第20話 もう一つの名前

真夜中を過ぎた頃、彼女はしっとりと濡れて本性を表す。それは不思議な現象だったし、ホントの彼女は誰なのかもわからない。いずれわかる日が来ることはあるのだろうか……



真っ暗な部屋に入って、一番始めに感じることは恐怖まではいかない恐怖感。そのあとは彼女が寝ていると思われるベッドの位置を確かめる。戸惑って足を止めると、暗闇から美琴さんは声を出して、僕を誘うように呼んだ。この瞬間、安堵の表情に変わり、彼女の姿を確かめようと無我夢中で真っ暗な部屋を歩き出した。リビングと違って、寝室は暖房が効いていなかった。ひんやりとした冷気が見えないカーテンレースとなって、顔や手の甲を冷やした。


まだ目は慣れていなかった。視力を奪われたら、人は匂いと勘を頼りに近寄ろうとする。足元を確かめると、真っ暗な海が広がる感覚に陥った。月明かりも星も出ていない夜空の下、生命の故郷ふるさとは、すべてを深海にしていた。腰の辺りに柔らかい生地が触れた時、僕は目の前にベッドが置かれていると認識した。カーテンが閉じているので、月明かりは完璧に遮断されている。気持ち目が慣れたのか、黒い線で描かれた輪郭が浮かび上がった。手探りで滑らかなシーツに手を入れると、黒い線で描かれた美琴さんが、そっと手を伸ばしてきた。


「冷たいでしょう。これだから冷え性は困るのよ。さあ、僕ちゃんの温もりをちょうだい」と美琴さんは艶のある声で、僕の手首を掴むのと同時にベッドの中へ引き寄せた。


僕は吸い込まれるようにベッドへ運ばれた。美琴さんは横向きで寝転んでいた。そして何も言わないまま、僕を引き寄せて抱きしめた。冷たい指先と手のひらが首筋を冷やして、サラサラの髪の毛が首筋に纏わり付いた。その瞬間、僕は言葉を失った。何故なら彼女は何も着ていなかったからだ。全身が硬直して、鼓動の高鳴りだけが響いては大きくなった。


「あったかい……。僕ちゃんは私だけの湯たんぽだね。今夜からずっと温めてちょうだい。わかった?」


「は、はい……」とほとんど声になっていない返事を返した。そんな僕に、美琴さんは艶のある声で囁いた。


「ねえ、僕ちゃん。私にはもう一つの名前があるの……」


「……!?」


……、それが私のもう一つの呼び名」



美琴さんがアゲハ!?


僕はアゲハという名前を聞かされた瞬間、ユリさんが言っていた言葉を思い出すのだった。『骨抜きにされるわよ』……と。


この時、僕はすでに骨抜きにされていると思った。


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