第14話 あずさ

最初は熱っぽいと思った。

明日の試合のため、今日は早く寝ようと決めていたし、駿太郎と一緒に飲んだビールがいい感じに効いてきていたから、すぐに寝れるだろうと思っていた。

湯船に浸かろうかと思っていたが、少し酔いが回ってきていたので、シャワーを浴びるだけにした。汗を流している間、あずさは明日の試合のことを考えた。特になんということはない試合なのだが、新チームによる初めての試合だから気は抜けない。

よく髪を乾かして、ペットボトルの水を飲む。それから五、六分だけ瞑想の真似事をする。中学生のときに佑樹に教えてもらい、その日からなるべく実践していることだ。

佑樹には瞑想のやり方と、もうひとつちょっとした呪文とそれに関する話を聞いた。後々調べてみると、それは『孔雀明王』のご真言だった。

「孔雀明王というのは数いる明王の中で、唯一、柔和な表情をしている明王なんだ。もともとインドでは女性の神様だったらしい。だから、別名仏母大孔雀明王菩薩とも言う。孔雀は毒蛇やサソリを捕らえて食うとも言われていて、毒蛇は煩悩を表す。つまり、孔雀明王は仏道にいるあらゆる人の煩悩や苦悩なんかを取り除いてくれる女性の明王なんだ。きっとあずさちゃんを助けてくれるよ」

そう説明されて、あずさはなぜか安心している自分に気づいた。気のせいでもいい、困ったときに縋れるものが、助けてくれると信じられるものがあるだけで力になる。

あずさがいつもやるのは、もちろん瞑想といっても本格的なものではない。ベッドの上にあぐらをかき、背筋を伸ばして目を瞑る。なるべく何も考えないよう数を一から順に数えるだけだ。長い時は数十分やることもあるが、短くても五分は座ることにしている。

その日は頭がクラクラしていて、坐禅を組んでも、瞼の裏側にチカッチカッと火花のような白い閃光が走った。

これは本格的にやばいと考え、明日フォローで来てくれる予定の犬塚先生に、一方的に連絡だけを入れた後、倒れるように眠った。

最後に孔雀明王のご真言をもう一度、口の中で呟いた。

「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」


あずさは教室に立っていた。周りにはクラスの生徒全員が無表情に前方を凝視していた。なぜか冬服を着ていた。

すると始業を告げるチャイムが鳴った。

「はい、起立して」と、あずさは声をかけた。生徒はその声が聞こえていないのか、誰一人動こうとしない。みんな兵馬俑のように固まっていた。

どこかで机を叩く音がしているのに気づいた。ギョッとして澤口陸の机を見た。

澤口陸は机を叩きながら、固い視線をあずさに投げかけていた。まるで窓の中から外で雨に濡れている人を見る時のように、冷ややかで硬質な眼差しを。

周りの生徒を見回すと、誰も彼もあずさを窓の外の人のように見ていた。何の感慨も持たないまま、視線だけはこちらに照準を合わせて。

耐えられなくなり、あずさは廊下へと逃げ出した。すると、そこは東京の碧山伝習舎の教室だった。

そこには高柳深月先生がいた。その娘の奈史も深月の隣にちょこんと座っている。他にも数人のバイト仲間が顔を揃えていた。

「塾長は?」

その声に応じたように出てきたのは石橋塾長だった。みんな懐かしい面々だ。

しかし、その懐かしい顔にも表情がなかった。

その時、あずさはこれが夢だと気づいた。そして同時に、その夢が普通の夢ではないことにも気づいてしまった。

なぜなら、あずさは今まで一度たりとも夢の中で、夢を夢だと捉えたことはなかったからだ。

今自分が存在し、目にしている世界は確実に夢である。学校の教室からいきなり東京の塾へ飛んだことがその証左だ。そして、普通なら夢だとわからずに翻弄されるのがあずさの夢だ。それなのに今、あずさは夢だと断定している。これは由々しき事態である。

表情のない彼らは、あずさをただ睨むだけで、何の行動も起こさない。それがあずさにはかえって気持ち悪い。あずさは必死で探した。そこにあるはずの何か、そこに行けば必ずいるはずの誰かを、あずさは無我夢中で探した。

探しながら、何を探しているのか、あずさは考えた。そして、土雲佑樹と言う名前を思い出した。あずさにとって、碧山伝習舎とは佑樹と切っても切り離せない場所だった。その佑樹が登場していない。

「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」

あすさは孔雀明王の真言を口にした。

すると、碧山伝習舎の教室の風景は砂のように消え去った。取り払われた砂の下から遺跡が発見されるように、表面を覆っていたベールを脱いで、次の景色が現れた。


そこは真夏の海辺だった。夏の夕暮れだろうか、あたりは薄暗く、他に泳いでいる人の影は見えない。

そこであずさは女性に手を引かれていた。あずさの目線は低く、これは幼児の目線だとあずさは思った。二、三歩先には上半身裸の男の子が波打ち際ではしゃいでいる。おそらくそれは駿太郎だ。

あずさは二才の頃、兄と母とで行った最後の旅行先で、海水浴に行った記憶を見ていたのだ。

夕日の逆光になり母の顔はよく見えない。しかし、浮き輪をはめた自分の背中を、そっと支える母の手のひらの温もりは覚えている。あれはたしか奄美大島だった。

「お母さん、ほら見て見て」

水をはねて遊ぶ駿太郎少年が、見つけた貝殻を小さな指で拾い上げて、顔の前にかかげて見せた。

母はそれを優しく見つめて・・・・・・いなかった。

無表情だった。いや、表情が問題ではなかった。その顔は輪郭だけで、目鼻口は本当に母のものかわからないくらい曖昧だった。

その何者かわからない母の顔があずさを見下ろし、次の瞬間、爆ぜた。

母ではない母の胴体だけを残し、辺りに血を撒き散らして、その顔だけが弾けて消えてしまった。

そして、その身体も、駿太郎少年も、周りの風景さえ、塗りたての絵の具をごちゃ混ぜにしたように流れていって、次の風景を形作っていく。

そこは小学校の入学式の真っ最中だった。

前も横も同級生の小さな姿の隣は、彼らの母親が椅子に腰をかけている。ちらほらと、覚えている顔や忘れてしまった顔が、緊張したように口を真一文字に結んでいる。

ハッとして自分の隣を見る。お手伝いの木下さんが畏まって、背を丸めて座っていた。

あずさは思った。木下さんはダメだ。この記憶は消してもいい、しかし、木下さんは消しちゃダメだと。

母がいなくなってからというもの、いつもそばに木下さんがいてくれた。毎週日曜日だけは休み、他の日は朝七時から夜九時まで。いくら仕事とはいえ、決して真似できることではない。

この老婆を消してはいけない。あずさはそう願い、呪文を口にした。

「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」


そらからは、あずさの記憶を消そうとする何者かと、あずさとの戦いだった。何者かはあずさの記憶を古いものから新しいものまで全て掘り起こし、あずさが見ている前で爆発させて消滅させる。あずさはそのうちの何回かに一回、孔雀明王の真言を唱えて爆発を阻止した。

夢の中のため思い通りにいかないことが多く、あずさは目の前で記憶が消されるのを、ほとんどの場合なすすべなく眺めていた。

それは小学校時代の友だちであり、中学の部活の先輩であり、高校のとき知り合った友だちの友だちであった。それらの、ほとんど繋がりのない人たちとの思い出は、爆発して消え去るのを見ているしかなかった。

しかし、覚えておかなければならないとあずさが思うことは、我武者羅に抵抗した。例えば今いる家族とのこと、東京での佑樹や高柳先生らのこと、社会人になり、これまで受け持ってきた生徒のことなどだ。

どうしても覚えておきたいと、あずさの感情が動いたとき、あずさは孔雀明王のご真言を唱えることができたのだ。

特に土雲佑樹との思い出は、どうしても死守しなければならないものだった。佑樹との様々な記憶は、回数としては最も多かった。


小学校六年生のとき初めて会った。駿太郎が家に連れてきた友だちをあずさが目にしたのは初めてだった。こんにちはと挨拶をすると、ちょこんと首だけで挨拶を返された。その時は、冷たい目をした怖い人だと思った。

二度目に会ったのはそれから一ヶ月も経たない頃だった。放課後に二人で帰ってきて、また挨拶をしたら、今度は「こんにちは」とはっきり言い返してきた。そのまま二人がリビングで話していたから、あずさも知らない振りをして横にいた。

佑樹は、口数は少ないけれど的確なツッコミを入れるタイプで、笑いの打率は高い方だった。

「これ飲む?」と缶コーヒーを一本勧めてくれたし、駿太郎がトイレに行った時には、学校のこととか卒業式のこととか聞いてもくれた。

三度目は中学生になってすぐ。会うとすぐに「おめでとう」と言ってくれた。

駿太郎が着替えるために自室へ行った時、リビングでコーラを飲みながら、中学では何をするのか聞かれた。

「まだ何も考えてないけど、優しい人になれたらいいなって思ってる」と答えると、

「そうか。それなら強くならなきゃな。優しさってのは、強さの延長線上にしかないんだ」と言った。

当時はなんかいい事言ってるな、という感じだけだったのだが、それからの中学高校時代、よくその言葉を思い出した。自分が苦しいとき、悩んだとき、そして憤ったとき、思い出すのは、歌の歌詞でも映画のワンフレーズでもなく、佑樹からのこの言葉だった。

その日から佑樹には会わなかった。佑樹のことを考える余裕がないくらい、自分の身の上に起こったのとで精一杯だった。

今も、佑樹との思い出を消し去るくらいなら、あの狂人の記憶を、存在自体を葬り去って欲しいと、あずさは心の底から願った。

あの狂人が自分の父親であるということを、あずさは今でも負債として捉えている。父親がああいう人だから、自分はこのくらいされて当然と思って、多少のいじめや意地悪には耐えられた。

死んで十五年近く経つのに、あの日のことが蘇ることがある。そんな時にも佑樹の言っていた「優しくなるために強くなれ」という言葉と、佑樹に教えられた孔雀明王の呪文を呟いた。

高校を卒業して、東京の大学に通うことになったあずさが、最初に連絡を取ったのが佑樹だった。

佑樹は高校三年生のときに突然退学した。しばらく音信不通だったらしいが、その頃はあの狂人が心臓発作を起こして死んでしまったこともあり、ただの兄の友だちを思いやる余裕はなかった。

中学三年になる頃に、長崎大学医学部に通う学生になっていた兄から、佑樹と連絡が取れたと聞いた。上京して塾の先生をしているらしい。

そして四年後、東京の明正大学に通うことになったあずさは、教養学部のある世田谷区松山のワンルームマンションに住むことにした。そして、何よりも先にしたことは、碧山伝習舎に出向くことだった。前もって駿太郎からは聞いていただろうが、突然の来訪に佑樹も肝を冷やしたことだろう。

佑樹とは、あずさが中学1年生の頃から約六年ぶりに会った。わずかに三度会っただけだが、自分の記憶と寸分も違っていなかった。

その日のうちに石橋塾長とは打ち解けてしまい、春休み中から碧山伝習舎でバイト講師として働くことに決まった。

バイトは楽しかった。厳しくも親切な塾長と、つっけんどんだが根は優しい佑樹を中心に、様々な生徒と様々なバイト仲間に囲まれ、今までの人生の中で忘がたい四年間が過ごせた。

そして、数ヶ月一緒に働いていて気づいた。三回だけの出会いだったが、中一のあずさにとつて、高二の佑樹は初恋だったのだと。

二十歳になった時、お酒を飲みに連れて行ってくれとせがんだ。深月やその他数人の講師と一緒に、ふたりは数軒の居酒屋を巡った。佑樹はほとんど飲まなかった。

帰りに佑樹の部屋へ寄った。酔った振りをして自分の想いを伝えた。意外と佑樹は冷静に受け止めてくれて、そして言った。

「すまんな。お前がどう思っていようと、おれはお前を女性としては見れない」

それだけだった。にべもないとはこのことだろう。つまり相手にされていなかったのだ。

俗に言う「傷もの」という言葉が浮かんだ。「汚物」とも「破廉恥」とも、いくらでも言い換えられる、父の狂った所業を受け止めた、中学生になったばかりのこの身体についてまわる負の意識。その事が原因だろうかと、一瞬考えたが、ムクムクと肥大していく被虐の想念をなんとか封じ込めた。

あのことは誰も知らないはずだった。この世ではあずさと駿太郎のふたりだけしか知らないはずの秘密なのだから。

結果、そんなの嫌だと言うほど、あずさはわがままではなかったし、それで納得できるほど大人でもなかった。結果、今の状態でいいからそばにいたいという気持ちに落ち着いた。

それからも、佑樹のあずさに対する扱いは全く変わらなかった。

深月が一度、

「土雲先生とあずさちゃんって、本当の兄弟みたいですね」と言った。

まさにそれこそが答えなのだろうと、あずさは思った。そしてその頃には、佑樹を恋しく思う気持ちも薄くなり、兄弟でもいいかと考え始めていた。

そして大学を卒業して長崎に還ってからも、年に四、五回は東京に遊びに来ており、その時は佑樹の部屋に泊まっている。本当に「東京のお兄ちゃん」という関係だ。

そんな初恋の相手であり、兄のような人であり、仕事の師匠とも言える人でもある佑樹との記憶。それだけは絶対に消させない。

「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ。オン・マユラ・キランデイ・ソワカ。オン・マユラ・キランデイ・ソワカ・・・・・・」

最後のほうは果たしてその言葉が正解なのかどうかもわからないほど、微かな言葉で呟いていた。


目を開けると、電気のついていない照明が見えた。首を巡らすと、点滴を打つ輸液ポンプや壁掛けテレビ、足元のベッドのパイプ。そして、開いたまんまの扉から、今しがた気づいて駆け込んでくる駿太郎の姿も見えた。

「あずさ、目が覚めたか。おれだよ。わかるか。

勢い込んで喋る駿太郎を目で制しながら、あざすはゆっくりと言った。

「お・・・・・・おなか、減った」

駿太郎の目から涙が溢れ出し、良かった良かったと、何度も繰り返して言った。

それだけでも、あずさは戻れて良かったと思った。

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