夢の結末

第30話

 もう、見なくても分かっている。

 さっきまで私がいた公園から彼が歩いてくる。

 よく知っているような全く知らないような。でもひどく懐かしい感じのする彼が、ゆっくり私に向かって歩いてくる。

 頭の先からゆっくりと恐怖が全身に伝わり、つま先までたどり着く。


 動けない

 声もでない

 涙もでない


 本当の恐怖というのは――なんの感情もなくなることなのか。

 ゆっくりと、微笑みながら、私の前に立つ彼。

 彼から視線をそらすことができない。

 すべての神経が麻痺しているかのように、顔を動かすことができない。

 私はそのまま、じっと彼の目を見つめる。

 とても優しい春の陽だまりのような瞳。

 少しだけ――ほんの少しだけほっとする。

 微笑んだまま、彼はゆっくりと私に両の手をのばす。

 細くて長い指。この綺麗な手を私は大好きだと思った。

 桜色のあたたかい指が私の首にかかる。


 ――殺されるのか


 そう思ったとき彼が口を開いた。

 夢の中で聞いてみたいと思った彼の声が聞こえてきた。

「夢の中では失敗しちゃったけどね」

 それはとても優しく、暖かく、そして少し悲しそうな声だった。





 恐怖で全身が痺れているからなのか。

 彼の言葉は聞こえる、というより頭に直接入り込んでくるようだった。

『君は僕が思っていたよりずっと強い女性(ひと)だった』


 ――この人はいつから私を知っているのだろう


『いつから? 君が僕を見つけてくれたときから、ずっとだよ』


 声に出さなくても、私の想いは伝わるのか


『そう……僕くらいになると、不思議な力を持つようになるんだよ』

 首にかかるあたたかい指が熱を帯びてくる。

『君にとっての大切な人たちが死ねば、君は寂しくなって僕と一緒になってくれるだろうと思ってたんだ』


 大切な人たち――姉や友達や母親……



『でもね』

 少しずつ、ほんの少しずつ彼の指が、私の首に食い込んでくる。

『君は変えてしまったんだ。君自身の意思で夢を……変えてしまったんだ』


 私の意志――変えた……


 恐怖で痺れている頭で考える。


 父――のことか


 あのとき私は、夢で見たことと違うことをした。

『そう……君が父親をあれほど憎んでいるとは思わなかったんだよ。僕が見ていた君はいつも楽しそうで、人を憎むようには見えなかったんだ』


 私を――見ていた

 不思議な力……


「あなた……誰?」

 言ったつもりだったが、言葉にならなかった。

 やわらかい、とても優しい声で彼はささやく。

『それから君は……君は僕の声を聞いてみたいと思ってくれた』


 そう――聞いてみたかった

 最期に、彼の声を聞いてみたかった……


『君がそう思わなければ……こんな恐怖を感じることもなく一緒になれたのにね』

 彼の目が少しだけ曇ったように見えた。





 一緒になる

 この人と一緒に

 殺されて?


『すべては、君の夢の中のことだったんだよ』


 みんなが死んだのも、すべて私の夢の中のこと

 私の夢の中……この人はなぜそれを?


 彼は、それには答えず独り言のように続ける。

『君が目を覚まそうと、そのまま眠り続けようと、夢は夢でしかないんだ。誰ひとり現実では傷ついていないんだよ』

 誰ひとり傷ついていない。私はあの時、姉からの電話で目が覚めて、すべては夢だったとほっとしたんだった。


 あの電話――もしかして……


 こうなって、すべての感情はなくなったと思っていたのに、まだ怖いと感じることができるのか。

 電話だけではない。

 夢もまたすべて、この人が……。


 ――怖い


 顔を動かすこともできないのに、涙だけが意志を持っているかのように零れはじめる。

『どうして泣いてるの? 君の涙を見るのはこれで二度目だね』


 怖い――声を聞くのが……怖い


『一度目は、君が入社して少し経った頃だったかな』


 もう――やめて……


 声を聞くたびに、もつれていた糸が解けていく。

 私は、大人になって人前で泣いたことがないのだ。そう、人前では。


 体が自由に動くなら、耳をふさいでしまいたい。


 彼の声が――存在が……怖い


『君が僕の声を聞いてみたいと思ってくれたから、夢を覚ましてあげたのに』

 夢の中では、次は自分の番と恐れながら過ごしていた日々がやっとおわる安堵感と、なぜか甘くうっとりとする感覚に包まれていた。

『それなのに君は今、僕の声を聞きたくないと言う』

 聞きたくない。怖くて怖くて、この大好きな手を振り切って逃げ出してしまいたい。安堵感や甘美な感覚など、本物の死に直面した今、感じられるはずがない。


 ――怖い


 この恐怖がおわるのなら、殺されても構わない。

『――殺さないよ』

 彼は再び優しく微笑んだ。

 彼はまた、春の陽だまりのようなあたたかさを瞳に取り戻していた。

『君はいつも僕を見ていてくれた。大好きだと思ってくれていた』


 ――そう

 私はあなたをいつも見ていた

 あなたのことが大好きだったから……


『僕も君が好きだよ』


 でも――私は……


『愛してるよ』

 彼の唇が、優しく私の唇にふれた。


 ――なんて冷たくて

 そして、暖かい……


『いつまでも……いつまでも一緒にいようね』

 彼の背中から冷たい風が吹いた。

 今なら。今なら逃げることもできた。でも――。

 ずっと独りぼっちで寒さを耐えてきた彼の哀しみが、春まだ遠い風とともに私の心にふっと舞い込んできた。


 私を――ずっと待っていてくれたのね……


 徐々に恐怖心が消え、全身の力が抜けてゆく。


 ――そうか

 私はこの時を待っていたのかもしれない


 段々と意識が遠くなってゆく。

 まるで母親のお腹の中にいるような安堵感。これも夢のとおりなんて……。


 ――夢


 すべては夢からはじまった。

『さあ行こう。永遠に覚めることのない夢の中へ……』

 私はスッと意識を失いながら、彼にもたれかかっていた。


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