第2話・流浪のひと

 思えばここにいたるまでは、でたらめな暮らしっぷりをしてきた。

 中学、高校では、勉強もしないで絵ばかり描いていた。美大の学生時代には彫刻科に籍を置いたが、ほとんどラグビーと酒とに四年間を費やしたようなものだった。さいわい、時代はバブルのまっさかりだったので、卒業時にはたいした就職活動をすることもなく、いなかの私立高校に非常勤の美術教師としてもぐりこむことができた。しかしこんなインフレ教師にまともな授業などできるはずがない。ろくにカリキュラムもつくらず、始業時間に遅刻しては、その場しのぎに教卓によじのぼった。そしてもろ肌脱いで奇妙なポーズをとり、「わたしをデッサンしなさい」などとのたまう、こっぱずかしい先生だった。

 そんなテキトーな授業がもとで、事件が起こった。ある日校長が、文部省の小役人だのPTA役員だのを引きつれ、予告もなしに授業を視察にきてしまったのだ。上半身はだかのオレは、教卓上でポーズをとったまま身動きがとれない(その日の生徒たちのスケッチブックには、どのページにも、冷や汗タラタラの半裸男が描かれていた)。校長は校長で、青ざめてその場にかたまってしまっている。空気が凍りつくとはこのことだ。スーツ姿やザアマス眼鏡の面々は、ひそひそ声で意見を交わしあいながら教室を出ていった。案の定、放課後になるとハレンチ教師は校長室に呼びだされ、お偉いさん方にとり囲まれた。ところが、連中はどういうわけか、先刻の教室での光景を激賞してくれた。拍手喝采。破天荒な授業が、「個性的」という当時はやりはじめた便利な言葉に置きかえられ、いたくウケたらしい。勘違いもいいところだ。しかし災い転じて福。こうしてこれ以後も、思いつきのバカ授業はつづくこととなった。

 それでも生徒たちには人気がある先生だった。気やすく「先輩」とよばれ、タメ口でコミュニケーションがとれるざっくばらんな関係だった。なめられていただけなのかもしれないが、信頼は厚かったと思いたい。よく「彼女に子供ができちまった」だの「親を刺そうと思うんだけど」だのと気軽な相談を受けた。そんなときオレは、彼らをアパートによんでビールをふるまい、ひざを突き合わせて夜通し語らったりした。

 通知表は、全員に最高点をつけてやった。県下でも極めつけにアタマがわるく、偏差値ピラミッドの最底辺に位置する高校だったので、この「5」の成績は、とりわけ今まで劣等生とさげすまれてきた落ちこぼれたちをよろこばせた。だれもがその評価にやる気をくすぐられ、目を輝かせ、一心にスケッチブックに4Bを走らせてくれた。このバカ教師の授業は、いつもお祭りのようだった。

 時給制のバイト教師だけでは生活が苦しいので、夜は進学塾で数学の講師をした。共通一次試験でチンピラ美大の足切りにさえ引っかかりそうだったオレが、数学を教えるなどとは驚天動地だが、とにかく今夜の飲み代と明日のパン代のために、インチキ講師でもなんでもやらざるをえなかった。受けもったのは「中三・特Aクラス」。偏差値が抜きん出ていて、県下最高レベルの高校入学をめざす秀才たちだ。彼らは、昼間の悪ガキ高校生たちとは、つむじの巻き方からしてちがっている。丸メガネ(サングラスではない)が鼻先にしっくりと似合い、前髪もまゆの上できれいにそろっている。学ランのそで口には鼻水でなく、指を切りそうな折り目がつき、シャツもちゃんとズボンの中。クツだってかかとを踏んづけることなく履くことができる。そのお行儀のよさと、頭脳の回転のはやさは、まったく異次元のものだった。オレは彼らに追いつき追い越そうと(彼らのほうが先をいっているのだ)、参考書を読んで必死で勉強した。彼らのまえでオレは、話のわかるアニキとしてではなく、なんでも知っている大人としてふるまわなければならない。なのに、アンチョコを盗み見ながら黒板に書きつける方程式が、自分でも理解できていないことがよくあった。

 だがここでもオレは人気者だった。テストの結果が優秀だった生徒には、ごほうび代わりにすばらしい体験をさせてあげた。こっそりと広場で、原付バイクを運転させてやるのだ。なんとすてきな先生ではないか。ある夜、こんな具合に何人かの生徒をつれてパチンコ屋の駐車場にいき、原付の乗り方を教えてやっていた。あるガリ勉くんは、大きな瞳いっぱいにスリルと興奮をたたえて、オレの自慢の「ヤマハ・jog」にまたがった。しかし彼はなにを思ったか、いきなりスロットルを目一杯にふかし、エンジンを全開にして走りだしてしまった。jogはフロントタイヤを高々とかかげたまま、駐車場の薄明かりから暗闇のなかに消えていった。・・・かと思うと、数十メートル先で激しい火花が散り、クラッシュの大音響がきこえた。あわててみんなで駆け寄ると、彼はドリフのずっこけオチのような格好ででんぐり返っている。

 オレはとっさに叫んだ。

「野郎ども、ずらかれ!」

 生徒にケガがないことを確認し、集会を解散させた。オレ自身も、動かなくなったjogを押して、一目散に逃げた。本当にやばい先生だった。

 教師生活はらくちんだし、夏休みはたっぷりあるし、子供たちを相手にえらそうにふんぞり返っていられるのはなかなか気分もよかった。ただ、物足りなさも感じていた。日々の虚無感はいちじるしく、深刻なものだった。最も大きな理由はなんといっても、赴任校が男子校だったことだ。オレは女の子が大好きなのだ。この砂漠のような環境は耐えがたい。一年半もたつと、不良教師はその男地獄から抜け出す計画に熱中しはじめた。

 そんなとき、マンガ雑誌の「新人賞・マンガ原稿募集」のページに目がとまった。

「よっちゃんはマンガが上手やねー」

 ふと、自分が子供の頃からこう言われつづけていたことを思い出したのだ。

ーこの手をつかえば、東京にのぼれるかもしれない・・・ー

 思い立ったが吉日。ながい夏休みを利用して、マンガを描きはじめた。ところが、マンガをあまり読まないオレは、ストーリーづくりの作法も、作画のテクニックも知らない。そこで、とりあえず「日記のような世間話をマジックとボールペンで画用紙に描きつける」というムチャな方法でマンガ制作にとりかかった。マンガ原稿は通常、Gペンと黒インクで墨入れをするのだが、そんな常識すら知らなかったのだ。あまりに無鉄砲なチャレンジというほかない。ところが、この恐るべき無作法原稿からわが輩の天賦の才を見抜くらつ腕編集者がいるから、世界はあなどれない。

「すぐに東京に来て、アシスタントをしながら腕を磨いてみないか?」

 間違いなくきみは売れるから、という殺し文句に夢心地になり、オレはその電話を切るか切らないかのうちに、校長にあてた辞職願いをしたためていたのだった。

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