第15話 陸

「時津、容態持ち直したんだってぇ」

そんなLINEが陸に送られてきた。

続いて、

「どうなってんの? 」

「まぁ、別にいいけど」

と、連続して送られる文面から、いかにも不愉快な、それと同時に少しだけ勝ち誇ったような感じが伝わってくる。

送信元は松添恵梨華だった。

陸はスマホを枕元に投げつけ、ベッドの上に大の字になった。

言われなくても、不甲斐なさはこの自分が一番わかっている。図書室で、恵梨華とふたり、初めて「面談」をしたとき、陸は、相手の魂をどうとでもできると大風呂敷を広げているのだ。

一瞬、「あいつの心、カイチに食わせちまうか」と思った。恨みをはらす契約をした友だちとは全員握手を交わしていた。自分に触れることは、すなわち生殺与奪の権を自分に託すという事だと、知る者はいない。こちらとしては、いつでもカイチを送り込めるし、すぐさまカイチの牙で切り刻むことができるのだ。

しかし、陸は思い直した。

あのこまっしゃくれた松添恵梨華の心を食い荒らしても、何の得にもなりはしない。それに、握手をしたのは、こんな時のためじゃない。

陸は身体を起こして窓の外を眺めた。

八月中旬の昼間は想像異常に暑い。クーラーが付いていても、ちょっと古いと全然冷えないし、下手したら暑さのせいで壊れたりする。

よく先生たちが、自分たちの時代は今みたいに子供部屋にもクーラーを取り付けるような家庭はなかったから、今の生徒は贅沢だ、などと言う。しかし、今みたいにビル風の影響やヒートアイランド現象などなく、今の暑さより格段に涼しかったとも聞いている。特に夕方からは、窓を開け放っても平気なほどで、「打ち水」をすると涼しく過ごせたあの頃の方が、クーラーなしでは過ごせない今よりも随分とましだと思っている。

太陽光がハレーションを起こしながら、横断歩道の白さえ輝かせている。よく耳をそばだてると、トントンカンカンと木槌や金槌の音がする。目には見えないが、この音は精霊船を作っている音だ。

そう、今日は八月十五日。全国的には終戦記念日だろうが、長崎では精霊流しの方が勝つ。

毎年お盆が始まる八月十三日、迎え火とともに去年亡くなった人の霊が帰ってくる。そして、十五日の夜に送り火とともにあの世へと戻るのだが、その時、長崎では初盆を迎える家々では精霊船を作り、親戚一同でその船を港まで曳いていく。精霊が喜ぶように、道がわからなくならないようにと、爆竹を常に弾けさせ続け、鉦をチャンコンチャンコンと鳴らしながら、曳き人たちは精霊船を囲んで練り歩く。お盆の夜には長崎県内至るところで見られる光景だ。

今は正午頃なので、船の仕上げにかかっている頃だろうか。炎天下、外で仕事をしている人には頭が下がる。

個人用に小さな船は売ってあるので、初盆ではない家庭でも精霊船を流しに港まで歩くことはできる。毎年、亡くなった人を思い出すように精霊船を流しに来る人も多い。

初盆の家で、会社の社長さんなどの有力者や親戚の多い家庭、各地区の代表などは、大きな精霊船を拵える。これを「もやい船」と言う。

もやい船は船大工や一般の大工、一般の人でも作り慣れた人なら上手に作ることができる。近所の人やや親戚の中には、そういうおじさんがひとりはいて、張り切って作ってくれるのだ。

陸には親戚と言えるものがない。母はひとりっ子で両親は若い頃に亡くなっていた。両親の兄弟などに関しても、陸は聞いたことがなかった。

それで精霊船作りに携わったことが、陸にはない。羨ましいと思ったこともないが、汗水垂らしながらも和気あいあいと働いている姿を見ると、自分が負けたような気分になったものだ。


「りくー、ご飯、たべるー?」

リビングから母が呼ぶ声が聞こえた。

母の奈美恵は近くの病院の看護師をしていて、今朝帰ってきたばかりだ。

「食べるよー。何ー?」

「ソーメン茹でるわよ。その前に顔、洗ってきなさい」

奈美恵はいわゆる明朗快活で、人当たりも良く、頼りがいもある。大柄で女性にしては背が高く、ふくよかな体系だった。どちらかと言うと華奢で、内気な性格の陸とはあまり似てないと思っていた。しかし、

「死んだお父さんが小柄だったのよ」と笑って答えるのが常だった。

陸の父親は陸が生まれる前に交通事故で他界したらしい。母はそれから男っ気もなく、週に一度ほどの休みの前日に、ビールをしこたま飲むことだけが生きがいのような人だ。

洗面所に顔を洗いにいき、戻ってみると、すでにテーブルの上にソーメンのセットと薬味数種、それとソーセージの焼いたやつ、ニラの卵とじなどいくらか豪勢な食事が用意してあった。

「今夜の精霊流しには、誰かと行くの?」と、食事をしながら奈美恵が尋ねてきた。

「別に」

という素っ気ない返事にも、彼女は狼狽えることもなく、

「何よ。最近は友だちのことを話すことが多くなってきてたから、てっきり今年は誰かと見に行くのかと思ってたわ」

いつも明るく接してくれるが、その実、陸に友だちがいないことを、一番気にかけているのは奈美恵かも知れなかった。

「話なんかしてないだろ。それに友だちじゃなくても、それくらいの話はでるさ」

ソーメンをすする間にそんな話をする陸を、奈美恵は「ふーん」と言いながら見ていた。

「でもね、そろそろ人との付き合い方も覚えた方がいいんじゃない? あなたは本来は人を束ねるような人間なんだから。束ねる人間は、束ねられる人間たちを上手に動かしてこそなのよ」

陸は顔をしかめながら、

「またその話。いい加減にして欲しいわ。誰が言ったか知らないけど、ボクが人を率いるとか束ねるとか、いい迷惑なんだけど。それに、その後は『勉強しなさい』なんだろ」

奈美恵は何かにつけて、陸の資質や才能を高く評価していて、評価していることを誰にはばかることなく高らかに表明する。それは親子のそれをはるかに超えていて、恋人、いや宗教がかっていると思うことさえあった。

「いいえ。言わせてちょうだい。あなたのお父さんもそういう能力があってね、早くに死んじゃったけど、たくさんの人たちを結束させて導いていたの。それはあなたにも、きっと引き継がれているはずだわ。それに、最近、ちょっと成績下がり気味でしょ。一年生のときは九十点は楽に取れてたのに、こないだの試験は七十点だったでしょ。やっぱり難しくなってきてるのよ。塾でも行けばいいのに」

「ハイハイ。もう耳にタコだよ。ごちそうさま」

陸は奈美恵から逃げるようにテーブルを立って自分の部屋の扉を閉めた。

実は少し前から、何かわからないけれど、違和感を感じていた。

目が眩み、視野が若干霞む。頭痛がしてきて、胃を誰かに掴まれてはグリっと捻られているようだった。汗が滲み出てきて、心臓が脈打つ回数が早くなってきた。息が吸いづらい。

ただ、一気にきた不調も、それ以上苦しいことにはならない。救急車を呼ぶほどではないし、母に相談するまでもないと判断した。何よりも、カイチが心配そうに陸の周りをウロウロしている。本当に体調が悪いときは、カイチさえもぐったりしているものだ。

しばらくすると、身体の違和感はまったくなくなった。陸はベッドの上で呼吸を整えた。

何かがおかしい。今、自分の身に起きていることは、普通ではない、と陸は考えた。

二日連続で上手くいかなかった時津先生への攻撃、あの孔雀の銅像、そして今しがたの身体の各所の変調。この一連の異変は、これまでにないくらい陸を混乱させた。

しばらく考えた末に出した結論は、

「自分以外に、他人の心を食い荒らす能力を持つものがいる」ということだった。しかも、そいつは時津先生と何かしら関係がある。

それと最も大事なことは、そいつが陸という存在をすでに認識しているということだ。

自分は相手がどこの誰か、全くわかっていない状態で、敵に自分の存在を知られているという圧倒的劣勢感。相手に魂を壊滅させる能力があるかどうかは不明だ。しかし、何らかの力を持つと思った方がいいだろう。

しかし、自分にはどうすることもできない。このじれるような焦燥感。いつの間にか奥歯に力がこもっていて、顎が痛い。

(こんな思いをするなら、こっちから行ってやる)

陸は思いを決め、ベッドの上に身を投げ出した。


目を閉じて、カイチの姿を想像する。真っ暗闇のどこかに白い影が踊っていないか、瞑っているのだが目を凝らして見ていた。

左隅にチラッと白い輝きを見つけ、その残像に意識を集中した。

しばらくすると、白い綿のようなものがモゴモゴと動き出し、いつの間にか白い柴犬になって飛び跳ねてきた。

カイチを撫でながら、奥に何かが蠢いているのに、カイチが飛んでくる少し前から気づいていた。手はカイチを撫で、顔は数メートル先の闇の揺らめきに向けていた。

その揺らめきが徐々に姿を現した。それは自分と同じくらいの真っ赤な鬼のようなものだった。

その鬼は後ろ火焔を背負っていた。火焔は張りぼてではなく、実際にメラメラとしに燃え上がっている。腕は六本もあり、それぞれ武器のようなもの、ひとつは明らかに弓と矢のようなものを持っている。よく見ると額にも目のようなものがあり、怒っているかのように陸を凝視していた。

「やあ、君が澤口陸くんだね」

おそらくその鬼が喋ったのだろう。空間に響いて、前後左右あらゆるところから聞こえるような気がする。

「そうだ。お前は誰だ」

「おれの名は土雲佑樹というが、お前が見ている、真っ赤に怒っている顔、そいつの名は愛染明王という。仏教の神様のひとりだ」

陸は社会科の資料集の中に、明王という名前があったか思い出していた。そして、時津先生の心の中にあった、あの優しい微笑みの仏像も関係していると読んだ。

「その通り。彼女の仏像は孔雀明王。人間に悪い影響のあるものを排除してくれる神様だ。まぁ、善い悪いはその人の思想によるがね」

「仕返しにきたのか」

陸は捨て鉢な気分で吐き捨てた。次から次へと良くない思考が流れ込んでくる。押しとどめていた感情の濁流は、いとも簡単に理性の堤防を乗り越えてくる。

陸はカイチと同じ目線に座り、相手の禍々しい憤怒の表情を見据えて言った。

「カイチ! ゴー!」

カイチはグッと四股を踏ん張り、咆哮を上げてジャンプした。尾を引くように愛染明王の頭部に食らいつき貪った。

しかし、明王は微動だにしなかった。食わせるだけ食わせ、目を見開いて一喝すると、背中の炎が一瞬燃え盛った。カイチは日に炙られ飛び退いた。尻尾には火がついていた。

もう一度、今度は噛んでは離れる作戦に出た。カイチは飛びかかり、腕や足下に噛みつき、ひと噛みするとすぐに飛び退く。リズミカルに愛染明王を攻撃した。

何度目かの攻撃のとき、愛染明王がふと動いたかと思うと、腕に握っていた武器のようなものがカイチに当たり、カイチは高く短い声を発して倒れた。

「いい攻撃だが、まだまだだ。これはこ独鈷杵と言って、密教で使う仏具で、これも災いや仏敵を調伏してくれるという」

そう言いながら、明王はその独鈷杵を投げて寄越した。

陸の目の前に飛んできたそれを、カイチがジャンプ一番飛び咥えると、陸の前に降り立った。その口に咥えている、三つの突起のついた鉄アレイのようなものを手に取った。輝く金色の光を放ち、握っていられないほどのエネルギーを感じる。

「そうだ。その独鈷杵を手に取っても火傷したり、傷ついたりしないと言うことは、おれにとって、君が本当の敵ではないということだ。真の敵なら、今頃は炎にまみれているよ」

陸は手の中の独鈷杵を見つめ、それから愛染明王の方を見た。

この状況では、何をどうやっても陸には分がない。

(もう死んでしまうのかな)

そう思った時、同時に陸は、今までに魂を食ってきた数人のことを考えていた。

それらの人々の心は、確かに汚れていた。しかし、一部分が徹底的に汚れていただけで、他の部分はそうでもなかったように思える。

その時陸が感じたのは、生まれて初めてであろう、強烈な悔恨の情だった。

すべての人間には、ちょっとずつ善の心と悪の心がある。しかし、その他の多くの心は善い心と悪い心が混ぜ合わさった、、いわば「灰色の心」なのだ。

母親にちょっと注意されて、つい小言を言ってしまう。先生に冷たくされて、不平を口にしてしまう。友だちから陰口を言われたと思い込み、辛いと陰口を言う。

そんな善とも悪とも付けられない心の集合体だった。

もちろんやったこと自体に後悔はしていない。あの状態では、彼らは正に悪だったし、それによって喜んでくれる人がいたのは確かだったから。最後の方は調子に乗っていたのは否めないが。

それでも、「魂を食われる側」の気持ちはどうだったのか。何の前触れもなく、自分が痴呆状態になる。

周りの人はどうだったろうか。突然、呆けた状態の人が傍らにいて、自分には為す術がない。

自分の魂が食われ、バラバラに裂かれようとした時初めて、陸は死に近い恐怖を感じたのだ。

「この世界は君の『意識』の世界だ。君の思い、君の感情、君の記憶は全て手に取るようにわかる。おれだって似たようなものだ。いや、もっと悪いかも知れない。なんと言っても君はまだ人を殺していない」

そう言われて愛染明王の方を見た。そこには、あの炎を纏った鬼の姿はなく、ひとりの中年のおじさんの姿があった。

「人の『意識』に愛染明王の姿を借りず、自分自身を投影したのは初めてだ。ちょっと照れくさいけど、おれが土雲佑樹だ。講和条約を結ぶ相手に、生身を晒さないのは失礼だと思ってね」

目の前のおじさんは、取り立てて何の変哲もない、普通のおじさんだったが、目だけは、冷たいのに優しく、力がこもっているのに圧迫しない、不思議な力を宿しているように見えた。

「講和条約?」

「いやいや、条約というのは言葉のあやで、要は仲良くやっていこうって意味だよ。君はもう今の君の能力を無闇矢鱈と使わないことを約束して欲しい。おれは君に、感情の抑え方やその能力と上手く付き合っていく方法を教えよう」

陸が黙っていると、

「では、もうひとつだけ教えておこう。この能力は使えば使うほど、自分の記憶も削っていることに気づいているか?」

その言葉に、陸は大きな衝撃を受けた。

この能力を使い始めてから約半年。それまでは何の努力をしなくても、ほぼ満点の成績が取れていたのに、最近は取りこぼしが多かった。その他にも、日常生活で、物忘れが激しくなっていた。

「心当たりはあるみたいだな。さすがだよ。何も知らずに能力だけ使ってたら、もう少しで痛い目を見るとこだった」

「物忘れしなくなるの?」

「きや、それは無理のようだ。おれだってこの能力を手にした時、物忘れが激しくなっていたんだ。ただ、対処の仕様はあったし、そもそも『試み』だけに留めて、『巣食い』をやらなければ、記憶をなくすこともない」

陸には『試み』や『巣食い』という言葉は意味不明だったが、何とかその大意は汲み取れた。

「もう一度言う。おれは君に対して、何もするつもりはない。もちろん『意識』を壊して消し去ることもだ。ただし、こんな風に『意識』の世界ではなく、生身の世界で一度話し合いたいんだ。お互いの家族のことなども話して、この能力の秘密を解き明かしもしたい。何よりも、おれはおれ以外にこの能力を使う君という存在に、異常なほど興味を持っているんだ」

それは陸にも言えることだ。陸にとっては、陸以上の力でねじ伏せてきた土雲佑樹を、一瞬尊敬の念を持って見始めていた。

「それでだ。今日、香炊町の円徳寺に来てくれないか。怖ければ誰かを連れてきてもいい。おれの方は寺の住職がいるかも知れないが、それは我慢してくれ。時津先生やその兄貴はおれの親友だけど、今日は声をかけない。いつかその時がきたら、一言謝ってくれればいい」

「わかりました。僕の方に連れはいないと思ってください。でも、必ず行きます」

その声を聞いて、土雲佑樹はとても晴れやかな顔をした。僕の心の中で、そこまで騙せる人はいないだろう。

気がつくと土雲佑樹の姿も、愛染明王の姿もなくなっていた。陸はカイチをひと撫でして、現実の世界に戻るために目を閉じた。

次に目を開いた時、自分の部屋だった。

なぜか涙がこぼれていた。

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