- 紫苑 -

- Episode 3 -「ラブレターとサッカーボール」

 好きだ。その一言を書くために、龍之助りゅうのすけは多大な労力を必要としていた。今時珍しい本物の手紙の上で、これまた珍しい鉛筆の先が震えている。何度となく試み、その度に失敗を重ねた失意の輪廻を断ち切るべく、龍之助は息を止めた。一筆入魂。紙上に黒鉛が走り出した瞬間、割れんばかりの大歓声が沸き起こり、龍之助の想いは意味のない曲線へと変わった。勢いと失望の乗った筆先は手紙の枠を超え、卓上に無念の曲線を描き出し、溜め息と共に止まった。

 机に突っ伏した龍之助は、校庭側の窓に顔を向ける。傾きかけた陽が眩しく、龍之助は眼を細めた。放課後の教室は、薄いオレンジ色に染められている。いつもは賑やかで騒がしい二年生の教室も、今は二名の男子、龍之助と正人まさとを残すのみであった。

「今日は諦めて、こっちで観戦しようぜ、な?」

 窓際で正人が手招きし、龍之助は憮然とした表情で立ち上がった。歩きながら眼鏡を外し、眼鏡拭きでレンズを磨く。やがて、龍之助が隣に並ぶと、正人は率直な感想を洩らした。

「でもな、龍之助。手紙の一枚ぐらい、スパッと書けって。一応、男なんだからさ」

 龍之助は眼鏡をかけ直し、正人をぎこちなく睨んだ。

「一応は余計。それに、勧めたのは正人じゃないか」

「相談を持ちかけたのはお前だぜ? 感謝こそされ、非難される覚えはないね」

 龍之助には、返す言葉もない。全くもって、正人の言う通りだったからだ。龍之助が悩みに悩んだ挙句の果てに、相談を持ちかけた相手が正人だったことには、それなりの理由がある。

 正人こと菅原正人は、成績優秀かつスポーツ万能、明るく気さくな性格で、すらっと伸びた長身に短髪が良く似合う、周囲が認める好男子である。当然、女の子からの人気は高い。

 一方、龍之助こと守屋もりや龍之介は、何よりもその眼鏡が特徴である。龍之助は、お洒落で眼鏡をかけているわけではなく、正真正銘の近視であった。近視は眼科さえ行けば、ものの数分で治療できるが、龍之助はそれを拒否している。同級生にその理由を尋ねられたとき、龍之助は「近づけば見えるから」と答えた。それ以来、龍之助は変わり者だと思われるようになった。

 図書館でその姿が目撃されていることも、イメージに拍車をかけた。学校にある図書館は慣習のようなもので、実益には乏しい。図書館に納められた蔵書の情報量は、携帯端末の足下にも及ばない。それでも、世の中には紙の本の愛好家がおり、龍之助もその一人であった。

 眼鏡と本。この二つによって、龍之助という存在は他者から既定されていた。小柄な体躯や優しい顔立ちなどは、二の次である。こうした状況で明るさと社交性を見出すことは難しく、実際の龍之助もまた、良く言えば静かで落ち着いた、悪く言えば暗く内向的な性格であった。

 本来、正人と龍之助ほど接点が乏しい組み合わせもない。だが、二人の関係は親友と言って良かった。だからこそ、龍之助は正人に相談を持ちかけることができたのである。おそらく、晴嵐せいらん高校で一番女の子との付き合い方を心得ているであろう人物が親友である幸運を、龍之助は素直に喜んだものだ。だが、実際に相談を持ちかけると、正人は「恋はスピード勝負だ!」と断言。その結果、龍之助は相談日の放課後に、ラブレターを書くことになったのである。

「でもなぁ、ちっとばかし、龍之助にはハードルが高かったか……」

 正人は髪を掻き乱した。申し訳なさそうな様子に、龍之助は自分をより惨めに感じていた。

「ま、でも微妙な距離感だよな、幼馴染ってやつは」

「……うん」

 龍之助はうな垂れたまま答える。本当に厄介なものだと、龍之助は実感していた。

「ずっと一緒だったんだろ?」

「うん」

「お風呂なんかも、一緒に入っちゃったり?」

「うん……って、正人!」

 頷いた後、龍之助はすぐに顔を上げた。正人のにやにや笑いに、龍之助の頬が熱くなる。

「裸の付き合いまでしてるんだ、告白なんて、本当に今更って感じだよなぁ」

「む、昔の話だよ! そう、う~んと、子供の頃のっ!」

「それでも、一緒に入ってたって事実は変わらないだろ?」

「そ、そう? そりゃ、そうか……いや、でも、とにかくね、そんな深い意味はなくて……」

「おっ! 龍之助、見てみろよ! 神崎さんにボールが渡ったぞっ!」

 正人は窓から身を乗りだし、眼下の校庭を指差す。龍之助は金魚のように口をぱくぱくとさせていたが、憤りを表情に反映させる間もなく、促されるまま視線を移した。

 校庭では、女子サッカー部による他校との練習試合が行なわれていた。部員の数が足りないため、日頃はロボットを相手に練習を繰り返す部員にとって、生身の人間と試合ができる機会は貴重である。それは相手チームも同じで、多くの生徒が応援に駆けつけていた。とはいえ、こちらはホームである。応援席の観客の大半が、ブレザー姿の晴嵐生で占められていた。近年の女子サッカーブームも手伝って、練習試合とは思えない熱狂振りである。

 晴嵐高校の校章をあしらった、空色のユニフォームを身に着けた選手達。その中でも、一際目立つ女の子がいた。黒髪の尻尾が風に舞い踊る。ドリブルで相手チームのディフェンダーをかわし、そのままシュート。だが、惜しくもボールはゴールの脇に逸れた。残念そうな歓声が響く。シュートを放った選手は頭を抱えてしゃがんだものの、頭を振って再び走り出す。

「……いや~、惜しかったなぁ!」

「……うん」

「凄いな、神崎さんは。お前にはもったいないぐらいだ」

「そう……だよね」

 龍之助は溜め息交じりで答える。自分では釣り合わないことぐらい、百も承知であったが、改めて考えてみればみるほど、その傾きに眩暈を覚える龍之助であった。

「でもな、お前はそんな神崎さんの傍に最も近く、最も長くいる男なんだぞ?」

「そりゃまぁ、幼馴染だから……」

 龍之助は眼を細めて試合の風景を眺めながら、生返事を返す。正人の表情が険しくなった。

「龍之助、お前ほど自分の幸運に無自覚な男を、俺は他に知らないぜ?」

「そうかなぁ……」

「そうなんだよっ!」

 正人は龍之助の肩に腕を回すと、そのまま引き寄せて首を絞めにかかる。ただの悪ふざけだとは分かっていても、苦しいものは苦しい。龍之助は身を捩りながら情けない声を上げた。

「や、やめろって!」

「口で言っても分からん奴にはな、昔から実力行使って相場が決まってるんだよ!」

「わ、分かったからっ! くるし……」

 正人が腕を解くと、龍之助は両膝に手をついて咳き込んだ。恨めしそうに正人を見上げる。正人は涼しい顔をして、携帯を校庭に向けていた。シャッターが立て続けに鳴り響く。龍之助は身を起こすと、呼吸を整えてから疑問を口にした。

「いつから、そんなにサッカー好きに?」

 正人は悪戯っぽい笑みを浮かべると、携帯を差し出した。龍之助は怪訝そうに正人の表情を窺いながらも、携帯を受け取る。画面を覗き込むと、龍之助の顔が一瞬で赤く染まった。

 画面に映し出されていたのは女子サッカー部員の活躍……ではなく、身体だった。それも、お尻とか胸とか、局地的なショットである。撮影者の煩悩を反映したのか、本来の健康美がやけに生々しい。画面を切り替える度に、胸、お尻、太股、お尻のオンパレードである。

「何を撮ってるんだよっ!」

「龍之助。俺はな、常々自分の欲求には正直でいようと思っているんだ」

「……正直すぎるのも、考え物だと思うよ」

「とか言って、熱心に見てるじゃないか、ん?」

 指摘され、龍之助はあたふたと取り乱した。だが、その視線は画面から離れない。

「ち、違うって! 僕はね……あ、やっぱりそうだ!」

 正人が首を傾げると、龍之助は画面を指差して声を上げた。

「これ、全部、紫苑しおんじゃないか!」

 龍之助の言葉に、正人は眼を丸くして驚いた。

「……お前、よく分かったな」

 龍之助は改めて携帯の画面を見る。ゆっくりと画像を切り替える。胸、おしり、胸、胸。

「紫苑でしょ、これ?」

「だから、何で顔も見ないで分かるんだよ?」

 龍之助の指先が止まる。確かに、どの写真も顔は映されていなかった。

「……いや、さすがだよ、うんうん。一緒にお風呂に入っていた仲だけのことはある」

 龍之助は顔を赤くしたまま、携帯の画面に眼を落とした。いくら画像を切り替えても、幼馴染の体しか出てこない。……一体、何枚撮ってるんだよ! ……龍之助は苛立ちを感じながらも、ボタンを押し続ける。すると、不意に見慣れた表情が飛び込んできた。

 画面一杯に、太陽のような笑顔。高い鼻、桜色の唇。髪は前髪と後れ毛しか映っていない。吊り目がちの瞳は勝ち気だが、その鋭さを屈託のない笑みが柔らかく包み込んでいる。

「……これは、隠し撮り?」

「失礼な奴だな。これはな、頼まれたから撮ったんだよ」

「紫苑に?」

「ああ。この携帯は画質が売りだろ? だから、じゃあ撮って、となったわけだ。俺は慎ましく撮ろうとしたんだが、シャッターを押す直前、神崎さんが飛び込んできてな」

「何やってんだか……じゃあ、それって最近のこと? どうも、記憶にないんだけど……」

「二週間ぐらい前だな。その時はお前、図書館に行ってたんだよ」

「あーっ……あの時か……」

 龍之助は頭をかいた。二週間前の図書館。そこで全ては始まったのである。

「そこで龍之助は幸運を手にし、俺はささやかなお零れに預かったわけだ」

「幸運、なのかなぁ?」

「……また首を絞められたいか?」

 龍之助は慌てて手を振った。確かに、男の子が女の子から好意を伝えられることは、不幸に属する類のことではないだろう。だが、それも相手によるものだということを、龍之助は身にしみて感じていた。それは、相手に非があるということではなく、あえて言うならば、神様の悪戯……そうだとしか思うことができない、龍之助であった。

「それ、望遠にすれば神崎さんもはっきり見えるぜ? ……ほら、もうロスタイムだぞ」

 正人は龍之助から携帯を取り上げると、設定を切り替えて再び手渡す。龍之助は画面を見て嘆息した。二階から見ているとは思えないほど、画像は鮮明に映し出されている。

 めまぐるしく動き回る選手を、一つの画面に捉えることは至難の業だった。違う選手の姿が映ることもあったが、龍之助は脇目も振らない。その熱意が実り、やがて龍之助は紫苑の顔を捉えることに成功した。真剣な表情でありながら、必死さよりも楽しさが滲み出ている。

 額の汗すらも映し出す映像に、龍之助の携帯を握る手に力が篭る。次の瞬間、紫苑が画面に視線を向けた。龍之助は内心どきりとしたが、それは数ある偶然の一瞬に過ぎないと、我が身を落ち着かせる。だが、次の瞬間、龍之助はそれが思い違いであったことを知る。紫苑が不適な笑みを浮かべたのだ。龍之助は思わず画面から顔を離した。

「何か面白いものでも見えたのか?」

 正人のからかうような口調に、龍之助は大きく頭を振った。正人は校庭に視線を戻す。

「二対0。あと一点で、ハットトリックだったんだがなぁ」

「……いや、まだ諦めてないよ」

 龍之助の予言に、正人は首を傾げた。……点数は勝っている。後はホイッスルを待つばかりの状況で、ゴールを狙う必要は……そんな正人の考えを、紫苑はあっけなく打ち破った。

 センターラインまで下がっていた紫苑が、ボールを受け取るや否や、相手ゴールに向かって猛然と走り出したのだ。相手チームのディフェンダーを抜き去った紫苑は、やや強引にロングシュートを放つ。際どい軌跡であった。ボールはゴールポストに直撃したが、その角度が内側だったことが幸いし、ゴールネットに向かって跳ね返る。それが、三点目となった。そして、試合終了のホイッスルが鳴り響く。大歓声が沸き起こり、紫苑はチームメイトからもみくちゃにされた。その大騒ぎを見下ろしながら、龍之助は止めていた息を吐き出す。携帯を持つ手が汗ばんでいた。正人も溜め息をつき、勝者へと賞賛の拍手を送る。

「まいったな」

 正人は小さく呟いた。龍之助は携帯を閉じると、礼を言って正人に差し出す。携帯を返却すると、龍之助は校庭に眼を転じた。ぼやけた視界の先で、試合後の礼を終えた紫苑が、チームメイトに囲まれながら応援席へと歩いている。だが突然立ち止まると、振り返って顔を上げ、大きく手を振り出した。すると、周囲の視線が一斉に校舎へと向けられる。正人は笑顔で手を振り返す余裕があったが、一方の龍之助はたじろぎ、後退った。

「龍之助、答えてやれよ。神崎さん、ずっと手を振ってるぞ?」

「そ、そんなこと、できるわけないじゃないか!」

 龍之助が振り返って窓際から離れると、その背中に大きく鋭い声が投げかけられた。

「こらーっ! りゅーのすけーっ! 無視するんじゃなーいっ!」

 龍之助は思わず転倒しかけたが、机に手をかけて何とか踏み止まった。龍之助がよろめきながら身を起こす間にも、校庭から紫苑の声が響いている。

 龍之助はゆっくりと拳を握り締めると、回れ右して窓際につかつかと歩み寄る。窓枠を両手で掴んで身を乗り出し、眼下に向かって声を張り上げた。

「大声で呼ぶんじゃないっ!」

 一瞬の静けさを挟んで、反論が響き渡った。

「りゅーのすけが、無視するからでしょっ!」

 紫苑は両手でメガホンを作り、二階の龍之助に向かって叫び続ける。周囲を取り囲むチームメイトや応援席の面々は、呆気にとられた様子で声もなく成り行きを見守っていた。

「別に無視したわけじゃ……」

「じゃあ、なんだっていうのよーっ?」

 注目を集めることが苦手だとか、単に恥かしかっただけとか、こういうニュアンスを紫苑に伝える為にはどうすればいいのか……龍之介には検討もつかなかった。

「こらっ! りゅーのすけっ! はっきりと言いなさい! 男の子でしょっ!」

 売り言葉に買い言葉。龍之助は反射的に言葉を返す。

「う、うるさいな! 紫苑には関係ないだろ、ほっといてくれ!」

「何をーっ! 関係ないとはなによ、関係ないとはっ!」

「関係ないから、関係ないっていったんだよ、この馬鹿っ!」

「どっちが馬鹿よっ! 馬鹿っ! 馬鹿っ! 馬鹿っ! 馬鹿―っ!」

 かくして、語彙の貧相な舌戦が幕を開けた。そんな二人の攻防を、校庭に設けられた応援席から眺めている二人の女子生徒がいた。一人は長身でショートカットの女の子。もう一人は、上品な黒髪を長く伸ばした女の子である。紫苑の親友、奈津子なつこ深雪みゆきであった。

「何、この茶番は?」

 奈津子は両腕を組んで立ち尽くし、うんざりとした表情で感想を口にした。その傍らでは、パイプ椅子に腰掛けた深雪が白い手を頬に添え、うっとりとした表情を浮かべている。

「二人とも、とっても楽しそう……」

 そんな深雪を横目に、奈津子は俯いて溜め息をつく。

「……深雪、あんたね、何であの状況を見てそういうことが言えるの?」

 奈津子が指差す先では、龍之助と紫苑が「馬鹿」の応酬を繰り広げている。

「ああやって、お互いの気持ちを素直にぶつけ合える関係は、素晴らしいと思いません?」

「あんたってば、ほんとーにプラス思考よね」

 奈津子はそう答えると、改めて二人の様子を眺める。言われてみれば、スポーツの真剣勝負に見えないこともない。……それにしても不器用な話だと、奈津子は思った。

「まぁ、痴話喧嘩はチワワも食べないっていうしね」

 なおも口論は続く。仏頂面の奈津子と、笑顔で見守る深雪。やがて、深雪は優しく囁いた。

「なっちゃん、今のは駄洒落?」

「……そこは流してよ、頼むから」

 奈津子が少し恥かしい思いをしている間に、龍之助と紫苑の言い争いは佳境を迎えていた。

「さぁ、りゅーのすけっ! そろそろ観念しなさいっ! これは最後通牒よっ!」

 紫苑はきっぱりと言い放つと、チームメイトが小脇に抱えていたサッカーボールを拝借し、軽快にリフティングを始めた。息も絶え絶えの龍之助は、背筋に嫌な予感を覚える。

「あと三秒だけ時間をあげるっ! それまでに謝らなければ……実力行使あるのみ!」

「きょ、脅迫するなんて、ずるいぞっ!」

「さーんっ!」

「ど、どうしよう? 正人~っ?」

「にーっ!」

「……知るか。もう、勝手にやってくれ」

「いーちっ!」

「そ、そんなぁ……紫苑っ! わかったから、落ち着い……」

「ぜーろ!っ!」

 そう言うが早いか、紫苑は一際高く上げたボールの落下にあわせ、強烈なキックを放った。

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