- Episode 10 -「調整」

 紫苑が調整を受けた翌日の昼休み。昼食後にそれは起こった。

「まぁ、たまにはね」

 奈津子が鞄から桃色の巾着袋を取り出したとき、真っ先に反応したのは深雪だった。

「そのおいしそうな匂い……さては、クッキーですわね!」

 両手を握り合わせていやいやと体をくねらせる深雪を、奈津子がじーっと見詰める。

「……あんたね、何で開けてもないのに匂いがわかるかな」

 奈津子の指摘に深雪は口元を上品に押さえる。奈津子は右手で顔を覆い、溜め息をついた。

「おほほほ、私の嗅覚はワンちゃん並ですわよ?」

「はいはい」

 奈津子は適当に受け流しながら、巾着を開いて小箱を取り出した。その蓋を開けると、深雪でなくともそれとわかる、甘い香りが広がる。その中には、沢山の星が詰まっていた。

「まぁ、これは紫苑ちゃんも大絶賛だった、なっちゃん特製クッキーですわね!」

「だーかーらー、いちいちわざとらしいのよ、あんたは!」

「あら、紫苑ちゃんにお詫びをしたいっていうから、策を授けてあげましたのに……」

「お詫び?」

 紫苑が小首を傾げる。奈津子は苦々しい表情を浮かべると、恨めしそうに深雪を見詰めた。深雪は涼しい顔でつんと取り澄ましている。奈津子はきょとんとしている紫苑と目線を合わせないようにそっぽを向くと、歯切れ悪く言葉を紡いだ。

「まぁ、昨日は守屋に……その、紫苑も嫌な思いをしたんじゃないかと……思ってね」

「ううん、そんなことないよ、気にしないで」

 紫苑は笑って首を振った。奈津子はほっと息をつき、その表情を深雪がにやにやと眺める。奈津子が犬を真似た唸り声を上げると、深雪は逃げるように顔を背けた。

「でも、それだったら龍之助にあげた方がいいんじゃ……」

「そう言うと思って、ちゃんと守屋のも用意してある」

 奈津子は鞄から新たな巾着袋を取り出した。最初のものとは違い、水色をしている。

「でもさ、流石に昨日の今日じゃ気まずいからさ、紫苑の方から渡しておいてくれない?」

「ん、わかった、ありがとう!」

 紫苑は笑顔で巾着袋を受けとり、奈津子も少し照れ臭そうに笑みを返した。

「……今日も紫苑はダイエットモードみたいだけどさ、良かったら、これ食べてよ」

 奈津子は小箱を紫苑の前に押しやる。紫苑はその箱の中身をじっと見詰めていた。その沈黙を否定と感じた奈津子は、取り繕うように言葉を続けた。

「まぁ、無理にとは言わないよ。クッキーなんて、また焼けばいいんだしさ」

「そっか、良かった~」

 紫苑は安堵の溜め息をつくと、小箱を奈津子に押し返した。奈津子が僅かに笑顔を引きつらせながら蓋に手を伸ばすと、深雪が素早く小箱に手を伸ばし、クッキーを一つ摘み上げる。

「あっ、深雪もいたんだった。遠慮なくどうぞ」

 奈津子から箱を差出されると、深雪は頷いた。

「遠慮なく頂きますわ。でも、この一枚はぜひ紫苑ちゃんに食べて欲しいんですの」

「私に?」

 紫苑は自分を指差した。深雪は視線を人差指と親指の間に挟んだクッキーへと向ける。

「たかがクッキー、されどクッキー。不器用ななっちゃんが、どんな思いでクッキーを焼いたか……その思いを汲むのなら、一口ぐらい食べるのが礼儀というものですわよ?」

 いつになく厳しい深雪の物言いに、奈津子は突っ込みを入れる機会を逸してしまった。痛烈な指摘の矢面に立たされた紫苑は、深雪が手にしたクッキーに、おずおずと指先を向けた。

「私が、それを、食べるの?」

「そうです。例えお医者様に止められていようと、一口齧るぐらいなら問題ありませんわ」

「いいって、深雪。そんなに無理して食べさせなくても……」

 奈津子は押し止めようとするが、深雪は紫苑に有無を言わせぬ厳しい眼差しを向けている。紫苑は困ったように後れ毛を指先でいじっていたが、やがてきっぱりと答えた。

「私は食べないよ。私には必要がないものだから」

 深雪は眼を見開いた。奈津子は始めこそ呆然としていたが、言葉の意味が浸透するにつれ、その口元に自嘲めいた笑みが広がっていく。

「……だってさ。いいよ、深雪が食べちゃってよ」

 奈津子の声が僅かに震えた。深雪は奈津子の声にはっとすると、慌ててその場を取り繕う。

「そ、そうですね、まだ紫苑ちゃんは本調子じゃないようですから。私がおいしく……」

「……もう、紫苑の分は作ってこないようにするから」 

 ぼそりと洩らした奈津子に、深雪は小さく首を振った。紫苑はほっとしたように微笑む。

「ありがとう、そうして貰えると助かるよ」

 素直な感謝の言葉に、奈津子は絶句した。自分の予想、期待、願望とは程遠い展開が、次々と現実のものとして押し寄せて来る。奈津子の顔から笑みが消えた。

「……そっか。そんなに迷惑だったったんだ」

「紫苑ちゃん、その言い方はあんまりではありません?」

「えっ……私、何か変なこと言った?」

「そんな……」

 今度は深雪が絶句する番だった。二の句が告げぬまま、深雪は押し黙る。それでも何か言葉を続けようとする深雪に向かって、奈津子は首を振った。

「深雪、もういいからさ……」

「なっちゃん……その、きっと紫苑ちゃんは、今日は、その……」

「もういいからっ!」

 奈津子は勢い良く机を叩き、立ち上がった。演劇部仕込みの大音量が、教室中に響き渡る。周囲の花が咲いたような賑わいがぴたりと止み、多くの視線が三人に注がれた。

「奈津子……何をそんなに怒ってるの?」

 戸惑いを含んだ紫苑の問い掛けに、奈津子は苛烈な眼差しで応えた。紫苑は頼りない視線でそれに応じる。そのおどおどとした双眸には、奈津子がよく知る紫苑の輝きはなかった。

「……ほんと、何をこんなに怒ってるんだろうね、私は」

 奈津子は笑みを浮かべた。だが、それは紫苑が素直に喜べる類の笑みではなかった。何かを嘲笑うような、呆れたような、その唇の歪みが意味するものは、重く、暗い。

「柄にもなく、こんなもんまで作っちゃってさ」

 奈津子はクッキーの入った小箱を取り上げ、その手を真っ直ぐに伸ばした。そして、小箱に眼を細めると、ごく自然に手首を翻した。小波のような音を響かせ、クッキーが机の上にばら撒かれた。その多くが机の上に残ったものの、いくつかは滑り落ち、住処を床の上と定めた。周囲から小さな悲鳴が上がる。紫苑の視線は、奈津子の手に残った空箱に向けられていた。

「ばっかみたい」

 奈津子はそう吐き捨てると、箱から指を離した。箱がクッキーの上に落ちる。奈津子は鞄を掴んで振り返ると、大股で教室を後にした。乱暴に閉ざされた扉の残響が、耳朶に痛く残る。

 深雪は奈津子を見送ると、素早く首を巡らせて紫苑に向ける。「追いかけて!」……そう言うつもりだった奈津子の口が固まった。紫苑はクッキーをじっと見詰めている。やがて、紫苑はその一つを手に取ると、ゆっくりと唇に近づけた。だが、どうにもしっくりこなかったのか、その手が止まり、クッキーが戻される。深雪は胸元でぎゅっと手を握り締めた。

「……紫苑ちゃん、大丈夫?」

 紫苑は我に返ったように振り向くと、深雪の心配そうな顔に微笑みで応えた。

「ん、私は平気。これを片付けておくから、奈津子のこと……お願いできるかな?」

 深雪は返答に窮した。「紫苑ちゃんも一緒に……」という言葉を飲み込み、こっくりと頷く。そして席を立とうと椅子を引いた深雪に、紫苑は素朴な疑問を投げかけた。

「クッキーって、食べ物って、食べないといけないもの……なのかな?」

 深雪は息を呑んだ。だが、内心の動揺を表には出さす、慎重に言葉を選ぶ。

「もちろん、生きていくには……必要なことですもの」

 そこで言葉を切ると、切実な想いを込めて先を続ける。

「……紫苑ちゃんだって、食べることが大好きだったじゃない?」

「うん。それは覚えてる。それは、覚えてるんだけど……」

 紫苑は右手で前髪を軽く掻き揚げ、その手を額で止める。何かを思い出そうとして、思い出せずにいる者に共通して浮かぶ、苦悶の表情を浮かべる紫苑であった。

「……じゃあ、いきますね」

 深雪は席を立つと、紫苑に軽く頭を下げた。紫苑は相変わらず表情を歪めている。深雪は教室を出る間際に振り返ったが、断ち切るように前を向くと、音もなく扉を閉ざした。

 紫苑は思い出すことを諦め、溜め息をついた。紫苑が周囲を見回してみると、教室中の視線が自分に注がれていた。紫苑は俯き加減でクッキーを見詰め直し、小声で語りかけた。

「私、何かおかしいのかな?」

 星型の一部が欠け、黒い焦げも目立つクッキーは、何も答えることは無かった。


 龍之助は口内に広がる苦味に顔をしかめた。確かに、そのクッキーは甘みが足りなかった。焦げている箇所も多い、それ以上の苦味を、龍之助は感じずにはいられなかった。

 放課後。龍之助と紫苑は校庭のベンチに腰掛けていた。龍之助は紫苑から受け取った水色の巾着袋を開き、その中身を頬張った。味はともかく、龍之助は奈津子の気遣いが嬉しかった。今度会ったら、自分も謝りたい……そんなささやかな決意が、龍之助の胸を満たした。

 しかし、である。紫苑が昼休みの出来事を語るにつれ、龍之助の決意はあっけなく失意の色で塗り替えられた。語り終えた紫苑は、龍之助に不安そうな眼差しを向ける。

「……龍之助、私、おかしくなちゃったのかな?」

 龍之助は新たに噛み締めた苦味を喉の奥へと流し込み、平静を装って答える。

「……誰が、そんなことを?」

「ううん、誰がってわけじゃないんだけど、ただ、自分が自分じゃないみたいな……」

「そんなことないっ!」

 龍之助は声高に叫ぶと、紫苑の両肩を掴んだ。水色の巾着袋が、地面に放り出される。

「紫苑は紫苑だ。それ以外の何者でもあるもんか」

「龍之助……」

 龍之助と紫苑は、そのままの姿勢で見詰め合っていた。龍之助の声が大きく、ベンチが玄関に近かったこともあり、下校中の生徒の注目を集めた。遠慮がちな視線や、露骨な冷やかしの中で、龍之助は恥かしがることもない。やがて、紫苑は表情を緩めて頷いた。

「龍之助が言うなら、そうなんだろうね」

 そう言うと、紫苑は自らの両肩に視線を巡らし、困ったように笑った。

「……もうちょっと、優しくして貰えると嬉しいんだけど?」

 我に返った龍之助は、慌てて紫苑から手を離した。紫苑は解放された両肩を擦る。龍之助は足元に落ちていた巾着袋を拾い上げると、丹念に砂を払った。そして、腕時計を見やる。

「そろそろ、病院にいかないとね」

「了解っ!」

 紫苑は元気よく答え、弾かれたように立ち上がった。龍之助は驚きの眼差しを向ける。

「どうしたの、やけに気合が入っちゃってるけど?」

「ちょっと、ね。弱気になってたから、これじゃ私らしくないなって、そう思ったの」

 紫苑は両頬を軽く叩く。その仕種は、サッカーの試合中だったり、試験中だったり、ここぞというときに紫苑がやる仕種だった。そこには紫苑らしさが感じられ、龍之助は嬉しかった。

「そうと決まれば出発進行~って……」

 紫苑の語尾が曖昧になり、その視線は一点を見つめている。龍之助が振り返って視線を追うと、その先には奈津子と深雪の姿があった。紫苑は大きく手を振ったが、奈津子はそれに答えることなく方向転換。そのまま歩き出す。深雪は困ったような微笑を湛え、龍之助と紫苑の方を見ていたが、やがて向きを変えると、奈津子の後を追った。紫苑は二人の姿が見えなくなるまで手を振っていたが、やがてその手を止めて呟いた。

「……嫌われちゃった、かな?」

 軽い調子に込められた意味は重い。鈍感な龍之助でも、それぐらいは気付くことができた。

「すぐに仲直りできるさ。親友だろ?」

「……うんっ、とっても大切なお友達っ!」

 紫苑は嬉しそうな笑顔で答えた。


 月は替わり、冬の足音が近づく十一月上旬を迎えた。クッキーの一件以降は、大きな事件もなく平穏な日々が流れていたが、紫苑は少しずつ変わっていった。

 何が変わったのか、具体的に指摘できるものはいない。だが、何かおかしい。どこか違和感がある。そうした思いが、紫苑の周囲には渦巻いていた。

 一方、分かりやすい変化として、紫苑は昼休みを龍之助と過ごすようになった。初めこそ、そこには正人の姿もあったのだが、正人は何かと理由をつけて席を外すことが多くなり、今や屋上で昼休みを過ごしているのは、龍之助と紫苑の二人だけになってしまった。

 紫苑は食べることを忘れた。それ以来、大きな調整は行なわれなかったものの、小さな調整は毎回のように行なわれるようになった。食欲が湧かないという自覚症状は、まさに氷山の一角だったのである。日を追うごとに、紫苑は龍之助に質問を投げかけた。

「いくら走っても汗をかかないって、変だよね?」「涙がでないのは、ドライアイなのかな?」「調理実習で指を切っちゃったはずなんだけど……なんで、血がでないんだろうね?」

 素朴な疑問。紫苑は不思議に思ったことを、何でも龍之助に訊ねるようになった。そして、その度に龍之助から「大丈夫」と言われることで、心身の安定を図っていた。

 だが、紫苑がほっとする一方で、龍之助の心には不安が澱となって溜まっていく。そして、その不安を解消するための方法は、調整しか残されていなかった。

 些細な疑問がいつ致命的なものとなるとも知れない状況では、不安の種はそのつど摘み採るより他になかったのである。その結果、紫苑は汗をかかないことも、涙を流さないことも、指を切っても血が流れないことも、全て気にしなくなっていった。

 何かがおかしい、紫苑の行動。その中でも、極めつけのものがあった。それを知ったとき、多くの者が耳を疑い、首を傾げた。中には「そんなに好きだったんだなぁ……」と妙に感心するものもいたが、多くの脳裏に共通して浮かんだ言葉は「なぜ?」の一言だった。

 事件発生から一ヶ月余り。改装と新たなアンドロイドの配属を終え、営業を再開したマヌカン天照駅前店。そのオープニングスタッフの中に、事件の被害者……紫苑の姿があった。


 リニューアルしたマヌカンは、皮肉にも盛況を取り戻していた。事件以後、反アンドロイド団体は姿を消し、原因はともかく注目を集めたことも相成って、オープン初日から客足は右肩上がりで伸びていった。マヌカン側は被害者であり、同情が集まったことも否定できない。

 訪れる客の大半が事件を知っていたが、フロアスタッフの中に被害者本人がいると気付いたものは少ない。紫苑の顔写真はTVで何度となく映し出されたが、それは長い間記憶に止めておくには乏しい情報量である。加えて、紫苑はマヌカンオリジナルのメイド姿となっており、そこに同一性を見出せるものは、よほどの観察眼の持ち主であると言えた。

 アンドロイドのフロアスタッフ……ドールスタッフは、以前と同数の三名が派遣されたが、店の繁盛を知った主任の判断により、新たに二名のアンドロイドが追加された。いずれも破壊されたアンドロイドより型が新しく、客からの評判も上々であった。

 そんなドールスタッフと一緒に働いているのは、紫苑と小虎である。小虎にとっては忌々しい場所となったマヌカンだが、小虎は元々何事も途中で投げ出すことが大嫌いな性格であり、何よりも紫苑が復帰するということもあって、一緒に復帰を決意した。ドールスタッフの中にあって小虎の存在は浮いていたが、明るく元気な接客は評判が高い。一方、紫苑の評価は「最新型は違うね」というものが多く、紫苑はそんな客の声にも笑顔を崩すことはなかった。


 賑わう店内。とはいえ、ファーストフード店のような慌しさはない。空席はなく、入り口の外から店内の様子を窺い、残念そうに階段を降りていく人の姿は珍しいものではなかった。

 そのような状況においても、龍之助は座席を保障されていた。それは、フロアスタッフの一人とは幼馴染であり、もう一人とは兄妹であるという境遇の賜物である。

 それでも、四人掛けのテーブル席を一人で独占する程の贅沢が許されているわけではない。店内の奥、二人掛けのテーブル席の片方へと、やや肩身が狭そうに腰掛けるのみである。

 病院に行く回数が減り、紫苑が仕事をする時間は増えた。紫苑のシフトが終わるまで、珈琲を飲みながらマヌカンに居座ることが、龍之助の新たな日課となっていた。

 龍之助が見る限り、紫苑は順調に仕事をこなしていた。その動作、喋り方、どれをとっても申し分ない。完璧な接客である。だが、龍之助は気を抜くわけにはいかなかった。

 久留美は一つの懸念を抱えていた。それは、紫苑がある種のショックを受けた場合、記憶が急速に錯乱、暴走してしまうのでは……という危惧である。どんなに人間らしく振舞っていたとしても、突然おかしくなってしまえば元も子もない。度重なる調整の末、他人からどう見えるかはともかく、紫苑自身は安定していた。そのため、紫苑のチェックは次の段階に進んだ。

 その舞台として選ばれたのが、事件現場のマヌカンである。紫苑の事件前後の記憶は不完全なため、紫苑が実際に事件現場に立ったときに何が起こるかは、まさに未知数であった。

 それは、致命的な事態を引き起こす可能性もあったが、避けては通れない道でもある。そのため、紫苑がアルバイトに復帰した当日、龍之助の内心は穏やかではなかった。初日のシフトが終了し、「お疲れ様」と紫苑に声をかける龍之助の表情は、誰よりも憔悴していた。安全性は確認できたものの、念には念を……ということで、紫苑のアルバイトは続けられている。

 龍之助は観葉植物の隙間から見える紫苑の姿から、手にした文庫本へと視線を移した。カモフラージュの意味合いが強いため、本のタイトルは一ヶ月前から変わっていない。

 龍之助が座るテーブルに、フロアスタッフが珈琲を運んできた。そつのない作法でカップを置くと、龍之助の向かい側に腰を下ろす。その気配を感じ、龍之助は活字から眼を上げた。

「……休むなら、スタッフルームにいった方がいいんじゃない?」

「ちょっと休憩してるだけでしょ?」

 小虎は唇を尖らせ、龍之助は肩を竦めた。息をつきたくなる気持ちも分からなくはない。それほどの、大盛況なのである。二人は黙り込んでいたが、不意に小虎が口を開いた。

「ねぇ、龍兄ぃ。紫苑姉ぇって、何か雰囲気変わったよね?」

 龍之助は即答を避け、カップに口をつけた。小虎はからかうような口調で先を続ける。

「まさか、紫苑姉ぇに変なことしてないでしょうね?」

 龍之助は噴出しそうになるのを堪える。その様子に、小虎は溜め息交じりで頭を振った。

「ま。龍兄ぃにそんな度胸はないか」

「どういう意味だよ。……それに、紫苑は何も変じゃないさ。何も変わっちゃいない」

「ほんとに?」

 間髪いれずに小虎が聞き返す。その真剣な眼差しに、龍之助は言葉を詰まらせた。

「あ、ああ」

「……龍兄ぃなら、気付いてると思ってたのに」

「なんだよ、それ」

「しーらないっ! ……あ、いらっしゃいませ~!」

 小虎は立ち上がると、慌てず騒がず接客へと向かう。一人座席に残された龍之助は、静かに息を吐いた。小虎が呟いた言葉の余韻が、龍之助の心を掻き乱していた。

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