第四話 迷子は森小屋へ

 パタパタとリズミカルに動く教授の尻尾を目で追いながら、ウサギはどうやら茂みの向こうが安全そうであることを感じ取った。ぴょんぴょんと飛び跳ねてそばに近寄ると、茂みに隠れるようにして、可愛らしい人間の女の子が横たわっているのが見えた。それは狩人に襲われて命からがら逃げてきたジライマだった。


「死んでるのか?」

「いいや。気絶しているだけみたいだ」


 長い睫毛。雪のように白い頬。淡いピンク色の唇。教授の家でお茶の時間に出てくる蜜菓子みたいな女の子だな――とウサギは思った。たくさんのリボンが蝶のようにドレスや髪に舞っていて、まるで贈り物さながらだ。


「陽に当たったことがないみたいに真っ白な顔してやがる」

「日陰で大切に育てられた豆モヤシのように美しいねえ」

「教授、もしかしてそれで褒めてるつもりなのか?」


 ウサギは呆れたように教授を横目で見やってから、改めて少女の姿を観察する。ほっそりとした足首に、イバラに引っ掛けた小さなかすり傷がついていた。


「こんな森の奥深くに迷い込んでくるなんて、よほどの馬鹿か、もしくは何かワケありだな。金持ちっぽいドレス着てるし、案外どっかの貴族の子かも――って、教授、聞いてないだろ俺の話」


 教授は両膝と両手を地面につけ、オオカミみたいな格好でジライマの左手首に自分の鼻先を近づけていた。


「誰か別の人間の匂いがする。まだ新しいな」

「迷子のお嬢様なら、きっとお伴の者たちじゃないか?」

「いや、違う。森の狩人兄弟だ。この匂いは……弟の方」

「なに!?」


 狩人という言葉を聞いた途端に、ウサギはびくりと体を震わせた。


「じゃあ、この子はあいつらに襲われて逃げてきたのかな?」

「たぶんね」


 木洩れ日があどけない少女の寝顔を優しく包んでいた。真珠のような頬に、栗色の巻き髪が柔らかにこぼれ落ちている。


 ジライマの寝顔を見つめているうちに、不思議と教授の胸に何か懐かしいような、甘酸っぱいような感覚が引き起こされた。頭の中に浮かび上がる遥かな面影。森を吹き抜ける一陣の風に乗って、意識が瞬く間に遠くへと運ばれてゆく……。


「なにセンチメンタルな顔して見つめてるんだ? もしかして、恋でもしたか?」


 気がつくと、ウサギが自分を見上げていた。


「違う。ちょっと似てるなと思っただけだ」

「誰に?」


 我に返った教授は慌てて口をつぐんだが、ウサギはすぐに思い出したようにポンと手を打った。


「もしかして、例の懐中時計の子か?」


 思いがけぬウサギの発言に、教授は顔をひきつらせる。


「なぜそのことを知っている?」

「いつも月明かりの下で気持ち悪い遠吠えしながら、時計の蓋を開けて眺めてたじゃん。好きな女の子の写真でも入ってるんだろうと思ってたけど、どうやら図星みたいだな。いい機会だから見せてみろよ」

「誰がおまえなんかに見せるか。それに僕は気持ち悪い遠吠えなどしていない」

「教授が惚れた女じゃ、どうせ本の栞になった押花みたいにひからびた女だろ」

「失敬な野ウサギだな!」


 憤慨する教授の背後で、ジライマの睫毛が音もなく持ち上がった。


「あ、起きた」


 ウサギの指摘に焦った教授はぎくしゃくと振り返り、気取った口調で開口一番少女に言った。


「ああ、恐がらなくても大丈夫。僕は人肉には興味がないんだ。野菜やキノコしか食べないからね」

「聞かれてもいないことをペラペラと話すなよ」


 すかさずツッコミを入れるウサギの横で目を覚ましたジライマは、陽の光を遮っていた黒い影を木立だと思っていたので、人であることに気がついて驚いて飛び起きた。


 煙突みたいなシルクハット。チャコールの揃いのスーツに薄汚れたフロックコート。靴は泥がついて汚れていたが、磨けば光る上等な革。教授は親指と人差し指でシルクハットを軽く摘むと、改めて精一杯にこやかな笑顔を浮かべて言った。


「初めまして、お嬢さん。僕はこの森で調査をしている植物学者です。そしてこちらのふてぶてしいウサギは僕のペットです」

「誰がふてぶてしいペットだよ」


 ウサギのツッコミはもちろん普通の人間には聞き取れない。


「君は森で迷ってしまったんですか? ええと……ミス……」


 素性がバレて家に連れ戻されたら困るので、ジライマは名字は明かさないことに決めた。「ジライマです」


「ミス・ジライマ、森にはひとりで来たのかい?」

「ええ。私、キノコを探しに来たんです。そうしたら、二人組の狩人に荷物を奪われて――」


 話している最中に、ジライマは自分がひどい格好をしていることに気がついて顔を赤らめた。ペチコートの破れたフリルから、肌のあらわになった左足が覗いている。ドレスは転んだせいで汚れていたし、帽子も被っていなかった。


 ジライマは慌てて立ち上がろうとしたのだが、それよりもわずかに早く、教授の腕によってふわりと体を抱き上げられた。


「な、何をするの?」

「君は怪我をしているようだから、手当てをするために僕の森小屋へ連れて行くんです」


 未だかつて男の人にこんな風に抱き上げられたことなどなかったので、ジライマは真っ赤な顔で取り乱した。


「おろしてください! たいした傷じゃありませんから、お構いなく!」


 しかし、教授は何も聞こえていないみたいにスタスタと歩き始めた。


「おろしてよ! おろしなさいったら! 私、ひとりで歩けるわ!」

「ミス・ジライマ、君はキノコを探していると言っていましたね? 僕はアトリエでさまざまな品種のキノコを栽培してるので、もしかしたら、君の探しているやつがあるかもしれませんよ? それに、もうすぐ陽が暮れる。女の子がひとりで森の中をうろつくなんて危険すぎる。今夜はひとまずうちに泊まりなさい」


 ジタバタともがいていたジライマは、「陽が暮れる」というセリフを聞いて、ピタリと動きを止めた。ひとりで夜を過ごすことが急に恐くなったのだ。


 知らない男性の家に泊まるだなんて、もしもデインティが聞いたら卒倒するに違いない。でも、ひとりで森にいるより安全じゃないだろうか? 怪我の手当てをしてくれるみたいだし、きちんとした身なりをしているし、悪い人ではなさそうだ。口調がうちの家庭教師みたいでなんだか調子が狂うけれど……。


 そんなことを考えながら、ジライマはふいに何かとても大切なことを忘れているような気がして、ひそかに眉をひそめた。シルクハットを被った紳士風の学者? あれ? なんだっけ? 確かどこかで聞いたような……。


 教授の横を跳ねながら、追いかけてきたウサギが言う。


「迷子を放っておけなくなったのか? 人間嫌いなくせに、まったく教授はお節介だよな。用心しないとこの間の村娘みたいに勘違いされて騒がれるぜ。暗くなって危ないからと思ってわざわざ親切に送ってやったのに、狼男だと気がつかれたとたん、一目散に逃げちまったもんな。これぞほんとの『送りオオカミ』――」

「ああ、うるさい。おまえも早く自分の巣穴に帰るといい」

「やだよ。なんだか面白そうだし、俺はペットのウサギだからどこまでもついて行くよ」

「来なくていい。ニンジンをやるからさっさと家に帰れ!」


 叫んでから、教授はハッとしてジライマに視線を落とした。腕の中の少女は気味悪そうな顔をして、ちょっぴり驚いた様子で自分を見上げている。

 教授は適当に言い訳をした。


「森で長いことひとりで暮らしていると、つい動物に話しかけたくなってしまうんですよ。そういう気持ち、わかりますか?」

「そ、そうね。わからなくはないけれど……。そんなに長い間、森で暮らしているの?」

「ええ。もうかれこれ五十年くらい」

「え!?」


 ジライマがすっとんきょうな声を上げると、教授は肩を竦めて見せた。「嫌だなあ、冗談ですよ」

 なんてつまらない冗談だろう、と心の中でジライマは思ったが、口には出さずに別の質問をした。


「ミスター、あなた名前は何て言うの?」

「名前? それは秘密です」

「どうして? 名前を教えてくれないなんて怪しいわ!」

「じゃあ君はどうなんです、ミス・ジライマ? 君の苗字は?」


 ジライマが言い返せずに黙り込むと、教授は少し考えるようにしてから言った。


「森の仲間たちからは、『教授』と呼ばれています。名前が必要なら、君もそう呼ぶといい」

「森の仲間たちって?」

「ウサ……じゃなかった。ええと、キコリたちのことですよ」


 変な人。


 すぐそこにある教授の顔を盗み見ながら、ジライマは思った。端正な顔立ちをしているけれど、歳は一体いくつくらいなのだろう。黙っていると、繊細そうで物憂げな感じがする。なんだか別の世界に生きているような、どこか乾いているような……。銀がかった色素の淡い髪や瞳が、そんな謎めいた印象をもたらしているのだろうか――。

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