十章 対話

 火野宗佑は昔から頭のいい子供だった――と坂部は記憶している。

 いや、それは確信を持って言えることだ。現に今宗佑が在籍している大学は、旧帝大と肩を並べるレベルの難関校である。だから宗佑は昔から、そして今も秀才の部類に入る。

 普段一緒に遊んでいる間は、そんなことはまるで感じさせない活発な子供だった。ただ、時々大人でも目を剥くような鋭い指摘をすることはあった。達観こそしていないが、鳥瞰することは出来る。宗佑はそういうタイプの人間だった。

「あのさ、トシ兄ちゃん――」

 藤田内科の帰りにもう一度日奈子の様子を見に火野家を訪れた坂部だったが、日奈子は相変わらず眠っていたので、宗佑の部屋で話し込む流れになった。

「その、村上の火事を調べに来てるライターの人って、どんな人?」

 前にも同じ質問をされたはずだが、坂部は指摘せずに久保の人となりを掻い摘んで話した。あの滅茶苦茶具合だからてっきり笑い話になると思ったのだが、宗佑は何故か真剣な面持ちで坂部の話に聞き入り、笑いが一回も起こらない。

 坂部は久保に言われた情報提供については話さなかった。ある意味坂部は村を裏切っている形になる。あんな闖入者の口車に乗せられて、スパイ紛いの行為に手を染める。いや、まだ実際に久保に告げ口はしていないが、約束をした時点で同罪だろう。

 そこで玄関の方が慌ただしくなり、宗佑が様子を窺いに中座する。

 戻ってきた宗佑は、なんとも複雑な表情を浮かべていた。沈痛なのだが、どこか笑いを堪えているかのような――相反する二つの感情を内包したかのような表情だった。

「放火だってさ。駐車場の車。すぐに消防車呼んだから被害は一台だけで済んだみたい」

「放火? また?」

 昨日に続いて今日もというのは、どうにも厭な感じがする。それに被害は大きくなっているのではないか。

「風は大丈夫か――」

 思わず坂部はそう口にしていた。

「あのー、こんにちはー」

 聞き覚えのある声がして、今度は坂部が玄関に向かった。

 まゆらが困ったように笑いながら三和土に立っていた。

「あ、坂部さん。よかった、やっぱりここにいらしたんですね」

「どうしたの? 藤田先生のとこは?」

「はい、聞きたいことだけ聞いて、すぐ湯山さんのお宅に戻って。それでお昼をいただいていたら、放火の話が入ってきたもので。どうも久保君の車みたいなんですけど、本人今ぐっすり眠ってて」

 苦笑するまゆらからは一切の悪意がない。

「日奈子さんはどうですか?」

「まだ眠ってる。話があるなら上がってけば?」

「はい、じゃあお邪魔します」

 靴を脱いで上がり、宗佑の部屋に入る。

「こんにちは。お邪魔してます」

「ああ――久遠……さん?」

 宗佑はどう呼べばいいのか少し迷った様子だった。まゆらの見た目は学生でも通用する程若々しい。宗佑より年上だろうが、外見からそれを察することは難しいだろう。

「先生はやめてくださいね」

 にっこりと笑うまゆらにつられて、宗佑も苦笑した。

「あの、風祭はまだ再開しないんですか?」

 まだ陽が出ている時間帯だというのに、妙なことを言うものだと坂部は首を傾げた。

 まゆらもそれに気付いたのか、すみませんと謝った。笑ってはいたが、どこか皮肉な笑みだった。まゆらがこんな笑い方をするのかと坂部は一瞬呆気に取られた程だ。

「いや、そろそろ限界というか――もう溢れ出しているというか……」

 何を言っているのかまるでわからない。宗佑もそれは同じらしく、怪訝な視線をまゆらに送っている。

「すごく変なこと言って申し訳ないんですけど、この村、今すごいことになってるんですよ。それも、悪い方に――」

「それは――霊能者的に?」

 それが痛いところだったらしく、まゆらは本当に申し訳なさそうに項垂れた。

「――はい。私は霊能者を名乗れるような人間じゃないですし、霊能者なんて肩書は欲しくないんですけど、普通の方達に見えないものが見えるのは本当です。私の目には、今のこの村はとても恐ろしく映ります。信じていただけなくても、これだけは言わせてください。風祭だけは必ず最後まで通してください」

「言われなくても、中断された風は最後までやらないと、風狂の血が収まらないよ」

 あまりにまゆらが真剣な口調なので、坂部は少しおどけて言ってみた。まゆらはほっとしたように笑ったが、すぐに暗い表情に戻る。どうやらまだ言いにくいことがあるらしい。

「それから、日奈子さんに風祭を見せてあげてください」

 これには坂部も宗佑も揃って驚いた。

「ヒナに風を見せろ? なんで?」

「姉ちゃんはあれから一回も家を出てないのに?」

 二人に同時に言われ、まゆらはすっかり委縮してしまっていた。だが尻込みすることはなく、言いにくそうにだが口を開いた。

「多分それが一番いいと思います。その……精神衛生上――と、落とすという意味で」

「落とす――って?」

 まゆらは何と言えばいいのか必死に考えるように唸った。

「いや、本当にあんまり見たまんまは言えないんです。気分を害されるだけだと思うので……」

「ヒナが、何かおかしいとでも……?」

 頷きかけ、まゆらは途中で止まってまた唸る。

「あのさ、そんな思わせぶりなこと言って俺らを混乱させる方が、よっぽど気分悪いよ」

 宗佑が棘のある口調で言うと、まゆらはがくんと肩を落とす。

「やっぱり、余計なことは言わない方がいいですよね」

 それで気持ちが切り替わったのか、すっと背筋を伸ばしてはっきりとした口調で言った。

「とにかく、日奈子さんを風祭に連れていってください。理由は言いません。ですが絶対にその方がいいというのは断言します」

 断言ときたか――あの控え目なまゆらがこうも強い言葉を使ったということは、それなりの理由があるはずだと坂部は一人納得した。

 だが宗佑はそれだけでは納得出来ないようで、鋭い目付きでまゆらを睨んでいる。

「霊能者だかなんだか知らないけど、随分なこと言うよね」

「おい宗佑――」

「トシ兄ちゃんは黙ってて。こっちの不安煽るような訳わかんないこと言ったかと思えば、姉ちゃんの体調とか今までの経過とかも知らない割に、知ったような口利いて。インチキ霊能者だと思われても仕方ないんじゃない?」

 坂部は宗佑の暴言を謝ろうかと思ったが、口が開けなかった。宗佑の言葉は、確かにその通りなのだ。坂部がまゆらを信用出来ると考えているのは、つまるところまゆらの人柄が控え目で屈託のないものだと知っているからにすぎない。それを念頭に置かず、先程の発言だけを抜き取れば、まさに宗佑の言う通りの判断を下さずにはおられない。

「――すみません」

 まゆらは丁重に頭を下げ、重々しく言った。

「口がすぎました。そちらの事情も鑑みずに、無遠慮な物言いになってしまいました。謝ります」

 坂部は何かを言ってこの重苦しい雰囲気を打破しようと考えたが、結局口を開けなかった。それ程までにまゆらの陳謝は重く、反省は深かった。

 それは宗佑にも充分に伝わっていた。毒気を抜かれたようにぽかんとして、まゆらの俯いた顔を眺めている。

 その重苦しい沈黙を破ったのは、他でもないまゆらだった。あくまで優しく上品に、小さな笑い声を洩らしたのである。

「やっぱり慣れないことを言うのは難しいですね。ごめんなさい」

 坂部はそれではっと我に返り、苦笑する。

 宗佑もバツが悪そうに、照れ隠しの笑みを見せた。

 まゆらに悪意がないことは、これで重々よくわかった。宗佑ももはやまゆらにきつい物言いをすることはないだろう。恐らくはこれがまゆらの自然体なのだろうが、万が一狙ってやっているとしたら恐ろしい女である。

 そこで部屋のドアが開いた。

「宗佑、俊郎君――と?」

 部屋に顔を見せたのは日奈子と宗佑の母、早苗だった。知らない顔であるまゆらがいることに驚いて目を丸くしているが、すぐにまゆらが自己紹介する。

「お邪魔してます。湯山さんのお宅でご厄介になっている久遠といいます」

「あっ、あの霊能者さん――」

 早苗はぎこちなく、まゆらは如才なく、互いに会釈をして、部屋にやってきた理由を話す。

「日奈子が目を覚ましたの」

「ヒナが――」

 坂部がここに寄った目的は日奈子の様子を見にくることだったが、いざ目を覚ました日奈子と話をしろと言われると、やはり躊躇してしまう。

 なんと声を発していいか迷っている内に、まゆらがすっと立ち上がった。

「すみません、日奈子さんと少しお話をさせていただいてもいいでしょうか?」

 まゆらがへりくだって、だがはっきりとした口調で訊くと、早苗は目を白黒させた。

「はい? え? それはどういう……?」

「あ、勿論、日奈子さんを興奮させたり、問い詰めるようなことはしませんので。本当に少し、ちょっと話をさせていただければ……」

 早苗はまだ驚いたままで、しきりに坂部と宗佑の顔を窺っている。

「ヒナと話して、どうするつもり?」

 早苗に代わって坂部が訊くと、まゆらは安心してくださいと微笑んだ。

「少し世間話をさせてもらうだけです。精神衛生上よくないことは言いません。変なことは訊くかもしれませんけど、そこは目を瞑ってください」

 にっこりと笑うまゆらに気圧され、坂部はそれ以上訊ねることが出来なかった。

「なら、俺も同席するけど、いい?」

 宗佑が言うとまゆらは勿論と頷く。それを受けて坂部は同席すると申し出た。自分が直接話さず、日奈子の様子を見られるというのなら重畳だ。

 結局、この三人で日奈子の寝ている座敷へ向かった。

「姉ちゃん、開けるよ」

 宗佑がそう言って襖を開ける。

 日奈子は敷布団の上に、ぼんやりと座っていた。ゆったりとした寝間着のせいかぱっと見た限りでは腹部が膨らんでいるかはわからない。

「初めまして、日奈子さん。D県で家庭教師をしている久遠まゆらといいます」

「あっ、トシ兄ちゃん」

 まゆらの挨拶を完全に無視し、日奈子は坂部の顔を見ると顔を綻ばせる。

「ヒナ、お客さんだ」

 坂部は静かに言って、日奈子の意識をまゆらに向けさせようとする。そこまでするのは畢竟自分があまり日奈子と向き合う自信がないからだった。

「あなたは?」

 日奈子の目が漸くまゆらを捉えると、まゆらは優しく微笑んで小さく会釈する。

「久遠まゆらといいます。少し日奈子さんとお話がしたくて、わざわざ押しかけてきました」

 まゆらは笑みを崩さず、畳の上にゆっくり腰を下ろした。坂部と宗佑もそれに倣ってまゆらの後ろに座る。

「お子さんはお元気ですか?」

「うん、もうすぐ帰ってくるの。すごく元気。だってもうすぐ帰ってくるから」

「何か言ってきますか?」

「いつも話しかけてくるの。早く帰りたいって。それで、もうすぐだからねって、いつも宥めるの。あっ、ほら、また話した」

「『その人は嫌いだ』――ですね」

「あなたにも聞こえるの? ――ううん、駄目。あなたは厭だってこの子が言うもの」

「『ずるい』――ですか。そうですね――確かにそう思われるのも仕方ありません」

「厭、厭。あなたはこの子をどうかしようとしてるんだ」

「そんなことはしませんよ。安心してください。私は日奈子さんの味方です」

「あっ、あなた、最初にD県って……」

「はい。D県の青川市というところから来ました」

「ひっ――」

 日奈子は一瞬息を吸い込むと、

「厭ァアアアアア!」

 絶叫した。

「日奈子さん!?」

 恐らくは日奈子を恐慌状態に陥れた当人であろうまゆらも、大いに周章していた。

 それは坂部と宗佑も同じで、突然叫び出した日奈子を落ち着かせようとおろおろと宥めるが、まるで効果がない。

「青川! あいつの手先! 厭、厭、厭! この子は渡さない!」

「落ち着いてください日奈子さん。私はあなたの味方ですから!」

「出てって! この子は絶対に渡さないから!」

 こうも完全に取り乱しては、まともな会話はもはや不可能だ。まゆらはそう判断したのか、立ち上がり、すみませんでしたと一礼してから座敷を出た。

 残った坂部と宗佑は、何とか日奈子を落ち着かせようとしきりに話しかけた。

 それが功を奏し、日奈子は徐々にであるが興奮状態から帰って来始めた。

「トシ兄ちゃん、今の会話、意味わかった?」

 日奈子を布団に寝かしつけると、ほっと安堵の息を吐いて宗佑が言った。

「いや、注意された通り意味不明だったな」

「あの霊能者――久遠さんって、湯山の爺ちゃんが呼んだんだよね?」

「ああ、そうだ」

「それと、ライターの久保って人は、久遠さんの助手ってことになってるんだよね?」

「ああ。どうも知り合い同士みたいだし、二人共湯山の爺さんの家に泊まってるみたいだからな」

 何故今そんなことを訊くのかと疑問に思ったが、黙っているのも重苦しいだけだと坂部は素直に質問に答える。

「じゃあ――大丈夫そうだな。青川って聞いた時は焦ったけど」

「青川って、市の名前だろ? ヒナはそれを聞いてあんなになったのか?」

「――うーん。まあ、色々あってね」

 宗佑は答えにくそうに唸り、結局はお茶を濁した。

 日奈子がもう騒ぎださないと確信した頃合いで、坂部と宗佑は座敷を出た。去り際に坂部が「また来るよ」と言うと、布団の中の日奈子はにっこりと笑った。

 リビングの方からまゆらが痛切な表情を浮かべて現れた。

「お母さんに謝ってきました。私のせいで日奈子さんを興奮させてしまった訳ですし……」

「あれは仕方ないよ。誰にも予想出来なかったって」

 宗佑が言うと、まゆらはしかし真剣な表情で何事か考えているようだった。

「私はこの辺で湯山さんのお家に戻ろうと思います。久保君が起きてたら、火事のことも話さなきゃならないですし」

 まゆらはそのまま一礼して玄関を出ていった。

「宗佑」

 宗佑の部屋に戻り、坂部もそろそろ帰ろうかと考えていると、早苗が慌てた様子で部屋に駆け込んできた。

「千葉のお爺さんが目を覚ましたって」

「千葉の爺ちゃんが? よかった――」

 宗佑は小さな頃から、千葉幸雄のお気に入りだった。宗佑曰く厳しいのは誰に対しても同じだそうだが、千葉の宗佑に対する入れ込み具合は明らかに他の子供達と違った。孫に恵まれていない千葉が頭のいい宗佑を後継者にするつもりではないかという噂も流れた程だ。

 そういう訳で、宗佑は今でも千葉を本当の祖父のように慕っている。千葉も宗佑を特別大事にしており、千葉が快復したという知らせが真っ先に火野家に入ったのはそのためだと思われる。

「なあ宗佑、昨日の千葉の爺さんについて何か知らないか?」

 何故存在しないはずの二体目の樒鬼を着て千葉が風溜に現れたのか。

 何故千葉は樒の実を飲まされたのか。

 千葉と親しい宗佑ならば何か心当たりがあるのではないかと思い訊ねたが、宗佑は首を横に振った。

「ただ――」

 言い淀むが、坂部がぐっと額を寄せると続ける。

「千葉の爺ちゃん、相当弱ってたみたいなんだ」

「弱ってた?」

 あの矍鑠とした威厳の塊のような姿を思い出し、坂部は耳を疑った。

「藤田先生のとこじゃなくて、市民病院の方に通ってたみたいなんだけど、大分悪かったみたい」

 それは初耳だった。恐らく村の中や壱師の中でもそのことを知っている者は数少なかったに違いない。

「そういえば宗佑はお正月の挨拶に伺った時にも、二人きりで何か話してたわね」

 二人の間で会話が始まったことで身を引こうとしていた早苗が思い出したように言う。

「ああ――うん。その時聞いたんだ」

 奥歯に物の詰まったような口振りだったが、それは村に公表されていない千葉の体調を口外してしまった後ろめたさからだろう。

「――お見舞いに行った方がいいかな」

 小さく呟く宗佑を見て、坂部はその方がいいだろうと頷いた。

「それで、ヒナを風に連れていけってのはどうする?」

 早苗がまだ残っていたので、まゆらの忠言を掻い摘んで話し、意見を求めた。

「あの霊能者さん――悪い人じゃないみたいだったけど……」

 早苗はそう言って押し黙る。

「姉ちゃんに無理強いは出来ないよ。身体の方も心配だし……」

 確かに風溜は恐ろしく寒く煙たい。そこに妊婦を長時間連れだすというのは考え物かもしれない。

 ふと、坂部は廊下を何かが這うような音を聞いた。湿ったものがゆっくりと向かってくるような、思わず身の危険を感じずにはいられない音だった。

 ひたっ、ひたっ、と。動きは恐ろしく遅いが、確実にこちらに向かってきている。

 そこで坂部は気付いた。

 音の主は一つではない。二つ……三つ……いや、もっと多くの何かが、揃って廊下を這ってくる。湿った音は何重にも重なり、絶え間なく坂部の耳朶を打つ。

 宗佑と早苗は――気付いていない。二人でしきりにまゆらの提案に乗るべきかどうかを議論している。

 音は、すぐ近くまで迫っていた。

 坂部はすぐにでもこの場を逃げ出したいという思いに支配されながらも、金縛りに遭ったように硬直していた。

 この音はよくないものだ。その主の姿を見てしまえば、坂部は恐怖のあまり何をしでかすかわからない。

 ぴたりと、音が止んだ。

「え――」

 早苗が絶句していた。

 音の支配から抜け出した坂部は、はっとして早苗の方を見る。

「お祭りに、行きたいの」

 夢の中にでもいるような、ふわふわとした口調。

 日奈子が、部屋の前に立っていた。

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