第40話・唐津絵皿

「まてよ」

 と、ふと思いいたる。窯自体が作品であるわけではない。作品をつくるための装置を、オレたちはやっとつくったところなのだ。

「作品がねーや」

 窯が完成したうれしさのあまり、うっかり忘れていた。入れるべき作品をつくらねば。登り窯にふさわしい作品を。そして、焼かねば。それでこそ「つくりあげた」というべきだろう。

「小皿を挽くのじゃ」

 太陽センセーから課題を頂戴した。センセーは自作の小皿を見本として示し、陶芸家はこういったものを名刺代わりに配るとかっこええんじゃ、と耳打ちしてくださった。

 なるほど、これはシブい。一見、豆皿だが、杯にも使えそうな一品だ。手のひらにおさまるほどの小皿は、唐津風の鉄絵が大胆に描かれてしゃれている。形は、広くたっぷりと張った見込み(のぞきこんだときに見える底の面)からへりをひょいと立ち上げ、その端をもう一度外側へ開き折った、シンプルだが細工のゆきとどいたものだ。「リム」と呼ばれる西洋風の皿形に似ている。裏返すと、一息にカンナを巡らせて削り出された高台が、全体の形に緊張を与えている。器体に比べてその高台はひどく小さい。しかし糸底の外側わずかな部分にしか刃を入れていないのを見ると、ろくろ成形のときに思いきって高台脇をしぼり、そこから極端な角度で水平方向に開いて挽いたのだと知れる。手が込んでいるようには見えないが、そこここにさりげない技術がほどこしてありそうだ。「つくり方は器に書いてある」というセンセーの言葉を思い出した。

「来週までに三百挽くんじゃ」

 ぎょっとした。

「手本をいっこあげるから、よく研究してな」

 さらに腰が抜けそうになった。

「センセーの作品を、い、いただけるんすか・・・!?」

「うむ。がんばってつくれや」

 つくり方は教えてもらえない。試されているのだ。・・・というよりも、理解できていることを前提としている。オレは「つくれるに決まっているひと」ということになっているらしい。さらに小皿をつくるにあたっては、センセー自らが山から掘り出した大切な土を使わせてくださるという。逃げるわけにはいかない。

 翌日から格闘がはじまった。センセーからいただいた土は、掘りざらしのパサパサざらざらな原土だ。まずはそれを粘土というブッシツにまで吟醸しなければならない。土を砕いてふるいにかけ、ゴミや小石を取りのぞき、さらに細目を通してサラサラのパウダー状にする。次に、作業台の上でパウダーの小山を築く。頂上に噴火口をうがち、その穴に水を打って湖をつくり、指先で混ぜながら水分を浸透させていく。そば打ちそっくりの作業だ。水がゆきわたってベタベタの泥になったところで、石膏の容器に移す。泥のままでは練りあげることができないので、2~3日かけて余計な水分を飛ばすのだ。泥が土っぽくなり、手で持てる程度までソリッドになったら練りごろだ。その頃にはバクテリアも旺盛に繁殖し、粘り気も出てくる。作業台をぐちょぐちょに汚しながらひたすら練りこみ、ねっとりとまとまってくるを待つ。練っていくうちにだんだん手応えが粘土っぽくなっていくのがわかる。こうなると土もお行儀がよくなる。菊練りをして円すい形にまとめ、もうしばらく寝かせれば、「アタイをろっくんと踊らせてよ~」とおねだりをする艶っぽい粘土のできあがりだ。

 何日か置き、可塑性を身につけて成形しやすくなった土をいよいよろくろにのせた。回して土殺しをすると、「美濃唐津」と呼ばれるその土は、さっくりとしながらも滑らかな指触りだった。

 試作がはじまった。ところがセンセーから下賜された手本の小皿は、難解なクイズのようだった。簡単につくれそうで、つくれない。高い技術が巧妙にかくされている。口べりの折り返しがなんともむずかしい。薄く挽ききってから円周部に手を加えると、ストレスの集中する腰(根っこ)がどうしてもひずんでしまう。指の操作方はなんとなく理解できるが、感覚は実際に数をこなさないとつかめない。例によって失敗作を山と積み上げ、試行錯誤をくり返した。すると、じょじょに構造がつかめていく。

 不ぞろいで不格好な小皿が長板に並んだが、オレは新しい充実感を知った。つまり、作品の出来映えという「結果」ではなく、方法論を掘り起こす、あるいは編みだすという「過程」の重要性に気づいたのだ。学校では、体得した技術をどう生かして作品づくりを展開していくか、という順序で学んだが、センセーは逆に、イメージした作品にたどり着くにはどういう方法論を用いなければならないか、を考えさせてくれる。設計図から完成形をつくるのではなく、完成形から製法を導きだすのだ。それはまさに、つくり方が未解明な桃山時代の作品を追いかけ、迫ろうとするひとの考え方のプロセスだ。創作の感動は「?」からはじまるのだと、センセーは一枚の小皿を示して伝えてくださったにちがいない。その意を汲んで、悩みつつ、じょじょにつくり方を解明していき、三百の小皿を積みあげた。

 大量のブサイク作品の中からまあまあ恥ずかしくないものを選りすぐると、五十そこそこしか採れなかった。技術不足を痛感し、もっと精進せねば、と唇を噛みしめる。しかしその五十点を若葉邸に持ちこむと、センセーは「ヨシヨシ」と、目尻にほがらかなシワを刻んでくださった。

「今度はこれに絵付けをするんじゃ」

 唐津の鉄絵を伝授してくださるという。願ってもない。簡素にして奥深い味わい。バカバカしく思えるほどのヘタウマに趣きを見いだす「唐津絵」は大好きだ。勇んで筆を準備した。

「描いてみせよう」

 しっぽを振ってセンセーのすぐ脇に陣取り、手元を見つめる。

 さらさらさらっ。

 それでおしまい。キョトンとしているうちに終わってしまった。あまりにテキトー・・・いや、大胆な筆さばきだ。ハネツキで負けた弟の顔に落書き、あの感じ。ところがその筆致の末にできあがった絵は、実に力強く、深い。線のメリハリが効き、風になびく秋草ののびのびとした躍動感、またか弱さまでも表現している。緩急なのだ。

 センセーが描いてくださったのは、一枚きりだった。

「あとはここに手本がある。よう見て描くんじゃぞ」

 センセーの筆によるいくつかの唐津作品が目の前に陳列される。緊張。その心配りに、今度こそは、と気合いをみなぎらせた。しかし手本よりも、センセーが今さっき示してくれた、踊るような筆使いが目に焼きついて離れない。

ーそっか、一回きりしか見せてくれないのはこのためか?ー

 インフレ防止か、なるほど、と得心した。まぶたの奥の受像機が、筆の運びをはっきりと記録し、くり返し再生しつづける。この集中力を発揮させるための、一回きり、だったのだ。

 手本は頭の中にある。それを思い出しながら、筆を走らせた。素焼き済みの小皿に、鉄絵の具(「黒浜」という真っ黒な泥=磁鉄鉱)で、ススキや柳、梅などを描いていく。オレとて元全国区のマンガ家だ。画力で人後に落ちるとは思わない。しかし原稿用紙にペンを走らせることは雑作もないが、からからガサガサ素焼き生地の上に、泥のまとわりついた筆で画を描くのには苦労した。生地が水気を吸って、思うように筆先がすべらないのだ。しかし太陽センセーの絵は、実に奔放に、いきいきと線が伸びている。葉にしたたる露までが見えそうだ。勢いが生む生命感よ。

 天衣無縫の唐津絵は、心の内の表出でもある。上手に描こうと萎縮したオレのかたわらには、こざかしく縮こまったへっぽこ絵皿が山と積まれた。

「描けたか?」

 センセーにのぞかれ、さらに身が縮む。

「なんじゃこれは?ま、えーわい。できたら、庭にもってこいや」

 絵を描き終えると、今度は釉薬がけだ。太陽センセーお手製の唐津釉は、山中を探索して見つけだした長石や、自ら焼いた樹木の灰で調合された、秘伝のもの。バカ弟子のへっぽこ皿にまとわせるにはもったいないようなシロモノだ。なのにセンセーはそれを惜しげもなく使わせてくださった。素人の半年間の働きっぷりと勉強っぷりが認められたのだろうか?恐縮しきりだ。

 その期待に応えるためにも、今回の窯焚きは絶対に成功させたい、と思った。Fさんちの穴窯、越前の無量窯につづき、はや三度目のマキ窯焼成だ。要領はわかっている。自信があった。

 ところが、この「かぶと窯」は想像以上の難物だった。

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