第五話 教授のアトリエ

 午後の陽光は夕陽に変わり始めていた。教授は透明な小川を渡り、張り出した枝を潜り抜け、落ち葉をカサカサ踏みしめた。その先に現れたのは、ずんぐりとした大木と絵本の中に出てきそうなメルヘンチックな森小屋だった。


 こじんまりとした小屋は居間と寝室に分かれており、入ってすぐに炉のある、玄関扉に面している方が居間だった。大きなテーブルの上には無造作に積み上げられた植物学の本と、携帯用の四角い箱に収められた顕微鏡が置かれている。教授が森へ採集に訪れたときに持って来ていた数少ない手荷物であった。


 荷物の向こう側に周ってテーブルの上にジライマの体を下ろすと、教授は怪我の手当てをするために左足の靴と踝のあたりで破れて丸まっていた靴下を脱がした。それから、小枝のようなほっそりとした足首にわずかに血が滲んでいたので、水に浸した布で傷口を拭いて、そこに薬草で作った軟膏を丁寧に塗ってやった。


 指先に触れたジライマの肌は驚くほどに柔らかかった。人肌の温もりに触れたのは随分と久々のことで、教授は忘れていたその感覚に自分でもびっくりするくらい戸惑った。


「おい教授、どうしたんだよ? そんな変態みたいな触り方してると、嬢ちゃんに怪しまれるぞ」


 教授はハッとして顔を上げた。テーブルの上で身を硬くして、少女が自分に不審気な視線を向けている。


 いけない、いけない。急がないともうすぐ日が暮れてしまう。早いところアトリエのキノコを少女に見せてやらなければ――。


「さあ、暗くなる前にアトリエをご案内しましょう」


 教授がぎこちない笑顔を傾けたので、ジライマはびくりとしてますます小さく縮こまった。



 小屋の隣には教授が野生植物から作り上げた見事な菜園があった。みずみずしい輝きを放つ野菜や果物たちは、蔓草を編んだ柵によって厳重に守られている。


「さあ、どうぞお入り下さい」


 少女のために菜園の入り口が開かれると、横から飛び跳ねたウサギが真っ先に中に入ろうとした。


「あ! こら!」


 自らの体を張ってウサギの侵入を阻止しながら、教授はジライマを振り返って言う。


「ミス・ジライマ! 僕がコイツを押さえている隙に早く中に入ってください!」

「どうして?」

「ウサギは野菜を齧るのでここは立ち入り禁止なんです!」


 ドタバタとしばらく格闘が続いた後、ウサギは教授の手によって砲丸玉のように遠くの地面に投げ飛ばされた。体を起こした小動物は、乱れたスカーフの位置を正しながら涙混じりに批難する。「差別だ! 虐待だ! 動物愛護団体に訴えてやる!」


 教授はぜえはあと息切れしながらも、「好きなだけ訴えるがいい」とかっこつけて吐き捨てた。それから勝ち誇ったように微笑むと、ジライマの後に続いて菜園に入り、門をパタリと閉めた。


 畑の先にはどっしりと根を下ろす巨木が立っていた。それこそが、まさに教授の自慢のアトリエなのであった。樹齢千年近くに達する巨木は中が空洞になっていて、教授はそこをキノコ栽培に最適な環境として整えた。


 キノコの形にかたどられた小さな扉を潜り抜けながら、ジライマの胸は高鳴った。まるで童話に登場する小人の家みたいだわ――。


 西日が差し込まれたアトリエは豪奢な宝石箱のようだった。いくつもの原木にさまざまなキノコがくっついていて、色とりどりに輝いている。ジライマは幻想的な光景に心を奪われ、興奮気味に頬を染めた。「すごい! なんてきれいなの……!」


 感激する少女の姿が遠い過去の記憶と重なって、教授は薄い暗がりの中に『彼女』の面影を見ようと眼を凝らした。木洩れ日が照らす少女の姿は、かつて教授を照らした光とあまりにも似すぎていた。


『ねえ教授、一緒に幻のキノコを探しましょう』


 距離を縮めるたびに失う物が多すぎて、教授はいつからか、何者にも侵されることのない自分だけの世界に引き篭もるようになった。大学に在籍していた頃は、研究室に閉じこもって研究を続けていられるだけで幸せだった。いや、正確には、幸せだと思い込んでいたのである。そう。『彼女』が現れるまでは……。


 まるで太陽のような女の子だった。靄に差し込む眩いばかりの光に導かれるようにして、教授は研究室から外の世界に踏み出した。だが、やはり踏み出すべきではなかったのだ。何もかも失って、今度こそ本当にすべてがどうでもよくなって――そうしたら、人間であることすら失ってしまった。


「どうです、素晴らしいアトリエでしょう? 通風、湿度、日光の差し込み方など、キノコ栽培に抜群な環境なんです。ほら、これをご覧なさい。星形の傘の美しいキノコ。こいつは絶滅危惧種とされていますが、森の奥深くに結構生息しているんですよ。こっちの黄色い斑点模様のついたやつは、なかなか気難しくてね、仮り伏せの段階で大抵菌が全滅してしまうんだ。それから、これは――おっと、いけない、いけない。キノコのことになるとすぐ夢中になるのは僕の悪い癖だ。ミス・ジライマ、君の探しているキノコはここにありそうですか?」


 珊瑚状のキノコの襞を眺めていた少女は、少し困ったように辺りを見回してから、言いにくそうにもごもごと口ごもった。


「わかりません」


 その返答に、教授は別段驚きはしなかった。素人がキノコの種類を見分けることは困難であるに違いないと思っていたからだ。


「キノコの名称はなんと言うんです?」

「わかりません」

「図鑑か何かで見かけたんですか? 僕は大学で菌類及び植物学に携わっていましたから、特徴を教えてもらえれば大抵のものに関してはお答え出来ると思いますよ。色は何色です?」


 ジライマは首を横に振った。


「じゃあ、大きさは?」


 重ねて首を振られ、教授は面食らったように少女を見つめた。


「驚いたな。君は何もわからないのに森へ来たのかい? 一体どうやって、何を探すつもりだったんです?」

「とても変わったキノコだと聞いていたので、すぐにわかると思ったんです。研究者の間では、『幻のキノコ』と呼ばれているらしいのだけど……」

「幻のキノコ?」


「エメラルドの湖 石の壁 ヒツジが草はむその先に

真っ暗森の幻キノコ 消えてなくなる不思議なキノコ

きらきらまん丸 お月様 きらきら光る虹色キノコ

涙はいつも隠し味 消えてなくなる魔法のキノコ」


 ジライマは幻のキノコの詩を口ずさんだ。教授は驚きのあまり、穴の開くほど目の前の少女を凝視した。


「君、どうしてその詩を――」

「幼い頃に、大好きなおばあ様がよく聴かせてくれた詩です。なんてへんてこでデタラメなのかしらと思っていたわ。でも、おばあ様が体調を崩して寝たきりになってしまってから、うわ言のように言うんです。『幻のキノコを探さなければならない』『森へ行かなければならない』って。何度も何度も、悪夢にうなされながら言うんです。だから、おばあ様を元気づけるために私が『幻のキノコ』を見つけてあげようと思ったの。あるかどうかもわからないキノコだけど、とにかく居ても立ってもいられなくなって、この詩を頼りに森へ来たのよ」


 アトリエがしんと静まり返る。


 教授は無言のまま目の前の少女を正視していた。いや、正確には少女を通り抜けた先を見つめているみたいに目を見開いたまま、瞬きもせずにつっ立っていた。ジライマは相手の様子がおかしいことに気がついて、心配になって声をかけた。


「教授? なんだか顔色が良くないみたいだけど、気分でも悪いの? 大丈夫?」


 弾かれたようにピンと背筋を伸ばすと、教授は早口で少女に質問した。


「焼いたキノコと煮込んだキノコ、どちらがお好きですか?」


 突然何の脈絡もなく尋ねられ、ジライマは戸惑いながらも答えた。「……煮込んだキノコ」


「では、とろけるほどにおいしいキノコのシチューを用意しましょう。すぐそこの小川で水を汲んできますから、森小屋に戻ってくつろいでいて下さい」

「え、あの、ちょっと待っ……」


 教授はお手製の木組みのバケツを手に取ると、少女が引き止める声も耳に届かぬ様子でよろよろとアトリエを後にした。

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