礼を言われる筋合いはないのよん?」

「僕の名前ですけど、漢字で書くのは大変だって、いつも紫苑に言われていたんですよ」

「……そっか」

 龍之助の言葉に、由比は髪の毛から手を離した。ゆっくりと振り返り、サングラスを外す。由比は悪戯のばれた子供のように、無邪気に笑っていた。

「詰めが甘かったみたいねん。けっこう、頑張ったんだけどなぁ」

 龍之助も釣られて笑みを返す。騙されようとしていたはずなのに、怒りはちっともわいてこなかった。何よりも由比の心遣いが嬉しく、龍之助の心を暖かく満たしていた。

「んじゃ、長々と悪かったわねん。紫苑ちゃんが待ちくた……」

 由比の言葉はそこで止まった。屋上の扉が荒々しく開け放たれ、人影が飛び出してくる。

「守屋、紫苑が……」

 間髪を入れずにそう切り出したのは、奈津子だった。

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