- Episode 11 -「思い出」

 仕事を終えた紫苑を自宅まで送り届け、龍之助は帰宅した。守屋家は裕福ではないが貧しくもない。ありふれた賃貸マンション。その二階の端にある一室が、龍之助の我が家である。

 龍之助は自室のベッドの上で寝転んでいた。その視線は天井の一点に注がれている。だが、龍之助が見ようとしているものは、天井よりも遥かに高いところにあるものだった。

「紫苑は何も変わっちゃいない」

 龍之助は声に出して呟いた。マヌカンから帰ってきてからというもの、龍之助は同じ言葉を何度も繰り返していた。まるで、自分自身に言い聞かせるように。

 今の紫苑は完璧だと、龍之助は思っている。それは、初めてその姿を見たときから変わらぬ気持ちであった。初対面の衝撃を、龍之助は忘れることができない。病院の一室、簡素な寝間着姿で寝台に横たわる少女は、紛れも無く紫苑であった。小さな鼻も、薄い唇も、尖った顎も、張りのある肌も、艶やかな黒髪も、そのどれもが紫苑だと断言できるものであった。最後に瞳が開かれたとき、龍之助は心の底から思うことができた。おかえり、紫苑……と。

 食事がとれない、涙を流せない、血も通っていない、細かく見れば、確かに紫苑は変わってしまった。だが、龍之助はそれらを些細なことだと感じていた。なぜなら、それらの要素が紫苑という少女を構成する上で、なくてはならないものではないと思っていたからである。

 紫苑が食事をとらなくなったからといって、涙を流さなくなったからといって、血も通ってないからといって、紫苑が紫苑でなくなるというのだろうか? それは、食事をとらなくなった紫苑であり、涙を流さなくなった紫苑であり、血も通わなくなった紫苑ではないのか。

 そのような龍之助の論法を支えているのは、龍之助の中に存在する明確な紫苑像であった。紫苑が紫苑であるための条件。その範疇に止まる限り、紫苑は紫苑なのである。

「紫苑は何も変わっちゃいない」

 龍之助は眼を閉じた。そして、想像の翼をゆっくりと押し広げる。そう、眼を閉じればいつだって鮮明に思い出すことができる。紫苑の顔、紫苑の声、紫苑の性格、紫苑の過去……。

 龍之助は両目を見開き、勢いよく体を起こした。眼鏡を外し、手の平で顔を覆う。額には汗が滲み、胸の鼓動が激しく脈を打ち続けている。落ち着け……龍之助は自分に言い聞かせた。

 紫苑。紫苑とはどんな女の子だろう? 明るく元気で優しくて、強引な一面もあるけれど、根は正直で素直、ころころと変わる表情の豊かさも魅力だし、頭も良ければサッカーも得意……龍之助の脳裏を駆けるのは、どれもありきたりな紫苑像だった。確かに、そのどれもが紫苑に当てはまるものであったが、紫苑という存在を説明するには、余りにも言葉が足りない。

 龍之助は焦っていた。誰よりも紫苑を知っているという自負とは裏腹に、紫苑を語る言葉は平凡なものしか出てこない。それは、別に幼馴染じゃなくても、一介のクラスメートでも充分に持つことができる紫苑像である。だが、そんな単純なものが、紫苑であるわけがない。

 龍之助は歯を食い縛り、記憶を必死に呼び起こそうとする。紫苑との会話や、一緒に訪れた場所、一緒に過ごした時間、紫苑に関わる全ての記憶の発掘。だが、見つかるのは記憶の欠片ばかりで、龍之助が求めるものはそこになかった。

 紫苑が紫苑である理由。そんなことは、今まで考える必要もかった。なぜなら、いつもすぐそばに答えがあったのだから。手を伸ばすと届く距離に、紫苑はいたのだから。 

「紫苑は、何も変わっちゃいないんだ!」

 龍之助はベッドから跳ね起きると、転がる様に部屋を後にした。向かった先は、父の書斎である。そこには、薄れ行く思い出のよすがが、眠っているはずであった。


 龍之助の父、龍司りゅうじは、仕事の都合で三年前から海外へ単身赴任中である。市立図書館の司書が、なぜ海外に行かねばならないのか……龍之助は知る由もなかった。

 龍司の書斎は、紙の本が詰まった本棚で四方を囲まれている。散らかった印象がないのは、それを散らかす主人がいないことと、それでも掃除を怠らない妻がいるおかげであった。

 龍之助は幼い頃から書斎に入り浸り、読めもしない本を広げたり、ページを破いたり、表紙に落書きをしたりしていた。それでも、龍之助は父親に怒鳴られた記憶はない。ただ、ぼろぼろになった本を見詰める父の姿に、龍之助は幼いなりに罪の意識を感じたものである。

 そんな龍之助も、書斎に入るのは久しぶりのことであった。今では自室にも本棚があるし、高校生になった今でも、書斎に並ぶ本の内容を理解することは難しかったからである。

 龍之助は父の机に向かい、熱心な眼差しでページをめくっていた。卓上ライトの適度な灯りが、視線の先を鮮やかに照らし出している。アルバムに納められた、数々の写真。

「龍ちゃん、お目当ての写真は見つかった?」

 両手一杯にアルバムを抱え、虎子が訊ねる。母親の言葉に答えることもなく、龍之助は一心不乱にアルバムをめくり続けている。そこにある全てを、脳裏に焼き付けるがごとく。

 龍之助が紫苑と出会ったのは十年前、七歳の頃である。その頃のアルバムから、紫苑の姿が頻繁に現れるようになった。平凡な家庭で暮らす少年と、養護施設で暮らす少女。何ら接点のない二人が出会い、友情を深めていく仮定が、写真と言う形で断片的に描き出されている。

 アルバムをめくるごとに、龍之助の中で紫苑の輪郭がはっきりとしていった。一つの記憶が他の記憶を連鎖的に呼び起こしていく。だが、まだ足りない。

 龍之助の背中を気にしながら、虎子は一冊のアルバムを手に取り、ゆっくりと開いた。そこには幼い子供達やその友達、そして若い自分や夫の姿が並んでいる。

「写真って不思議ね。見ていると、その時に戻ったみたい」

 確かにそうだと、龍之助は思う。普段は気にも留めない思い出の数々が、写真に触発されて鮮やかに蘇る。それは、不快な感覚ではなかった。

「あら、懐かしい! ほら、みんなで一緒にお風呂に入ったときの! こんなの、撮ってたのね! ……あっ、これは動物園に行ったときの! あの時、龍ちゃんったらねぇ……ふふふ」

 虎子は時間旅行を楽しんでいるようであった。一方、龍之助の表情は険しい。自分は過去をただ懐かしもうとしているわけではなく、今、そして未来のために記憶を蘇らせているのだ。

「母さん、もっと最近の写真はないのかな?」

「最近の? う~ん、龍司さんがお仕事に行っちゃってからは、撮ってないはずだから……」

 龍之助は落胆を隠せない。小学校高学年ぐらいまでなら、紫苑のイメージを再構成することができたが、その上で最近の紫苑について知りたかったのだ。これでは、幼い頃のイメージが強過ぎて、肝心の今がぼやけてしまうのではないか……龍之助はそんな不安も感じていた。

 虎子はアルバムをめくる手を止めると、龍之助の背後に歩み寄る。

「龍ちゃん、アルバムはね、そんなに辛そうに見るものじゃないのよ?」

「……そんなに、辛そうに見える?」

「ええ、とっても」

 虎子はくすりと笑うと、龍之助の前に手にしたアルバムを広げた。そして、腰を屈めて龍之助の背中から肩越しに頬を寄せつつ、一枚の写真を指差す。

「ほら、このとっても幸せそうな顔をしてるのは誰かな~?」

 龍之助は間近に迫った母の顔を一瞥すると、観念したように写真を眺めた。それは、誕生日の光景を写した一枚である。ケーキの前で屈託の無い笑みを浮かべる幼い自分。だが、龍之助には心当たりがなかった。折り紙で作られた飾りつけ、和洋折衷の豪華な料理、盛大さを窺わせる数々の光景を、龍之助は何一つ思い出すことができなかったのである。

 自分の知らない自分の姿に、妙な居心地の悪さを感じる龍之助。だがそれも一瞬のことで、写真を彩る表情の数々に、思わず頬が緩んだ。写真の中では、皆楽しそうである。自分はもちろん、小虎に紫苑、オートタイマーでの撮影だったのだろう、父と母の姿も見える。そして、もう一人……その姿を認めたとき、龍之助は驚愕の声を上げた。長い黒髪に、鋭い眼差し。

「く、久留美さん!?」

「そうそう、久留美さんよね! 良かった、思い出せて~」

「どうして、こんな写真が……?」

 龍之助はまじまじと写真を眺める。写真と今を比べても、久留美の美貌に遜色はなかった。

「あら、久留美さんのことは覚えていたのに、自分の誕生日のことは覚えてないの? これは、龍ちゃんが8歳になった時の写真よ。それで……そうそう、紫苑ちゃんが久留美さんと一緒に来てくれて……若くて綺麗なお母さんだったから、驚いちゃって」

 虎子は一つ一つ頷きながら、記憶を手繰り寄せていく。そして、ふと龍之助に笑いかけた。

「どう、何か思い出せた?」

 龍之助は首を振った。何一つ、思い出せない。写真の中の自分は、とても嬉しそうなのに。どんなに楽しい記憶も、忘れてしまうのだろうか。全て消えてしまうというのだろうか。紫苑のこともいつか……そんなこと、嫌だ。嫌に決まっている。

「……龍ちゃん、大丈夫?」

 耳元で心配そうな虎子の声が囁く。龍之助は呆けたように写真から顔を上げると、まっすぐと正面を見詰めた。そして、うわごとのように呟く。

「紫苑の……紫苑の声ってさ、どんな感じだっけ?」

 龍之助の問いに、虎子は声を詰まらせた。虎子の返答を待たず、龍之助は先を続ける。

「……なんでもない」

 龍之助は立ち上がると、自分を気遣わしげに見上げる母親に声をかけた。

「ちょっと出かけてくるね」

 そう言い残すと、龍之助は踵を返して書斎を後にした。虎子はその背中を呼び止めることができなかった。虎子は小さな溜め息をつき、アルバムを片付けようと机の上に視線を向ける。

「あら……」

 虎子の呟きの先に置かれたアルバムからは、一枚の写真が抜き取られていた。


 龍之助は夜の街を走っていた。夜とはいえ、駅前の商店街は明るく人通りも多い。人込みを不器用に避けながら、龍之助は息を切らして走り続けた。

 大通りを抜け、龍之助は天照総合病院の入り口に飛び込んだ。二十四時間体制の診療センターだけあって、待合室には未だ多くの人が残っている。その視線のいくつかが、息を切らせた闖入者に向けられた。龍之助は病院の中でも足を止めなかったので、ロボットと擦れ違う度に「走らないでください」と注意を受けながら、階段を駆け上がっていく。

 手術室。そう書かれた扉の前で、龍之助は荒い呼吸を繰り返す。龍之助はこの先に何があるのかを知っていたし、その先に進む権利も託されていた。龍之助はカードキーを通し、手術室の扉を開け放つ。最初の小部屋、その扉を抜けた先に、目指すゴールはあった。

 

 龍之助の足は、一歩を踏み出して止まった。口元を右手で覆い、周囲を見渡す。そこには、龍之助が予想しなかった臭いが立ち込め、予期せぬ光景が広がっていた。

 薄暗い室内。臭いの元凶はそこら中の床に転がっていた。その多くが空であったが、中には中身が残っているものもあり、零れた液体が赤い池を作っていた。

 龍之助はむせ返るようなアルコールの臭いに、顔を顰めた。空気の淀みが、目に見えるかのようである。龍之助が足元に眼を向けると、転がっているのは空き瓶だけではなかった。

「え、榎津先生!」

 ワインボトルを抱き締め、猫の様に丸くなって寝息を立てているのは、榎津医師であった。酔い潰れて寝てしまったという状況が容易に想像できる。龍之助は駆け寄って腰を屈めた。

「……先生、大丈夫ですか?」

「ああ、んん、駄目です……駄目ですよ……もう飲めませんから……飲めま……」

 榎津医師は寝言を呟くばかりで、一向に目覚める気配はない。龍之助は首を振って立ち上がると、「もう一人」に受かって歩き出した。その人物はスクリーンに体を向け、座り心地の良さそうな椅子に腰を沈ませていた。龍之助は歩み寄りながら、呆れたように声をかける。

「久留美さん、どうしたんです、この有様は?」

 ワイングラスを片手に、久留美は高速で流れるテキストを眼で追っていた。やがて、久留美はラスに唇を当てたまま、視線を龍之助に向けた。少しだけ、久留美の眼が大きくなる。

「ん……なんだ、少年か。榎津はどうした?」

「……あそこで寝ていますよ」

 龍之助は顎をしゃくる。久留美は一瞥したものの、再び正面を向いてグラスを煽った。

「一体、何をやってるんですか?」

「見てわからないか? 酒を飲んでいるんだ。少年も飲むか?」

 久留美はグラスを龍之助の前に突き出す。龍之助は困ったように首を振った。

「未成年者に飲酒を勧めないで下さい」

 酔っているのかな……そう龍之助は思ったが、見た目はいつも通りの久留美である。

「少年、良いところに来たな。呼び出す手間が省けた」

「呼び出すって、何かあったんですか?」

 久留美はグラスを持っていない方の手で、素早くキーボードを叩く。

「ああ。些細なことだが、少し気になってな」

 久留美の言葉と手の動きに同調するように、再びスクリーンには無数の文字が流れ出した。久留美は素早く眼を動かし、その流れを追う。それは、文字の流れが止まるまで続いた。

「……やはりな、何度やっても結果は同じか。そんなこと、分かっているのにな」

 久留美の自嘲めいた言葉の響きに、龍之助は不吉なものを感じた。

「紫苑はもう無理だ」

 その言葉を聞いた瞬間、龍之助の頭は真っ白になった。久留美は言葉を続ける。

「記憶の劣化が著しい。ある程度は予想していたが、まさかこれほどまでとは思わなかった。生身の肉体がないという不安定さに加え、調整により圧迫された意識の繋がりが、記憶に甚大な影響を与えてしまったようだ。これでは、紫苑として機能させることはできない」

 久留美はそこで言葉を切ると、ワイングラスを高々と掲げた。

「……これが、飲まずにいられようか?」

 そう言って、グラスに残っていたワインを一気に飲み干す。龍之助はそんな久留美の仕種を目で追うこともなく、久留美が発した言葉の意味について考え、体を震わせていた。

「無理……? 無理ってなんですか?」

 龍之助は堅く拳を握り締め、搾り出すように言葉を吐き出す。

「僕は、僕はね、お願いしに来たんですよ? 紫苑を、紫苑のままでいさせて欲しいって」

「それが無理なんだよ、少年。まさにな。紫苑という存在は、肉体を通じて得た記憶や経験を基に成立している。だが、肉体を失った紫苑は、本質的な意味で新たな記憶や経験を得ることができない。情報という形で蓄えることはできるが、それは人とは異なる方法だ。それ故に、生身であった頃の記憶や経験は、時が経つにつれ劣化していく。言い換えれば、現在の身体である久遠を通じて得た記憶や経験が、紫苑を上書きしているといったところだ」

「そんな……」

 龍之助は膝の力が抜けていくことを感じた。その場で座り込まないように、手近な機械装置に手をかけ、必死に堪える。そんな龍之助の姿を見詰めながら、久留美はさらに続けた。

「人は立ち止まった時、思い出に変わるものだ」

 龍之助は機械にすがりながらも、久留美に視線を向けた。

「……最初から分かっていたはずだった。結局のところ、今の紫苑は思い出に過ぎないと」

 苦笑が混じる久留美の言葉に、龍之助は思わず叫んでいた。

「思い出になんかするもんか!」

 龍之助は機械から手を離して立つと、久留美に向かって吼えた。

「……久留美さん、さっき何て言いました? 最初から分かっていた……ですって? 何でそんなこというんですか! それに、無理だ、無理だって、一体どういうつもりです!」

「そのままの意味だよ、少年。技術的に不可能ということだ。それは、仕方のないことだ」

「ふざけないでください! それが紫苑を諦めたくないと言っていた人の台詞ですか! 無理だと分かっていながら、何でこんなことをしたんですか! これじゃ、紫苑が可哀想ですよ!」

 自分は言い過ぎている。それも、勢いに任せて。そうした自覚はあるものの、龍之助は胸の内から湧き上がる想いを、言葉を、塞き止めることはできなかった。

「僕は諦めたくない、絶対に、諦めたくない! だけど、僕にはどうすることもできない。だから、僕は久留美さんに頼むしかない、お願いするしかないんだ、諦めないでください!」

 龍之助はポケットに手を入れ、取り出した写真を久留美の鼻先に突きつけた。久留美も一緒に映っている、誕生日の写真。久留美の瞳が、驚きで広がっていく。

「それは……」

「……これが、思い出です。僕は、この誕生日の出来事を、何一つ覚えていません。きっと、楽しかったと思うんです。見てください、この嬉しそうな顔。だけど、覚えていないんです。……思い出は、決して永遠のものじゃない。思い出は、消えてしまうんです。そして、消えてしまった思い出は、二度と戻らない。だから、僕は紫苑を思い出にしたくないんです。幸せな思い出として安心して、ふとした瞬間に失っている……そのことが、堪らなく怖いんです」

 龍之助が語り終えるまで、久留美はじっと写真を見詰めていた。

「思い出、か」

 そう呟くと、久留美は片手でキーボードを叩く。すると、スクリーン一杯に画像が表示された。それは、龍之助が手にした写真と同じものであった。龍之助はあんぐりと口を開ける。

「……思い出は美しいな。誰に奪われることもない、私だけのものだ」

 久留美は遠い日を懐かしむように語った。久留美にとっては、良い思い出なのだろう。

「だが、どんな思い出も色褪せていくものだ。私も忘れないようにしているからこそ、思い出が思い出として成立している。そのため、いつしか努力を怠った時、思い出は……消える」

 久留美はスクリーンに向けていた眼差しを、龍之助に移した。

「諦めてしまえばそこでおわる。紫苑はいなくなったのだと思えば、楽になれるのだろうな」

 龍之助は息を呑んだ。それが、久留美の敗北宣言に聞こえたからだ。龍之助は固唾を呑む。

「しかし、まだ早い。いつか思い出になるとしても、まだその時ではない」

「それじゃ……!」

 龍之助は俯きかけ顔を上げ、久留美は力強く頷いた。

「ああ。やってみよう。やってやるさ、最後まで」

 最後まで。その言葉を、龍之助は自分でも意外なほど素直に受け止めることができた。

「あ、ありがとうございます!」

 龍之助は深々と頭を下げた。久留美は立ち上がり、首を小さく振った。

「礼には及ばない。これぐらいしなくては、共犯者殿に申し訳が立たないからな」

 顔を上げた龍之助を、久留美の笑顔が待っていた。久留美が手を差し出し、龍之助がそれに応じる。二人は堅く握手を交わした。その瞬間、部屋中に大声が響き渡った。

「だめですっ! もう飲めませんっ! もう、勘弁してくださいよぉうん……」

 そう言って、再び寝息を立て始める榎津医師。龍之助と久留美は顔を見合わせると、堪り兼ねたといった様子で噴出した。笑い合う二人の姿は、まるで誕生日会の再現であった。


 大規模な調整を前に、龍之助の足は天照霊園へと向かった。二度と来ることもない、そう思っていた場所である。だが実際は、一ヶ月も経たぬ間に、同じ場所に立つことになった。

 紫苑は霊園の外で待っている。紫苑はなぜ霊園に行くのかと訊ねたが、龍之助は答えることはなかった。だが、紫苑は不審に思うわけでもなく、素直に龍之助の指示に従った。

「紫苑は守屋の言いなりなんだ」……奈津子の言葉が、現実となっていた。ここまでくると、龍之助も紫苑の異変を認めざるを得ない。久留美が無理だと語った理由も、今なら頷ける。

 紫苑は龍之助の言葉を疑わなくなった。簡単に言えば、冗談が通じなくなったのである。他愛も無い軽口の言い合いができなくなり、会話が途切れることも多くなっていった。

 自分に対する素朴な疑問を口にすることもなくなった。事態が好転したわけではない。何が疑問であるのかすら、分からなくなっていたのだ。

 紫苑は日を追うごとにおかしくなっていった。そこには紫苑らしさはおろか、人間らしさすら失われていく兆候が見られた。もはや、一刻の猶予も無かった。

 龍之助は墓の前でじっと佇んでいた。僕はどんな表情で、何を思えばいいのか……龍之助にはわからなかった。語るべき言葉もなく、ただただ、黒い墓石を見詰めるしかなかった。

 敷き詰められた玉砂利を踏みしめる音が、遠くから近づいてくる。近づくほどに音は大きくなり、やがてピークに達して止んだ。龍之助は背後に気配を感じ、何気なく振り返る。

 そこに立っていたのは、紫苑だった。微笑を浮かべ、悪びれた様子も無い。ごく自然に、龍之助の後を追って来たのであろう。龍之介の思考は一瞬で凍りつき、唇が戦慄いた。

 指示に反して紫苑がここにいるという事実は、喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか。ただ、墓標を紫苑に見せてはいけない、それだけは確かだった。今すぐ戻れ、ここから出て行け、言い方は何であれ、龍之助がそう指示すれば、紫苑は踵を返したであろう。だが、龍之助の口は固まったままだった。その代わりに、紫苑が辺りを見回しながら無邪気に尋ねる。

「お墓がいっぱい。龍之助は、お墓参りをしているの?」

「あ、うん……」

 龍之助はそう答えるしかなかった。紫苑は感銘を受けた様子も、落胆した様子も無かった。ただ機械的に頷きを返し、その視線が龍之助の背後に見える、立派な墓石に向けられる。

「誰のお墓参りをしているの?」

 紫苑はそう言いながら、首を伸ばして墓標を覗き込もうとする。龍之助は体を強張らせた。だが、その手が動いて紫苑を止めることもなく、静かに対面の瞬間を待ち構えていた。

 見たいなら見ればいい。いや、むしろ見て欲しい。そうすれば、この苦しみから解放されるかもしれない……龍之助の脳裏を、諦めが過ぎった。そして、紫苑は墓標を見た。

「かんざき、しおん」

 その名が読み上げられたとき、龍之助は堅く両目を瞑った。

「私と同じ名前だね」

 紫苑はあっさりと言い放つ。……それだけ、たったそれだけなのか。龍之助は、自分がまだ楽になれないことを悟った。龍之助が黙って立ち尽くしていると、紫苑が何気なく訊ねた。

「大切な人だったの?」

 その一言で、龍之助の脳裏に無数の光景が駆け巡った。そのどれもが素晴らしかった。そのどれもに紫苑の姿があった。出会った時から、別れの時まで。それは、一瞬の邂逅だった。

 龍之助の瞳から、涙がとめどなく溢れ出す。龍之助は堅く拳を握り締めた。どうして、今になって。紫苑の死に直面したときも、ここまでの悲しみは沸き起こらなかった。それなのに、今は溢れ出す想いを堪えることができなかった。

 そんな龍之助の姿を、紫苑は黙って見詰めていた。不思議なものを見るかのように、小首を傾げる。龍之助は歯を食い縛り、必死に耐えようとしていた。龍之助は戦っていた。

 紫苑の右手が上がり、龍之助の頭上に置かれた。その感触に、龍之助の涙が途切れる。紫苑は手をゆっくりと動かし、龍之助の頭を優しく撫で回した。

「泣かないの。男の子でしょ?」

 その言葉が耳に届いた瞬間、龍之助は理解した。なぜ、悲しいのか。なぜ、涙が止まらないのか。それは、認めてしまったからである。受け入れてしまったからである。紫苑が死んでしまったということを。二度と会うことができないということを。

 龍之助は紫苑を強く抱き締めた。肩を震わせ、子供のように大声を上げて泣きじゃくった。紫苑は微笑を浮かべたまま、龍之助の頭を撫で続けていた。

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