第三話 聖オーロラ信教団

 魔法陣は見当たらない。幼いオレの姿もない。ただ、延々と続く暗闇の中を再び歩いていた。

 突然、誰かに手を握られたので驚いて横を見た。まるで暗がりの中に光が灯ったように、その姿は緩やかに視界に映り込む。知らない少女だった。柔らかな金髪が一陣の風に舞い、伏し目がちな瞳がゆっくりとオレを見つめた。淡いブルー・アイズの美しさに心臓が跳ね上がる。

「君は誰?」

 少女は何も言わず、ただ静かに微笑んだ。



 目を覚まし、暫し呆然と見慣れぬ天井を見つめていた。自分がどこにいるのかすっかり忘れていたのだが、隣のベッドに眠るラルフ君の姿を見て、ようやくカルマの宿に宿泊していたことを思い出した。

 なんだかここのところ立て続けに夢を見る。夢の中で出会った少女は、初めて会ったはずなのに、なぜだか初めてではないような気がした。オレは彼女の顔を思い出そうと再び目をつぶった。

「いやだ! 父さん……母さん!」

 突然、ラルフ君が大きな声で叫んだので、オレは驚いて目を開けた。激しく寝返りをうったラルフ君は、そのまま床の上に転がり落ちた。

「ってえ……」

「大丈夫?」

 ベッドの上から覗き込むと、彼は後頭部をさすりながら驚いたようにオレを見た。

「メグ? なんでおまえがここにいるんだ」

「昨日の夜、到着したでしょう?」

 寝ぼけているのか、ラルフ君は大きな瞳をせわしなく動かして部屋の中を見回した。

「なんだかうなされてたみたいだけど、嫌な夢でも見てたの?」

 オレの言葉に幼馴染は真っ赤になって否定した。彼は動揺から服を着替える際にボタンを二段掛け間違え、食堂へ向かう途中の階段では、足を踏み外して冗談みたいに階下まで転落した。


 カルマの宿はすがすがしい朝の光に包まれて、昨晩の幻想的な雰囲気とは別の表情を見せていた。まだ朝も早いせいか食堂の人影はまばらだった。オレとラルフ君は一番奥のテラス席につくと、一足先に二人で朝食をとることにした。

 近くの木々から聞こえてくる鳥の囀りが、食卓を優雅で贅沢な時間に仕立て上げる。しばらくのあいだ黙々と食事をしていたが、ふいに、ラルフ君が躊躇いながら口を開いた。

「メグ、俺はさっき何か寝言を言ったか?」

 別に嘘をつく理由もないのでその言葉に頷くと、彼は顔を赤くして深い溜息をついた。そして、本当は先程自分が夢を見ていたのだということを言いにくそうに告白した。

「両親が離婚したときの夢を見たんだ。なんだって今更こんな夢を見たんだか」

 それを聞いて、オレは先程の寝言でラルフ君が『父さん、母さん』と叫んでいたのを思い出した。

「ハリエットのばばあがおまえに話したかもしれないが、俺は父親にも母親にも見捨てられ、レーンホルムのあの屋敷に置き去りにされたんだ。結局、誰も俺を迎えには来なかった。じじいとばばあが拾ってくれたようなもんさ」

 ラルフ君はコーヒーにミルクを入れて、スプーンでぐるぐると掻き混ぜながら言葉を続けた。

「俺が毎日めそめそ泣きながら暮らしているのを見て、いつだったかリーブルが言ったことがある。『僕は君が羨ましい。僕には両親の思い出が何も無いんだ』って。だから、俺は言ってやった。『こんなに悲しい思い出なら、最初から何も無かった方がずっと良かった』ってな」

 渦巻くミルクはあっという間にコーヒーへと溶け込んだが、彼は相変わらずスプーンを回し続けていた。オレはどう言葉を返したらよいかわからずに、ただ黙って一連の動作を見つめ続けた。

「あのときのアイツの顔を、今でもときどき思い出すことがある」

 ラルフ君はそう言うと、スプーンを置いてコーヒーを一口飲んだ。リーブル先生の表情が果たしてどんなだったのかを、彼は決して語らなかったし、もちろんオレも尋ねなかった。食卓には再び静寂が訪れたが、それから間もなくルリアが姿を現したことにより、オレたちの会話はそこで本格的に終わりを告げた。

「おはよう、ルリア」

「おはよ」

 彼女は大きな欠伸をひとつすると、オレの隣に腰をかけた。

「ばあちゃんはまだ起きてこないの?」

「うん。大きなイビキかいてぐっすり寝てたよ」

 ラルフ君がそりゃそうだと肩をすくめる。「ばばあとじじいは当分起きてこないだろ。明け方近くまで二人で飲んで騒いでたからな」

 ルリアは小さなリンゴを手に取って一口齧った。

「ねえ、メグ。リーブル先生はこんな時間じゃ絶対起きてこないだろうし、先に街まで行ってみない?」

「いいけど、迷子にならないかなあ?」

 オレのセリフに二番弟子はムッとしたように口を尖らせる。

「子供じゃないんだから大丈夫だよ!」

 ラルフ君が相変わらずだなと言わんばかりの目つきでルリアを横目で眺めつつ、「今日は用事があるが、まだ早いからそれまでなら付き合ってやってもいいぞ」とオレたちに言った。しかし、ルリアはつんとすました様子で彼の申し出を跳ね除けた。

「ラルフなんか誘ってないもん」

「なんだと?」

 その言われ方がよほど癪に障ったのか、ラルフ君はムキになって声を荒げた。

「ガキは迷子になると相場は決まってるんだ! 何と言われようがついてくからな!」

「来なくていいってば! 子供扱いしないでよ!」

 この二人のやりとりも相変わらずだったので、オレはなんだかおかしくて思わず横で吹き出した。



 宿の穏やかな雰囲気とは違って、ペル・サラームの街は多くの巡礼者や魔法使いたちで賑わっていた。色鮮やかで個性的な露店が軒を連ねる通りには、葉で燻されたパンの実が香ばしい匂いを漂わせている。店には眩暈がするほどたくさんの首飾りや魔法の小瓶などが売られていて、ルリアの瞳はあっという間に興奮の色を宿した。

 可愛い髪飾りが売られている店の前で、彼女の足はぴたりと止まってしまった。そこで、オレはふいにルリアの誕生日のことを思い出した。

「そうだ、ルリア。誕生日プレゼントに何か買ってあげるよ」

「本当?」

「うん。なんでも好きな物を選んでいいよ」

「やったあ! メグ大好き!」

 ルリアは頬を薔薇色に染めて、ぎゅっとオレに抱きついた。

 それからしばらくの間、彼女はあっちの店を覗いたり、こっちの店を覗いたりとせわしなく動き回った。女の子の買い物が長いことは知っていたし、オレは一緒に見て回るのが嫌いじゃなかったので特に問題もなかったのだが、ラルフ君はオレたちについて来たことを少なからず後悔し始めているようだった。

「どうしよう。これも可愛いし、こっちのもきらきら光っててきれいだし、どっちがいいかなあ」

 ルリアが右と左にそれぞれ二つの髪留めを当てて迷っていると、しびれを切らしたラルフ君が即答した。

「おまえがつけりゃ全部一緒だ」

 ルリアは無言のままにラルフ君の足を思いきり蹴飛ばすと、隣の店へと移動した。よほど痛かったのか、しゃがんで足の脛を押さえ込むラルフ君は、心なしか涙目になっていた。「あのクソガキ、いつか殺す」

 そのとき、ふと後方から罵声が耳に飛び込んできたので、オレは驚いて振り返った。露店の先の広場のような場所に人だかりが出来ている。

「何の集まりだろう?」

「ちょっと行ってみるか」

 観衆の隙間から覗き込むと、ひとりの青年が説教をしているところだった。

「聖女マリアは言われました。この世に必要なのは愛なのだと。つまり、それはかの聖エセルバートさえをも愛せよということです」

 流れるように撥ねるプラチナブロンドの髪が印象的な青年は、唾なしの帽子を斜めに被り、帽子と揃いの朱い立ち襟の長衣に身を包んでいた。襟元に重ねられたシャツの白さが異様なほどに際立っている。彼は右手で星十字の首飾りを握り締め、左手に聖書(マリアバイブル)を抱えていた。

「人は誰しも完璧ではありません。人は過ちを犯すもの。なぜならば、人とは無知で弱い生き物だからです。弱き者を虐げることをマリア様は決してお望みにはならないでしょう。すべての者は平等であるべきなのです。聖エセルバートや彼を崇める魔法教徒たちにも変わらぬ愛の手を」

 観衆からはパラパラとした拍手が起こり、青年は彼らに対して深々と頭を下げた。ラルフ君が胡散臭そうに呟いた。

「なんだ、こいつら?」

 隣にいた中年の男が嘲るような口ぶりで説明してくれた。

「聖オーロラ信教団だよ。つい最近出来たばかりの新興宗教さ。今あそこで説教してるのが宣教師のル・カイン。なんでもヤツはマリア様から神託を授かったとかで、マリア様の生まれ変わりである暁の魔法使いと旅をしてるんだそうだ。あの屋根の下にいる人物がその暁の魔法使いなんだとよ」

 宣教師の背後にはローブに身を包む数人の信者たちがいて、金色の屋根の豪奢な乗り物を高々と持ち上げていた。屋根からシフォンのような薄い布が垂れ下がっていたので、オレたちの場所からは中にいる人物の足元しか見えなかった。

「暁の魔法使いって、十五年前にランズ・エンドに現れたっていうヤツか?」

 ラルフ君のそのセリフに、心臓がドキリと跳ね上がった。

 先日故郷レーンホルムへ帰ったとき、オレとルリアは不思議な鏡から魔法教徒が世界を征服しようとしていた時代に導かれた。小さな隕石が海に落ち、津波によってランズ・エンドが滅亡の危機を迎えた際、多くの魔法教徒たちはオレのことを暁の魔法使いだと騒ぎ立てた。しかし、あれは単なる自然現象が偶然に重なり合って、人々に誤解を招いたに過ぎないのだ。

 ラルフ君の向かいにいた老人が、突然拳を突き立て激しく宣教師に抗議した。

「聖エセルバートに慈悲などかけられるか! ヤツは単なる裏切り者じゃ! 暁の魔法使いはランズ・エンドで聖エセルバートを崇める魔法教徒たちに制裁を下したではないか! それなのにヤツを崇めろだなどとマリア様が仰られるはずがない!」

 すると、周りから「そうだ! そうだ!」と次々に野次が飛んだ。

「だいたい、そいつが暁の魔法使いだと言うのなら、証拠を見せてみろ!」

 観衆のひとりが叫びだすと、ほかの人々も同じように攻め立て始めた。宣教師は顔色ひとつ変えることなく、抑揚のない声で言う。

「聖エセルバートや魔法教徒を愛すべき隣人であると考えることは、決して愚かな行為ではないのです。私は信じています。あなたがたの中にも少なからず、真の愛とはどういったものなのかを問うている人々がいることを」

 民衆の大半は呆れたようにちりじりになり、拍手をした人々もあっという間にそそくさと消え去った。広場にはいつの間にやらオレとラルフ君と彼らだけになってしまった。

「おいメグ、そろそろ店に戻らないと、あのガキ本当に迷子になり兼ねないぞ」

「……うん」

 宣教師は突っ立っていたオレに気がつくと、丁寧な微笑を浮かべた。

「あなたは魔法使いですね?」

 オレは驚いて頷いた。

「どうしてわかったんですか?」

「私には天の声が聞こえるのです。たった今、マリア様が私に教えてくださいました。失礼ですが、あなたは私の話に興味がおありでは?」

 頷こうかどうか迷っていると、ラルフ君の手が強引にオレの腕を引っ張った。

「行くぞ、メグ!」

 ラルフ君はあからさまに宣教師を睨みつけたが、宣教師の方は全く気にした素振りも見せずに再びオレに微笑んだ。

「心に迷いがあるときは、いつでも訪ねていらっしゃい。私でよければ力になりましょう。申し送れましたが、私の名はル・カインです。あなたは……」

「メグです」

「メグ。……あなたは大いなる力を持った少年だ」

 ラルフ君に無理矢理露店の方へと引きずられつつも、遠ざかる宣教師の姿から目を離すことが出来なかった。オレを見て女の子だと思わなかった人物に会ったのは、これが生まれて初めてだった。もしかすると、彼は本当に聖女マリアの声が聞こえるのではないだろうか……?

「あなたとはまたすぐにお会いすることになるでしょう」

 ル・カインの叫ぶ声が、人ごみに紛れて微かに耳に届いた。

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