第二話 聖地巡礼

 マリア教の総本山である聖地セド・ル・マリアは、聖エセルバートの街から箒で南東に三日程飛び続けたペル・サラームという国にある。セド・ル・マリアのセドとは旅の始まりという意味で、聖書マリアバイブルに語られる聖女マリアとその弟子たちの三百六十五日の旅は、かの地から始まったとされている。

 リーブル先生は古びた地図と書物を手に、オレとルリアを聖地巡礼という壮大な旅に導いた。オレたちは深い森といくつもの町の上空を飛び続け、時折小さな宿で体を休めた。シスター・クレーネから貰った聖マリア修道院のハチミツは、今回も随分と重宝した。上空は凍えるような寒さだったが、ハチミツを紅茶に溶かして飲めば長い時間体が温まった。

 三日目の明け方には国境を超え、その日の晩には旅の終盤である『黒い砂漠』を横切っていた。先生の話によれば、旅人がこの砂漠を横断するときには漆黒の夜、つまり闇に紛れてでないと焼け死んでしまうと伝えられているそうだ。

「灼熱の砂漠を渡りきれなかった冒険者たちの残像が、砂に黒く焼け付くという恐ろしい場所さ」

 果てしなく続く暗闇から、旅の前日に見た奇妙な夢を思い出しわずかながらに身震いした。ルリアも話が恐かったのだろう、オレの隣にぴったりと寄り添うようにカンテラをぶら下げた箒に跨っている。

 先生が星で進路を計算している間、オレたちは不安な気持ちを紛らわすように二人で賛美歌を歌うことにした。慈しみ深く愛に満ちた聖ノエルの詩と、砂漠を照らす月明かりの美しさが、少しずつ恐怖心を和らげていく。

「ユニコーンの角星に向かって進めば、ようやく旅の終着点だ。あと一息だから二人とも頑張るんだよ」

 開いていた古書を鞄に仕舞い込みながら先生が言った。

 セド・ル・マリアの地を踏んだのは、それからしばらく飛び続けた後だった。



 異国情緒たっぷりのカルマの宿は、聖人たちの集いの場所。高い天井からは部屋中至る所に星型や月型の大きな橙色のランプが吊り下げられている。

「リーブル! メグ! ルリアちゃん!」

 ロビーの人混みをかきわけて現れたレイモンド・ウィンスレット伯爵は、受付でサインをするリーブル先生を背後から強く抱きしめた。先生の羽根ペンはその衝撃で大きく揺れ動き、サインが宿帳からはみ出てテーブルの端まで伸びてしまった。

「おまえたちが無事にここまで辿り着けたことを、聖女マリアに感謝しなければ!」

 じいちゃんは続けざまにオレとルリアを抱きしめて、満面の笑みで浴びせるようなキスを落とした。そんな熱烈すぎる再会を見兼ねたのか、ばあちゃんの呆れ声が頭上から降ってきた。

「離しておやりよレイ、苦しがってるじゃないか。可愛い孫を殺す気かい?」

 螺旋階段を下りて来たばあちゃんは、じいちゃんに負けじと豊満な胸を容赦なくオレたちに押し付ける。「また会えて嬉しいよ、二人とも!」

「ば、ばあちゃん、苦しい……」

 窒息死寸前のオレとルリアを救ったのは、彼女の背後から階段を下りてきた第三者の存在だった。

「ばばあ、腹が減った。全員揃ったんなら飯にしよう」

 鳶色の大きな丸い瞳は不機嫌そうにつり上がってはいるけれど、そこに立っていたのは間違いなく幼馴染のラルフ君だった。

「ラルフ君! 本当に聖地に来てたんだ!」

 大都市エデンでの別れ際、彼は『聖地巡礼でまたすぐに会える』と言っていたが、まさか本当に来ているとは思ってもいなかったので、オレは予想外の驚きと嬉しさに包まれた。ラルフ君は照れ隠しからか、ぷいとそっぽを向いて吐き捨てる。

「ああ、まったくえらい迷惑だ。誰が好き好んでわざわざこんな老いぼれどもの面倒を見るかってんだ。そもそも俺がリーブルなんかに従う義理はこれっぽっちも……ってぇ!」

 先生に足を踏みつけられ、ラルフ君の呟きは途中で叫び声に変わった。彼は物言いたげに口を尖らせたが、先生が密かな合図でも送るように片目を細めると、憤りを抑えて隣の部屋へと歩いて行ってしまった。その後を憤慨したばあちゃんが「老いぼれって誰のことだい!」とドレスの裾を翻しながら追って行く。

 じいちゃんがオレたちに向かってにっこりと微笑んだ。

「さあ、早く荷物を置いておいで。食堂で待っているよ」


 宿の部屋割りで、オレはラルフ君と一緒だった。先生はじいちゃんと一緒で、ルリアはばあちゃんと組まれていた。つい先日の大都市エデンの旅行では、部屋が一室しか空いていなかったため、オレと先生とルリアはやむなく三人でひとつのベッドを共有したんだったっけ。年頃のルリアにとって、それはこの上なく大きな問題だったようだ。

「この部屋割りなら文句ないだろう? レディ・ルリア」

 先生がわざと『レディ』という部分に力を込めて言ったので、その発言は随分と嫌味っぽく聞こえた。ルリアは瞬時にムッとした表情を浮かべて口を開いたが、そのまま言葉を飲み込むと荷物を置きに自分の部屋へと姿を消した。

 リーブル先生は肩透かしを食らったような顔をしてオレに問う。

「ねえメグ、ルリアのやつ、何でだか知らないけど本当に僕のことを避けてる……っていうか、怒ってるみたいなんだけど、なんか心当たりある?」

 オレは何かしら思い出そうと試しみて視線を虚空に漂わせる。

「思い当たることが多すぎて話にならないよ」

「例えば何?」

「この間、ルリアが長い時間かけて摘んできたブラックベリーの実、先生全部食べちゃったでしょう?」

「ああ、あれは正統な仕返しだよ。僕がとっておいたチョコレートプディングをルリアが黙って食べたんだもの」

「じゃあ、先週のパンケーキは? ルリアがせっかく丁寧にバターを塗ったのに、ハチミツの瓶を取りに行ってる隙にナイフで切り始めてたのは誰?」

「あれは君が僕の分を焼くのが遅すぎて待ちきれなかったんだよ」

 リーブル先生は少しも悪びれた素振りを見せることなく微笑んだ。オレは次から次へと思い出した事柄を矢継ぎ早に指摘する。

「先月椅子に縛りつけて勉強させてたよね?」

「暗唱サボって遊びに行こうとしていたルリアが悪いんだよ」

「無理矢理ダンスの相手をさせてたのは?」

「僕ははじめ君に頼んだんじゃないか。でも、君が女役は嫌だって言うから……」

「そもそも、突然ダンスする理由が全然わからないんですけど!」

「特別な理由がなきゃダンスしちゃいけないのかい?」

「そう言えば三週間くらい前の夕食の時、ルリアを驚かそうとしてテーブルの下に魔法で蛇を出したでしょう! あのときは結局オレが踏んづけて心臓が止まりかけたんだよ? 驚いてひっくり返った拍子にお気に入りの皿は割っちゃうし、隣の部屋まで肉が飛んだし、こぼれたスープはシミになるわで大変だったんだから!」

「ああ、はいはい。そういえばそんなこともあったよね。僕が悪かったよ」

 とうとうオレの口調が激しくなってきたので、先生は逃げるようにしてその場を離れた。そして、一度自分の部屋に入ってから、廊下に顔だけ覗かせて言い訳がましくこう言った。

「僕が子供のときには、レイが僕とラルフを驚かせようとして、本物の蛇をテーブルの下に潜ませたんだ。まったくどうかしてるよね」

 先生の神経だって相当どうかしてるけど――。そう言いかけたが、結局口に出すのは控えることにした。

 ルリアがここのところ先生を避けているのは確かだった。しかし、今色々出てきたリーブル先生のどうしようもない戯事は、普段の日常のひとこまであって今更怒るようなことでもない。何かほかに原因があるのだろうか……?

 頭を悩ませながら着替えを済ませ、荷物をクローゼットに押し込むと、オレは廊下で待っていた先生とともに食堂へ向かった。


 長いテーブルを囲むようにして六人全員が席に着く。食前の祈りを捧げてから、おもむろにじいちゃんが立ち上がり、コホンと小さな咳払いをした。

「えー、それでは諸君。改めてセド・ル・マリアの地を無事に訪れることが出来た感謝の意を込めて、聖女マリアにこの杯をもって表しせしめたいと思う」

 主に伴って来たウィンスレット家の召使いたちが、いつの間にやらテーブルの杯にワインを注いでいた。オレたちはそれぞれ杯を手に取って、ゆっくりと席から立ち上がる。

「ルリアちゃんの誕生日の宴は洗礼を終えた後に改めて催すことにして……ひとまず、乾杯!」

 じいちゃんの掛け声とともに、あちこちで杯の触れ合う音が鳴り響いた。一気にワインを飲み干してしまったばあちゃんは、ちまちまと注がれる二杯目をもどかしそうに待っていたが、結局待ちきれずにボトルごとラッパ飲みし始めた。「あ~、おいしい! 聖地の酒は格別だね!」

 軽蔑するような眼差しを向けるラルフ君に、ほんのり頬を赤く染めたばあちゃんはボトルの口を無理矢理押し付ける。「なんだいラルフ、そのツラは。文句があるなら言ってごらん!」

「てめ、やめろ! この酒乱魔女!」

 年をとらない魔女であるばあちゃんとラルフ君がじゃれ合う様子は、まるで姉弟のようだ。コントみたいな二人のやり取りを見て、ルリアはくすくすと笑い、先生は呆れたように溜息をつく。

 あっという間にボトルを二・三本開けたばあちゃんは、先生が杯に口をつけていないことを発見すると、すぐに据わった目つきで絡み始めた。

「リーブル、あんたは相変わらずちぃーっとも減ってないじゃないか!」

「教育者たる者、弟子の前で君のように不埒な姿は見せられないよ」

「なんだって? それはつまり、あたしの酒が飲めないっていうことかい?」

 ばあちゃんは向かいに座る先生にワインボトルを差し出したが、先生はまるっきり彼女のことを無視して黙って食事を口に運んだ。暴走するばあちゃんを抑えながら、じいちゃんが先生を気遣うような口調で尋ねる。

「リーブル、たまには一緒に楽しんでみてはどうだい?」

「悪いけど遠慮しとくよ」

 先生は面倒くさそうにそう言うと、魔法の杖を一振りして自分の杯を蛙に変えた。蛙はゲコゲコ言いながらラルフ君の顔に張り付いて、それからばあちゃんの頭に飛び移り、煙のように消えてしまった。

 レーンホルムに帰ったとき、晩餐の席で先生は言っていたっけ。「お酒に酔うのが好きじゃないんだ。思い出したくないことまで思い出すから」――と。

 オレは生まれた時からずっと先生と一緒に暮らしていたから、彼についてほとんどすべてを知っていると思っていた。しかし、それは大きな思い違いで、自分が生まれてくる以前の師匠のことを、オレはほとんど何も知らずにいたのである。

 じいちゃんの古い日記によって先日その一部が明らかになったが、幼い頃のリーブル先生には随分とつらい過去があったのだ。しかし、先生はこれまであまり自分の生い立ちや境遇について自ら語ることはなかった。それは、今思えばオレに対する配慮だったのかもしれない。先生の過去に触れることは、少なからずオレの過去にも関わらなければならないからだ。

 現実を受け止めて生きてきたリーブル先生とは違って、オレは現実に耐えられずに自ら記憶を抹消した。本当は先生だってずっとつらいはずだったのに、どんなときでもオレを気遣ってくれていた。


『おまえは優しい子だね、リーブル』


 魔法祭のとき、ばあちゃんが先生の頭を撫でて言っていたのを思い出した。

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