第16話 佑樹(五)

深夜二時。佑樹は長い瞑想の旅から戻り、足を解いて床に大の字になった。

長い精神の旅から戻ると、いつも感じる疲労感が今日は軽くなった気がする。

世田谷にある自分の部屋で組むよりも、断然瞑想に入り込みやすかった。愛染明王の坐像は、佑樹の内なる『意識』が、妙な動きをしないようにしっかりと睨みを効かせてくれていたし、その後ろから部屋全体に彩色さらた深紅の炎は、佑樹の正義の気持ちを奮い立たせてくれた。

佑樹は用意しておいたペットボトルの水を一気に飲み干し、また寝そべりながら、たった今終えた意識の連続飛翔の結果を思い起こした。

今は何もできることはない。日が登ったら勝負をかけよう。

そう考えると佑樹は、こんな大仕事をこんな短時間で可能にした円徳寺の威厳と、いくつもの精霊の鎮座するパンテオンについて思いを巡らせた。


昨夜、久佑は昔と変わらない矍鑠とした姿勢で佑樹を迎えた。

「おい。そんな所でボンヤリ何をしとる」

佑樹が門の前で、香焚や市内南部の全景を見ながら物思いに耽っていると、いきなりそんな大声をかけられた。佑樹は振り返ってその声の主を見やった。

声の印象では、佑樹がこの家を出ていった十五年前と変わらない姿を想像したが、やはり寄る年波には勝てないのか、身体が二回りほど縮み、肉もつくべき所にはつかず、つかなくてもいい所についているように感じた。

「爺さん。久しぶり」

佑樹がそう言うと、

「馬鹿たれ。うちに帰ってきたときは『ただいま』じゃろうが」

と、相変わらずの説教臭さだった。しかし、そんな説教臭さが妙に懐かしく、そしてまた温かかった。

「それを言うなら『何をボンヤリ』じゃなくて、『おかえり』だろ」

そう憎まれ口を言うと、住職はニヤリと笑った。

久佑から、まず母さんに顔を見せろと言われ、佑樹は幹子のいる離れに行った。

もう夕方も終わり頃だから暗くはなっているが、昼間は日当たりのいい部屋の中央に、布団を敷いて眠っていた。もうすぐ還暦とは思えないほど若々しい。幼稚園児ほどの知能も持たないことも理由だろうか。

佑樹が一才になった頃、佑樹がぐずるのを幹子が抱いてあやしていたときのことだ。佑樹は眠り始めたのだが、抱っこしている幹子も一緒に寝入ったように久佑には見えたという。

しかし、実際は初めての『巣食い』の力を佑樹が発現したのだった。

結果、幹子は十八才までに獲得した年相応のずる賢こさとか、世間に合わせた嘘などの『悪』と、それに付随する感情の一部をなくしてしまった。

佑樹が家を出る直前には、その知能も小学生低学年くらいには「成長」していたのだが、久佑との手紙で、近頃幹子がその僅かな知識も少なくなったように見えるという事だった。

今は起き上がることも少なくなり、話もできない状態になっていったらしい。

赤ん坊のように何も心配事がないような顔で寝ている幹子を見て、ここにも違う意味で時間が過ぎている証を見せつけられ、親不孝だった自分の行いを、今さらながら反省する佑樹だった。

リビングに戻ると、お茶を飲んでいる久佑がいた。

久佑には聞いておかなければいけないことがあった。

「実は、駿太郎の妹が原因不明の熱を出して、一時は生死もあやふやな状態だったんだ」

佑樹が今回の帰省の件を話し始めた。

「ほほう。時津なんとかという小僧じゃのう。懐かしいのぉ。で、その妹がお前の彼女か?」

あくまで茶化そうとする久佑を、真顔で否定し、続けた。

「その熱なんだが、どうもおれが力を使った時の症状と似てるらしいんだ。それに、他にも同じような症状の患者が増えているらしい。爺さん、何か聞いてないか?」

駿太郎は佑樹の『巣食い』の力について知っている。久佑もそのことは承知のことだろう。言葉にはしないが、佑樹以外にこの能力を使える人物の存在を尋ねた。

「ふむ。お主のあの力は、土雲家に伝わる秘力じゃ。お主以外に使えるものはいまい」

「だろうな。わかったよ。まぁ、心配するほどのことでもないだろうがな」

佑樹がそう言うと久佑は、

「心配はしてしすぎということはない。悪いことは心配事のない時にやってくるもんじゃ。わしも一応目を光らせておく」

そう言うと、久佑はもう会話に飽きたかのように、目を瞑り瞑想状態にはいった。

そんな姿を頼もしく思いながら、佑樹は裏の石段をのぼり始めた。


幼少期から長崎に別れを告げた十七才まで、ほぼ毎日この道を通った。夏は蚊に群がられて大変だったし、冬は積もった雪に足を取られた事もあった。

しかし、通わなくなってからはや十五年。円徳寺の裏山にある弘法窟にも月日の流れが色濃く染み付いていた。幟が破れ、皿や瓶のひとつひとつがうっすらと曇っている。途中にある何百という明王や地蔵の石仏も、時々見慣れない欠けがあったりしている。

そして、まずはあずさの『意識』に入り込んだ。

とにかく修復可能な部分の修復が優先事項だが、こらはおそらく、孔雀明王を修復することで解決するはずだった。

腕や脚、顔や頭の一部など、何者かによって食い荒らされて無惨な形になりながらも、アルカイックスマイルを湛えている明王が痛々しかった。

愛染明王に擬した佑樹は、その姿を一旦自身の姿に戻した。そこに結跏趺坐し、薬師如来のご真言を唱える。

「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ。オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ。オン・コロコロ・センダリ・・・・・・」

薬師如来は別名薬師瑠璃光如来といい、また大医王仏とも言われる。「薬」や「医」などの字から、心の病気を治癒し、心身を健康な状態に保つ手助けをしてくれると言う。

何度も何度も、孔雀明王が行ってくれた無償の愛を思いながら、佑樹は孔雀明王の仏像を抱きしめ、撫でさすった。

すると、孔雀明王の光背が輝きだし、みるみるうちに欠損した箇所が元通りになっていった。

佑樹は次に、孔雀明王のご真言を高らかに朗詠し始めた。

「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ。オン・マユラ・キランデイ・ソワカ。オン・マユラ・キランデイ・ソ・・・・・・」

明王はどんどん輝きを増し、それと同時に辺りにある記憶の欠片なども、光を放ち始め、遂には、燦然と輝きながら、周りにも七色の光を放射する孔雀明王が現れた。

これであずさは心配ないと佑樹は胸を撫で下ろした。多少の記憶障害は残るだろうが、今までと変わらず、生活することができるだろう。

次に佑樹は、あずさの『意識』を食い破った者の正体を暴きにかかった。

そこら中に散らばっている新しい記憶の欠片のいくつかに、動物が食い荒らしたような痕跡が残っていた。

その歯型の跡が妙に綺麗だった。食い散らかしているのだから、綺麗というのも変な話なのだが、どこか均整が取れているように見えた。

変な話なのだが、他人の『意識』が食い荒らされた状態というものを、「自分が食い荒らした」とき以外に佑樹は見たことがなかった。自分の食い散らかしと比較して「綺麗」だと感じたのか、またはこの食い荒らした力の持ち主が、佑樹しか持たないと思っていた「巣食い」の能力を持つ者だから、ある種の贔屓目でそう思うのだろうか。

その噛み跡を注意深く観察するが、吸い込まれる感じにはならない。つまりジャンクションにはなっていないということだ。

東京に出てから『巣食い』はやらないが、『こころみ』は何度もやった。その結果、佑樹はある人の『意識』から、その人に触れた他の人の『意識』へと飛び移ることができるようになった。その『意識』から『意識』へと飛び移る通路のようなものを、佑樹は『ジャンクション』と呼んでいた。高速道路同士の結節点という意味だ。

そのジャンクションがあれば、すんなり解決するのだが、この侵入者にはそれを残さない術があるらしい。

そうなったらなったで、他に手がない訳でもない。

そもそも駿太郎から、他にも『巣食い』の力に似た事が起きていると聞き、佑樹は自分のときと比較して考えていた。

佑樹の場合、そういう能力があることは知っていたが、それを自分の意思で使ってみようと思ったのは中学生の時だった。今年になって同じような症状の患者が増えてきたということは、今、思春期にはいった男の子ではないだろうか。あずさが標的にされたということは、あずさの勤める中学校の生徒である可能性が高い。

つまり、あずさの記憶の全ての生徒をあたれば、自ずと犯人はわかるのではないか。佑樹はそう考えていた。

あずさの新しい記憶の塊の中から、一番新しいと思われる記憶に飛んでみた。

そこは新緑の中のサウナのような環境で、生徒が必死にラケットを振っているところだった。

全員の生徒がキラキラと輝いているのは、あずさの心情の現れだろう。どんなに辛そうな練習のときも、全ての生徒に「頑張れ」「負けるな」と心の中で声をかけ続けている。あずさの心の中では、汗の一粒一粒、鼓動の一拍一拍、足の筋肉の盛り上がり、吐いては吸う息の激しさ、それらがそのまんま、青春の宝石のように見えるのだ。

練習後、生徒みんなにハイタッチをしていた。その全員の意識に飛翔しあずさの意識崩壊の原因を探るつもりだった。

まずハイタッチをした順にジャンクションを廻ってみる。


一人目、主将である三年の菊川莉央。背が高くハキハキしていている生徒で、主将として責任感もあるし、ペアでも県の選抜に選ばれている、とあずさの記憶からわかる。その菊川莉央の『意識』へとダイブしてみる。

中学生らしく輝いていながらも、一部だけ紫色のに暗い記憶の表層が見えた。思春期にありがちな記憶体系だと佑樹は思った。

佑樹は経験上、目的の主は暗い方の記憶にいるものだと思っているから、迷うことなく濃い紫色の記憶の束に接触した。

そこは、入った瞬間違うとわかった。一瞬見えたのは、シャワーを浴びている最中、鏡に映った誰かに気づいた、とうい場面だった。そういうシーンに佑樹の目的のヤツはいない。

そんなときは中に入り込む前にやめる。そうしなければ、ついついその記憶にはまり込んでしまうからだ。佑樹も三十代の男性であり、聖人君主ではない。性的なものや暴力的な何かなど、自分の中にあるマイナスな感情に直結すると、その記憶に飲み込まれてしまい、身動きできなくなってしまうのだ。

今はそんな事に時間を取られることは許されない。佑樹は、素早く身を離し、次の暗い記憶に接触をした。

そうやって、三つの記憶にコンタクトしてみて、菊川莉央は今回の事と関係がないと判断した。そうしないと何時間かかるかわからない。

次に接触したのは、菊川莉央のパートナーである樋口美織の記憶だった。彼女は小さい身体なのに動きがパワフルで、どんなに辛い練習もにも決して音をあげないとあずさは思っていた。

しかし、樋口美織の『意識』に接触してみたが、彼女もまた、あずさの発熱とは無関係だと言えた。

そうやって生徒ひとりひとりの『意識』に触れては離れを繰り返し、ある少女と出会った。

それは松添恵梨華という二年生のバドミントン部員だ。彼女のことをあずさは、

「大人びていて、取り澄ました雰囲気を持つ。しかし、根はヤキモチ妬きで寂しがり屋。上手に動かすと力を発揮するタイプ」と分析している。

その松添恵梨華の『遺伝子』に触れたとき、ザワっとする感じがした。直感的にこの子は関係しているとわかった。

彼女の『遺伝子』に飛んでみると、明るい記憶と暗い記憶のふたつにはっきりと別れていた。明るい記憶は、ギラギラと眩いほどに光り、かたや暗い記憶は、ドロドロとしたヘドロのように悪臭を放つかのごとく佇立していた。

ますます確信を深めながら、佑樹の身代わりである愛染明王はその『記憶』を覗いてみた。

そこは図書館の中で、松添恵梨華はある男子生徒と話をしている像が映っていた。

松添恵梨華の持つ中学生らしい天真爛漫な高慢さ、開けっ放しの憎悪、そしてそれらの狭間に見え隠れする、大人顔負けの狡猾さを、その少年は微笑みながら受け止めていた。

彼は最後に微笑みながら、松添恵梨華と握手をした。自分の手のひらに少女の『意識』への扉を刻みつけながら、少年は笑っていた。

佑樹はその生徒、澤口陸の、冷徹な微笑みの下に隠した獰猛な野獣を見逃すまいと、心に焼き付けた。

この澤口陸こそが一連の事件の犯人であり、佑樹が出会う初めての『巣食い』の能力者であるのだ。

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