- Episode 9 -「変化」

 紫苑の復帰から十日。晴嵐高校では龍之助の奇行が噂になっていた。

 龍之助は常に手帳を持ち歩くようになった。龍之助が手帳を開くとき、その視線上にはいつも紫苑の姿があり、それは授業中でも休憩中でも……時と場所を選ばない。

 龍之助の紫苑に対する眼差しは、有望選手を発掘するスカウトマンよろしく、何かを入念に吟味するような、真剣なものであった。「観察」という言葉こそ相応しい。ただ、紫苑の何を観察しているのかは謎に包まれ、「何だか気持ち悪い」という印象のみが広まっていった。

 紫苑が何かをしようとするとき、常に龍之助の影があった。友達と出かける場合も、まずは「龍之助に聞いてみるね」となり、結果として認められることはない。そんな紫苑の日課は、学校が終わったら病院へ直行。もちろん、龍之助も一緒である。

 こうした事実から、二人ができちゃった……あるいは、一線を越えてしまったのではないかと推測されるに至り、まぁご自由にと、思案を投げ出すものがほとんどだったが、中には納得ができないものもいた。それは、奈津子である。


 龍之助はいつものように、校門の前で紫苑を待っていた。だが、靴音を鳴らして現れたのは紫苑ではなく、二人の女子生徒であった。門前奈津子と九条深雪。共に紫苑の親友である。

 奈津子は唇を堅く引き結び、両腕を組んで龍之助を睨みつけている。深雪は不安そうにスカートの前で手の平を重ね、奈津子から一歩離れた場所で様子を窺っている。

 龍之助が会釈をした途端、奈津子の手が龍之助に向かって伸びた。襟元のネクタイを掴み、手繰り寄せる。奈津子が龍之助を見下ろす格好で、二人の距離が狭まる。「なっちゃん!」深雪が声を上げたが、奈津子が動じることはなかった。龍之助は呆然と奈津子の顔を見返す。

「あんた、紫苑の何なの?」

 ストレートな問い掛けに、龍之助の脳が刺激される。それは、聞き覚えのある言葉だった。

『少年は、紫苑の何だ?』

 思い返すのは久留美の言葉。あの時、龍之助は「幼馴染」だと答えた。だが、今は……。

「さぁ、何だろうね?」

 龍之助は奈津子の苛烈な眼差しから視線をそらすと、自嘲めいた笑みを浮かべて呟いた。奈津子がより強くネクタイを握り締めたとき、剣のように鋭い声が奈津子を突き刺した。

「奈津子っ!」

 声の主は紫苑だった。奈津子は反射的に手を離し、龍之助はよろめきながら喉を押さえた。紫苑は駆け寄りながら二人の姿を見比べ、奈津子に冷たい視線を向ける。

「……龍之助に、何してたの?」

 奈津子は表情を消し、紫苑の視線を受け止める。紫苑は答えが得られないと知ると、龍之助に向き直って訊ねた。龍之助は何事もなかったかのように、ネクタイを結び直している。

「龍之助、どうしたの? 一体何が……」

「大丈夫、何でもないんだよ、何でも」

 紫苑は疑問と不安を隠せなかったが、疲れた微笑を浮かべる龍之助を前にして、それ以上の追及をすることはできなかった。そんな様子をじっと眺めていた奈津子が、ぼそりと呟く。

「本当に、紫苑は守屋の言いなりなんだ」

 紫苑が振り向くと、奈津子は苦笑を浮かべた。その表情にも、どこか疲れの色が見える。

「紫苑、あんた変わっちゃったね」

「……私が?」

「私の知ってる紫苑は、誰かの言いなりになるような奴じゃなかった」

 紫苑は奈津子の顔を見直した。泣き出しそうな曇り空……そんなイメージが一瞬、紫苑の脳裏をよぎる。何かを伝えようと考えあぐねた末、ぎこちない笑みを浮かべて口を開いた。

「言いなりなんかじゃないよ。ただ、私は私のしたいことをしているだけ……だから」

 沈黙。やがて奈津子は両目を閉ざすと、肩を竦めて溜め息をついた。

「ご馳走様」

「……えっと、私、何かヘンなこと言った?」

 紫苑はきょろきょろと周囲を見回したが、奈津子は微笑を浮かべるばかりで、深雪は俯いて黙り込んだままで、龍之助の関心は腕時計に注がれていて、答えは誰からも得られなかった。

「早く行かないと、診察の時間に遅れるよ?」

 龍之助に促されても、紫苑は奈津子と深雪に気をとられていた。龍之助は唇を噛むと、手を伸ばして紫苑の手首を掴んだ。そして、そのまま強引に連れて行こうとする。

「あ、ちょっと、龍之助……」

 紫苑は思わず手を振り解こうとしたが、龍之助の表情を見ると一変、その手が止まった。やがて観念したのか、引かれるままに歩み続ける。その途中で、紫苑は何度も振り返っていた。

 紫苑の姿が見えなくなるまで、奈津子は立ち尽くしていた。また、見えなくなってからも、その姿勢は変わらなかった。深雪はそんな奈津子の隣に歩み寄ると、優しく語りかけた。

「なっちゃん、紫苑ちゃんが守屋君にとられたみたいで、悔しいんでしょ?」

「ばっ! ……か、そんなことっ……」

 奈津子は素早く首を回して否定したが、深雪のにこにことした笑顔に迎えられ、忌々しそうに視線を逸らした。その頬が赤く染まっていることを、深雪の細い目は見逃さなかった。


 病院へと続く坂道を、龍之助と紫苑は歩いていた。龍之助の手は紫苑から離れている。二人は横ではなく縦に並び、龍之助の後に紫苑が続いていた。会話らしい会話は何一つない。

「……私、変なのかな」

 その呟きに、龍之助の足が止まった。紫苑は龍之助の背中にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。龍之助が素早く振り返り、紫苑を問い詰める。その表情には焦りが見えた。

「どうして、そんなことを?」

「……だって、私、ちっとも食欲が沸かないんだよ? もう一ヶ月以上、何も口にしてないのに、お腹も空かないし、喉も渇かないなんて……やっぱ、変だよ……」

 紫苑の言葉に、龍之助は返す言葉を持たなかった。だが、前を向くと、再び歩き出す。

「大丈夫、大丈夫さ!」

 龍之助の上ずった調子を合図に、紫苑も歩き出した。それからも龍之助は「大丈夫」という言葉を繰り返し呟いた。そんな龍之助の背中を見詰めながら、紫苑は声を潜めて一人ごちる。

「もう、食べられないのかな?」

 寂しさを伴うその一言は、吹き抜ける秋風に乗って消えた。


 天照駅前の大通りを抜けた先に、市立天照総合病院はあった。自然と生命の調和をテーマとして建造された、開放感のある医療施設である。敷地内の中庭は公園として一般公開もされており、老若男女問わず市民の憩いの場となっていた。天照市の観光名所の一つでもある。

 あらゆる病気や怪我、緊急医療に対応した日本有数の総合診療センター。その運営を支える原動力となっているのは、医療介護を目的としたロボットであり、アンドロイドであった。

 院内に一歩足を踏み入れると、いたるところでロボットやアンドロイドの姿を目撃することができる。受付をするのも、車椅子を押すのも、子供と遊ぶのも、食事を運ぶのも、形や種類は異なれど、ロボットやアンドロイドであることは共通している。一昔前ならロボット博物館でしか見られなかった光景が、ごく当たり前の現実として広がっていた。

 もちろん、医師や看護士といった医療スタッフの中核は人間が占めている。だが、医療業務の全てを人間の手で補うとしたら、今より数倍の人員が必要となることは間違いなかった。

 脳神経センターは、二階の端に設けられている。紫苑が入院生活を送り、退院後も毎日のように訪れている場所である。また、事件当日に紫苑が運び込まれた場所でもあった。

 診察から治療まで、流れはいつも同じだ。まずは担当医が診察を行なった後、紫苑は病衣に着替える。そしてベッドの上で栄養剤の点滴を受けながら、深い眠りにつくのだ。その間に脳を中心とした治療が行われ、目覚めた時には全ての工程が完了している。

 所要時間は三十分程度で済むこともあれば、数時間かかることもある。ただ、いずれの場合も紫苑の目覚めは快適であり、食事を摂っていないことを忘れてしまうほどであった。

 いつものように龍之助に付き添われ、いつものように病院へ訪れた紫苑は、いつものように診察を受け、いつものように点滴を受けながら、いつものように深い眠りへと落ちてく。

 今日はどのぐらいで終わるのかな? ……意識が遠のく中、紫苑はそんなことを考えていた。

 

「運動性能は安定してきたようだな」

 久留美はスクリーンを流れる数値と、手にした手帳を見比べている。龍之助は黙ったまま、蒲鉾型のガラスケースに手の平を押し当てた。その中に、病衣を着た紫苑が横たわっている。首筋から延びたコードは、ケースの内側を伝い、外の機械と端子で繋がっている。

 年々、手術室は機械化が進んでいるが、この部屋はその極致であった。それもそのはずで、紫苑のアフターケアをするために、大規模な改修、そして機械化が行なわれたのである。

 久留美の研究所……場所は極秘事項……は、少なくとも天照市から遠く離れた場所にある。そこで、施設の一部を天照病院に移設したのだ。その作業がスムーズに行なわれたのは、脳神経外センターの主任で、紫苑の担当医でもある榎津医師の協力が得られたからである。

 内装にこだわる余裕はなく、「元」手術室は足の踏み場がないほどのケーブルや、電子機器の類で埋め尽くされている。龍之助は何度となくケーブルに足を引っ掛け、何度となく機械の上に倒れ込んだが、それしきのことで壊れるほど、最近の機械はやわではなかった。

 龍之助が紫苑の行動を監視し、気付いた点を久留美に報告。久留美はその報告を元に、問題を回避するための処置を施す。これが、共犯者二人による企みの概略であった。

「懸念事項に食事とあるが、まだ気になるのか?」

 久留美に訊ねられ、龍之助はケースから手を離して答えた。

「久留美さん、どうにか紫苑を、食事が取れるようにできませんか?」

「不可能ではないが、困難だ。充分な時間と設備が必要だと、前にも言ったはずだぞ?」

「……そう、でしたね」

 龍之助の声が沈む。今の紫苑の身体は、久遠というアンドロイドである。龍之助は久遠が完全な存在だと思っていたので、久留美にその不完全さを淡々と列挙された際は、不安と落胆を隠せなかったものだ。懸念事項の食事も、久遠に備わっていない機能の一つであった。

「だが、そのことなら心配する必要は無い」

 きっぱりと断言する久留美。だが、龍之助は椅子代わりにしていた機械から腰を浮かすと、自らの胸にわだかまる不満をぶつけた。その声色には、焦りが多分に含まれている。

「久留美さんはそう言いますけれど、現に紫苑が変わったって、はっきりと言ってる人がいるんですよ? 僕が見る限り、食事以外のことは本当に上手くいってるんです。ですから……」

「紫苑が変わった……そう言ったのは、紫苑に近しい人物か?」

「近しいも近しい、大親友ですよ!」

「そうか。それならまず問題ない。一過性のものだ、時間が解決してくれる」

 久留美は平然と答える。全く動じた様子のない姿に、龍之助は拍子抜けした、

「……どうして、そんなに自信があるんですか?」

「それはな、変わったと思っているのが、紫苑自身ではないからだ」

 龍之助は小首を傾げた。久留美は腕を組むと、壁に背を預ける。

「他人がどう思ったところで、紫苑が変化するわけではない。無論、紫苑に対するイメージは変わるだろうが、それは他人の問題だ。仮に……そうだな、紫苑がダイエットをしているとしよう。少年の話によると、紫苑は大食いだったそうだからな。そんな紫苑が急にダイエットを始めた……周囲にはさぞ奇妙なものとして映るだろう。だが、それを何日も繰り返したらどうなる? 何も食べないということが、当たり前になっていくのではないか?」

 龍之助は久留美の仮定を思い描いてみた。確かに、紫苑が急にダイエットを始めたら、最初こそ動機やら何やらの追及で、騒がれるだろうが、それが日常的に繰り返されれば、ことさら騒ぎ立てするようなことではなくなる。「まだ続いてるんだ?」ぐらいは言われるだろうが。

「それでも、親しい友人なら尚更、動機やきっかけが気になってしまうんじゃないですか?」

「動機やきっかけは、本人が決めることだ。他人から見ればくだらない理由でも、あるいは単なる思いつき、気紛れだったとしても、動機やきっかけとしては充分だと思わないか?」

「まぁ、当人が納得してるなら……あっ……」

 そこまで言ったとき、龍之助は久留美が言わんとすることを理解した。いくら周囲が変だ、おかしい、と言ったところで、当人が納得した上での行動なら、他人はそれを受け入れざるを得ない。できることといえば、当人に対するイメージを変えることだけだ。

「重要なのは、紫苑が自分に疑問を抱かないことだ。自分の行動に自信があれば、他者の言動に振り回されることはない。変わったと言われても、自己を貫けるだけの……どうした?」

 久留美の言葉が中断する。龍之助があんぐりと口を開け、頭を抱えたからだ。

「……ということは、あれって、けっこうまずいのかも……」

 久留美に促されるままに、龍之助は帰り道での出来事を説明した。「……私、変なのかな?」その呟きは、紫苑が自分の存在に疑問を感じている何よりの証拠ではないのか。龍之助が話し終えると、久留美は俯き加減で、顎先を人差指と親指で押さえた。その表情は険しい。

「……早すぎる。段階的に記憶を調整し、整合性を高めるはずだったのだが……」

 久留美はぶつぶつと呟いた。髪を掻き揚げる手を額で止め、そのまま歩き出す。

「自分で自分を信じられなくなると、人は不安定になる。自分とは何か? その問いかけには、自分を意識する自分という構図で答えることもできるが、それ以前に自分の根拠となり、証明となるのが体だ。試しに顔を触ってみるがいい。それが、自分だ。だが、紫苑は自分の拠り所となるはずの体が、自分自身の体ではない。意識と体の乖離から生じる違和感の積み重ねは、やがて大きな歪となるだろう。それが、紫苑の意識にどれほどの影響を与えるのか……」

 久留美は忙しなく歩き回っていた。そんな久留美を、龍之助は不安そうに見詰めている。

「……調整、するしかないな」

 久留美は足を止めた。調整。それは、何度となく紫苑に施されてきた処置である。

「強引な思考調整になるが、止むを得まい。この際、周囲との軋轢や関係性を重視していては、紫苑そのものの存在が危うい。それでは、本末転倒だ」

「一体、今度は何をする気ですか?」

「紫苑は、食事をとれないことに疑問を抱いている。食事が生きていく上で必要なことだからだ。それならば、食事が生きていく上で必要なことではないと思わせればいい」

「そんな……そんなことしたら、絶対におかしいですよ!」

「仕方がない。本来なら、紫苑に朝食と夕食はとっているという擬似記憶を与えることで、昼食をとらない不自然さを解消させたいところだが、今の紫苑ならその記憶すら疑いかねない。こうなっては、食事という根本的な問題を、紫苑の中だけでも解決させるしかない」

 そう久留美に断言された以上、龍之助に反論の余地は残されていなかった。

 作業の完了に数時間はかかる……そう久留美に告げられても、龍之助は自宅に帰るつもりはなかった。だが、久留美は龍之助の度重なる懇願を退け、退室を指示した。大掛かりな処置を施すためには、紫苑の頭部を切り開いた上で、電子頭脳に直接手を加える作業が必要となる。龍之助を退室させたのは、その光景を見せまいとする、久留美なりの気遣いであった。

 

 朱色に染まる、天照病院の中庭。その中央には、大きな桜の木が植えてある。春先になると見事な花を咲かせる巨木も、十月とあっては寂しさを隠すことはできない。周辺にはベンチが設えられており、龍之助はその一つに腰掛けていた。手には自動販売機で買った缶コーヒーが握られている。龍之助は何を見るでもなく、背中を丸めていた。時折吹く風が冷たい。

「守屋君っ!」

 呼びかけられ、龍之助は体を起こした。にこにこと人懐っこい丸顔が視界に入る。

「榎津先生……」

「隣いいかな? いや~、遠目だったから自信が無かったけれど、やっぱり守屋君だったか~」

 龍之助が応じる間もなく、榎津医師は「よっこらせ」と腰を下ろした。脂肪過多の腹部が揺れる。だが、榎津医師は上手に太ったという好例で、変な暑苦しさや不健康さとは無縁な雰囲気を持っていた。穏やかな口調と物腰の持ち主だが、龍之助は榎津医師が苦手だった。何せ、龍之助には初対面だった榎津医師の胸座を掴み上げたという過去がある。後日、龍之助は謝罪をし、榎津医師は笑顔で受け入れたが、その後も龍之助の態度はどこかぎこちなかった。

「まだ君が残っているということは、今日の治療は長引いているのかな?」

「ええ、実は……」

 龍之助は榎津医師に今日の出来事を説明した。榎津医師は紫苑に関する一連の事情を知る、数少ない人物の一人であった。龍之助が説明を終えると、榎津医師は何度も頷いた。

「実に興味深い話だねぇ。意識や記憶が、肉体に依存して……すまない、不謹慎だったよ」

 恐縮して頭を下げる榎津医師に、龍之助は首を振って応えた。

「これは言い訳にもならないけれど、僕は神埼博士の研究を手伝っていたことがあってね」

「そう……なんですか?」

「うん。足を引っ張るだけだったけど。博士が僕の論文に興味を持ってくれたのが縁でね」

 そこで会話が途切れる。龍之助は間を持たせようと、素朴な質問を口にした。

「その論文、どんな内容だったんですか?」

 榎津医師は「悪いね、気を使わせちゃって」と笑顔を見せて先を続ける。

「それは脳の再生医療についての論文でね。自分で言うのもなんだけど、論文としては落第点だったよ。妄想を書き連ねた、といった方が正しい。結局、脳死を覆すことができなくて、脳死に備えて記憶のバックアップを取るべきだとか、何とか体裁を取り繕って形にしたけれど、今でもよくあれで受理されたと思うよ。まぁ当然、評価はされなかったけれどね」

「記憶のバックアップ……」

「そう。人間の持つ基本的な身体能力の個人差は、実のところ余りない。ここでいう身体能力は、人間として生活する上での根幹……呼吸をしたり、目で見たり、口で食べたり、そういう本当に基本的な部分のことだ。それらを統括し、管理しているのが脳なんだけど、そんな脳の働きを移すことができれば、体の動かし方、つまりはパーソナリティーの保持が可能で……」

 榎津医師の熱弁に、龍之助は曖昧な頷きを返し続けた。榎津医師はふと我に返ると、何度も頭を下げて口を閉ざす。沈黙の中、龍之助は俯いたまま呟きを洩らした。

「僕は……無力ですよね」

「なんだい、藪から棒に?」

 榎津医師は驚いたような表情を浮かべ、龍之助は苦笑を浮かべた。深い意味はない。ただ、自分は勉強不足だ……そんな感想を口にしようとして、思わず口をついた言葉だった。

「僕は、紫苑のために何もしてあげられない。全部、久留美さんに任せっきりで……」

「何を言うんだ。君は紫苑ちゃんのことを、よく見てあげているじゃないか?」

「ずっと、ずっと何年も一緒にいたのに、できることが、たったそれだけなんて……」

 龍之助は不意に熱いものが込み上げ、空を仰いだ。群青色に染まりつつある空に、一番星が輝いている。大きく深呼吸する龍之助を横目に、榎津医師は溜め息をついた。

「……やはり、守れなかったことに負い目を感じているんだね、君は」

「僕は、当事者だったんですよ? 僕しか、紫苑を救うことができなかったのに、僕は……」

「人生は手遅れの連続だ」

 突然の言葉に、龍之助は顎を引いて隣を見た。涙の雫が一滴、龍之助の頬を伝う。

「……っていうのが僕の人生観でね。君にその理由を話そうと思うのだけれど、いいかな?」

 龍之助には断る理由がなかった。沈黙を肯定と解釈したのか、榎津医師は話し始めた。

「僕には昔、恋人と呼べる女性がいた。彼女とは医大で出会ってね、自分の意思や夢、目標をしっかりと持って、それに向かって努力することができる女性だったよ。彼女の専門は脳でね……そう、僕の脳に対する興味は、彼女の受け売りでね。志なんてなかった。ただ、動機は不純でも彼女は僕の努力を認めてくれてね。だんだんとまぁ、親密になることができたんだ」

 龍之助は拍子抜けした。どんな話かと思えば、恋人と馴れ初めである。男女関係から生じる人生観に、感銘を受けるとは思えなかった。それでも、榎津医師は淡々と先を続ける。

「ある日、彼女はトラックにはねられた。運転手は飲酒運転の常習者でね」

 恋人の名前は幸子。両親は幸せな人生をと名付けたのだろうが、その最後は不幸であった。だが、中には不幸中の幸いだと言うものがいた。それは、事故後の幸子の様態による。

 幸子は脳死状態だった。だが、脳以外の臓器には、ほとんど損傷が見られなかったという。トラックの安全装置のお蔭である。ただ、アルコール検知器だけは、人為的に外されていた。

 榎津は諦めていなかった。榎津が幸子と研究を進めていたのは、脳の再生医療なのだから。君を必ず救ってみせる……榎津は幸子の枕元で誓った。

 だが、その誓いは果たされなかった。研究が失敗したわけではない。幸子の持ち歩いていたドナーカードには、本人直筆のサインが記されていたのである。

 榎津青年は懇願した。あと数年、待ってくれと。だが、受け入れられることは無かった。榎津青年は他人である。当人が決めた道を、阻む権利は認められなかった。幸子の臓器は、移植を待つレシピエントに分けられていった。残ったのは、傷付いた脳だけだった。

 幸子は多くの命を救った。そんな事実も、榎津青年にとっては何の慰めにもならなかった。むしろ、愛しい人の体を奪ったものとして、憎しみすら感じたという。榎津青年は残った脳を再生するため、研究に没頭した。幸子の両親を説得し、幸子の脳を預かったのである。

 数年後。榎津青年は、研究が全く役に立たないものであることを認めざるを得なかった。そんな榎津青年に、幸子の両親は「お疲れ様でした」と頭を下げた。その瞬間、榎津青年は全てが終わったと感じた。そして、吐き出すように論文を書き上げ、研究を終わらせたのである。

「脳の研究なんかしなければ……今でも、そう思うことがあるよ。すぐに諦めることができただろうからね。……でもどうかな、それでも、やっぱり足掻いたかもしれないね。もっと体を鍛えていれば、もっと勉強していれば、あの日、あの場所にいかなければ……全部、全部が、手遅れだ。それに、手遅れだと分かるのは手遅れになってからだ。……困ったもんだよね」

 榎津医師は体を起こして大きく伸びをすると、落ち着いた表情を龍之助に向けた。

「だから、君も自分を責めるのは止めた方がいい。手遅れだからだ。それより、今やれることをやった方がいいよ。それが、手遅れだらけの人生に立ち向かう、唯一の方法なんだから」

「……でも、僕は、何をすればいいのか、わからないんです」

「君は今でもよくやっているよ。そして、善戦してるんだ、運命って奴にね」

 小首をかしげる龍之助の両肩に、榎津医師は力強く手を置いた。

「君は、紫苑ちゃんのことを諦めてないだろう?それは、凄いことだよ」

「そんな……僕は……」

 龍之助は後ろめたさで一杯になる。それは、あの日、久留美の共犯者となったときから、ずっと感じている思いだった。愚かな選択をしたのではないか、取り返しのつかないことをしているのではないか、誰よりも、紫苑のために……その思いは、龍之助を苦しめていた。

「僕はね、医師という立場もあって、死は身近な存在だ。毎日どこかで人は死んでいる。病死であり、老衰であり、事故死であり、自殺であり……だが、全ての死が特別なものであることには代わりがない。昨日まで元気だった子供が、階段から足を滑らせただけで命を落とす……そんなことだって、ざらだよ。でも、死因や年齢なんて、残された人にとっては何の慰めにもならない。それでも、僕等医師は遺族の方にお悔やみを述べなくてはならない。諦めて下さいと、お願いしなくてばならない。それは、とても辛いことだよ。お互いにね」

 龍之助は俯いた。自分が責められていると感じたからだ。榎津医師だけでなく、肉親の死を前にして嘆き、悲しみ、諦めきれなくとも、諦めざるを得なかった人達のことを思うと、龍之助は強い自己嫌悪に陥ってしまう。だが、それでも……。

「でも、誰もが諦めたくないと思っている。そう、諦めきれるはずがないんだ。仕方が無い、仕様が無い、運が悪かった……そんな一言で片付けられるほど、死は軽いものじゃないんだ。それでも、世界は諦めるように、慰めるように、動いている。どんなに願っても、死者を生き返らせることはできないのだから。そして、みんな諦めてしまうんだ。だからこそ、僕は君に頑張って欲しいと思っている。戦って欲しいと、願っているんだ」

「僕が……戦う?」

「そうだ。紫苑ちゃんのことは、人類史上初めてのケースだ。諦めざるを得なかった生を、諦めなくてもすむかもしれない、歴史的な出来事なんだ。だから戦って欲しい。生を諦め、死を受け入れざるを得なかった、大勢の人達のためにも」

「そんな……大袈裟ですよ」

 龍之助は思わず噴出してしまった。榎津医師の話が余りにも突拍子がなく、無限の広がりを見せたので、現実感という枠組みから外れた結果、喜劇となってしまったのである。榎津医師もそれは自覚していたようで、真剣そのものだった顔が笑みに崩れる。

「まぁ、君には幸せになって欲しいってことなんだよ。紫苑ちゃんと一緒にね」

 榎津医師は腕時計に眼をやると、改めて龍之助の両肩を叩いた。

「幸せになってくれよ」

 榎津医師の切実な表情に、龍之助も神妙な面持ちで応える。

「はい、わかりました」

 榎津医師は満面に笑みを浮かべると、慌てた様子で立ち上がり、踵を返して駆け出した。その先では、女性看護士が必死に手招きをしている。

 榎津医師の背中を見送ると、龍之助は冷めたコーヒーを飲み干した。辺りはすっかり暗くなり、人影もまばらである。ライトアップされた木々が、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 ふと、龍之助の携帯端末が震える。久留美からの着信であり、作業の終了を告げていた。龍之助は表情を引き締めると、空き缶を強く握り締めた。

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