- Episode 2 -「アンドロイドの心」

 2101年。二十二世紀を迎えた日本は、少子高齢の極致であった。環境汚染、自然災害、天然資源の枯渇、そして戦争。先人は多くの不安を未来に抱いていたが、それらのどれよりも確実に訪れると予測された問題でありながら、対策が後手に回ってしまった故である。

 二十一世紀を半ばにして人口は一億を割り込み、国民の二人に一人が六十五歳以上の高齢者という非常事態を迎えてもなお、抜本的な解決策が示されることはなかった。

 年々伸び続ける平均寿命は、二十二世紀を間近にして百歳を超えた。その一方で、出生率は0に近い水準で停滞している。高度に発展した医療技術は平均寿命を押し上げたのだが、実現可能となった人工出産は倫理の面で規制され、出生率に影響を与えることはなかった。

 この状況下で、若者が高齢者を支えるという構図は、物理的にも精神的にも難しかった。高齢者が高齢者を介護する姿も、珍しいものではない。自ら進んで、あるいは見捨てられて、路頭に迷う高齢者も後を断たたず、「高齢者難民」という言葉も生まれた。

 老人介護福祉は、事実上破綻していると言ってよかった。全ての若者が介護福祉に携わっても人手が足りない現状に加え、圧倒的な労働力不足という問題もある。それは、年々増加する外国人労働者をもってしても、補い切れるものではなかった。

 国の宝、子供達は、国を挙げて保護と育成がなされていたが、一つの国を支えるにはその数が余りにも少ない。高齢者は長寿を手にしても不老ではなく、労働力を支える尖兵とはなりえない。そのため、日本は二十二世紀を待たずに崩壊するのではと、国民は不安を抱えていた。

 それでも、日本は存続していた。まさに救世主とも言うべき存在によって、日本の少子高齢に関わる諸問題は、解決とは言わないまでも大幅に改善されたのだ。その救世主とは、人々の願いが具現化したものであった。人型ロボット、アンドロイドの登場である。


 2050年。人間とロボットによる、サッカーの試合が催された。それは、近年のロボット技術の発展を発表するお決まりの余興だと、誰もが思っていた。試合が終わるまでは。

 ロスタイム直前のスコアは9対0。人間チームは軽々と得点を挙げた。対するロボットチームは、ブロックを組み合わせたような不恰好な人型でありながら、器用にボールをドリブルしたり、シュートをしたりと多彩な動きを展開し、その一挙手一投足に歓声が上がった。

 ロスタイムに突入し、誰しもそれ以上の展開を望まなかった。ロボットも進歩しているけれど、まだまだ人間には敵わないな……そのような結論が、雰囲気として漂っていた。しかし、試合は動いた。ロボットチームが巧みなパスワークを見せ、一瞬の隙を突いてゴールを奪ったのである。悲鳴のような歓声が一転、スタジアムが静寂に包まれた。偉業を達成したロボット達は両手を振り回してアピールするわけでもなく、淡々とセンターサークルに集まっていく。ロスタイムは過ぎ、試合は終わっていたのだ。

 1997年。チェスの世界チャンピオンにコンピューターが勝利した。当時は人間のようにものを考えるどころか、人間よりも賢いコンピューターが出来るのではないかと、世界中の注目を集めた。実際、人工知能の研究も盛んに行なわれるようになった。だが、チェスでの勝利は莫大なデータベースと途方も無い計算結果の産物であり、あくまでコンピューターがチェスで人間に勝利した、という事実を示しただけに過ぎなかった。

 だが、ロボットがサッカーで人間を出し抜いたことの意義は大きい。もちろん、ロボット達は中枢となるコンピューターと無線通信をしていたし、そこでは毎秒数千億回の演算が行なわれていたことも事実だが、実際に動いていたという点でチェスのコンピューターとは異なる。走ってボールを奪い、ドリブルをし、パスワークも行なう。それらの動作を、ロボット独自の動きではなく、人間の動きで実現したのだから。そこには、車輪もキャタピラもなかった。

 これにより、ロボットの運動性能は人間に近いレベルまで実現可能なことが証明されたが、それはあくまでロボットであり、アンドロイドという用語はSF世界を出るものではなかった。だがついに、二十一世紀後半になって、アンドロイドを一躍有名にする人物が現れる。


 神崎英雄博士。世界でも珍しいアンドロイド専門の科学者は、人間らしいロボットの製作に情熱を燃やしていた。彼の言葉を借りれば、「鉄腕アトムを作りたい」ということになる。

 今やロボット研究はメジャーなものとなったが、アンドロイド研究となると、その知名度や評価は格段に低下する。人型ロボットにどんなメリットがあるのか……アンドロイドに付き纏うこの問題に答え得るのは、漫画やアニメ、ゲームの世界ぐらいであった。だが、神崎博士はそうした声を気にすることもなく、鉄腕アトムの完成を目指して研究を続けていた。そして、その成果が思わぬところで認められることになる。

 医療介護とロボットは、切っても切れない間柄である。医療においては、困難な手術に精密なロボットアームが不可欠であるし、極小のロボットを体内に取り込ませることで、健康状態をチェックする技術も、現実のものとなっていた。介護においても、様々な機能を備えた電動車椅子や自働ベッドは、ロボットの一種である。食事を運んで食べさせたり、入浴を手伝ったり、さらには下の世話まで担当する介護ロボットの研究開発は、盛んに行なわれていた。

 介護ロボットに求められることは多岐に渡るが、その中でも特に要介護者が望んだことは、「人間に介護されたい」というものであった。その要望に答えるべく、介護ロボットの外観は人間化が進んだ。元々、介護ロボットは上半身が人型であったり、ディスプレイに顔が表示されたりするタイプが多かったので、その進歩は目覚しいものであった。しかし、容姿がある一定のまで人間に近づくと、逆に嫌がられてしまうという問題が浮上した。似ているけれど何かが違う……その違和感が、たまらなく不快だというのだ。この問題を回避するべく二つの方法が考え出された。一つは、不快さを感じない段階まで人間らしさを抑えること。もう一つは、不快さを感じなくなるほど人間らしくすること。神崎博士の研究成果は、後者によって生かされることになった。神崎博士のアンドロイド技術は、実用に耐え得ると判断されたのである。

 実際、その精度は極めて高く、神崎博士の双子の弟だと周囲に信じられていた人物が、実はアンドロイドの試作品だった……という事実でも明らかであろう。

 神崎博士のアンドロイドは、多くの要介護者から熱烈な歓迎をもって受け入れられた。機能は同じでも、見た目や仕種が変わるだけで、親しみやすさが段違いだったのである。

 そして、アンドロイドはビジネスとなった。それは神崎博士の望んだことではなかったが、結果的に研究費も大幅に増加し、知名度も高まり研究がしやすくなったことも事実である。

 介護で成功を納めたアンドロイドは他の分野からも注目され、普及の波は瞬く間に広がっていった。何しろ、この労働力不足である。必要とする人材の枯渇に嘆いていた企業にとって、自由に使える労働力を確保できることは、何よりも得がたいことだったのだ。普及が進むほどにアンドロイドの費用対効果も向上し、アンドロイドはさらに様々な分野へと広がっていく。

 これにより、深刻な労働力不足は大幅に改善された。だが、それでもなお、アンドロイドの普及は止まらなかった。それは、就職希望者の働き口を減らすだけに留まらず、現在働いている労働者の職を奪う結果を伴った。ある一定の仕事を、休みもなく、安価なメンテナンス代だけで、法律の枠に捕らわれることなく酷使できる……雇用する立場にとって、これほど使いやすい「人材」はなかった。何しろ、労働者の権利を守るための法律が乱立し、過酷な労働条件では人を雇うことができないという現状がある。敷居の高い労働条件を満たす人材を待つよりも、アンドロイドにできる仕事はアンドロイドに回し、空いた時間で重要な仕事を任せ得る人材を育成していく……こうした風潮が、大企業を中心に広がっていった。

 当然、行き場をなくした就職希望者や、解雇された労働者は反発を強めた。デモ行進が連日行なわれ、各地でアンドロイド反対が叫ばれたが、普及の波が滞ることはなかった。

 

 そんな中、悲劇的な事件が起こる。神崎博士の研究所で爆弾テロが発生し、神崎博士を含む多くの研究員が命を失ったのである。神崎英雄。享年三十五歳。その早過ぎる死は、アンドロイドの発展にとって、大きな痛手となることは間違いなかった。

 神崎博士は若きアンドロイドの権威として世界中に知れ渡っていたため、反アンドロイドを掲げる団体による報復だとか、ついに完成したアトムが反乱を起こしたとか、その原因は色々と取り沙汰されたが、警察の大規模な調査にも関わらず、真相は闇の中であった。

 

 二十二世紀を迎え、アンドロイド犯罪は増加と凶悪化の一途を辿る。中でも、違法な手段でアンドロイドの制御権を奪い、自らの手を汚すことなく犯罪を行なう「ブレインジャック」が問題視されるようになった。アンドロイドが身近な存在になるにつれ、アンドロイドが人間社会に与える負の影響を、誰もが無視できなくなっていたのである。とはいえ、アンドロイドによって国の体裁を保っている日本が、今更アンドロイドを撤廃することはできない。そこで、政府は凶悪なアンドロイド犯罪に対抗するため、新たな警察組織の発足を決定した。

 対アンドロイド犯罪特別機動隊。通称「イージス」の誕生である。


 関東圏の某所にある巨大な研究施設が、イージスの本拠地であった。警察組織といっても、イージスはその性質上、職員の大半がロボットやアンドロイドの技術者で占められている。

 数ある研究室の中でも、最も重要かつ最先端の設備が揃えられた場所がある。そこでは今、一人の傷付いたアンドロイドが、その治療を終えたところであった。


 白く透き通るような肌。まっさらな手の平を、シオンためつすがめつ眺めていた。握ったり開いたりと、動作チェックにも余念が無い。満足のいく仕上がりに、シオンは頷いた。

「やりすぎだ」

 シオンは声の主に視線を向ける。ガラスで仕切られた向こう側で、白衣姿の久留美くるみがスクリーンを眺めていた。四十代半ばとなっても黒髪は艶やかで、老いを許した様子はない。

「相手のスペックを見る限り、皮膚を傷つけるほどの力など必要ないだろう?」

「そうだけど、今回はちっとばかし、数が多かったから」

 人間が操作する、アンドロイド同士の乱闘。賭け試合の八百長疑惑が発端となった争いは、シオンが現場に到着した時点でピークに達しており、二つのグループが所有するアンドロイド総勢二十四体による、壮絶なバトルロワイアルが展開されていた。シオンは言う。自分は仲裁を買って出たのだが聞き入れて貰えず、「しょーがない」ので実力行使に踏み切ったのだと。

「私としては、フホンイだったんだけど……」

「いきなり紫色の髪をした女性が現れたかと思うと、問答無用でアンドロイドを壊し出した。その最中、女性は『リューノスケノバカ』と声を張り上げていた……という証言もあるが?」

 久留美の視線から逃げるように、シオンはこそこそと研究室の出口へと向かう。

「待てシオン。まだ検査は終わっていないぞ」

 自動扉を半分抜けたところで、シオンは振り返った。白い手をひらひらと振って見せる。

「平気、大丈夫。これだってほっときゃ治るのに、アンジュが行け行けって言うから……」

 遅ればせながら駆けつけたアンジュの視界に飛び込んできたのは、そこら中に転がるアンドロイドと、それを量産するシオンの姿だった。アンジュはグループのリーダー格の男に事情を聞こうと歩み寄ったが、アンジュが声をかけるよりも早く、男はアンジュに懇願したという。

「あ、あの女を止めてくれっ! 俺達の、俺達のアンドロイドが、全部壊されちまうっ!」

 男の予想は当った。シオンは壊す対象がいなくなるまで暴れ続け、最後には天高く拳を突き上げ、勝利を宣言した。だが、その手の皮膚は著しく損傷しており、アンジュがそれを指摘。久留美の所へ行くようにと、強く勧めたのである。いくら拒否しても頑ななアンジュの態度を不審に思ったシオンは、どういう事かと問い質した。だが、アンジュの答えはそっけない。

「教えてあげません」

 シオンは面くらった様子で眼を丸くし、次いで笑みを浮かべた。

「やればできるじゃないっ!」

 ……ともあれ、パトロールはアンジュに任せ、シオンは大人しく治療を受ける事になった。「痛み」はある程度調整が効くので気にならなかったが、グローブをつけ忘れて戦いに臨んだツケは、シオンも眉をひそめるものだったのである。

 シオンの皮膚はナノスキンと呼ばれる修復機能を備えた人工皮膚で、その質感は人間の皮膚と遜色が無い。そのため、その強度も人間の皮膚と同等であり、衝撃に強いとは言えない。修復機能も人間の皮膚よりは直りが早いといった程度で、久留美には「ほっときゃ治る」と豪語したものの、それにはかなりの時間を必要としたであろう。

 それでも、シオンは研究所での治療を避ける傾向があった。安いとはいえない治療代に心を痛めて……のことではない。日本屈指の精密機械のメンテナンス代に、お偉方がどんなに頭を悩ませようが、一向に構わないシオンである。治療にも不安は無い。何しろ、世界有数の……シオンは最高だと思っているが……アンドロイド科学者が担当しているのだから。だが、他でもないその科学者本人に対して、シオンは苦手意識を感じていた。嫌いというわけではなく、むしろその逆なのだが、どうしても、見えない一線を感じてしまうシオン。そんなフクザツな想いを知ってか知らずか、久留美は淡々と言葉を続ける。

「身体は問題ない。検査が必要なのは頭だ」

 シオンは思わず両手で頭を押さえた。その表情が不安で歪む。

「……ぜぇったい、龍之助のせいよっ! 何かっていうと、バシバシ叩くんだからっ!」

「心当たりがあるのは結構だが……まさか、明日が何の日か忘れたのか?」

 きょとんとするシオンに、久留美は小さく溜め息をついた。

「……お前の記憶に制限を加えたのは、間違いだったか」

「そ、そんなことないって! ちょ、ちょっ~っと、待っててねっ!」

 シオンは慌てて携帯端末を取り出す。少し操作を間違えながら、スケジュールを確認する。

「……えっと……くがつにじゅうに……」

 シオンはそのまま固まった。そこには大きく「休暇」と書かれていた。それ以外の情報は、何も書かれていない。シオンは小さなディスプレイを睨みつけながら、必死に記憶を探る。

 シオンは本来、「忘れる」ということができない。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、全ての感覚器官を通じて得た情報は、余すところなく電子頭脳に保存されている。まばたきや呼吸の回数ですら、情報の一つとして格納されているのだ。だが、シオンは格納された記憶に対するアクセス権に制限を設けているため、全ての情報を自由に取り出すことはできない。一度アクセス権を失った情報は「思い出す」しかないが、その試みは困難を伴うことが常だった。

「……うーん、降参っ!」

 シオンは携帯を閉じてお手上げした。久留美は時計に眼をやる。午前2時を回っていた。

「もう今日になったな。十年前の今日、お前は生まれたんだ」

 久留美はそこで言葉を切ったが、シオンからの返答は何もなかった。

「……厳密に言えば、お前の心が生まれた日、ということになるな」

「へぇ、そうなんだ」

 シオンは感心したように呟いた。久留美は不思議そうにシオンを見つめる。

「……随分とあっさりしているんだな。自分の誕生日だというのに」

「だって、そんなこと言われたの、初めてだし。そんなの、今まで話題にもならなかったし」

「慌しいところだからな、ここは。事件は時を選ばない」

「……それでも、きっかり有給とってる奴はいるけど」

 シオンは不機嫌さを取り戻したかのように、両腕を組んだ。久留美はシオンに声をかける。

「意外だったな。誕生日と知れば、もっと騒ぐと思っていたが」

「私が? ……うーん、全っ然、実感が沸かないからなぁ。それに……」

「それに?」

「誕生日って、人間のものでしょ?」

 シオンは寂しげな笑みを浮かべる。深海のような瞳が、僅かに陰った。

「私は、生まれたわけじゃなくて、作り出されたんだよね? ……目的を持って。生まれることはそれだけで素敵だけれど……私は、そうじゃない」

 シオンは歩いて壁の前に移り、背を預けて俯いた。持ち上げた片足の裏を、壁に合わせる。

「……お前は、人間になりたいんだろう?」

 久留美の声に、シオンは顔を上げた。その表情は硬い。紡がれる言葉も硬く響いた。

「本物の人間は、人間になろうとしなくても人間だから。その差ってのはあるよね。いくら人間に近づいても、出来ないことは沢山。生まれることもその一つだし、他にも……」

 シオンはそこで言葉をつぐんだ。自分の表情に気付いたのか、ぎこちなく笑みを浮かべる。

「私こそ意外だよ。まさか、博士が誕生日の話をするなんて。いつもの博士なら、『製造年月日にどんな意味があるんだ?』とか、言ってそうなのに」

「そうだな。私は誕生日にこだわりを持ったことはない。祝って貰った記憶もない。ただ、私とて誕生日会に招かれたこともあるし、祝ったこともある」

「へぇ~っ! それも意外! 一体、誰の誕生日だったの?」

 シオンは驚きで眼を丸くすると、興味津々といった様子で久留美を見つめた。久留美はどこか遠くを見るような眼差しで答える。その口元に、微かな笑みが浮かんだ。

「……さて、誰の誕生日だったかな」

 はぐらかされ、シオンは不満そうに唇を尖らした。久留美は表情を引き締める。

「では、話を検査に戻そう。改めて言うことでもないが、シオン、お前は世界初の心を持ったアンドロイドだ。言い換えれば、人類が出会った初めての他人、ということになる」

「認める人は少ないけどね」

 シオンの答えに、久留美は頷いた。世界初の完全自律型アンドロイドとして認められているのは、日本製の介護ロボット「アポロ」である。これが発表されたのが二○六二年。それから四十年余りの時が流れ、アンドロイドの性能は飛躍的に向上し、人間と遜色のない外観を持つものも少なくない。だが、どんなに人間らしく振舞ったとしても、アンドロイドが心を持ったと判断されたことはない。シオン、アンジュにしても最新型のアンドロイドだという認識は持たれていても、心を持っているという件に関しては、納得していない者が多い。……彼女達は本当に心を持っているのか? ……そう訊ねられると、久留美はこう答える。

「私は心を持っている、と思っている。だが、その考えを押し付けようとは思わない。ただし、何を持って心があると判断するのか、その明確な指針を提示して貰えれば、シオンとアンジュはその全てを満たすことができる、とだけ言わせてもらおう」

 多くの質問者はぐらかされた気分のまま引き下がったが、時にはこんな声も上がった。

「心というものは、人間にしか持てないものでしょう?」

 そのような意見に対して、久留美は努めて冷静に答える。

「ただ人間であれば持てるようなものなど、シオンとアンジュには必要がない」

 シオンとアンジュには心がある……そう思うことに意味があると、久留美は思っていた。

「シオンの存在は人類にとって未知なるものだ。この十年、お前には問題らしい問題は認められていない。……随分と性格は変化したが、それは望ましいものだと判断することができる」

「……私って、前からこんな感じじゃなかったっけ?」

 シオンは自分の顔を指差す。そんな仕種自体、以前のシオンには見られなかったものなのだがな……そう思いながら、久留美は先を続ける。

「内面の変化は自分では気付きにくいものだ。常にあるものだからな、気にすることはない。だが、これまでは順調だったが、これから先もそうであるという保障は、どこにもない」

「ま、またまた~、そんな怖いこと、さらっと言っちゃって」

 シオンは自慢の髪を忙しくいじる。腰まで延びるその長さは、昔も今も変わらない。

「前例がないんだ、シオン。お前の未来は、心あるアンドロイドの未来そのものなんだ。このまま久遠の時を歩むのか、徐々に劣化していくのか、ある日突然、失われてしまうのか……」

「やだやだっ! それは勘弁っ! 私、まだまだ死にたくないもんっ!」

 シオンは髪を振り乱して抗議する。手足をばたつかせ、駄々っ子もいいところだ。

「心が失われても、体が動かなくなることはないだろう。新しい心を入れ替えれば……」

「そんなの、意味ないじゃないっ!」

「……そうだ、そうだったな」

 久留美はこめかみを指先で押さえると、軽く頭を振った。

「まぁ、突然失われる、ということはないだろう。十年は決して短くない時間だ。シオンの心はまず安定しているといっていい。だが、念には念を……ということだ」

「なんだぁ、そーいうことか……」

 シオンはほっと胸を撫で下ろす。シオンの身体は頑丈にできている。病気とも無縁だ。そんなシオンにとって、自分の心の問題は、何よりも敏感になってしまう部分であった。

「じゃあ、さっさっと終わらせよっ! 何といっても、貴重な休日なんだから!」

 シオンは研究所の中心へと向かって駆け出した。扉を抜け、螺旋階段の手摺に腰掛けると、一気に滑り降りる。その先は、天井の高いドーム状の空間であった。その中央に、地面から天井を貫く巨木がそびえ立つ。その正体は、絡み合った無数のコードと、作業用アームである。

 シオンが巨木の根元に立つと、コードとハーネスが降りてくる。シオンは後ろ髪を片手で束ねて持ち上げると、空いた手でコードを掴み、慣れた手付きで首筋に接続する。すると、久留美が見詰めるスクリーンに文字が走り始めた。シオンの身体がハーネスで固定され、宙に浮かび上がる。そこで思い出したように、シオンが顔を上げて声を張り上げた。

「痛くないよね?」

「無論だ。だが、痛くすることもできるぞ?」

「痛くない方向でっ!」

「承知した」

 スピーカー越しの声に落ち着きを取り戻し、シオンは両膝を抱えて丸くなる。

「心の検査って、どんな感じなんだろう?」

「推測を言えば、夢を見ることになるだろうな」

「夢?」

「心と記憶は密接に関わっている。それらの情報を走査し、劣化や欠損がないか調べる。その過程で、意識下に過去の情報が読み出されることは、充分予想される」

「へぇ、どんな夢かな。昨日は、巨大ゴキブリを退治する夢を見たけれど」

「……それは良かったな」

「こっちの準備はオッケー。博士、いつでもどうぞ!」

「分かった。では始めるぞ」

 久留美の指先がキーボードを滑らかに叩く。重低音が部屋を満たした。シオンの意識が消失し、記憶の走査が始まったことを確認すると、久留美はシオンに視線を向けた。体育座りの姿勢で、口元には僅かに笑みを浮かべている。

「良い夢を」

 久留美はそっと呟いた。

 

 シオンは闇の中にいた。何も聞こえないし、感じない。匂わないし、味もない。そんな状態がどれだけ続いたのか、シオンの足元に、ころころと球体が転がってくる。

 シオンは球体の正体を知った。サッカーボールである。シオンはつま先でボールを蹴った。ボールはころころと転がっていく。シオンは走り出した。

 ひどく懐かしい、馴染みのある感触。やがて、行く手に光点が現れ、みるみる内に広がっていく。まるで、トンネルの出口のようだ。

 今や世界は、静寂ではなかった。自分の息遣いが聞こえる。ボールを蹴る音、響く歓声。肌が風を感じ、乾いた土が香る。そして、眩いばかりの光。それは……。

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